①神は妄想である―宗教との決別:リチャード・ドーキンス著・垂水雄二訳(2007年) [’23年以前の”新旧の価値観”]
大丈夫なのかと思いながら、読んでみた。
はじめに から抜粋
私の妻ララは子供の頃、通っていた学校が大嫌いで、できるものならやめたいと思っていた。
後年、二十代になったときに、彼女が両親にこの不幸な事実を打ち明けると、母親は仰天した。
「でもおまえ、どうして私たちのところへ言いにこなかったの」。
そのときのララの答えは、
「でも、そんなことできるとは知らなかったのよ」だった。
これが、今日ここで取り上げる主題である。
私は、そんなことができるとは知らなかった。
2006年の一月に、私は英国のテレビ(チャンネル4)で放映された、《諸悪の根元?》と題する二部構成のドキュメンタリー番組に出演した。
はじめから、このタイトルが気に入らなかった。
宗教は諸悪の根本ではない。
一つの事柄がすべての問題の原因ということはありえないからだ。
しかし私はチャンネル4が全国紙にうった広告がうれしかった。
それは大空を背景にしたマンハッタンの写真で、「想像(イマジン)してほしい、宗教のない世界を」というキャプションがついていた。
いったいどんなわけで、その写真が選ばれたのだろうか?
実はそこには、世界貿易センタービルのツインタワーがくっきりとそびえ立っていたのだ。
本書の構想は数年前から温めていた。
その間に、考えたことの一部は必然的に、例えばハーバード大学のタナー講義のような講演、新聞や雑誌の記事という形で発表されることになった。
とくに、私が連載コラムを持っている《フリー・インクワイアリー》の読者は、いくつかの文章を見たことがあると思うかもしれない。
今日では、本書のような著作は、これを核にして補完するような資料、反応、議論、質疑応答のためのウェブサイトがつくられるまでは、完成したことにならないーー将来に何が起こるかなんて誰にわかるというのだ。
私は、<理性と科学のためのリチャード・ドーキンス財団>のウェブサイト、https://richarddawkins.net/がその役割を果たしてくれることを期待しており、それに注ぎ込まれている芸術的手腕、プロ精神、そしてまったくのハードワークに対して、ジョシュ・ティモネンに深甚(しんじん)なる感謝を捧げる。
第二章 神がいるという仮説
多神教 から抜粋
本書に対する避け難い一つの反論について先手を打っておくのは、ここらあたりが最適だろう。
その反論というのは、ほうっておけばーー夜が明けたら朝が来るのと同じほど確実にーー書評に出てくるはずのものだ。
すなわち、
「ドーキンスが信じないという神のことなど、私だって信じていない。
私は、天空に住む長く白いヒゲをたくわえた老人など信じていない」。
この老人というのは、実はこの問題には関わりのないはぐらかしで、その長いヒゲ同様、あってもなくてもいいものだ。
実際のところ、このはぐらかしは無関係というよりむしろ悪質である。
こういった、見るからに馬鹿馬鹿しいものを引き合いに出すのは、その発言者の信じているものがそれよりも馬鹿馬鹿しくないとはちっとも言えないという事実をはぐらかそうと計算してのことなのだ。
私はあなたは雲に腰掛けている老人を信じていないことは知っている。
だから、その件でそれ以上時間を無駄にしないようにしよう。
私は神というものを、すべての神を、これまでどこでいつ発案された、あるいはこれから発案されるどんなものであれ、超自然的なものすべてを攻撃しているのである。
一神教 から抜粋
私はもっぱらキリスト教のことを念頭におくことにするが、それはキリスト教がたまたま私にとってもっとも馴染みのある宗教であるからというだけのことに過ぎない。
仏教や儒教のような他の宗教についてはいっさい気にしないつもりである。
実際には、そうしたものは宗教ではなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方にも一理ある。
第五章 宗教の起源
時間・痛み・困窮というコストをともなうにもかかわらず、
普遍的に見られる過剰な宗教的儀礼は、進化心理学者にとって、
マンドリルの赤いお尻のように鮮やかに、宗教が適応的なものであることを示すものであるにちがいない。
マレク・コーン
ダーウィン主義の命ずるところ から抜粋
宗教の由来とすべての文化が宗教をもっている理由については、誰もがそれぞれのお気に入りの理論をもっている。
宗教は慰めと安らぎを与える。
それは集団の一体感を育む。
それは「私たちが存在する理由を知りたい」という切なる願いを満たしてくれる。
こういった類の説明は、たちどころに思いつくだろうが、私はそれに先立つ問い、やがて見るような理由によって優先されるべき一つの問いから始めたいと思う。
すなわち自然淘汰についてのダーウィン主義的な問いである。
人間がダーウィン流の進化の産物であることを知っているのであれば、自然淘汰の及ぼすいかなる圧力(それは一つとは限らない)が、そもそも宗教への衝動を進化させたのかを問うべきである。
真っ先にこれを問うべき理由は、経済についての標準的なダーウィン流の考え方による。
宗教はきわめて浪費的なもので、非常な無駄遣いである。
そしてダーウィン流の淘汰はふつう、浪費を狙い撃ちにして、消滅させる。
自然はしみったれた会計係で、一銭でも出し惜しみ、時間ばかり気にし、ほんのわずかな浪費にも罰を与える。
ダーウィンが説明するように、容赦なく、止むことなく、
「自然淘汰は、日々、時々刻々、世界中のあらゆる変異、どんな些細な変異にも目を光らせている。
悪いものは排除し、いいものはすべて保存し、累積していく。
いつでもどこでも機会さえ与えられれば、それぞれの生き物の改善のために、黙々と、気づかれることもなく働いているのだ」。
もし野生の動物が何かの役に立たない活動を習慣的におこなっていれば、自然淘汰は、その時間とエネルギーを生存と繁殖に捧げるライヴァル個体を支援するだろう。
自然には、勝手気ままな洒落遊びを許す余裕などない。
たとえつねにそのように見えないにしても、非情な功利主義が勝利を収めるのだ。
第六章 道徳の起源ーーなぜ私たちは善良なのか?
私たちの道徳感覚はダーウィン主義的な起源をもつか? から抜粋
ロバート・ハインドの『なぜ善は善なのか?』、マイケル・シャーマーの『善悪の科学』、ロバート・バックマンの『私たちは神なしで善良でいられるか?』、および、マーク・ハウザーの『道徳精神』といった数冊の本は、私たちが持つ正邪の感覚は、ダーウィン主義的な人類の過去に由来するものであった可能性があると主張している。
一見したところ、進化は自然淘汰によって推進されるというダーウィン主義の考え方は、私たちがもっている善良さ、あるいは道徳心・礼節・共感・憐れみといった感情を説明するのには適していないように思える。
空腹感・恐怖・性欲についてなら、自然淘汰でたやすく説明できる。
すべて、私たちの遺伝子の生き残りないし存続に直接貢献するからである。
しかし、泣いている孤児、孤独に絶望した年老いた寡婦、あるいは苦痛に苦痛にすすり泣く動物を見たときに私たちが感じる、胸が苦しむような思いやりの気持ちについてはどうだろうか?
地球の反対側にいる津波の犠牲者たちに対して、けっして出会うこともなく、その好意に対する見返りがまず期待できない相手に、お金や衣類などの匿名の寄付を送らなければならないという強い衝動が、私たちに何を一体もたらすというのだ?
私たちの中の善きサマリア人(びと)はどこから来たのか?
善良さは、「利己的な遺伝子」説とは両立し得ないのではないのか?
いやちがう。
これはこの理論についてよく見られる誤解ーーしかも救い難い(そして、あと知恵で考えれば予測できた)ーーである。(※)
※=『利己的な遺伝子』が悪名高いエンロン社の最高経営責任者の愛読書であり、この本が彼の社会ダーウィン主義的な人格を形成するインスピレーション源となったという記事を読んで私は打ちのめされた。
私は『利己的な遺伝子』30周年記念版の序文で、同じような誤解を未然に防ぐように試みた。
怖いほどの筆致で、数学、いや足し算の如く
1+1、って2でしょ、
みたいな論説で進めていくドーキンスさんのこの書籍は
ご自分の学者生活を縮めたりしないのだろうか、
と余計な心配をしてしまう。
フランスでは、
発展しているのに、とか。
イスラム教とキリスト教だと異なるのだろうけれど。
それ以上に、言いたいことがあったという姿勢は
ダーウィンさんに似ているような気もするのだけど。
「神」「宗教」のみならず、「超自然的」なものを
斬るという姿勢は尋常ならざるものを感じるけど。
近影は穏やかな紳士のようでギャップがあるのだよなあ。
眼光は鋭敏なものを感じるが。
なぜにここまで、宗教を論破されるのだろうかと
訝しく思うのは、悲しいかな、凡人である自分には
わからない範疇なのかもしれないけど。
一回ではまとめられず、次回に続きます。