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②進化の比較書・お師匠さんはグールド氏に何を教えたのか [’23年以前の”新旧の価値観”]


進化論の何が問題か―ドーキンスとグールドの論争

進化論の何が問題か―ドーキンスとグールドの論争

  • 作者: 垂水 雄二
  • 出版社/メーカー: 八坂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本

2章 ティラノサウルスに魅せられた古生物学者

スティーヴン・ジェイ・グールドは、1941年9月10日、父レナード、母エレノア(旧姓ローゼンバーグ)のグールド夫妻の長男として、ニューヨーク市クイーンズ区に生まれた。

父親は裁判所の速記者、母親はタイピスト(のちに画家になる)だった。

過去の動物に魅せられた少年 から抜粋


アマチュア・ナチュラリストだった父親に連れられていったアメリカ自然史博物館で恐竜の骨格標本を見て、古生物学者になることを決めたとされる話はいろいろなところで語られている。

たとえば、次のようなものである。


5歳くらいの頃、私は父にアメリカ自然史博物館へティラノサウルスの見物に連れていってもらったことがある。

その化石動物を見上げていたとき、一人の男が大きなくしゃみをした。

私は息が止まりそうになり、あやうく、<シェマー・イスラエル>を唱えそうになった。

ところがその巨大な動物は壮大な骨組みで身じろぎもせず立ちつづけていた。

そこを離れるとき、私は大きくなったら古生物学者になると、公言してしまったのである。

(スティーヴン・J・グールド、『パンダの親指・下』26章)


この博物館の脊椎動物部門のキュレーター(管理責任者)だったエドウィン・ハリス・コルバート[1905-2001]は彼の少年時代のヒーローで、8歳の時に、恐竜に関する詩を書いてコルバートに送っている。

しかし、グールドが古生物学者を志すにあたってはもう一つの契機があり、そのことについては、遺作となった『進化思想の構造』にくわしく書かれている。


11歳のときにG.G.シンプソンの『進化の意味』を、ものすごく、興奮しながら、しかしほとんど内容を理解できないまま読んで、進化に惚れ込んだことだった。

この本は、知識欲はあるがあまり豊かでない人々向けのブッククラブの会員になっていた両親が、「今月は欲しい本がありません」というハガキを返送し忘れた時に、注文した覚えがないのに送られてきたものだった。

(しかし、表紙カバーに恐竜の小さな線画が描かれていたので、私は返却しないで欲しいと懇願した)。

というわけで、最初から、私の学問的な関心は、古生物学と進化を結びつけていたのである。

(Stephen Jay Gould,The Structure of Evolutinary Theory, Harvard University Press, ch.1,p38,2002)


ニューヨークにはブロンクス科学高校という理系の有名高校があるのになぜ行かなかったのだろう。


『ニューヨークタイムズ』に掲載された対談で、なぜブロンクス高校に行かなかったのかと聞かれたのに対して、グールドは、学校までが遠くて、片道バスと地下鉄で2時間もかかり、

「これから先3年間、一日4時間も通学に使うのは馬鹿らしいと思った」からだと述べている。


4章 古生物学の聖地を目指して から抜粋


ジャマイカ高校を優秀な成績で卒業したグールドは、オハイオ州イエロースプリングにあるアンティオーク・カレッジ(単科大学)に入学する。

この大学は1852年創設という名門校だが、1940年代から反人種差別などを中心とする左派活動家の拠点として知られており、マッカーシズム旋風のなかでの非米活動委員会の圧力にもかかわらず、共産主義思想をもっているという理由で学生や教員を追放することを学校当局は拒否した。

また全米で黒人の入学を認めた最初の白人大学でもあり、数多くの進歩派学者や活動家を輩出してきた(2008年に財政難のために閉校となったが、再建を目指す募金活動の成果として、2011年に定員400人の小規模なりリベラル・アーツの大学として再建された)。


グールドがこの大学を選んだのには、そうした思想的背景があったのかもしれない。

実際に、グールド自身が、学生時代、人種差別に反対する公民権運動で、かなり積極的な活動家であったと語っている。


この大学は専門知識の獲得だけでなく全人格の向上を目標にしていることでも有名だったが、多数の言語に通じたグールドの深い文化的教養は、むしろ個人的な資質によるものだったろう。


彼は言語には進化と通じるものがあり、多様な言語を学ぶことは、多様な文化的伝統や思考方法を知るうえで極めて重要だと考えていた

多くの言語を独習したが、ラテン語に関しては例外で、26歳になるまでの数ヶ月間、徴兵逃れの条件として大学に在籍するために、ラテン科目だけをとくに履修したという。


古生物学者への第一歩 から抜粋


1963年に生物学を修めて卒業すると、いよいよ、古生物学者を目指して、コロンビア大学大学院の進化生物学と古生物学の研究室に入る。


進化論とのかかわりでいえば、コロンビア大学は二つの分野で中心的な役割を果たしてきた。

一つは、モーガン一派の遺伝学である。

1904年にコロンビア大学の教授となったトマス・H・モーガン[1866-1945]は、ここにショウジョウバエ遺伝学の拠点を築き、分子生物学につながる現代遺伝学の発展をもたらすことになる。

その功績によってモーガンは1933年にノーベル医学生理学賞を受けた。


コロンビア大学が進化論に関わるもう一つの重要な分野が古生物学である。

5歳のグールドを魅了したティラノサウルス・レックスの名付け親、ヘンリー・F・オズボーン[1857-1935]は、1891年からコロンビア大学の生物学、および動物学(1896年から)の教授を務め、同時にアメリカ自然史博物館のキュレーターを兼務し、1908年から33年まで艦長職にあった。

グールドの少年時代のヒーローで、恐竜の世界的権威の一人であったエドウィン・ハリス・コルバートも、ここで修士及び博士の学位をとっている。


シンプソンの存在 から抜粋


グールドが本気で古生物学を志すのがシンプソンの『進化の意味』であったことはすでに述べた。

その経歴も含めて、シンプソンはドーキンスにとってのティンバーゲンに相当する存在と言える。

ドーキンスの出会いが幸運に導かれたものであったのに対して、グールドは、自ら求めてシンプソンのいた古生物学の聖地へ向かったのである。


シンプソンは1923年にイェール大学を卒業し、26年に博士号を得て、1年間ロンドンに留学したのち、オズボーンに招かれたのである。

米国南部および南米パタゴニア地方での精力的な化石発掘調査を行い、新世界における絶滅哺乳類の進化と分布に多くの新知見をもたらした。

もっとも重要な業績は、ウマの進化に関する従来の定説を覆したことである。


セオドア・アイマー[1843-1898]、エドワード・D・コープ[1840-1894]、オズボーンなどの米国の古生物学者のほとんどは、化石に変化の方向性が見られることから、ダーウィンの自然淘汰説に反対して、生物の内在的な進化傾向を認める定向進化説を支持していた。

この立場から、オスニエル・C・マーシュ[1832-1899]らは、ウマの進化についても単系統説をとっていた。

すなわち、キツネ大で足の指が四本のヒラコテリウム(始新世)から、メソヒップス(漸新世)、メリキップス(中新世)、プリオヒップス(鮮新世)、そしてエクウス(現新世)へと、直線的な系列でしだいに大型化しながら足指の数を減らし一本指になったと考えていたのである。


これに対してシンプソンは、1940年代に、詳細で定量的な調査の結果、これらの化石種が年代と地域を通じて環境の変化に適応しながら複雑な枝分かれしていった系統樹の異なった枝を示すもので、直接的な子孫関係にないことを明かした(このシンプソンの業績についてはエッセイ集(『がんばれカミナリ竜・上』、11章)で詳しく論じられている)。


後年グールドは、梯子型ではなく灌木型の系統樹を主張するが、その視点のそもそもの発端は、シンプソンのウマの研究にあたった。

科学史的には、反自然淘汰説の牙城であった古生物の世界で、シンプソンが適応進化を認めたことは、進化の総合説に大きな弾みを与えることになった。


また、シンプソンは『進化の速度と様式』において、進化が急速に進む系統と非常にゆっくりと進む系統があることを指摘し、もっとも急速に進む場合を「非連続的進化(英語はquantum evolutionで、量子的進化と訳されることもあるが、内容からして適切ではない)」と呼んだ。

シンプソンによれば、非連続的進化とは「不安定な状態におかれたある生物個体群が、祖先種がおかれているのとは明白に異なる条件に安定(均衡)した状態へと、比較的急速に移行すること」である。


重要な進化的変化が隔離された小さな集団で比較的急速に起こるメカニズムとしては、シューアル・ライトの提案になる遺伝的浮動を想定していた。

シンプソンはこれによって、大きな進化的変異が、種の周辺部で、短期間に比較的急激な速度で起こるという、多くの古生物学的な発見を説明できると考えていた。

その意味で、シンプソンは、のちの断続平衡説の先駆けとみなすことができる。


むずい。


なにも補足できないくらいにむずい。


師匠がのちのグールドさんの提唱したことを


研究してたってくらいにしかわかりませんことを


正直に告白いたします。


福岡伸一先生の”動的平衡”とも関連しているのか?


もよく分かっておりません。


弱冠25歳で教授に就任 から抜粋


66年には、弱冠25歳にして、アンティオーク・カレッジで地質学教授の職を得る。

バーミューダ諸島で見つかる化石陸貝類(ケリオン属など)の変異と進化に関する研究によって、67年にコロンビア大学から博士号を得て、ハーヴァード大学に移り、これ71年に準教授、73年に地質学教授および比較動物学博物館無脊椎動物部門キュレータとなって、華々しい著作活動の時代に入る。


6章 断続平衡説の挑戦


二人の論敵 から抜粋


ハーヴァード大学には、後にグールドの論敵となる二人の重要人物がいた。

一人はいうまでもなく、論争の発端となった大著『社会生物学ー新しい総合』の著者エドワード・O・ウィルソン[1929-2021]である。

ウィルソンはグールドより一回り年上の昆虫学者で、1964年からハーヴァード大学の動物学教授であった。


もう一人はロバート・トリヴァース[1943-]である。


本書とのかかわりでいえば、トリヴァースは『利己的な遺伝子』の序文も書いた揺るぎないドーキンス派の論客であり、またブラックパンサー党員で、イスラエル政府への辛辣な批判者でもある。


マイアの役割 から抜粋


グールドが本拠としたハーヴァード大学比較動物学博物館は、アメリカにおける古典的な動物学のメッカともいうべき場所である。


ここで注目すべき人物はなんといっても、エルンスト・マイア[1904-2005]である。

マイアはドイツ生まれで、ベルリン大学卒業後、1931年に渡米し、後に帰化する。

1923年から53年までアメリカ自然史博物館のキュレーターを務め、その間に鳥の分類に関する100編以上の論文を発表。

1935年から75年まで、ハーヴァード大学の動物学教室のアリグザンダー・アガシ教授職に就いて、教鞭をとり、多くの弟子を育てる。

1961年から70年まで比較動物学館長の地位にあった。


マイアは、進化の総合説の成立に関わり、異所的種文化の重要性を指摘したことは第4章でも述べた。

これは、地理的な隔離が種の分岐によって不可欠だという指摘である。

そこから、種とは内部で自由な交雑があり、他の集団からは生殖的に隔離された集団であるという「生態学的種」の定義を導いたことでも知られる。


マイアは進化の総合説に賛成しながら、フィッシャーやホールデンに代表されるような集団遺伝学的アプローチを嫌悪し、豆袋(beanbag)遺伝学と読んで軽蔑さえした

生物個体を遺伝子という要素に還元して扱うのは、まちがいであって、個々の遺伝子は遺伝子型という複合体としてしか進化的な意味をもたない、遺伝子の適応度よりも、遺伝子型の適応度のほうが重要だというのが、マイアの主張であった。


このいわば全体論的な視点を重視する還元論批判は、弟子であるグールドとルウォンティンに色濃く引き継がれ、これが社会生物学論争において爆発する。


しかし、その論敵であるウィルソンもまたマイアの弟子であり、ウィルソンの自伝によれば、大学2年生のときにマイアの『系統分類学と種の起原』を読んだのが、生物学者となるきっかけだったという。

ウィルソンですら、ドーキンスに比べれば、はるかに全体論的な視点を持っていて、群淘汰に対して寛容な立場をとっている。

いずれにせよ、ハーヴァード大学におけるマイアの思想的影響抜きに、グールドを語ることはできないだろう。


論敵と同じお師匠さんを持つというのが


自分には信じられないような。


同じ人間ではないから、異なっていくのは


当然と言えば当然のような。


その師匠、マイアさんってのに


興味がいくのだけど検索してみたら


なんと!過日読んだじゃないですか!


画像を見たら思い出した、視覚って強烈。


養老先生の翻訳でございました。


2005年までご存命で100歳ですか!


ダーウィンの正統な継承者という認識だったけど


集団遺伝学アプローチを豆袋遺伝学って


メンデルのことをアイロニカルにしてるのか?


メンデルの論説は認めてなかったってことなのか?


ここら辺り、興味を持つと芋づる式につながっていく


まさに系統樹のような読書遍歴となるのが面白い。


そして本日は午後から雲行きが怪しい


関東地方でございます。


 


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  • 作者: 垂水 雄二
  • 出版社/メーカー: 八坂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本

 


過日、外国の論者の比較論は拝読したものの

自国では?というのがきっかけでございます。


はじめに から抜粋


リチャード・ドーキンスとスティーヴン・ジェイ・グールドは、ともにサイエンス部門における世界的なベストセラー作家であり、すぐれた文章家として知られている。

日本にもドーキンス派、グールド派それぞれの熱烈なファンがたくさんいるが、両方とも好きだという人も少なくない。

進化論をめぐって小さからぬ意見の相違があり、『ドーキンスvsグールド』や『ダーウィン・ウォーズ』といった本で、二人の対立面が強調されてきた。

そのため、二人がともに天を戴かない仇敵どうしであると思い込んでいる人がいるかもしれないが、じつはそうではない。

激しい論争を繰りひろげはしたが、批判の標的は個人ではなかった


グールドが本当に批判したかったのは俗流ドーキンス主義者たちの安易な遺伝子決定論や適応万能論であり、ドーキンスが本当に批判したかったのはグールド賛美者を取り巻く目的論的傾向や安易な相対主義であった。

二人の考えを細かく突き詰めていけば、個人的な意見の相違は意外と小さい


実際、ドーキンスが『悪魔に仕える牧師』で披露しているように、二人は親密とはいえないまでも、交流があり、グールドが亡くなる直前に、創造論者に対する進化論擁護の共同声明の発表に関する合意が成立していたのである。


生物の魅力の一つは驚くべき多様性であるが、同時に、その多様性を貫く普遍的な原理が存在するというのがもう一つの魅力である。

どんなに姿形が異なろうとも、すべての生物は細胞から成り、すべての生物はDNAという遺伝情報をもっている

ダーウィンは生物の多様性の海にどっぷり首までつかりながら、自然淘汰による進化という、単純明快な原理に到達した。

ダーウィンのおかげで、この二つの魅力は一つにつなぎあわされることになった。

多様性と同質性は生物がもつヤヌスの顔なのだ。


現代の生物研究者が、どちらの魅力により重点を置くかは、人によって異なる。

グールドが生物の多様性により関心があるのに対して、ドーキンスは生物を貫く普遍的原理のほうにより強い関心を寄せるところに、両者の基本的な姿勢、ひいては生物観のちがいがある。


自然を理解するためのモデルづくりこそがドーキンスの科学的な喜びであり、例外や変異はあくまで原則を浮かび上がらせる応用問題としての意味しかない。

グールドにとっては、モデルからはみだした例外や変異を見つけるのが喜びであり、そこにこそ自然の本質があると考える。


本書は、二人が、それぞれの思想を形成していった過程を彼ら自身の経歴と発言から跡づけてみようとするものである。

生まれ持った資質が重要であることは言うまでもないが、英国の田園地帯と米国の大都会という育った環境のちがいも少なからぬ影響を及ぼしたと思われる。


しかし、それよりも大きいのは、二人を育んだ学問的な環境であったはずだ。


第3章ティンバーゲンとの出会い


ティンバーゲンとローレンツ から抜粋


ご存じのように、ティンバーゲンは、コンラート・ローレンツカール・フォン・フリッシュとともに、エソロジー(動物行動学)という分野の創建に与った貢献に関して1973年のノーベル医学生理学賞を受賞した。

エソロジーがどのように発展していったかについては、W・H・ソープの『動物行動学をきずいた人』で要領よく概説されているので、関心のある人はそちらを参照されたい。


簡単にいえば、それまで心理学において本能というブラックボックスにおさめられていた動物の行動を、一つの形質としてとらえ、各種の動物の行動の比較を通じて、その行動の意味と進化を章からにしようという学問である。

ローレンツの言葉を借りれば、これは「ダーウィン進化論の原理を行動に適用したもの」にほかならなかった。


1963年にローレンツがライデン大学を訪問した際にティンバーゲンに会う。

出会いの席でローレンツは、ティンバーゲンのイトヨの行動に関する研究を激賞した。

ローレンツはエソロジーの理論的な枠組みは構築したが、自分が理論屋であって実験屋でないことを自覚していたので、ティンバーゲンの実験の才に惚れ込み、共同研究を提案した。

カモメの卵転がし運動の解析は、二人の共同研究が産んだ成果の一つである。


しかし戦争が二人の仲を引き裂く。

オーストラリア人ローレンツはドイツ軍の軍医として招集され(そのため、戦後ナチスの協力者だったという非難を受けることになる)、最終的にはソ連軍の捕虜となるが、終戦後なんとか無事帰国する。

ティンバーゲンのほうは、ライデン大学がユダヤ人スタッフ三名の除籍を決定したことに抗議して逮捕され、1942年から44年まで、オランダの収容所で過ごす。

戦後、復職し、47年に教授に昇進する。

そこへ、当時オックスフォード大学動物学教室のアリスタ・ハーディ教授から、オックスフォード大学の動物行動学の講師として来ないかという誘いを受ける。

個人としては教授から講師への降格であり、給与も増えるわけではなかったが、ハーディ教授が奔走してさまざまな助成金を集めてくれることになっていたので、雑用に煩わされることなく、十分な研究費を使うことが期待できた。


ティンバーゲンがオックスフォード行きを選んだもう一つの理由は、旧友のデイヴィッド・ラックが鳥類学研究所にいるほか、ハーディ教授のもとに、チャールズ・エルトンジョン・ベイカー、アーサー・ケインといった新進の生態学者がいて、新しい研究の方向を展開するうえで示唆を与えてくれるだろうと考えたことである。


財なぞ二の次、実験の方が


楽しいっていうのは


なんとなくわかる気がする。


興味のないものは面白くなく


興味のあるものにしか興味がないってことで


そら当たり前だろう、みたいな。


そういう人種なんですな。


っていっても自分は頭良いってわけじゃないよ


明らかに、そこは異なりますのを


自覚してるし学歴が証明してくれちゃってますから。


動物の行動に関する四つの問い から抜粋


エソロジーについてのティンバーゲンの基本的な考え方は『本能の研究』に示されている。


(1)

行動のメカニズム、すなわちどのような刺激によって引き起こされ、学習によってどう修正され、いかなる生理的機構によって成立するか。

(2)

個体発生、すなわちその行動はいかなる段階を踏んで発達してくるか、発達に必要な条件はなにか。

(3)

その行動は他の動物ではどうなっていて、どのようにして進化してきたのか。

(4)

その行動は、その動物が生き残る可能性をどれほど高めるか、すなわち、適応価はなにか。


この四つの良いは、現在でもなお、行動に関する研究の基本とみなされている。

前二者の答えは、とりあえずの原因という意味で、至近(近接)要因、後二者の答えは、究極的な原因という意味で、究極要因と呼ばれる。

至近要因の研究は実験が中心になるのに対して、究極要因の研究は理論的なものが中心になる。


ドーキンスは、学部学生のときに、ティンバーゲンの授業を受ける。

ある講義で紹介されたのは、ヨーロッパにいる2種のヒナバッタに関する論文であった。

この2種は昆虫学者でさえ識別できないほど互いに非常によく似ているにもかかわらず、野外で出会っても交雑することがない。

ちがっているのは求愛の鳴き声で、そのために交雑せずに、別種とされている。

しかし、生理的に交雑が不可能なわけではなく、ニセの鳴き声を聞かせることでだまして人為的に交雑させれば繁殖力のある雑種ができる。

この論文を教えられたときドーキンスは悟ったのだった。


こういう問題に直面したときに、どういう実験を設計するばいいかが感覚としてわかり、また進化におけるこの最初の段階の重要性もわかった。

この論文ではたまたまバッタだったが、地球上のあらゆる種が同じ段階を踏むのだ。

すべての種は一つの祖先種から分岐したのであり、この分岐の過程こそが種の起原なのだ。

(Ian Parker,”Richard Dawkins’Evolution”,The New Yorker,September,p9,1996)


ドーキンスは大学2年生のときにティンバーゲンの指導を直接受ける。

オックスフォード大学では、学生は各教官指導教官と1時間ほど面談したあと、教科書ではなく、最新の文献を読んで論文(エッセイ)を書くという指導がなされる。

ふつうの教官は論題に関係した論文のリストを学生に渡し、それを読んでまとめさせるのに対して、ティンバーゲン先生は、博士課程の院生の未発表の学位論文を手渡し、それに対する評価を書かせた。

ドーキンスはそれを読み、文献を調べ、将来になすべき研究を考察するという課題を与えられたのである。

言ってみれば、学位論文の審査員の役をさせられたわけである。

そしてまた翌週には、また別の未発表論文を与えられたという。

ドーキンスによれば、ティンバーゲンは

「私の書いたエッセイを気に入ってくれ、おべんちゃらのようなことも言って、博士課程で研究を続けるように勧めてくれた」。

これが運命の分かれ目だった。


ドーキンスは1962年に大学を卒業後、ティンバーゲンのもとで博士課程まで研究をつづけ、学位をとる。

学部時代にティンバーゲンから受けた授業でドーキンスが、もっとも強く印象を受けたのは、行動の機構(behavior machinery)とそれが生存のための装備(equipment for survival)であるという二つの言葉で、のちに『利己的な遺伝子』を書くときに、この二つを結びつけて「生存機械(survival machine)」という言葉をつくることになる。


師匠との出会いがあったればこそっていうのは


どんな偉人でもそうなのだろう。


それが常識人ではないってなると


なお影響力は大なのだろう。


それにしても、ただ今現在2023年の現代


日常で呼ばれる多様性とか、寛容とか、は


すでにこういった人たちは標準でお持ちで


さらに研磨して展開している気がするのは


気のせいなのだろうか、と物音ひとつなく


セミも鳥もないていない初夏の休日朝でございます。


余談だけど、ただ今現在の時刻、カラスが鳴きました!


 


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