②神は妄想である―宗教との決別:リチャード・ドーキンス著・垂水雄二訳(2007年) [’23年以前の”新旧の価値観”]
第6章 道徳の根源ーーなぜ私たちは善良なのか?
私たちの道徳感覚はダーウィン主義的な起源をもつか? から抜粋
私が支持している「まちがい」や「副産物」という考え方は、そんなふうにして働く。
私たちの祖先がヒヒのような小さくて安定した群れをつくって暮らしていた時代に、自然淘汰は性的衝動、飢餓衝動、よそもの嫌いの衝動などとならんで、脳に利他的な衝動をプログラムした。
知的なカップルは、ダーウィンを読み、性的衝動が形づくられた究極の理由を知ることができる。
彼らは女がピルを飲んでいれば妊娠しないことを知っている。
しかし彼らは、それを知ることによって自分たちの性欲が消滅するわけではないことにも気づいている。
性欲は性欲であり、個人の心理におけるその強さは、それを衝き動かす究極のダーウィン主義的な圧力とは独立したものである。この強い衝動は、究極的な合理的根拠とは独立して存在するものなのだ。
私はここで、同じことが親切への
ーー利他行動や気前よさ、同情、憐れみといったものへのーー
衝動についても当てはまるのではないかと言おうとしているのである。
祖先の時代、私たちは利他行動を近縁者と潜在的なお返し屋にのみ向けるような暮らしをしていた。
だが、なぜその経験則もなくなってしまわないのか?
それが性欲とまったく同じようなものだからだ。
泣いている不幸な人(その人は血縁者ではなく、見返りを期待することもできない)を見たときに欲情を感じるのを抑えられないのと同じように、憐れみを感じるのを抑えられることができないのだ。
どちらもメカニズムの誤作動で、ダーウィン主義的には誤りである。
だが、悦ばしく、貴重な誤りである。
どうか早合点して、ダーウィン主義者による説明が同情や寛大さといった高貴な感情の意義を失わせたり、貶めたりするものだと思わないでほしい。
性欲についても同じことだ。
性欲は、言語文化というチャンネルを通じて発揮された場合、偉大な詩や演劇として姿を現す。
たとえば、ジョン・ダンの恋愛詩や『ロミオとジュリエット』である。
そしてもちろん、血縁および互恵性にもとづく同情のあらぬ方向への誤動作についても同じことが起こる。
債務者に対する慈悲は、文脈を無視して見たとき、他人の子供を養子にするのと同じように反ダーウィン主義的である。
慈悲は強いられるような性質のものではない。
それは慈雨のごとく天から、
あまねく地上に降り注ぐもの。
(『ヴェニスの商人』で、裁判官に扮したポージャがいう台詞)
性的な熱情(情欲)は、人間の野心や闘争の相当大きな部分の背後にある原動力であり、その発露の多くは人間のメカニズムの誤動作の結果である。
気前の良さや同情への熱情についても、もしそれが田舎暮らしをしていた祖先の生き方が誤動作を起こした結果であるとすれば、同じことが当てはまってはならない理由は存在しない。
祖先の時代に、自然淘汰が私たちの中にこれら二つの熱情を築きあげるには、脳に経験則をインストールするのが最善の方策であった。
そうした規則は現在でも私たちに影響を与えており、もともとの機能にとって不適切な効果をもたらす状況においてさえ、この仕組みは変わらない。
神がいなかったら、どうして善人でいられるのか? から抜粋
このように問われると、実に下劣に聞こえる質問である。
ある信仰を持った人間が私にこういう形で言ったとき(そして信仰心の篤い人間の多くがそうする)、直ちに私は、こう意義申し立てたくてたまらなくなった。
「あなたは本気で、自分が善人であろうとつとめる唯一の理由が神の賛同と褒美を得ること、あるいは非難や罰を避けることだとおっしゃるのですか?
そんなものは道徳ではなく、単なるご機嫌取りかゴマすりであり、空にある巨大な監視カメラを肩越しにうかがったり、あるいはあなたの頭のなかにあって、あなたのあらゆる動きを、あらゆる卑しい考えさえ監視している小さくて静かな盗聴器を気にしているだけのことじゃないですか」。
アインシュタインも言っているように、
「もし人々は、罰を恐れ、褒美を期待するというだけの理由で善人であるならば、私たちはまったくじつに惨めなものではないか」。
マイケル・シャーマーは『善悪の科学』において、これを論争(ディベート)ストッパーと呼んだ。
もしあなたが、神が不在であれば自分は「泥棒、強姦、殺人」を犯すだろうということに同意するのなら、あなたは自分が不道徳なことを暴露しているのであり、「それはいいことを聞いたから、私たちは、あなたのことは大きくよけて通らせていただく」。
反対に、もしあなたが、たとえ神の監視のもとになくとも自分は善人であり続けると認めるのであれば、私たちが善人であるためには神が必要だというあなたの主張は、致命的に突き崩されてしまったことになる。
私は思うのだが、非常に多くの信仰心のある人間が、自ら善人たらしめるように衝き動かしているのが宗教であると本気で考えているのではないか。
個人的な罪の意識を組織的に悪用しているような宗教に所属している場合、とりわけそうではないだろうか。
第8章 宗教のどこが悪いのか?なぜそんなに敵愾心(てきがいしん)を燃やすのか?
原理主義と科学の破壊 から抜粋
宗教上の原理主義者たちは、自分は聖典を読んだのだから自分の考えは正しいという考え方をする人たちで、何をもってしても自分たちの信仰が変わることがないと、あらかじめ知っている。
聖典の真理はいわば論理学でいう公理であって、推論の過程によって生み出される最終産物ではないのだ。
聖典こそ真理であり、もし証拠がそれと矛盾するように思えるなら、捨て去るべきはその証拠であって、聖典ではない。
それに対して、私が科学者として真実だと考えること(例えば進化)は、聖典を読んだからではなく、証拠について調査・研究をおこなった上で、真実だとみなしているのである。
彼らと私のやり方は、まったくと言っていいほど異質なものだ。
進化に関する本は、それが神によって書かれたから真実だと思われるわけではない。
互いに補強しあう圧倒的な量の証拠を提供する本だから、信用されるのである。
科学書がまちがっているときには、最後には誰かがそのまちがいを発見し、その後の書物によって訂正される。
しかしそういうことは、聖典に関しては明らかに起こり得ない。
哲学者たちは、とりわけ少しばかりの哲学的素養を持つアマチュアが、あるいは「文化相対主義」に感染した人々がいちばんよくそういうことを言ってくるのだが、この辺りでうんざりするようなデマ情報(レッドヘリング)を提起するかもしれない。
すなわち、科学者のそういう”証拠信仰”こそ、原理主義的な信仰と同じ類の事柄だと言い出すのだ。
アマチュア哲学の帽子をかぶってどんなことを公言しようとも、私たちは皆、自分の生活では証拠というものの有効性を信じている。
「真実」によってなにを意味するかということを何らかの抽象的な方法で定義するという話になれば、ひょっとしたら、科学者は原理主義者かもしれない。
私たちは、証拠が支持しているという理由で進化を信じるのであり、もし、それを反証するような新しい証拠が出されれば、一晩で放棄することになるだろう。
本物の原理主義者はそんなことを言ったりはしないものだ。
第9章 子供の虐待と、宗教からの逃走
文学的教養の一部としての宗教教育 から抜粋
私よりももっと世代の若い、ここ数十年に学校教育を受けた人々が一般に示す聖書についての無知には、この私でさえ、ちょっとばかりびっくりさせられる。
あるいはそれは、10年単位で区切った話ではないのかもしれない。
ロバート・ハインドの思慮深い著作『なぜ神は存続するのか』によれば、ずっと昔の1954年、米国の世論調査で以下のような結果が見られた。
カトリック教徒とプロテスタントの4分の3は、『旧約聖書』に出てくる預言者の名前を一人もあげることができなかった。
3分の2以上が、誰が山上の垂訓(さんじょうのすいくん)を説いたかを知らなかった。
相当な人数が、モーセがイエスの十二使徒の一人だと考えていた。
もう一度繰り返すが、これは米国、すなわち他のどの地域の先進国よりもずば抜けて宗教的な国での話である。
日本は今から500年前にキリスト教が入ってきても、
世界一、キリスト教が根付かない国だというのは
何かで読んだのだけど。
そういう国民の一人としては、上記のことを知らないのは
当然なのだけど、もしアメリカ人だったとしても
多分興味なくて知らない、となるのではないだろうかなあ、
なんて。
それで、神の御加護あれとか、最後の審判とか、
信じるのがマジョリティなのであれば
なんかおかしい、とドーキンスさん同様に
思うかもしれない。
だとすると、性質的に似ているからこの本も
看過できなかったのか、なんて。
第10章 大いに必要とされる断絶(ギャップ)? から抜粋
「本書は大いに必要とされる断絶(ギャップ)を埋めるもの」。
この洒落が面白いのは、私たちが同時に二つの正反対の意味を理解するからである。
ところで、私はこれが発明された名言だと思っていたのだが、驚いたことに、出版社が、まったくなにも知らず実際に使っていたことを発見した。
「ポスト構造主義運動に関する利用可能な文献の、大いに必要とされる断絶を埋める」本についての
を参照してほしい。(今はPage not found…2023年1月14日現在)
宗教は大いに必要とされる断絶を埋めるのだろうか?
脳には、神によってつくられた満たされなるべき隙間(ギャップ)があるということがよく言われる。
つまり、私たちは神ーー架空の友、父、兄、懺悔を聴いてくれる人間、秘密を打ち明けられる人間ーーを求める心理学的欲求を持ち、神が実際に存在しようとしまうと、その欲求は満足させられなければならないというのだ。
しかし、神は私たちがほかの何かで満たしたほうがいいような隙間をふさぐ邪魔物であるということはないだろうか?
隙間を埋めるべきものは何だろう?
科学?芸術?人間の友情?
人道主義?死後のあの世の人生を信じずに、この世の人生を愛すること?
自然への愛、あるいは偉大な昆虫学者E・O・ウィルソンがバイオフィリアと呼んだものか?
いつのころからか、宗教は人間の生活において四つの主要な役割、すなわち説明、訓戒、慰め、霊感(インスピレーション)を満たすものと考えられてきた。
歴史的には、宗教は私たちが存在する理由や私たちのいる宇宙の性質に関する説明役たらんとしてきた。
この役割は、現在では完全に科学に取って代わられており、その点については第4章(ほとんど確実に神が存在しない理由)で扱った。
インスピレーション(霊感)から抜粋
これは趣味ないし個人的判断の問題であり、そのことは、私が採用しなければならない論議の方法が論理よりもむしろ修辞(レトリック)であるという、いささか不幸な影響をもたらす。
私は以前にもそれをしたことがあり、他にも大勢の人がしていて、ごく最近の例だけでも、『惑星へ』におけるカール・セーガン、『バイオフィリア』におけるE・O・ウィルソン、『魂の科学』におけるマイケル・シャーマー、そして『確約』におけるポール・カーツが含まれる。
私は『虹の解体』で、DNAの文字の組み合わせによって潜在的に生まれ落ちることができたはずの膨大な数の人間が実際には生まれないということを考えると、私たちが生きているということがどれほど幸運であるかを伝えようと試みた。
巨大ブルカ から抜粋
カール・セーガンが『人はなぜエセ科学に騙されるのか』を書いた動機を説明していて言いたかったのは、おそらくこういう側面であったかもしれない。
「科学を説明しないのは私には邪なことに思える。もしあなたが恋に落ちれば、世界について語りたいと思うだろう。本書は、私の生涯をかけた科学との恋愛を振り返った、個人的な発言である」。
複雑な生命が進化によって生まれたことは、実際には、物理法則に従う宇宙にそれが存在するというだけでも、大変に驚くべきことであるーーもっとも「驚く」という感情が、ほかならぬこの驚くべきプロセスそのものの産物である脳の中にしかないものである、ということを忘れてはいけないかもしれない。
これは、
「私たちがこの宇宙に存在するのは驚くべきことでもなんでもない」
という人間原理的な感覚にもつながることだ。それでも私は、このことが心底から驚くべき事実であると考える人間すべてを代表して自分が語っているのだと思いたい。
私たちが進化した限られた世界では、小さな物体の方が大きな物体よりも動いている可能性が大きく、大きい方は動く際の背景と見られる。世界が回転するにつれて、近くにあるために大きく見える物体
ーー山、樹木、建物、そして地面そのものーー
は、太陽や恒星のような天体との比較で、互いにまったく同調して、観察者とも同調して動く。
私たちの進化によって生じた脳は、前景にある山や樹木よりも、そうした天体の方が動いているという幻影を作りだすのである。
ここで、いま述べてた論点、つまり世界がなせいま見えているように見えるのか、そしてある事柄は直観的に把握しやすいのに、別の事柄は把握しにくいのはなぜか、といったことがあるのは、私たちの脳それ自体が進化によってつくられた器官だからだという点をさらに突っ込んでみたいと思う。
私たちの脳は、世界で私たちが生き残るのを手助けするために進化した搭載型コンピューターであり、その世界
ーー私はミドル世界という名を使うつもりであるーー
では、私たちの生存にかかわる物体は極端に小さいことも、極端に大きいこともない。
そこでは事物はじっと立っているか、光速に比べればゆっくりとした速度で動いているかである。
そしてそこでは、非常にありえなさそうなことは、起こりえないこととして処理しても問題はない。
私たちの精神的なブルカの窓が狭いのは、私たちの祖先が生き残るのを助ける上で、それをひろげる必要がなかったからなのである。
訳者あとがき から抜粋
本書は、ドーキンスの著作のなかでも、色んな意味できわめて過激なものとして受けとめられるだろう。
利己的遺伝子説も衝撃的ではあったが、基本的には生物学内部の話であり、学問的には現在の主流に属する考え方である。
しかし、テーマがこと宗教となれば、生物学者だけでなく、全人類を相手にすることになる。
大きな異論・反論が寄せられることは疑いない。
短いエッセイで宗教批判を何度かしてきてはいるが、今度はこの大著まるまる一冊あてて、宗教とは妄想だと断じているのだから、只事ではない。
進化論はその誕生の時から宗教と対立する要素をはらんでおり、信仰心の篤い生物学者をしばしば悩ませてきた。
論理の筋を通せば、創造論をはじめとして宗教的な教えと矛盾することは避けがたいからだ。
しかしたいていの生物学者は、真っ向から宗教を批判したりはしない。
グールドのように、科学と宗教の守備範囲をわけて、科学の領域に宗教が入り込んできたときには反撃するが、相手の陣地にまで攻め込まないというのが、「大人の」態度というものかもしれない。
しかし、ドーキンスはあえて立ち向かう。
同僚たちのあいだから、なんでそこまで宗教を敵視するのか、という声さえ聞こえてくる。
なのに、あえて立ち向かう。
いったいなにが、彼をここまで駆りたてるのだろう?
その答えの一つは、思想家ドーキンスの矜持(きょうじ)だろう。
ドーキンスの宗教批判は徹底したものであり、哲学的・科学的・聖書解釈的・社会的、その他あらゆる側面から、神を信じるべき根拠を潰していき、どこにも逃げ場を与えない。
科学と宗教は守備範囲が違うという主張も退ける。
こうしたやり方で、信仰心の篤い人々を無神論に転向させることなどできるわけではなく、むしろ進化論に好意的な信仰者を敵に回すだけの利敵行為だという批判があるのは、ドーキンスも承知のことだ。
それでもあえて本書を上梓したのは、神や宗教に対する疑念を秘かに抱いている人々に勇気を与えることの方が、より大切と考えるからであろう。
現状を打開する方策としてドーキンスが考えているのは、無神論者が声をあげることの他に、子供の宗教教育からの解放がある。
ほとんどの人間は幼いときに親の宗教の影響を受けて信仰を持つに至る。
本書第5章でドーキンスが指摘するように、子供の脳は、目上の人間の教えに教化されやすいという生得的な傾向を持つ。
すべての宗教煽動家_布教者はそのことをよく知っていて、できるだけ早くから宗教教育をしようとする。
イスラムの世界では、国家の教育体制の不備をついて、イスラム学校で幼い子供を集めて教育するということが各地で行われており、そこからはてしなく殉教者が送り出されている。
キリスト教世界でも同様で、米国では公教育を拒否して、宗教学校で学ぶことが認められており、そこでは進化論を信じない子供たちが育てられている(おそるべきことに米国国民の中で科学的な進化論を信じている人は、10%に満たない)。
イスラム教が世俗化しないかぎり、現代世界との軋轢の種はこれからも尽きないだろう。
現状で、イスラム教世俗化の見通しが暗いのは確かだが、希望がないわけではない。
それはイスラムの女性たちの意識の高揚である。
原理主義的な世界観は、いわば中世的な世界観であり、必然的に女性にとって抑圧的なものである。
現にイスラム教圏では女性の参政権はいわずもがな、基本的人権さえ認められていない国が少なくない。
この情報化の時代にイスラム圏の女性たちにも世界の趨勢が耳に入ってこないはずがない。
やがて来るべき女性の権利要求運動がイスラム教の世俗化の鍵を握ることになるかもしれない。
訳者のあとがきと併せて読むと
腑に落ちるところがありました。
こういう言説の言論人って、敵が多く
ときには脅迫とか命を狙われがちだと思い
世間では避けられてしまう傾向あると思うが
世の中を明るくすることもあるのではないか?
しかしそう思えない反対勢力もいて…
というような、問答を繰り返してしまう。
普段「神」「宗教」をあまり考えてないけど
この書籍というか、氏の態度というか、
に触れることで、ビビりながらも少し意識が
変わったとまでいかないかもしれんが
影響され変節しうる、
そしてそれはもしかしたら
寂しいことなのかもしれないと思った。
なぜなら「不思議」や「神秘」というものが
なくなってしまう事を意味しそうで。
でも、養老先生曰く
というのもとても良くわかるしなあ。
仮にそれだったとして、
他者に害がなければ、良いんだろうなあと思った。
さらにそこから幸せが大きくなればいい。
なんだか幼稚園の詩みたいに
なってしまったな、これ。