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2大巨人の新装版で”世界”を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


新・学問のすすめ 人と人間の学びかた

新・学問のすすめ 人と人間の学びかた

  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2014/01/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

今風ならこの書籍名は

シン・学問のすすめ」なのだろうなと


いきなりどうでもいいことでした。


装幀がしびれるクールさ、ご担当は


菊池信義さんでした。これは重要。


第2章「自分とはなにか」から始まる学問ーーー歴史学


阿部謹也


「自分」を知ることは「全世界史」を知ること から抜粋


歴史学というのは、一般的には過去を知ることだと言われています。

しかし私はそうは思いません。

歴史学というのは、現在を知るための学問です。

つまり、私たちは自分が生きている世界がどういうふうな成り立ちで今日に至ったかということを知らなければならない。

現在を知ろうとするための営みの中で、非常に大きな部分を占めているのが歴史学なのではないでしょうか。

現在を知るということが、歴史学のいちばん大きな目標なのです。

 

そのためには、その時代を知るとか、社会を知るとか、世界を知るとか、いろいろな視点が考えられます。

しかし結局のところ「自分とはなにか」ということを中心にして、現在を知ることになるのです。

自分を知るということは、まわりを知るということにもなりますし、それは人間そのものを知ることでもあります。

非常に細かいところから、非常に広いところまで広がっていく、それが歴史学だと思ってもいいのです。


たとえば夜、自分とは何かを考えるとき、どこから始めるでしょうか

今日のことだけでいいのか。

昨日までのことをいっさい抜きにして、今の自分だけで割り切れるだろうか。

いまのことだけで自分が語れるだろうか。


私はかつて一橋大学で学生たちに、生まれてからいままでの自分のこと、自分の親との関係、兄弟との関係などを書かせていました。

それをやると、自分が見えてくるのです。

自分とは何かということが客観化できる。

つまり、過去を見なければいまの自分は見えてこないのです。

昨日、一昨日、そしてもっと昔、子どもの頃の親との関係、友人との関係、世界との関係、おもちゃとの関係ーーーこれらが一緒に入ってこないと、自分は見えてこない。

自分とは何かと考えようとすれば、自分の過去は最低限必要になってくるし、その自分の過去はじつは日本全体であって、世界全体でさえある。

そういう意味では、どんな人の人生も、全部世界史の中にあると言ってもいいのです。

そんな視野でものを考えようというのが歴史学なのです。


自分とは何かを考えるときに、たとえば、身近なところで、自分の祖先を考えるとします。

三代、四代前までは分かるかもしれない。

さらにもっとさかのぼっていくと、ピテカントロプスまでいってしまう。

自分ということを離れて、人間ということになればもっと広がります。

日本人の祖先や人類の祖先について考えることもできるのです。


ディープに深掘りするとオタクと言われ


敬遠されることもありますからね。


やり方にも問題があるのかもしれず


スマートさを忘れてはならないのでしょう。


阿部先生は見るからにスマートです。


第4章


「数式にならない」からおもしろいーーー生物学


日高敏隆


「学問」は役に立つか?から抜粋


「おまえ、いったいなにやっているの?」

虫に対してそんな疑問をもったこと。

それがぼくの学問の始まりといってもいいでしょう。

むしろ虫というのは、なにを考えているのかまったくわからない。

犬や猫だったら、まだ、こちらがなにをすれば、喜んでいるんだか、怒っているんだかはなんとなく分かるんです。

それに比べて虫というのは、確かに何か一生懸命にやってはいるけれども、いったい何をやっているんだかさっぱり理解できない。

それがぼくにとってのいちばんの疑問だったんです。


たとえば、チョウが飛んでいます。

どこをどう飛ぶのか、なぜここを飛んでいるのか、それがぼくには不思議だった。

ですから、そのことを10年くらいかけて研究し、どうにか分かるようになりました。

「ああ、なるほどな」と納得できた。

これは人から言わせれば「一文の得にもならないことを…」となるわけですが、ぼくにしてみれば満足だった。

学ぶことの楽しさというのは、やはりそこにあると思うんですね。

つまり「学問」とは、存在するあるものについて、それがいったいなんなんだという疑問をもち、とにかく知りたいと思う、まさにそのことなのではないでしょうか。


ですから、「それがなんの役に立つんだ」と言われても「人間の好奇心に応えるためだ」としか言えないんです。

ふつう「役に立つ」というと、いわゆる応用的な意味で、それがなにかに活用できるということですね。

けれども、人間には好奇心があり、それに応えられれば知的に満足できる。

それだって十分人間に役に立っていると言えるのではないでしょうか。


また、好奇心を呼び起こすものには、知的な、いわばポジティヴなものもありますが、「不安」という感情もあるんです。

「なんだか怖い」「あれはいったいなんなんだ」という不安。

それは正体がわかれば、「ああ、そうだったのか」と安心できるのです。

たとえば、雷です。


「生物」と「無生物」の違い から抜粋


生物がというものにしても、結局のところ「生物とはなんなんだ」ということが根本です。


いま、生物学を「生命科学」と言い換えるのが流行のようになっていますが、「生命」というのは、抽象的な概念です。

一方の「生物」というのはつまり生き物ですから、そのあたりに生えている草だとか、葉っぱにとまっている虫だとか、それらが全部「生物」です。

それらの生物は確かに「生命」をもっているかもしれませんが、それでは「生命」とはどういうものだと問われれば、どんなものだが説明できないでしょう。

だから生命科学などという言葉はあまり安易に使わない方がいい


また最近は「遺伝子工学」というものが話題になることが多く、これも生物学の一分野だと考える人も多いようです。

しかし、これはやはり「工学」です。

つまり、いじることなんです。

先程も少し触れましたが、「学問」というのは本来は「いじりたい」ということではなくて「知りたい」ということだと思います。

一方、「工学」というのはとにかくいじりたい

現実に存在しないものでもつくってみようと思う。

それは人間の大切な知的活動の一つですが、いまここで言っている「学問」ではないんです。


「工学」も「いじりたい」というわけでは


ないのかもしれない。


「いじらないと、ビジネスにならない」て事で


結果的に「支配」することになってしまい


ただいま現在に至る、のような。


すみません、日高先生の揚げ足をとるような


不遜な真似をしているようですが


そうではなく、基本的には満腔の同意なのです。


解説


スマートフォンを味方につける


亀山郁夫(ロシア文学)


1から抜粋


私たち人類は、今、四半世紀前ですら想像できなかった新たな次元に入り込もうとしている。

社会と人間を囲むICT環境の驚くほど急激な変容プロセスに、もはや既視感すら経験する暇もえられないほどである。

この新たな次元を、何と名づけるべきなのか。

むろん、グローバル時代というだけでは、あまりに月並みすぎる。

むしろここに展開しているのは、ポストグローバル時代というべき事態だと思うが、この言葉でもまだ軽すぎる気がする。

私たちが現に目の前にしている光景はそれほどにも異様なのだ。

むろん、その光景には、私自身もまた点として存在している。


その変化のスピードはもとより、人間精神に与えつつあるダメージは、破局的としか言いようがない。

この危機の次元を、私たちは無事サバイバルできるのだろうか。

私たちがこれまで「文化」という名で呼んできた多くの常識が、ほとんど通用しなくなる時代が訪れてくるのではないか。


最近、しきりに思い出される映画がある。

来るべき全体主義の世界を描いたフランソワ・トリュフォーのSF映画「華氏451」ーーー。

そこに描かれる未来社会では、徹底したイデオロギー管理体制のもと、世界の古典とされるもろもろの読書が禁じられ、書物狩りが横行している。


この映画の中で梵書に処される書物は無数にあるが、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』のページが焼き焦がされるシーンが印象に残った。

ラストでは、漢詩の目を逃れた人々が郊外の村に秘密結社を組織し、一人ひとりが記憶に蓄積した古今東西の古典を伝授しあう…


レイ・ブラッドベリー原作による映画は、21世紀の現代に、みごとといってよいほど逆説的な意味を帯びるにいたった。


現代において生じた活字離れは、むろん、監視や抑圧に原因があるわけではない。

理由はまさに逆であり、言葉は少し悪いが、張本人は、何といってもICT革命である。


しかし、ただ一つだけ確実に言えることがある。

人間は、どのような革命にも馴化(じゅんか)し、生き延びてきたという事実である。

人間はどんなことにでも慣れることのできる存在だ

ドストエフスキーは書いたが、まさに然り。

この言葉を前提とすれば、ICT革命が生み出しつつある「新しい次元」にも、これまでに劣らず豊かな文化が実りをつける可能性があるという楽観論に立てる。


そしてその慣れの階梯(かいてい)をしっかりと踏みしめながら、次なるステージへと向かうのである。

を逆に言えば、どのような次元も、そこに馴化する努力を怠るなら、サバイバルは不可能になるにちがいない。


サバイバルとは、馴化による変身の技術をいう。

サバイバルの覚悟さえあれば、ICTのハード面は、もはやどうでもよくなる。

要するに、現実の世界に生起するもろもろの事象に対する想像力を失わないこと、世界を考え、世界を判断し、世界から利益を得、なおかつ世界を楽しむしっかりとした技術をもった人間を育てることができれば、それで十分である。

これを少し圧縮して表現すれば、ICT革命のシンボル的存在であるスマートフォンをどう味方に取り込むか、ということに尽きる。


3から抜粋


ここに、阿部謹也と日高敏隆という、私たち旧世代にとってはあまりになじみ深く、またある意味象徴的といってもよい二人の知識人が、大学と学問の意味をめぐって熱い議論を繰り広げている。

対談は、2000年前後に実現したと思われる。

まさにミレニアム・バグの年である。

当時、阿部氏、65歳、日高氏、70歳。

二人とも同じ学長職という立場にあった。

本書を読み進めるうち、私はふと、思いがけないあることに気がつかされた。

研究者としてあれほど多くの優れた仕事を残した二人の思考の底にひそむ一種の罪障意識、端的に、自分の学問の有用性にたいする根本的な疑いである!

しかしその疑いこどが、二人の学問を、世界に向けて大きく飛躍させるきっかけとなったことは、まぎれもない事実である。

学問とは、本来的に閉鎖的な性質を帯びているが、これをどう世界に向かって開き、ポジティブな方向に導いていくか、が大切なのである。


本書のなかで特に印象に残った言葉を引いておく。


「趣味の学問」から脱して「国民を意識した学問」へ

「分かる」こととは「自分が変わる」こと

学問の根本は「人間の研究」にある

「自分」を知ることは、「全世界史」を知ること

遺伝子では人間はわからない

数式にならない学問こそ大切

遺伝子たちのプログラムを信用せよ


ただし今日(2014年)の視点から見て、多少とも違和感をぬぐえない部分もないわけではない。

21世紀が明けてから今年て14年が経つが、その間、世界は、9.11をはじめとするさまざまな重大事件を経験した。

日本では2011年3月11日がそれにあたる。

当然のことだが、この対談では、これらの事実は踏まえられていない。


しかもここに、IPS細胞の発見やらスマートフォンの世界的な拡大といった新たな事象を加えれば、この間、私たちが経験したものの大きさが改めて認識されるだろう。

そればかりではなく、この一年で、国の大学政策にも大きな変化が生まれた。

現在、安倍政権が打ち出している「成長戦略」では、「大学力こそ日本の競争力の源で、成長戦略の柱」と謳われ、いわゆる「グローバル人材」育成に莫大な資本が投入されようとしている。

成長戦略における高等教育の「三本の矢」を列挙しておく。


1英語教育の抜本的改革

2イノヴェーションを生む理数教育の刷新

3国家戦略としてのICT教育


また、法人化以降の国立大学学長のリーダーシップをさらに強固なものとするため、法制度の面からも、より強力なバックアップ体制がとられようとしている。


しかし、それらの外的な事情をのぞけば(そして、さらに長い目で見るなら)、本対談で論じられているトピックは、いずれも今日的な問題意識に十分に応えうる内容となっている。

それぞれの専門分野からとびきり面白いテーマが紹介され、私生活での出来事が折に触れて参照されるところに親しみを覚える。

読者は恐らく、胸をわくわくさせながら読み進めることができるのではないだろうか。

しかし全体として、両者の大学に対するまなざしは厳しく、私自身、身につまされる部分が少なからずあった。


阿部氏の発言のなかでとくに印象的だったのは、人文社会学者に向けられた次の言葉である。

「人文社会科学は、やはり自分の趣味のための、自分の生活のための学問、あたかも公的な役割であるかのような幻想のもとに行われていたにすぎない」

むろん、この言葉には、阿部氏の自戒が込められている。

ドイツ中世史の専門家である阿部氏、そして「チョウはなぜ飛ぶか」で一躍名をはせた動物行動学者、日高氏のいずれも、ある意味で、現実の社会からはるかに遠ざかった世界の事象を研究の対象としてきた。

しかし両者がだれよりも卓越していたのは、先に述べたとおり、自分の研究なり学問なりを世界に開き、徹底してポジティブな方向に導こうとしてきた点にある。

これは口で言うのは易しくてとも、なかなか実行できることではない。


私自身、大学の現場で、阿部氏の右の引用に重なる研究者を数多く見てきた。

自分たちの学問には自律的な価値があると信じ、他方、自分の研究者生活が国民の税金によってまかなわれているという事実を失念している大学人たちである。

正直いうなら、かくいう私もその一人だった。


反復するようだが、問題は、いかにしてその「趣味」を「公共性」の学問へと構築し直すかにかかっている。

「公共性」を意識することは、当然、税金を管理する国(文科省)の意向や要請に応えることを意味する。

むろん、人文社会科学が、功利主義一辺倒の要請に従うだけで成立するなど、あり得ないことである。

むしろ国の意向や要請なりに目をつぶり、完全に孤立した世界の中でこそ独創的な研究は生まれるかもしれない。

だから、これらの問題の解決が一筋縄ではいかないことは自明である。


しかし、そうはいえ、「タックスペイヤー」である国民は厳然として存在している。

少なくとも、自分の学問なり研究なりが、国民の負託を受けている、負託を受けている以上、しっかりとその見返りを用意するという覚悟だけは忘れてはならない。


文科省に従うことが良いのだろうか?


文科省が間違っていたら?


なので自分で考えることが大切なのだ


ということを示唆されているような。


それにしても、イノヴェーション創出と


当時の政権の求めていたものは


真逆だろうと言わざるを得ない。


認識がおかしいとしか言いようがない。


いまさらでございますが。


そもそも成長戦略自体がおかしい。


少子化は必須で成長しないことが自明なのに


それでもやっていけるプランがないってのが


問題なのだというのは平川克美さんが


警鐘を鳴らされているし、自分も会社員時代の


10年くらい前からこのブログにも


右肩上がりってどうなん?みたいなのは


疑問に思ったが砂の中の一粒でしかなかった。


亀山先生の解説に話は戻りまして


新旧の世代、価値観の交代はやむをえず、


良いところを補完できる関係性を築き


社会に還元していけるような社会に、それには


スマートフォンを活用せよというということで、


自分はスマホ、ももちろんだけど、


ICTやAIも含めたデジタル全般と考え


それらを包括し良き方向に先導できる


旗振り役が必要と感じる。


それは「人」なのか「もの」なのかわからず、


もしかしたら自分も含めた「世界」なのか。


難しくなってきたし、お腹すいたので


遅番の今日に備えて食事しようと。


 


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