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茂木健一郎先生の書から”憧憬”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


<ヴィジュアル版> 熱帯の夢 (集英社新書)

<ヴィジュアル版> 熱帯の夢 (集英社新書)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/08/18
  • メディア: 新書

旅立ち から抜粋

旅をすることの意義は、どれくらい真摯に突き動かされるかという点にある。

問題は、旅をしていることの長さにあるのではない

どれほど没入し、そして動かされるか

故郷を離れてしまうことができるか。

自分の中に、その土地の元素のようなものを取り入れることができるか

どんな「精霊たち」に出会うことができるか


英国には、「トラベル・ライティング」という名の文芸ジャンルがある。

留学中、書店に行って眺めてみると、随分幅広の棚がその種の本で占められていた。

世界各地に出かけた著者がいる。

この情熱はいったい何に由来するのか。

しばし呆然としたものだった。


自然科学者としての私には、旅のあり方として、一つの「理想郷」がある。

進化論の提唱者チャールズ・ダーウィン。

22歳から27歳まで5年にわたったビーグル号での旅を終え、『ビーグル号航海記(The Voyage of the Beagle)』を出版した。

この旅行記には、冷静な観察者としての記述と、二度とくりかえさない青春の主体としての感慨が入り交じって、何とも言えない味わいがある。


子どもの頃からずっと、「熱帯に行きたい」と思っていた。

脳裏に、赤道直下の強いイメージがつきまとって、離れなかったのである。

「熱帯の夢」は、私の人生の大切なモティーフの一つだった。

私が熱帯雨林に対して抱いた夢の中核にあったのが、子どもの頃の昆虫採集だったことに間違いはない。

とりわけ、蝶を採集したり、その生態を調べたりといった営みに熱中した。


日高敏隆さん から抜粋


コスタリカは遠かった。

成田から飛び立ち、アトランタでトランジットする。


インドネシアのバリ島で密林を歩いたことも、ボルネオの原生林でテングザルを見たこともある。

それなりに、南の森の生態系には馴染んできた。

それでも、今回のコスタリカ行きは特別だという思いがあった。

青年期に読んだ「ナショナル・ジオグラフィック」などを通して、コスタリカの森こそが、熱帯雨林の一つの典型であるという思いがあった。


それに、京都大学名誉教授の日高敏隆先生とご一緒する。


日高先生の「環世界」の考え方にも、大いに影響を受けた。

ドイツの生物学者、ヤーコブ・フォン・ユクスキュルによって提唱され、日高先生によって発展させられた生命思想。

それぞれの生物には固有の環境世界があり、その中で時間や、空間を構築し、認識している。

人間の世界が絶対的なのではない

それぞれの生きものの世界が、それぞれユニークな、そして固有の価値観を持っている。

「環世界」は、客観的、物質的環境とは異なる

それぞれの生物が、生きる上で周囲の環境をどのように切り取り、認識し、自分の身体との相互作用を通してかかわっていくか。

ある意味では身体の延長であり、また別の視点からは容易にはうかがい知れぬ「他者性」が始まるところである。


コスタリカのジャングルの中で、一体、何と出会うことになるのだろう。


この書はここがまでが一番響く。


茂木先生の旅の定義が


人生の定義そのもののよう。


いち昆虫少年に戻ったかのような旅行記が続く。


「旅行」じゃないな「旅」ですな。


読んでて楽しい。


虫のことはほとんどわからないけれど。


モンテベルデ から抜粋


私たちはいよいよ、最終目的地に向かう。

標高が千数百メートルのところに広がる雲霧林の自然環境を観察するために、研究施設のあるモンテベルデへと旅立つのである。

途中でガソリンスタンドに立ち寄る。


大きな地図がある。

ちょうどアレナル山からモンテベルデまでのエリアがカバーされている。

日高敏隆先生が、興味深そうに地図を見上げている。

顕学(けんがく)の目は、何を見ているのだろうか。

私もまた、その人に寄り添うような気持ちで地図を見る。


あたりには、すでに蝶が舞っている。

宝の山が、すぐそこにあるような気がする。

自分の内側の葛藤を悟られまいとしてしていると、櫻井さんが、親切にネットを貸してくださった。

櫻井さんが「はい、茂木さん」とネットを渡すところを、日高敏隆先生が見ている。

「オトシブミの専門家で、ネットを持ち歩く人はあまりいませんなあ」

日高先生がのんびりした声で言われる。

もう日暮れまでそれほど時間はない。

それでも、今日のうちに少しでも森の空気に触れてみたいと思う。


しばらく周囲を見回しているうちに、ある感触を思い出した。

周囲の全てが、感覚として自分のうちに取り込まれているという状態。

世界が外にあるのではなく、自分の内側にある。

心の中の宇宙で何か注目すべき出来事が起これば、そこに一気に注意が向く。

西田幾太郎の言う「純粋経験」。

普段は別々のものである「自我」と大世界が、ぐにゃりと溶けた飴のように一体化する。

没我である

それでいて、最高度に覚醒した状態である。

私のクオリアが、環世界のクオリアになるのである。


森の中で蝶がどこからか飛んでくるのを待つ。


茂木先生、蝶を標本するときに


年齢を経て殺すことをためらうことになり


捕虫網を持参しなかったという


”葛藤”のエピソードもなんとも滋味深い。


同行しているのが日高先生だというのに。


蝶を追う から抜粋


朝食をとりながら思った。

グローバリズムの中で、人々と行き交い、世界に広く発信すること。

できるだけ大きなプラットフォームの中で表現することを目指すこと。

その一方で、仕事の価値の基準は、あくまでも自分のうちなるクオリアに寄り添うこと。


「希な、単独行動をする個体」。

「私」の内部にもまた、さまざまな生物たちが密接なネットワークをつくり出す一つの熱帯雨林がある。

その木々たちが天上からの光を求めて樹冠を伸ばしていくその精神運動のうちに、私の内部発展は図られなければならない。

地球規模のマーケットの中で流行しているからといって、他律的な価値観を安易に取り入れることは、ブルドーザーで固有の生態系を根絶やしにすることに等しい。


音を注意深く聞いていると、森の中から聞こえてくる。

虫か、鳥か。

いずれにせよ生き物の鳴き声であることは間違いない。

あんな声で鳴くものまでもが進化してくるとは。

密林の中では、さまざまなことが起こる。

過酷な生存競争の場。

その中で、自分のユニークさを主張しなければ、一瞬たりとも存在していられないのだろう。


私も君も彼も彼女も、結局は「希な、単独行動をする個体」。

世界のすべての人の、それぞれの生き方について思いを馳せている。

胸が一杯になった。


あとがき から抜粋


夢というものは不思議で儚い性質を持っている。


日常の散文性の中で、目の前のことに忙殺されているうちに、シェイクスピアが『テンペスト』の中で言うところの、「夢がつくられているところの素材」はすっかり自分から遠くのものとなってしまうのである。

いかに夢に強度を保つか

そこには人生において最も大切なことがある。


私はかつて、間違いなく「熱帯の夢」に取り憑かれていた。


「熱帯の夢」をさ迷い歩いていた頃の自分の姿を、時折振り返ってみる。

あの時の純粋な熱を保つことができるのか。

ふるえる一個の生命体であり続けることができるか。

時折、私たちの文明自体の中に熱帯を見ることがある。

さまざまな情報が飛び交い、多様性の集積が臨界点に達する。

人間の精神が光を放つ方法は、結局、熱帯という技法の中にしかないのかもしれない。

もしそうだとすれば、「熱帯の夢」には普遍的な意義があるはずだ。


本書は、2008年夏のコスタリカへの旅の際の経験を元に書き下ろされた。


日高敏隆先生には、コスタリカ滞在中、多くのことを教えていただいた。

日高先生の御著書を夢中になって読んでいたかつての昆虫少年が、このようにして一緒に熱帯へと旅することができたとは夢のようなことである。

日高先生と一緒にジャングルを歩くことで、私の「熱帯の夢」はつややかさを増したように思う。

2009年7月 取材で訪れた上海にて。

茂木健一郎


自然科学を探究すると


文明批判のように


どうしてもなるのだなと思った。


でも文明の恩恵も受けているという意味合いなのか


文明の中にも熱帯があるとおっしゃる茂木先生。


だとして、なんかわかるような気もしたり。


それはそうと、この書を少年の作文みたいと


思う人もいるかもしれない。


脳科学的な内容を期待すると肩透かしとか。


でも自分はこう思った。


そらそうだよ、いまここで、


少年マインド炸裂せんでいつするのだろうか、


憧れの人と憧れの場所に行けたということが


伝わればそれでいい、


かつグラフィックも美しいから更にいい、と。


それはそれであるべき評価の一つ


なんではなかろうか。


って誰もそう言ってないかもだけど。


余談だけれど、かなり捻くれ度合いが


まったく僭越でございますが自分と


近似型を成しておると感じることを禁じ得ない。


茂木先生然り、日高先生然り。


まじ残念ながら自分との偏差値は


雲泥の差だけれどもね。


 


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