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①進化の比較書・お師匠さんはドーキンス氏に何を教えたのか [’23年以前の”新旧の価値観”]

進化論の何が問題か―ドーキンスとグールドの論争


進化論の何が問題か―ドーキンスとグールドの論争

  • 作者: 垂水 雄二
  • 出版社/メーカー: 八坂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本

 


過日、外国の論者の比較論は拝読したものの

自国では?というのがきっかけでございます。


はじめに から抜粋


リチャード・ドーキンスとスティーヴン・ジェイ・グールドは、ともにサイエンス部門における世界的なベストセラー作家であり、すぐれた文章家として知られている。

日本にもドーキンス派、グールド派それぞれの熱烈なファンがたくさんいるが、両方とも好きだという人も少なくない。

進化論をめぐって小さからぬ意見の相違があり、『ドーキンスvsグールド』や『ダーウィン・ウォーズ』といった本で、二人の対立面が強調されてきた。

そのため、二人がともに天を戴かない仇敵どうしであると思い込んでいる人がいるかもしれないが、じつはそうではない。

激しい論争を繰りひろげはしたが、批判の標的は個人ではなかった


グールドが本当に批判したかったのは俗流ドーキンス主義者たちの安易な遺伝子決定論や適応万能論であり、ドーキンスが本当に批判したかったのはグールド賛美者を取り巻く目的論的傾向や安易な相対主義であった。

二人の考えを細かく突き詰めていけば、個人的な意見の相違は意外と小さい


実際、ドーキンスが『悪魔に仕える牧師』で披露しているように、二人は親密とはいえないまでも、交流があり、グールドが亡くなる直前に、創造論者に対する進化論擁護の共同声明の発表に関する合意が成立していたのである。


生物の魅力の一つは驚くべき多様性であるが、同時に、その多様性を貫く普遍的な原理が存在するというのがもう一つの魅力である。

どんなに姿形が異なろうとも、すべての生物は細胞から成り、すべての生物はDNAという遺伝情報をもっている

ダーウィンは生物の多様性の海にどっぷり首までつかりながら、自然淘汰による進化という、単純明快な原理に到達した。

ダーウィンのおかげで、この二つの魅力は一つにつなぎあわされることになった。

多様性と同質性は生物がもつヤヌスの顔なのだ。


現代の生物研究者が、どちらの魅力により重点を置くかは、人によって異なる。

グールドが生物の多様性により関心があるのに対して、ドーキンスは生物を貫く普遍的原理のほうにより強い関心を寄せるところに、両者の基本的な姿勢、ひいては生物観のちがいがある。


自然を理解するためのモデルづくりこそがドーキンスの科学的な喜びであり、例外や変異はあくまで原則を浮かび上がらせる応用問題としての意味しかない。

グールドにとっては、モデルからはみだした例外や変異を見つけるのが喜びであり、そこにこそ自然の本質があると考える。


本書は、二人が、それぞれの思想を形成していった過程を彼ら自身の経歴と発言から跡づけてみようとするものである。

生まれ持った資質が重要であることは言うまでもないが、英国の田園地帯と米国の大都会という育った環境のちがいも少なからぬ影響を及ぼしたと思われる。


しかし、それよりも大きいのは、二人を育んだ学問的な環境であったはずだ。


第3章ティンバーゲンとの出会い


ティンバーゲンとローレンツ から抜粋


ご存じのように、ティンバーゲンは、コンラート・ローレンツカール・フォン・フリッシュとともに、エソロジー(動物行動学)という分野の創建に与った貢献に関して1973年のノーベル医学生理学賞を受賞した。

エソロジーがどのように発展していったかについては、W・H・ソープの『動物行動学をきずいた人』で要領よく概説されているので、関心のある人はそちらを参照されたい。


簡単にいえば、それまで心理学において本能というブラックボックスにおさめられていた動物の行動を、一つの形質としてとらえ、各種の動物の行動の比較を通じて、その行動の意味と進化を章からにしようという学問である。

ローレンツの言葉を借りれば、これは「ダーウィン進化論の原理を行動に適用したもの」にほかならなかった。


1963年にローレンツがライデン大学を訪問した際にティンバーゲンに会う。

出会いの席でローレンツは、ティンバーゲンのイトヨの行動に関する研究を激賞した。

ローレンツはエソロジーの理論的な枠組みは構築したが、自分が理論屋であって実験屋でないことを自覚していたので、ティンバーゲンの実験の才に惚れ込み、共同研究を提案した。

カモメの卵転がし運動の解析は、二人の共同研究が産んだ成果の一つである。


しかし戦争が二人の仲を引き裂く。

オーストラリア人ローレンツはドイツ軍の軍医として招集され(そのため、戦後ナチスの協力者だったという非難を受けることになる)、最終的にはソ連軍の捕虜となるが、終戦後なんとか無事帰国する。

ティンバーゲンのほうは、ライデン大学がユダヤ人スタッフ三名の除籍を決定したことに抗議して逮捕され、1942年から44年まで、オランダの収容所で過ごす。

戦後、復職し、47年に教授に昇進する。

そこへ、当時オックスフォード大学動物学教室のアリスタ・ハーディ教授から、オックスフォード大学の動物行動学の講師として来ないかという誘いを受ける。

個人としては教授から講師への降格であり、給与も増えるわけではなかったが、ハーディ教授が奔走してさまざまな助成金を集めてくれることになっていたので、雑用に煩わされることなく、十分な研究費を使うことが期待できた。


ティンバーゲンがオックスフォード行きを選んだもう一つの理由は、旧友のデイヴィッド・ラックが鳥類学研究所にいるほか、ハーディ教授のもとに、チャールズ・エルトンジョン・ベイカー、アーサー・ケインといった新進の生態学者がいて、新しい研究の方向を展開するうえで示唆を与えてくれるだろうと考えたことである。


財なぞ二の次、実験の方が


楽しいっていうのは


なんとなくわかる気がする。


興味のないものは面白くなく


興味のあるものにしか興味がないってことで


そら当たり前だろう、みたいな。


そういう人種なんですな。


っていっても自分は頭良いってわけじゃないよ


明らかに、そこは異なりますのを


自覚してるし学歴が証明してくれちゃってますから。


動物の行動に関する四つの問い から抜粋


エソロジーについてのティンバーゲンの基本的な考え方は『本能の研究』に示されている。


(1)

行動のメカニズム、すなわちどのような刺激によって引き起こされ、学習によってどう修正され、いかなる生理的機構によって成立するか。

(2)

個体発生、すなわちその行動はいかなる段階を踏んで発達してくるか、発達に必要な条件はなにか。

(3)

その行動は他の動物ではどうなっていて、どのようにして進化してきたのか。

(4)

その行動は、その動物が生き残る可能性をどれほど高めるか、すなわち、適応価はなにか。


この四つの良いは、現在でもなお、行動に関する研究の基本とみなされている。

前二者の答えは、とりあえずの原因という意味で、至近(近接)要因、後二者の答えは、究極的な原因という意味で、究極要因と呼ばれる。

至近要因の研究は実験が中心になるのに対して、究極要因の研究は理論的なものが中心になる。


ドーキンスは、学部学生のときに、ティンバーゲンの授業を受ける。

ある講義で紹介されたのは、ヨーロッパにいる2種のヒナバッタに関する論文であった。

この2種は昆虫学者でさえ識別できないほど互いに非常によく似ているにもかかわらず、野外で出会っても交雑することがない。

ちがっているのは求愛の鳴き声で、そのために交雑せずに、別種とされている。

しかし、生理的に交雑が不可能なわけではなく、ニセの鳴き声を聞かせることでだまして人為的に交雑させれば繁殖力のある雑種ができる。

この論文を教えられたときドーキンスは悟ったのだった。


こういう問題に直面したときに、どういう実験を設計するばいいかが感覚としてわかり、また進化におけるこの最初の段階の重要性もわかった。

この論文ではたまたまバッタだったが、地球上のあらゆる種が同じ段階を踏むのだ。

すべての種は一つの祖先種から分岐したのであり、この分岐の過程こそが種の起原なのだ。

(Ian Parker,”Richard Dawkins’Evolution”,The New Yorker,September,p9,1996)


ドーキンスは大学2年生のときにティンバーゲンの指導を直接受ける。

オックスフォード大学では、学生は各教官指導教官と1時間ほど面談したあと、教科書ではなく、最新の文献を読んで論文(エッセイ)を書くという指導がなされる。

ふつうの教官は論題に関係した論文のリストを学生に渡し、それを読んでまとめさせるのに対して、ティンバーゲン先生は、博士課程の院生の未発表の学位論文を手渡し、それに対する評価を書かせた。

ドーキンスはそれを読み、文献を調べ、将来になすべき研究を考察するという課題を与えられたのである。

言ってみれば、学位論文の審査員の役をさせられたわけである。

そしてまた翌週には、また別の未発表論文を与えられたという。

ドーキンスによれば、ティンバーゲンは

「私の書いたエッセイを気に入ってくれ、おべんちゃらのようなことも言って、博士課程で研究を続けるように勧めてくれた」。

これが運命の分かれ目だった。


ドーキンスは1962年に大学を卒業後、ティンバーゲンのもとで博士課程まで研究をつづけ、学位をとる。

学部時代にティンバーゲンから受けた授業でドーキンスが、もっとも強く印象を受けたのは、行動の機構(behavior machinery)とそれが生存のための装備(equipment for survival)であるという二つの言葉で、のちに『利己的な遺伝子』を書くときに、この二つを結びつけて「生存機械(survival machine)」という言葉をつくることになる。


師匠との出会いがあったればこそっていうのは


どんな偉人でもそうなのだろう。


それが常識人ではないってなると


なお影響力は大なのだろう。


それにしても、ただ今現在2023年の現代


日常で呼ばれる多様性とか、寛容とか、は


すでにこういった人たちは標準でお持ちで


さらに研磨して展開している気がするのは


気のせいなのだろうか、と物音ひとつなく


セミも鳥もないていない初夏の休日朝でございます。


余談だけど、ただ今現在の時刻、カラスが鳴きました!


 


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