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養老先生の共著から”言葉”を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


蓮實養老 縦横無尽—学力低下・脳・依怙贔屓

蓮實養老 縦横無尽—学力低下・脳・依怙贔屓

  • 出版社/メーカー: 哲学書房
  • 発売日: 2002/01/01
  • メディア: 単行本


養老孟司 自己同一性


固定点としての言葉が脳と世界を止める


人体を言葉に翻訳する


から抜粋


私は解剖をやっておりましたから、脳と物って、まさにしょっちゅう出てくる言葉なんです。

脳の方は当然ですけど、物はどこで出てくるかっていうと、つまり死んだ人ですよね。

昔からよく言われるんですが、腹が立つのは、「先生、人間が物に見えるでしょう」という言い方ですね。

解剖をやっているというと、人間が物に見えるでしょうって、反射的にいう人がいる。

初めは怒るだけで反撃ができなかったんですけど、だんだん理屈になってきました。

なんで腹が立つのか。

それは言っていることがおかしいってことですよね。

どこがおかしいかっていうと、生きている時に、体重を測って、身長を測って、どうして物じゃないんだよっていうことですよね。

死んだら物って、突然言うのはおかしいだろう。

死んだって物だけど、生きていたって物じゃないか。

だから生き死にと、物であるかないかは無関係じゃないかなってことなんです。

だけど普通世間の常識としては死んだ人はやっぱり何か違うよなあってことになります。


解剖学をずっとやって、最終的に出てくる問題は何かというと、私の場合は要するに言葉です。

よく私は、解剖というのは人体を言葉にしているんだって言う。

例えば顎のあたりをいじっていると、筋肉が出てくる。

ものをかむ側頭筋とコウ筋、内側翼突筋、外側翼突筋、これらは三叉神経の第三枝の支配で云々…とやっているわけで、これ全部言葉なんですよ。

それはある時代にできたわけです。


19世紀の解剖書を読んだらよくわかるんですけど、19世紀の解剖学者には偉い先生がいっぱいいました。

偉い先生が何をしたかっていうと、自分で解剖して、自分で勝手に名前をつけて、教科書を書く。

そうすると(解剖という)バベルの塔になってくる。


ドイツとアメリカで統一しなきゃだめだという運動が独立に起こりまして、それが国際解剖学用語というものになり、世界中同じ言葉を使うようになった。

その時にラテン語にしたわけです。


ラテン語と英語と日本語とドイツ語とやらなければならない。


そうすると丸暗記という話になって、だいたいそういう学問は軽蔑されて、文部省の指導要領見たらわかりますけど、生物などでは「羅列はダメ」って書いてある。

羅列はダメってことは、分類なんか教えられないっていうことです。


解剖なんて典型的です。

筋肉だけで600あります。

骨だって200ある。

それにいちいち名前がついていて、骨一個に名前がついているどころじゃないんで、一個のうちの部分にいろいろ名前がついていますから。


だいたいそういうのを憶えさえられたお医者さんは文句をいうんです、そんなの意味がないって。

しかし最近、実は意味がないんじゃなくて、意味があるってわかってきたんですよ。

遺伝子がわかってくると、この遺伝子があると、このこぶができるとか、妙な関係がわかってきたんです。

ま、それはいいとして、何が言いたいかっていうと、解剖というのは根本的には人体を言葉に翻訳するんだということです。

それならなんで言葉に翻訳するんだよっていうのが次の問題です。

解剖とは人体を言葉にするんだなってところで、私は職業を終えた。

やめたというか引退した。

その後考えていると、もう一つ、似たような別の事に思い当たる。

それは言葉の性質という事です。


人体を言葉にする。

そう言うのは簡単だけど、例えば胃というものがありますけど、胃というのは解剖学に対する悪口の典型だったんです。

なぜかっていうと解剖の教科書には胃の絵が書いてあります。

だけど本当は胃はそういう形になっていないということがわかってくる。

どういうことかというと、レントゲンというものが出来てきて、透視で見ると、いろんな格好をしているんです。

砂時計の格好しているとか、人によって非常に違う。

しかも時間によって違う。

そういうことになると、解剖の教科書に描いてあるあの胃はなんだ、あれは死んだ人の胃なんですね。

筋肉の力がなくなってだらんとなった状態が、普通に我々が知っている絵に描いた胃のイメージなんです。

あんなものじゃない、生きている胃っていうのは。

だんだんとそういうことがわかってくると、解剖みたいなものはウソだろうという話になってくる。

それでどうなったかというと、私が解剖を始める頃は、そんな学問はもう古くさい、と。

素人からどう言われたかというと、「あなた、解剖やっているっていうけど、いまごろ解剖なんかやって、何かわかることあるの」っていうんですね。

私だって若かったから、そういうふうに言われると一応胸が痛むわけですよ。

若い時から、今からやることあるのって分野なんかやって、どうなんだろう将来は。

それで何年かやったか考えてみると、ほとんど40年やったんですね。

そういう仕事をやっていまして、言葉の事を考えるようになった。


人体をなんでこうやって言葉にしなきゃいけないんだ、と。

それも国際用語ですから、グローバリゼーションです。

そうすると、ますますつまらないものになりますね。

なぜかっていうと、そういう言葉を発したところで、それは分かりきったものということになるからです。

独創もクソもない。


養老先生節、炸裂な若い頃の講演で


基本ラインは変わっていないのだけど


今よりも一足飛びっぷりがすごくて


聴衆者の方達はお分かりになったのだろうか


といらぬおせっかい。


この後「言葉は止まっている」という括りで


そうじゃねえ、万物流転、


今日の俺は明日の俺じゃないんだよ


寝てる間に歳とって変わってるんだ的な


動的平衡的、ゆく川の流れは絶えずして


元の水にあらずという養老先生ベースの


話になっていかれる。


前半は蓮實先生との対談で東大を退官されて


少しくらいの頃なので、かなりはっきりと


辞めてよかった的な発言がリアルに目立つ。


言葉の記述が興味深いのは、誰かが定めた物に


評価や価値観を与え世の中が動いているという


考えてみれば不思議な状態、状況だと感じた。


それとは別で言葉に限らず


養老先生の言っていることは要約すると


人が決めたことに従って


良かったことなんてない


俺は虫取りに専念したい、


虫には名前なんてないんじゃ


ってことかと思うけれど


おそらく違うだろうなと思って


妻が具合悪いのでそろそろ昼食作ります。


 


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松井博士の書から”問いの重要性”を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

コトの本質


コトの本質

  • 作者: 松井 孝典
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/11/29
  • メディア: 単行本

題名が気になったので手にとる。


この書は松井先生というよりも


インタビュアーとの合作ではないだろうか。


問いの立て方を厳しく追求されていた


松井先生の胸を借りて制作されたことを思えば


むしろ佐藤さんが著作とも言えると思った。


なぜこの本があるのか?ーーインタビュアーからのまえおき


パキラハウス 佐藤雄一


から抜粋


ここにいるのは、宇宙、地球、生命をめぐる根源的な疑問に答え、文明の現在と未来を論じる演壇の向こうにいる松井氏ではありません。


このような形でこの本が実現したのは、中学、高校を同級生として過ごしてきた私の懇望(こんぼう)によります。


中学時代の松井君は、色浅黒く剣道がやたら強いだけの少年でしたが、高校になってからは、とくに際立つところは見られなくなりました


40代も終わりに近づいて余裕のできたきたある夕刻、同級生たちはかつてのクラスメートが経営する本郷本町のレストラン「兎(うさぎ)」に会して、松井教授の私的講義を受けました。

「地球はいかにして水惑星となったか」が演題でした。

それぞれの閲(けみ)した人生の成果を、顔の皺やら上質な衣服やらで表現した同級生たちでしたが、話が進むにつれて男も女も想像を絶する時空スケールに途方に暮れた顔になっていきました。


やがて50代も押しつまると、店じまいにかかる雰囲気が日常にたちこめ始めてくるのでしたが、ふと、朝刊を開くと、世界的な科学者になったのだと片づけていた松井氏が、思想家の相貌(そうぼう)を湛(たた)えるようになって、中曽根康弘氏と対談しているのです。

しかも、彼の方が国の未来像について宰相(さいしょう)から示唆を求められているのです。


なぜ、自分の人生はこのようなもので、松井君の人生はあのようなものなのか?

なぜだ?

どこがどう違っていたのか?

どうしたって、この悩ましい疑問が頭をもたげてきます。

なにしろ、読みさしの新聞をおいて対談をしに出かけて行った私の相手は、中曽根康弘氏ではなく回覧板を届けにきた隣の藤井さんのおばあさんで、テーマはゴミ出しの変更についてだったのですから。


こういうことが全国のあらゆる学校のクラスメートの関係において起こっているし、現在中学、高校のクラスメートにも、将来確実に起こりうるのです。

笑いごとではないのです。

私はこれらの悩ましさを代表して、一体彼の人生には何が起こっていたのかを知ろうと思いたち、インタビューを申し込みました。


かなり引きこまれる”まえおき”。


松井博士と懇意にされていただけでなく


おそらく共通の価値観とか言語感覚


同時代の空気を共有していたもの同士だけに


許された関係性だったから出来た書


なのだろうと勝手に推測する。


若い人向けに書かれていて、クラスメートの将来の


変節・時間性を説かれるが、これは中年くらいまでも


当てはまるのではなかろうかと思った。


会社内外での、または定年後の関係性の逆転とか。


書自体は、問いの立て方がスマートで


平易な表現と理解しやすい章立てで構成されている。


それでも、佐藤さんご自身も指摘もされてるが


「わかった」気にはなれない松井先生ワールド。


それとは別の話で、松井先生の別の著作で


語っていたが本当に中学は剣道・高校時代は


特に抜きんでた存在ではなかったという証言。


謙遜とは無縁な人なのかなと


どうでも良いところに感心してしまった。


なかなか難易度高い松井先生の世界ですが


この”まえおき”が最高に面白くて


雪のため物流が止まってしまったため


もやしの代わりにえのきだけを使っての


ラーメンを食べつ、書を読みつ、とさせて


いただきながらの読書でございました


事を告白いたします。


 


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松井孝典教授の書から”人間圏”のタイプを読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

人類を救う「レンタルの思想」―松井孝典対談集


人類を救う「レンタルの思想」―松井孝典対談集

  • 作者: 松井 孝典
  • 出版社/メーカー: ウェッジ
  • 発売日: 2007/11/01
  • メディア: 単行本

「レンタル」も「イトイ」も芸術だ


糸井重里 X 松井孝典


2人の精神遍歴 から抜粋


糸井▼

ここ10年、20年くらい、エコロジーの考え方以降だと思うんですけれども、子孫に対し何かを残すかというとき、このまま放っておくと人間の未来はないという語り方が次第に増えてきました。


永遠に悪い循環をくい止めながら生きる時代になるとしたら、僕は永遠というものを考え直さなければいけない。

それで、思いついたのが、どこかで地球は滅びるんだというのを知っておいた方がいいということ。

つまり無限に苦労することを考えるくらいなら、どうせ滅びるんだし、その中で何をやるかを自分で決めるというふうに考えたくてね。


それで天文台に問い合わせましたら、50億年後くらいに、太陽の膨張の影響を受けて地球ごとなくなると。

どうあがいてもこれは防げない。

それを知ると、とても楽になりました。

その頃に松井さんの書かれたものを読んだんです。


この考えがみんなに伝われば、人間を精神的な苦役から解き放つことができるんじゃないかと思いまして。


松井▼

すごい宗教的になってきちゃった。(笑)


糸井▼

最初はそれ。観念だったんです。

それで松井さんの講演に行ったりもしました。

インターネットとの出会いもその頃で、僕は前々から、わかるということと、実際に肉体化してその考えを生きることの間には、ものすごく距離があるなと思っていた。

それをくっつけるのに一番最適なのがインターネットだった。

つまり、「わかる」と「生きる」が隣り合わせになる。

「せっかく生まれていた人生を、借金返済のために生きるみたいなことはいやだ」という思想を伝えるためにも、インターネットは有効だと感じました。

こういう流れなんですよ。


松井▼

どういうふうにして糸井さんの今の考えがあるのかがわかりました。

僕もなぜ今の自分に至ったかを話しておきましょう。

僕も糸井さんと同じで大学闘争の時代の学生で、全共闘的なことをやっていました。

人民との連帯だ、とかね。

でも連帯といっても、みんな世界を知らず観念でしゃべっているだけです。


糸井▼

そこで実感が欲しくなる。


松井▼

ええ。

で、半年くらいずっとユーラシア大陸を回ったんです。

今、世界が注目が集まっているアフガニスタンやパキスタン、イラン…。

生活を見聞きしながらまわって実感したのは、連帯なんかあり得ないということ。

ここで生きろと言われても、僕は生きられないと思った。

それと、それまで僕は国家に対して生理的な嫌悪感があったのですが、パスポートに日本国が守ってくれると書いてある。

そのとき初めて「あっ、国とはこういうものなんだ」と思いました。

実際、外国に行くと、パスポート一つで日本国国民として立場が保証されているわけですからね。

そういうふうに旅を通じ、いろいろな問題の捉え方も変わりました。

自分がどう生きるかも含めてね。


真の「クリエイティブ」とは から抜粋


糸井▼

宇宙や地球に関心が向ったのも、ユーラシア大陸に出かけていった時と同じ発想だったんでしょうね。


松井▼

そうですね。

時空スケールを変えて見ることの斬新さに気づいたんです。

そうして得た結論が、自分の頭で考え、自分の世界観を持たない限り、自分はここにいる意味はないということでした。


糸井▼

明快ですね。


松井▼

明快といえば、僕は学生の頃から未来なんてないと思っていました。

現在しかないと。

現在とは過去の蓄積、歴史の上にしかない。

生きることは、結局は自分の歴史を作ることです。

未来がどうであれ、今が充実していれば悔いはない。

そう思って生きてきましたから、社会的な使命感もないし、未来が明るいとか暗いとかいう発想もしたことがありません。

僕にとっては、自分が取り組んでいる「自然」というのが何なのかというのを探るのが生き甲斐で、それがパーッと見えた時が最高の感動なんです。

それだけのために生きているといってもいい。


いま何に感動して生きているかにすべてがあります。

僕の場合、興味のある自然という古文書が解読できた時、そのプロセスを含めて感動がある。

それが生きていく原動力にもなる。


糸井▼

その思想さえベースにあれば、極端な話、「僕、地球物理学やめました」と言っても、ぜんぜんかまわないですね。

つまり、生き方の問題だから。


松井▼

科学者というのは、基本的なことに関しては世界のルールがあって共通基盤を持っているけれど、それ以外のことに関しては自分がすべてでしょう。

与えられた問題を解くだけじゃなく、自分がどう問題を作れるか、なんです。


糸井▼

営業マンでも販売員でも、問題をつくる能力は必ず問われるわけで、今やっていることに感動できる人は、やっぱり問題を作る能力があると思うんです。


松井▼

それが本当に生きているということですね。

糸井さんがいう「クリエイティブ」も、そういうことでしょう?


糸井▼

そうです。


プロフェッショナルということ から抜粋


松井▼

1980年代の終わりごろ、モスクワの空港で偶然、司馬遼太郎さんにお会いしたことがありました。

僕はロシアの科学アカデミーから頼まれて火星探査の協力をしていたものだから、火星探査機や宇宙船の写真も持っていたんです。

それを司馬さんにお見せすると、「芸術ですね」とおっしゃってね。


糸井▼

まさにそうだと思います。

僕も松井さんと話していることを、現代美術の作家と話しているのと同じように受け止めています。

スポーツだって、アートとの区別がなかった時代があって、のちに市場原理で分けただけ

もとはといえば、すげえ、びっくりした、よくできたもんだ、真似できないと感動するものがアートです。

「レンタルの思想」もアーティストの仕事で、現代芸術家が展覧会のプロジェクトをつくっているようなものではないでしょうか。

僕も自分を俗っぽいアーティストだと思っていましてね。

人間はどうしようもないけれど、捨てがたいものである、というところで生まれるものを、ポップアートのように拾っているつもりなんです。


糸井さんの後方支援をされているかのような


活動の主たる目的が松井先生の対談から


よくわかるような。


あとがき 2007年秋


松井孝典 から抜粋


人間圏の現状とその課題というと、話はどうしても難しくなる

そこで、胃がんの手術をした当時講演会などでよく例えとして用いたのは、次のような話である。

胃が、以前の3分の1になると、食べられる食事の量が減る。

従って当然、70キロを超えた体重が、なだらかに60キロまで減少した。

それが現在まで続き、60キロもはや定常状態となっているが、同時に以前健康診断などで指摘されていた成人病に関わる検査の数値が、著しく改善された。

現在の人間圏は手術前の私に例えられ、いずれ成人病が発症する前期の状態にあるのではないか、と思っている。


手術前は、食べたものが胃にストックされ、人間の発展段階で言えば、ストック依存型人間圏に対応するのではないか。

胃の切除は、下部の幽閉部から癌の存在する部位までだから、手術後は食べたものが胃にストックされず、小腸にそのまま流れて行く。

要するに、ストック依存型の胃からフロー依存型の胃に変化したということになる。

目指すべき、地球システムと調和的な人間というのは、フロー依存型の人間圏であるから、胃を3分の2切り取った私のようなものである。

するといわゆる成人病につながるような血液の状態は改善され、即ち肥大化した人間圏はスリム化され、地球システムと調和的になる。


問題は胃の切除に相当するのが人間圏ではどういうことなのかということである。


それは人間圏の内部システムの変更であるが、それについてはとても1人では思考をまとめられない。

それではというわけで、世の識者といわれる人たちとの対談を通じて、この問題を世に問うてみようと思った次第である。

それを基にレンタルの思想をまとめようと意図していたのだが、今もってまとまらない。


人間圏のあり方に対してこれからも社会に提言していくのが私の使命かもしれないと、改めて強く思った次第である。


”人間圏”から発展段階の2種


”ストック依存型”と”フロー依存型”というのは


とても明快で興味深い。


”ストック”は読んで時の如し蓄積型で


いわば原理主義のようで


”フロー”は環境に合わせて


動けるフレキシブルなタイプって受け取れる。


どちらが良いということではなく


進化の過程として必要なものなのかと。


違ってたらごめんなさい。


アストロバイオロジーから見るヒトの


というか自然の世界が痛快に今は感じる。


糸井重里さんと対談も興味深く


他の方は長谷川眞理子先生以外は


自分にとって時期尚早なのか


あまり深く読めなかったのでタイトルだけでも。


妻が具合悪いので洗濯、お風呂掃除して


ご飯調達して自分は夜勤に向け準備しないと。


家族の誰かが具合悪いと家の内部システムが


正常稼働できず暗くて嫌なものだなあと


感じ入る寒い雨の関東地方でございます。


松井孝典 

人類が生き残るための提言

(初出・中央公論1997年10月号)

・6500万年前の地球環境問題

・キューバで考えたこと

・文明のパラドックス

・地球の歴史は汚染の歴史

・所有という問題

・リサイクルとレンタルの違い


対談

岩井克人 欲望の倫理学

榊原英資 アメリカの技術信仰に騙されるな

中西輝政 人類にビッグバンが起こっている

長谷川眞理子 おばあさんの誕生

鷲田清一 宇宙の発展と文化の論理

水谷三公 江戸システムが地球を救う

植島啓司 「宗教の隕石学」への挑戦

合原一幸 カオスは脳に宿たもう

西垣通 「もう一つのIT革命」でアメリカニズムを超えろ


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松井孝典教授の書から”所有のアンチテーゼ”を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

人類を救う「レンタルの思想」―松井孝典対談集


人類を救う「レンタルの思想」―松井孝典対談集

  • 作者: 松井 孝典
  • 出版社/メーカー: ウェッジ
  • 発売日: 2007/11/01
  • メディア: 単行本

序「レンタル」の思想は深化する

キューバで考えたこと から抜粋


この原稿は2001年、学術調査のためキューバを訪れ、書いたものである。

何故キューバかといえば、6500万年前の地球に何が起こったのか、を調べるためである。


6500万年前といわれても、一般の読者には全くイメージできないはるかな昔だろう。

地質学的には、中世代白亜紀が終わり、新生代第三紀が始まった、その境界の年代である。

それを境に恐竜など、中世代に栄えた生物種の7割近くが絶滅し、哺乳動物の時代が始まった。


その区切りの地層を、その前後の年代のドイツ語の頭文字をとって、K/T境界層と呼ぶ。

その層を調べることで、その前後の絶滅した原因を調べることができる。


キューバには、このK/T境界層が全島に渡って分布し、その中には、世界でも例のない珍しいものも含まれている。


キューバがK/T境界層の宝島であることを発見したのは、我々の研究チームが世界初である。


21世紀は、これまでのようにすべてが右肩上がりの時代ではない

「人間圏」(後述)誕生以来続いたその拡大期が終焉し、初めて本格的に地球システムとの均衡状態が始まる。

それが、地球システムからの負のフィードバックとして強制的に引き起こされるのか、あるいは我々がそれを計画的に行えるのか、そのどちらかで人間圏に引き起こされる現象は全く異なるが、いずれにせよ、それは停滞の時代といってよい。

人口、エネルギー消費量、水の使用量、穀物の生産量、工業製品の製造量など、あらゆることが右肩上がりのカーブを維持できなくなる。


今までと同様に拡大路線を突っ走ろうとしても、地球システムから人間圏に流入する物・エネルギーの流れにブレーキがかかる。

すなわち、地球システムからの負のフィードバック作用が効き始め、人間圏の拡大に対し、強制的なブレーキがかかるからである。

それは米国に経済封鎖され、一方で頼るべき共産圏が崩壊する状況におかれた数年前までのキューバに似ている。


近年は、カストロ首相を信奉しているベネズエラのチャベス大統領が石油の支援も行うなど、エネルギーの供給も増え、かつての事態はドラスティックに変化しつつある。

確かに旅行者や国民の一部はその豊かさの恩恵をこうむるかもしれない。

しかし、それは逆にキューバが、21世紀の人間圏の崩壊に、連座することでもある。

1999年、カストロ議長と会見した際、彼はアメリカの大量生産・大量消費文明を批判し、飢えた子供に配るミルクを豆乳にすべきという持論をーー筆者風にいえば、地球システム論的な視点からーー熱く語った。

キューバがグローバル至上主義経済の波に押し流された先の未来を、彼から聞いてみたい。


人間圏を見る目 から抜粋


私がいだくようなこのような認識を、世界の一般大衆は共有しないだろう。

あるいは、世間で重宝されている、いわゆる経済学者の認識でもない。

この違いはどこにあるのか?


それは人間圏を、地に這いつくばった視点で見るか、それを俯瞰的に見るかという違いでもある。


これまで、「人間とは何か」という問いに対する答えには二つの視点があった。

ひとつは、人間も生物の一種という認識から人間を論じる「生物学的人間」という視点。

もうひとつは、我思う故に我ありという認識に代表される、「哲学的人間論」という視点でる。


ダーウィンの「種の起源」以来、今でも、人間はどこまで生物なのかという問題は生物学的にはもっとも魅力的で、しかし解決に程遠い問題である。


あるいは、哲学的人間論は、我とは何ぞやを問うことはできるが、我々とは何ぞやを問うことは難しい。

現在の我々の存在を論じるとき、この二つの人間論だけでは不十分である。


俯瞰的視点から我々の存在を論じる視点を「地球学的人間論」と呼ぼう。

それは、地球システムと人間圏の関係性を論じ、また地球システムの構成要素のひとつとして、絶えず変化する境界条件の下での、人間圏の安定性を論じる立場である。

地球学的人間論によれば、文明とは、地球システムの中で人間圏を作って生きる生き方と定義される。

なお人間圏とは、人類が狩猟採集から、農耕牧畜を選択した約一万年前に形成された物質圏である。

それは地球システムの構成要素のひとつでもある。

具体的には、夜の地球を宇宙から見たときに見える光の海をイメージすればよい。


農耕牧畜とは、地球システムの物質・エネルギー循環を直接利用する生き方であり、それゆえ新しい構成要素を作って生きる生き方なのである。

生物圏の中の物質・エネルギー循環に比較して、その循環の流量は桁違いに大きく、従ってより多くの人類の生存が可能になる。

人間というスケールでこのことを論じれば、この時欲望が解放されたといってよい。

以来人類は、大地を、そして地球を「所有」すると、錯覚するようになった。

より多くの人が集団で住むようになり、食糧生産に直接関わらなくて生きられる人が多くなり、さまざまな分業体制が生まれ、人間圏の内部システムの構築に必要な共同体が形成され、その共同体の求心力としてさまざまな共同幻想が作られた。


人間圏の相転移 から抜粋


共同幻想とは、冒頭で述べた「右肩上がり」の考えばかりではない。

貨幣は未来永劫モノと交換可能とか、人の命は地球より重いとか、愛は地球を救うとか、神の存在とか、あるいは民主主義とか市場主義経済とか、それこそ人間を規定すると信じられている概念のすべてといっても良い。21世紀の人間圏にとって、その崩壊の引き金となる、最も可能性の高いシナリオは、これらの共同幻想が、多くの人に幻想と認識された時である。


当たり前のようなことでも、よくよく考えると人間圏の危機に繋がるのではないかと危惧される問題はいくらでもある。

例えば、インターネット社会は個人を主体にし、情報は全て個人に拡散する。

情報が拡散するということは、社会が均質化していくことである。


すべての人が情報を共有し、均質化した社会は、共同幻想的な意味では、理想化された社会かもしれない。

しかし、それは宇宙からの視点で考えれば、人間圏のビッグバン状態である。

それは、秩序も構造も、情報もない混沌の状態である。


宇宙も地球も生命もそして人間圏も、宇宙の歴史から学ぶとすると、その歴史的発展過程は、分化する方向である。

分化とは、均質な状態から異質なものが生まれてくることである。

それらが互いに相互作用し、システムが作られる。

システム論的には人間圏を構成するさまざまな共同体は構成要素ということになる。

構成要素の数が多く、それらが、複雑に多様に関連しあうシステムはタフである。

今我々が論じねばならないのは、これからの人間圏の内部システムとして、どのような共同体を基にそれを構築するかといった、新たなる国家論であり、人間圏の内部構造論である。


21世紀を前にして人間圏は今「相転移」(凝固・蒸発など物質の状態が変化すること)とでも称すべき様相を呈している。

ビッグバンに至るのか、新しい安定な相に至るのか、旧来のシステムを壊す前によくよく考えねばならない。

それは人間圏を作って生きることを選択した1万年前と同様の重みを持つ。

かつて筆者は「レンタルの思想」を提案した。

人間圏の誕生は、我々の欲望の解放、具体的には所有と深く関係するがゆえに、アンチテーゼとしてレンタルという表現を用いた

本稿はレンタルの思想をより深化させるための問題提起である。


”所有”ではなく、アンチテーゼとしての


”レンタル”って発想も興味深い。


それから拡大解釈かもしれませんが


よく見聞きさせていただく


”ヒトは生きもので自然のひとつ”を


さらに進めた


”ヒトは宇宙の一部”というふうにも自分には


聞こえて、最近考えていることとリンク


しまくりな松井先生の対談本の導入部分


でございました。


宇宙や星とか有機物の始まりとかを究めると


それらの終焉もおおよそ想像がついてしまう


ということなのだろうなと。


それとは別の興味としてでございますが


物を所有しないミニマリズムの発展系なのか


そういった思想というか発想が


昨今巷でもございますが、それを先取りしての


この言説なのか、それとは異なるのか


はたまた異なってみえても深いところでは


繋がっているのか、とか興味は尽きない


どんより曇り空な関東地方でございます。


 


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