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養老先生の共著から”言葉”を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


蓮實養老 縦横無尽—学力低下・脳・依怙贔屓

蓮實養老 縦横無尽—学力低下・脳・依怙贔屓

  • 出版社/メーカー: 哲学書房
  • 発売日: 2002/01/01
  • メディア: 単行本


養老孟司 自己同一性


固定点としての言葉が脳と世界を止める


人体を言葉に翻訳する


から抜粋


私は解剖をやっておりましたから、脳と物って、まさにしょっちゅう出てくる言葉なんです。

脳の方は当然ですけど、物はどこで出てくるかっていうと、つまり死んだ人ですよね。

昔からよく言われるんですが、腹が立つのは、「先生、人間が物に見えるでしょう」という言い方ですね。

解剖をやっているというと、人間が物に見えるでしょうって、反射的にいう人がいる。

初めは怒るだけで反撃ができなかったんですけど、だんだん理屈になってきました。

なんで腹が立つのか。

それは言っていることがおかしいってことですよね。

どこがおかしいかっていうと、生きている時に、体重を測って、身長を測って、どうして物じゃないんだよっていうことですよね。

死んだら物って、突然言うのはおかしいだろう。

死んだって物だけど、生きていたって物じゃないか。

だから生き死にと、物であるかないかは無関係じゃないかなってことなんです。

だけど普通世間の常識としては死んだ人はやっぱり何か違うよなあってことになります。


解剖学をずっとやって、最終的に出てくる問題は何かというと、私の場合は要するに言葉です。

よく私は、解剖というのは人体を言葉にしているんだって言う。

例えば顎のあたりをいじっていると、筋肉が出てくる。

ものをかむ側頭筋とコウ筋、内側翼突筋、外側翼突筋、これらは三叉神経の第三枝の支配で云々…とやっているわけで、これ全部言葉なんですよ。

それはある時代にできたわけです。


19世紀の解剖書を読んだらよくわかるんですけど、19世紀の解剖学者には偉い先生がいっぱいいました。

偉い先生が何をしたかっていうと、自分で解剖して、自分で勝手に名前をつけて、教科書を書く。

そうすると(解剖という)バベルの塔になってくる。


ドイツとアメリカで統一しなきゃだめだという運動が独立に起こりまして、それが国際解剖学用語というものになり、世界中同じ言葉を使うようになった。

その時にラテン語にしたわけです。


ラテン語と英語と日本語とドイツ語とやらなければならない。


そうすると丸暗記という話になって、だいたいそういう学問は軽蔑されて、文部省の指導要領見たらわかりますけど、生物などでは「羅列はダメ」って書いてある。

羅列はダメってことは、分類なんか教えられないっていうことです。


解剖なんて典型的です。

筋肉だけで600あります。

骨だって200ある。

それにいちいち名前がついていて、骨一個に名前がついているどころじゃないんで、一個のうちの部分にいろいろ名前がついていますから。


だいたいそういうのを憶えさえられたお医者さんは文句をいうんです、そんなの意味がないって。

しかし最近、実は意味がないんじゃなくて、意味があるってわかってきたんですよ。

遺伝子がわかってくると、この遺伝子があると、このこぶができるとか、妙な関係がわかってきたんです。

ま、それはいいとして、何が言いたいかっていうと、解剖というのは根本的には人体を言葉に翻訳するんだということです。

それならなんで言葉に翻訳するんだよっていうのが次の問題です。

解剖とは人体を言葉にするんだなってところで、私は職業を終えた。

やめたというか引退した。

その後考えていると、もう一つ、似たような別の事に思い当たる。

それは言葉の性質という事です。


人体を言葉にする。

そう言うのは簡単だけど、例えば胃というものがありますけど、胃というのは解剖学に対する悪口の典型だったんです。

なぜかっていうと解剖の教科書には胃の絵が書いてあります。

だけど本当は胃はそういう形になっていないということがわかってくる。

どういうことかというと、レントゲンというものが出来てきて、透視で見ると、いろんな格好をしているんです。

砂時計の格好しているとか、人によって非常に違う。

しかも時間によって違う。

そういうことになると、解剖の教科書に描いてあるあの胃はなんだ、あれは死んだ人の胃なんですね。

筋肉の力がなくなってだらんとなった状態が、普通に我々が知っている絵に描いた胃のイメージなんです。

あんなものじゃない、生きている胃っていうのは。

だんだんとそういうことがわかってくると、解剖みたいなものはウソだろうという話になってくる。

それでどうなったかというと、私が解剖を始める頃は、そんな学問はもう古くさい、と。

素人からどう言われたかというと、「あなた、解剖やっているっていうけど、いまごろ解剖なんかやって、何かわかることあるの」っていうんですね。

私だって若かったから、そういうふうに言われると一応胸が痛むわけですよ。

若い時から、今からやることあるのって分野なんかやって、どうなんだろう将来は。

それで何年かやったか考えてみると、ほとんど40年やったんですね。

そういう仕事をやっていまして、言葉の事を考えるようになった。


人体をなんでこうやって言葉にしなきゃいけないんだ、と。

それも国際用語ですから、グローバリゼーションです。

そうすると、ますますつまらないものになりますね。

なぜかっていうと、そういう言葉を発したところで、それは分かりきったものということになるからです。

独創もクソもない。


養老先生節、炸裂な若い頃の講演で


基本ラインは変わっていないのだけど


今よりも一足飛びっぷりがすごくて


聴衆者の方達はお分かりになったのだろうか


といらぬおせっかい。


この後「言葉は止まっている」という括りで


そうじゃねえ、万物流転、


今日の俺は明日の俺じゃないんだよ


寝てる間に歳とって変わってるんだ的な


動的平衡的、ゆく川の流れは絶えずして


元の水にあらずという養老先生ベースの


話になっていかれる。


前半は蓮實先生との対談で東大を退官されて


少しくらいの頃なので、かなりはっきりと


辞めてよかった的な発言がリアルに目立つ。


言葉の記述が興味深いのは、誰かが定めた物に


評価や価値観を与え世の中が動いているという


考えてみれば不思議な状態、状況だと感じた。


それとは別で言葉に限らず


養老先生の言っていることは要約すると


人が決めたことに従って


良かったことなんてない


俺は虫取りに専念したい、


虫には名前なんてないんじゃ


ってことかと思うけれど


おそらく違うだろうなと思って


妻が具合悪いのでそろそろ昼食作ります。


 


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