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引き算の美学 もの言わぬ国の文化力:黛まどか著(2012年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


引き算の美学 もの言わぬ国の文化力

引き算の美学 もの言わぬ国の文化力

  • 作者: 黛 まどか
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 2012/02/25
  • メディア: 単行本

若い頃に著者の別の書籍を


読んだ記憶があるが


俳句はわからないなあ、と


感じたが今回読んでみて


深さが沁みてきました。


 


はじめに


引き算、省略、余白の文化 から抜粋


十年ほど前、熊野に行った。

ちょうどしし座流星群の大出現があった直後だった。

地元のある町長がこんなことをいった。

「流星を見ようと外に出たら、こんな田舎でも外灯が明るくて星が見えないのです。

その時、ハッと気がついたんです。

私たちは戦後日本を豊かにするため、日本列島の隅々にまで電灯を灯そうと必死で働いてきました。

そして今はどこでも一晩中電灯が灯るようになりました。

しかしその結果日本には闇がなくなってしまった。

星さえも満足に見られない。

それが本当の豊かさでしょうか。

闇がなければ夢も見られない。

これからは自分たちが灯してきた電灯の一つ一つを、消していく努力をする時代ではないでしょうか」。


より便利に、より速く、より豊かにと利便性や快適さを追求し続けた結果、世の中には物が溢れている。

過剰なサービスや包装、アナウンスなどに私たちは慣れ、その欲求は止まるところを知らない。

気がついたら日本は世界一快適で過保護な国になっていた。

あらゆるものが饒舌なのだ。

つまり足し算に邁進してきたのが現代社会だ。

一方で、俳句を含め、日本の伝統文化の多くは引き算の美学の上に成立する。

言わないこと、省略することによって育まれる余白の豊饒を、私たちは忘れてはいないか。

物欲は次の物欲を生むだけで、決して充足感を与えてくれない。


コロナ禍前の書籍なので、


新たに気がついた人たちも


多いと思う、欲望については。


事足りるのであれば


多くを欲しがるのは疑問、


そもそも何でそんなに欲しいのさ、


みたいな。


でも慣れてしまうのかもしれんねえ。


自分も古本屋さんのハシゴとか


してしまっているし。


100円単位なら良いだろうみたいな。


いや、金額の問題ではない、こういうのは。


第三章 型と余白


意味を求めない から抜粋


フランス滞在中の秋、パリ日本文化会館で小栗康平監督の映画の特集が催された。

「泥の河」以来小栗映画のファンだった私は、毎日のように会館に足を運び、すべての作品を二度づつ見る幸運に恵まれた。

開催中は小栗監督も渡仏されていて、幾度か登壇して映画について話してくださった。

印象的だったのは「埋もれ木」の上映前の言葉だった。

「意味を考えないでともかく感じてください」。

ストーリーを説明しようとしない。

圧倒的な自然と素朴な人々の暮らしが淡々と描かれている。

場面は夢の中の出来事のように展開し、物語を超えた世界へと観客を導いた。

私は論理や経緯の説明をせずに、黙って心理の断片を差し出すような小栗映画に、俳句に共通するものを感じた。

休憩時間に直接監督とお話しする機会を得、私がヨーロッパで俳句を発信する活動をしていることを話すと、監督はこうおっしゃった。

「ロジカルな言語の人たちに、俳句を語るのは大変でしょう。論理よりむしろ感覚の方が大事なのにね」。


第五章 俳句の力


老いの句 から抜粋


 雪の降る町といふ唄ありし忘れたり  安住敦


「雪の降る町を」(内村直也作詞・中村喜直作曲)という歌がある。

作者が大好きな歌で人生の折々に口ずさんだ歌だ。

にもかかわらず今歌おうとして歌詞が出てこない。

「忘れたり」とさらりと言った後に、老いを自覚した自嘲と寂しさが広がる。


 甚平を着て今にして見ゆるもの  能村登四郎


甚平とは気楽な部屋着である。

甚平を着て飄々と晩年にある作者。

社会の少し外から眺めて、若い時には見えていなかったものが、今にして見えてくる。

飄逸放下の姿が彷彿とする。

 

 飄逸=世事を気にせず、明るく世間ばなれした趣があること。

 放下=投げ捨てること。


「人生は楽しくなくてはならない。無闇に悲しがったり寂しがったりする感情を私は好まない。

俳句も生きる喜びの大きな一環であると思っている。」

『長谷川双魚の世界』


今よりもっと過酷な時代を生きた先輩たちのこのような言葉は重く胸に響く。

人生に起こる一つ一つのことをいたずらに嘆き、思い悩んでも詮無いことだし、ましてや人を恨んだり、憎んだり、羨んだりするのは時間の無駄だ。

何があっても平気なふりをして、少し強がって、笑って、前を向いて歩いていくしかない。

そんな諦念と覚悟のうちに、明日への道は切り拓かれるのだと思う。

そして俳句は、生きる喜びへの足がかりとして、いつも身近に存在する。

俳句には、負を正に転ずる向日性(こうじつせい)がある。

「言いおおさない」からこその転換である。

「言いおおさない」とは、何かに委ねることであり、何かとは、自然あるいは自然に宿る神々である。

”委ねる”とは、共有することであり、信じることでもある。

委ねた後には、自ずと安寧が訪れる。

私たちが日々の暮らしの中で季節の挨拶を交わし、着物や料理を映し、深呼吸するように、日常の折々で俳句を詠むのは、自然にたいする挨拶である。

自然という大いなる存在に身を任せ、脱力してゆくことで、やがて一筋の光が差す。

短い言葉で言い切ることと自然を詠むことは、”委ねる”ということでつながっている。

そしてその”委ねる”という行為こそが、日本人の美徳の源である。


あとがき から抜粋


私は一実作者であり、研究者ではない。

俳句を通して感じたことを縷々と書き綴ってきたが、あくまでも実際に私が見聞したものも即して考えたことに過ぎない。

また、引用が多くなったが、他国や他分野の人たちが、日本文化や俳句の魅力について客観的に述べていることを、紙幅が許す限り紹介したと思った。

しかし、書き進めるうちに、これまで気がつかなかった俳句に秘められた新たな可能性を見出すことができた。

余白を察し、言葉と周辺にあるもの、実態の背後にあるもの、見えないものを感受すること。

自己と自然を一体化し、ひともとのすみれと同じ身の丈となり、自然や他の命を尊ぶこと。

このような俳句精神や理念は、今世界が抱えている諸問題(紛争、環境問題など)の解決の糸口にもなり得るのではないかという思いに至った。


俳句ってなかなか縁遠い世界


なのだけど、


少し興味湧いてきたのは


歳のせいもあるのだろうなあと。


でも、五七五の中で表すのって


本当に難しそうだ。


と、考えてはいけないのだろうな。


余談だけど、俳句というと


ジョン・レノンさんを思い出す。


松尾芭蕉の句を気に入られたようで


できたのが「LOVE」だったとか。


短い言葉で表す達人どうしの


共鳴だったのかなあと。


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