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2大巨人の対談から遺伝について触れる [’23年以前の”新旧の価値観”]

「まなびや」の行方 (MOKU選書)


「まなびや」の行方 (MOKU選書)

  • 出版社/メーカー: 黙出版
  • 発売日: 2001/02/01
  • メディア: 単行本


まえがき 日高敏隆 から抜粋


農工大のときには大学紛争といわれている全共闘運動があった。

ぼくも若かったから、学生とはよく話をしたりしていた。

その中で、講義がおもしろくないという話があった。

講義をおもしろくするためには、どうしたら良いか?

それは先生方もいろいろ考えていたようで、なかには学生にアンケートをとる先生もいた

学生たちがなにを聞きたがっているかを調べ、それに応えようというのである。

しかし、その先生の講義は、最初は学生が来るのだけれども、たちまちにして減っていった

ぼくにはその理由がよくわかるような気がした


ぼくは一般教養の生物の担当で動物学の講義を担当していた。

そこで、どういう講義をしようかと考えた。

自分がいままで受けた講義でなにがおもしろかったかと考えてみると、自分が少し知っている話をやさしく教えてもらった話は、ぼくにはちっともおもしろくなかった。

ぼくがおもしろいと思ったのは、それまで自分がそんなことは考えたこともなかった話を聞いたときだった。

普通の講義がなぜつまらないかというと、みんなが一応知っているような話をやさしく噛み砕いてくれるから、結局飽きてしまうのである。

それをおもしろがるような人というのは、大学に来る必要はないのではないだろうか。


大学では学問をやっている

その中で、いままで「こういうものだ」と思っていたことが、じつはそうではないということがわかって、目が開かれる

それが大学なのではないか

ぼくはそう思っていたから、とにかく解説的な講義をするのはやめようと思った。


人間でもある種の文化というのは非常に単純だとかいわれているけれども、やはりそういう文化を持った集団が存在している

それは、その中でうまく辻褄があっているのである。

どの文化の価値が高いということはない

動物だって、腔腸動物は単細胞動物より上だとか、脊椎(せきつい)動物はもっと上だとかいうことはない

みんなそれなりに一つのパターンをもっているのである。

そういうものだとすると、これは人間の文化の型と同じように、一つの文化である。

そういう講義をしていったのである。

この講義をまとめて、本をつくった。

それが『動物という文化』である。

これを講談社学術文庫に入れるときに、解説を誰に書いてもらうかということになった。

ぼくは、阿部謹也先生にぜひお願いしたいと思った。

阿部先生は、本を読んで知っていただけだったけれども。


そのころ、中世というのは科学の世界としては暗黒時代と言われていたし、キリスト教に支配されたすさまじい世界であったとか、そんな話ばかりだった。

でも、そんな中世が何百年も続いている。

そんなにひどい暗黒時代だったら、なぜ早く終わらなかったのか?

なぜ何百年も続いたのか?

中世の人々はけっこうそれなりに楽しく生きていたのではないか。

阿部先生の本を読むと、どうもそういうふうに思える。

きっとこの先生は、動物における文化の型というぼくの考え方をわかってくださるのではないかと思った。


大学の存在価値はやはり学問をする、学問の仕方を身につける場所だというところにあるのではないか?

これがぼくのずっと思っていたことだ。

しかし、それだけなのだろうか。

最近ぼくは、動物の発達というか成長の過程のような話から、ふと、人間という動物は一体どういうふうに育ち、学習していくものなのかということが気になってきた。


石器時代、こんなに武器もない動物が一人で生きていけるわけはないので、集団をつくったであろう。


そうすると、その集団の中で生まれた子どものまわりには、年齢も性別も、キャラクターも違い、能力も違う、いろいろな人がたくさんいる。

子どもたちは、そういう人々がどういう感情をもっているか、なにをしているか、どういうときにはどうするのかということを好奇心をもって見ていて、それを学びとっていくように人間の学習のプログラムはできているのではないか。

つまり、非常に多様な人がまわりにいることが必要なのではないかと思えてきたのである。


ところがいまの世の中は、個人の尊厳やプライバシーを大切にするあまり、どんどん核家族化している。


そうすると、結局子どもたちはなにを学べるのか。

石器時代にはうまくいろいろなことが学べていたのが、この現代になったらなにも学べなくなったということではないだろうか。

大学というのは幸にして、18歳から22歳の集まりである。

その年代というのは大体の人にとってみると、ちょうど男も女もおとなになって、男と女の関係というのができてくる時期でもある。

先生もまた、若い先生から年寄りまでいるし、事務職員の人もいる。

要するに大学は、石器時代と非常によく似た状況になっているのである。


だから大学では、知識としてはなにも勉強しなくても、非常に大事なことを勉強することになるのではないか、それが大学の一つの大きな価値なのだと、いまぼくは考えている。


銭湯の文化がなくなって、


人情が廃れたというのは


田村隆一さんの詩にあったというのを


前にもブログで投稿した。


大学には行かなかったけれど、自分の経験から


専門学校では確かに自分たちの


狭いコミュニティしか交流してなかった。


いろんな年代、人たちと交流できるようになったのは


社会に出てからだった。


もっと早くに交流できれば、とは思うけれど


それができにくい社会システムに


なっているようにも思うし


内気な国民性も影響しているかと。


 


第三章「学び」の原点はどこにあるのか


ウグイスは「カー」と鳴けるか から抜粋


日高▼

ぼくは、「文化」というものの基盤にも遺伝的なものがあるのではないかと思っているんです。

その手始めが学習です。

たとえばウグイスが「ホーホケキョ」と鳴きます。

これは遺伝的に決まっているみたいで、ウグイスという鳥は、「ホーホケキョ」としか鳴かない。

けれども、それは学習しなければならない。

遺伝的に決まっていないのであれば、これは本能ではないということになる。

だからホーホケキョは本能ではない。

親鳥の「ホーホケキョ」の声を聞いて学習をするわけです。

ところが、変な研究をした人がいましてね。

生まれてすぐにカラスの声を聴かせたらそれを学習して「カー、カー」と鳴くウグイスができるかという、そういう類いの学習をやったんです。

さて、どうなったか?

そのウグイスのひなは、生まれて初めて聞く声なのに、カラスの声にはまったく関心を示さない。

ところが、ウグイスの声にテープを切り換えてやると、にわかに関心をもつようになる。

そしてウグイスの声を学習してしまう。


つまり、ウグイスは「ホーホケキョ」と鳴くけれども、遺伝的に鳴き声まで決まっているわけではない

では、すべて学習によって決まるのかというと、カラスの声は学習しない

結局、「ホーホケキョを学習しなさい」ということは、どうも遺伝的に決まっているらしい

「こういうものをお手本にしなさい」ということも決まっているらしい。

ところが遺伝的に決まっているのはそこまでですから、学習しなければ鳴くことはできない。

しかも、学習する時期も決まっていて、あまり年をとってからではいけないんですね。

それも遺伝的に決まっているらしい


結局どういうことになるかというと、

遺伝的に決まっているものを具体化するのが学習である

というところに落ち着きます。

とすれば、いままでの教育論のように、

「教育とは、遺伝子DNAにインプリント(刷り込み)されていない情報を教えることである」

とは言えないことになりますね。


阿部▼

いや、それはおもしろい問題ですね。

たとえば、いまの「ホーホケキョ」というのも、カラスの声に置き換えたのではあまりにも音が違いすぎてウグイスには反応できないようになっているけれども、もし「ホーホケキョ」にいくつもの変形をつくって聞かせたらどうなるかという実験も…。


日高▼

コンピュータでやっています。

それに、音をずらすと、それを聞いたウグイスは変な音を覚えるかというと、必ずしもそうではない。

かなり本当に近い声で歌うようになります。

これは教師にとっては非常に幸せな話であると。

先生が多少おかしなことを言っても、生徒はちゃんと学んでいくということになりますからね(笑)。


遺伝子では人間はわからない から抜粋


日高▼

ぼくの親父は運動選手だったんですよ。

けれどもぼくはまったく運動ができません。

ですからそういう意味では、ぼく自身はまったくそういうにはないと思いますね。

ある遺伝子があるから、非常に特殊な病気を発病するというのはちょっと別かもしれませんけど、一般的にいえば、遺伝は個人の生活にあまり関係はない。

たとえば、両親とも理学博士という人の子どもは学校の成績が良くないですねえ(笑)。


阿部▼

(笑)…そうですか。それは、ねえ…。


日高▼

特に数学ができないとかね。


阿部▼

ごめんなさい、ちょっと余計なコメントさせていただくとね、ぼくの知人で両親とも校長先生というのがいるんですよ。

両方とも国語なんですが、これはもう、その子というのが悲劇なんだなあ。

とにかく先生は建て前で教えますよね、学校では。

日本の学校は全部そうです。

それを自分の家でもやろうとするから悲劇が起こるわけです。

今のお話では、理学博士であるということーーーこのこと自体が原因でその子ができないんですよ。

両親に理学博士をもったということがこの子の不幸なんでね(笑)。

それがたぶん勉強ができない原因で、もし両親が理学博士でなければ、この子ももう少し伸びたかもしれない(笑)。


日高▼

かもしれない、いや、そうですよ。

だから、このごろほうぼうでやっているヒトゲノムの話ーーーゲノムが全部解ければ人間がわかるなんて、そんなものでは絶対ないはずなんですね。

遺伝子というものはそういうかたちでは考えられない。

だからぼくは「遺伝的プログラム」ということをいっているんです。

「遺伝子」と「遺伝的プログラム」は根本的に違う話ですからね。


ウグイスの話と、


遺伝子と遺伝子プログラムって


実に興味深いお話でございます。


親が勉強できないからって子どももそうなるとは


限らないということは明るい希望が持てたぞ!


ここまでなら素人の私でもついていけます。


さらに話は続いて。


 


「死後」の話は現世の問題のあらわれ から抜粋


日高▼

さっき先生がおっしゃられた自分の思想や生き方を残したいというのは、「ミーム」という概念と関係があります。

ミームというのは、文化の情報をもち、模倣を通じて人間の脳から脳へ伝達・増殖する仮想の遺伝子のことです。

いわば実体のない「価値」の遺伝子なんですね。

イギリスの生物学者、リチャード・ドーキンス遺伝子(Gene)という英語にかたちを合わせて、ギリシャ語で模倣を意味するミーム(Meme)という言葉をつくったんです。

あれも、ドーキンスがあんまり遺伝子の話をすると、反発があるらしいんですね。

「人間は違うぞ」ということをいわないと、イギリスではなかなか容れられないようです。

イギリスにも世間というのがあって、そういわないとイギリスの世間の中では生きていけない。

そこでミームということを考えついたんでしょう。

ところが、あの概念自身は、その後いまに至るまでちっとも発展していないんです。

最近、ミームについてある研究者が本を書いたんですが、これは「ネイチャー」という科学雑誌でコテンパンに叩かれていましたね。

要するに「航路図のない夜間飛行をしているようなものである。結局、彼女は見事に失敗した」というふうに書いてありました。


「研究者」って誰だろうな。


時期からしてこの方のことなのかもしれん。


だからいまお話しした「ミーム」というのは、自分の思想を残したいとか、作品を残したいとか、そういう遺伝的な概念の範疇の話です。

仮に残したとしたって別にその残っている状態を自分では見られないわけですが、「残っていてほしいと思う」のは、いったいなんなんだという話なんですね。

それは遺伝子ではない

すると、遺伝的プログラムの話は、とにかく遺伝子たちがなんとかして自分たちの遺伝子を残していくのだという話になるんですが、人間の場合には、それはミームというものがくっついている。

ミームというのは、遺伝子と対立する場合もあるわけですよ。

「子どもをつくらなくてもいい。そのかわり立派な作品を残したい」

という人だっている。

これは自分のミームを残したいと思っているのであって、子どもは残したくないと思っているということなんです。

つまり、遺伝子は残したくないと思っている。

これ、対立しますでしょう?

ほかの動物にはミームなんていうものはないんですね、たぶん。

まず犬や猫にはないと思うんですよ。

猿山のボス猿にしたって、自分の名声を残したいとは思っていない。

ところが、やはり人間はなにかもっているんですね。


そうなのかなあ。人間と動物は違うのかなあ。


いや、文脈からいくと、生物の中で人間だけ


我欲が強いというか、見栄とか体裁とかが


あるってことか。


ちと、尻切れトンボ的なのですが


この後、死後や墓の東西の考え方に


話は続いていき今でいう


グローバリズムに話は及び


介護の話もこの時点でされ


最終的に学問の話に戻る。


まなびの話題にとどまらず


「人間」がテーマなので


普遍的で興味は尽きませんが、


文字数の関係や疲れてきちゃったんで


ここらあたりで締めさせていただきます。


すみません!


日高・阿部両先生の研究は


継続決定ですな、これは。


 


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2冊からジョン・レノンをレポート [’23年以前の”新旧の価値観”]

ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド Instamatic Karma


ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド Instamatic Karma

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2008/11/15
  • メディア: 単行本

はじめに

思いがけない形で始まったジョンとの関係


から抜粋


ジョン・レノンと私が一緒に過ごした時期は、今では「失われた週末(ロスト・ウィークエンド)」という呼び名で知られています。

驚いたことに、随分と多くの人が、その期間が文字どおり一度の週末だけだったと思っているようです。

実際には、ジョンと私が公の場で一緒だったのは1年半になりますし、それ以外の時期も含めたジョンとの関わりは1970年12月から1980年12月まで、実に10年にも及んだのです。


10年間アシスタントとして働いていたってのは多くは知らないだろう。


メイさんは、毎日仕事で忙しく、ジャッキー・オナシスや


アンディ・ウォーホールに電話したりと驚きの連続だったと。


しかし最大の驚きは1973年の夏にやってきました。

その頃私はヨーコの新作『空間の感触』のプロモーションの準備に入っており、並行してジョンのアルバム『マインド・ゲームス』のレコーディングも始まっていました。

ある日の朝早く、レノン夫妻の住むダコタ・ハウスの中にあった私の仕事場に、ヨーコが入ってきました。

ヨーコは私に、ジョンと「うまくいっていない」ことを打ち明けました。

ジョンとヨーコのまわりで仕事をする者はみな、二人の間が少しピリピリしていることに気が付いていたので、そのこと自体はさほど大きな驚きではありません。

ヨーコは続けて、ジョンは誰かほかの人と一緒に暮らすことになるだろう、その相手は

「ジョンをうまく扱うことができる人」
であってほしい、といいました。

衝撃的な何かが起こる予感がしたのはその時でした。

まず最初によぎったのは、

「二人が別れたら私は今の仕事を失ってしまうの?」

ということでした。

ヨーコはさらに続けました。

「あなた、ボーイフレンドいないわよね」。

私はペンとメモ用紙を落としてしました。

聞き間違いではないかしら?

私はヨーコに、こちらの一方的な勘違いかもしれないけれど、私はジョンに対して特別な感情は抱いていません、と念を押しました。

ヨーコは、それは承知だと言いながらも話をやめませんでした。

「あなたがジョンと一緒になるといいと思うの」

私は呆然としてしました。

お断りします、私にはできませんと何度もいいました。

でもヨーコはすっかり心を決めているようでした。

「ジョンから誘われたら断らないようにね!」

というヨーコの言葉には、単なる提案以上の強さが込められていました。


どうしてもジョン目線のストーリーの方が


多くの人の興味をひいてしまう為


メイさんのことは「失われた週末」を演出する


一部になってしまうのだよね。


自分もこの本を読むまで10年間働いていたってのは


知らなかった。


アシスタントを辞めた後はご結婚もされ


お子様もいるようで。


 


この頃を知る手掛かりとして


映画『ジョン・レノン、ニュー・ヨーク(2011)』


を観て思うこと、メイさんたち関係者が「失われた週末」の


コメントをしているけど


今まで作られたジョン・レノン・ストーリーを踏襲されている。


 


この頃のジョンって単純にすごくかっこいい。


この時期制作の『ウォールズ&ブリッジズ』も


ものすごいアルバムだと思う。


 


しかし映画を久々に観て思ったのは


本当にジョンはこの通りの人生だったのか?


作られた虚像で、そうなってほしいという


大衆の思惑があるのではないかと。


おおむね事実は映画の通りなのだろうけれど、


実際そんなざっくりしたものじゃないよな人生って。


自分の経年劣化とともに滋味深く考察。


 


さらに極め付けこの本の映画版のような


The Lost Weekend: A Love Story』(2023)が


あるようで、未見ですが予告編があり、


ほぼ推察できるから自分は見なくてもいいかなと。


(Amazonプライムにあるなら観てみたい)


 


しかしジョン・レノンに限らず


その人の映画や本を買ってストーリーを作り上げることは


なにか間違った虚像に自分も加担でしていることに


なるのではなかろうかと思うこと多し。


 


有名スターは実はかなりの部分で


可哀想なのではなかろうか、なんて余計なことに思い巡らす。


それはこの際一旦置いておいて。


 


ロスト・ウィークエンドの後、


ジョンが元の鞘に戻ったのは周知の事実。


ショーンが生まれ幸せな生活を送ってからの


衝撃のカムバックを果たす。


 


ヨーコに飼い慣らされたっていう世評もあるようだけど


キンキラキンの超然としたスターにはなれなかっただろうし


ジョン自身興味なかっただろうと思う。


あやうくなりそうだったよ、ヨーコ、サンクスと思っていたかも。


 


普通の感性、市井の感覚で日常生活を送っている


40歳男性が背景にありつつ、


ジョンが本気のすざまじいアルバムを最後に作った。


 


WOMAN』という曲が昔から自分は大好きなのだけど


簡単にいうと女性讃歌で、自分も共感するところ大で


ジョンにとってはメイのことも含まれてるのだろうな。


 


余談だけど、その頃のジョンの発言は


音声や映像も多少あるけれど、それよりも


自分はこの本が好きで今も


大切に持っておりまして、それは


”祝福”の瞬間ばかりを集めた


ジョン&ヨーコに限らない写真集で


”あとがき”のようなところからの


ヨーコさんの言葉からが興味深かいのです。


二人の素の瞬間が垣間見れるような


穏やかな雰囲気が滲み出ている気がする。


 



ジョン・レノン 祝福―グロー・オールド・ウィズ・ミー (ポケット・オラクル)

ジョン・レノン 祝福―グロー・オールド・ウィズ・ミー (ポケット・オラクル)

  • 出版社/メーカー: 三五館
  • 発売日: 1996/04/03
  • メディア: 単行本


夫婦の関係ってものは、10年すぎると

もっとよくなるんだってこと

みんなに知らせてあげなくちゃね」と

ジョンが言っていたのを思い出します。

 

ふつう若い人たちは、10年も一緒にいたら

飽き飽きしちゃうんじゃないか、と思うでしょう。

それが、10年後になんとも言えない

夫婦の味が出てきた。これは大発見だ。

7年目の危険信号くらいで

簡単にあきらめちゃう若い人たちは、この味を

永遠に経験できないわけだ。

これは知らせなくては、と

いかにもジョンらしい心の配り方だと

そのとき思いました。

 

そういう気持ちもあって

グロー・オールド・ウィズ・ミー』は

書かれたのだと思います。

今アメリカでは

家族制度の崩壊という

深刻な現象があらわれています。

歴史において、とかく先走りするアメリカの

この現象が日本で起こらなければいいな

と思っています。

 

努力して保った関係は

手をかけて作ったワインのように

10年後あたりから

1年ごとに良くなるものですよ。

 

オノ・ヨーコ

ニューヨーク 1996年


ジョン生きていれば、今年で84歳。


引退していた気がするけど、老年になった


ジョンのロックがファッションが、メッセージが


聞きたかったよと思った


家庭内で流行っている


謎の咳が出る休日、日本からのレポートでした。


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多田富雄先生の書から寛容を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


寛容のメッセージ

寛容のメッセージ

  • 作者: 多田富雄
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2013/09/24
  • メディア: 単行本

養老・中村桂子先生との鼎談で


存じ上げたのですが


あまりにも高次すぎて届かない為


(要は自分の頭ではわからない)


ご自身の書には手が伸びなかったのだけど


なぜかは知らねど昨今読んでみようと思った。


多分おおよそ理解の範疇は


超えていると思うのだけど、免疫学。


 


第一部 寛容のメッセージ NHK「100年インタビュー」


1 生命とはどんなものか から抜粋


●谷口克さんのコメント 多田富雄が考えた免疫の意味

 

免疫システムは、病原体を自分以外のものと認識し、排除する仕組みです。

そのためには、自分と、病原体が違うかどうか、を認識する作業が必要なのです。

多田先生が考えられた自分とは、免疫システムの形成過程で起こる自己の排除からきています。

免疫の認識システムは生体内で唯一、遺伝子情報に頼らないで作られています

その結果、自己を含む無限の物質を認識できる仕組みを備えることができましたが、そこには、自己を認識するシステムも含まれているため、事前に排除しておかないと自己免疫病が起こり、システムが破綻します。

そのため、自己認識の仕組みをシステム形成過程で排除し、非自己認識システムだけを残して免疫システムが出来上がっている、逆説的に言うと免疫学的自己は、非自己以外のものである、と言うことからヒントを得たのだと思われます。

免疫の意味は、要素還元的に見ていてもわからず、システム全体として考えることによって、初めて出てくるということです。


免疫には自己とは何かを問いかけるという意味もある。

その考えを説いた著書『免疫の意味論』は、大きな反響を巻き起こします。

その中で多田さんはこう述べています。


 

免疫の意味論

免疫の意味論

  • 作者: 多田 富雄
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 1993/04/30
  • メディア: 単行本

免疫は病原性の微生物のみならず、あらゆる「自己でないもの」から「自己」を区別し、個体のアイデンティティを決定する。

還元主義的生命科学がしばしば見失っている、個体の生命というものを理解するひとつの入り口である。

(中略)

免疫の研究は改めて生物学的「自己」とは何か、「非自己」とは何かを検証する機会を与えてくれた。

「非自己」の認識と排除のために発達したと考えられてきた免疫が、実は「自己」の認識をもとにして成立していたのである。


免疫には哲学的とも言える意味があるというユニークな発想。それは、研究者としての信念が生んだと谷口さんは考えています。


多田先生は、われわれ弟子に、いくつか重要なことを教えてくださいましたが、その中のひとつが、人と同じことをやってはいけない、ということでした。

研究というのは、人の後追いをしても研究にはならない

だから人と違うことをやりなさい、ということです。


弟子には既成概念に囚われず、人と違うことをやりなさいと教えておられるのだなあ、と感じました。


ユニークな視点からだれにも真似のできない研究を続けてきた多田さんは、さらにもうひとつ免疫の持つ大きな意味に気がつきます。

それは免疫には、他者を受け入れ、共存をはかる「寛容」という性質もあるということでした。

多田さんは著書『免疫学個人授業』の中でこう説明しています。


 

免疫学個人授業 (新潮文庫)

免疫学個人授業 (新潮文庫)

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2000/12/26
  • メディア: 文庫

免疫の自己には、寛容(トレランス)という現象があることも注意すべきことです。

これは、当然反応すべきはずの異物に対して、まるでそれが「自己」であるかのように受け入れて、まったく免疫反応をしなくなってしまうのです。

異物であるにもかかわらず、それを排除しないのです。


生物の反応性は、完全に一律に決められているのではなくて、かなりあいまいに、条件次第でどちらにでも動くようにセットされているのです。


こういうあいまい性こそ、生命をしなやかで強靭なものにしているのです。

免疫も、ある時は異物に対して容赦ない排除を、またある時は寛容と共存を選んで、個体を生物生態系に適応させていることがわかります。


免疫という言葉はよく見聞きするし、


比喩で使うこともあるが


実際のことはほとんど知らない。


多田先生の言葉よりお弟子さんやNHKの方が


指南してくれている抜粋からなのだけども


興味が湧いた。


 


2 生きている実感


から抜粋


多田さんがリハビリを始めて5年目(2006年)、厚生労働省は突然、診療報酬の改定を打ち出しました。

それによると障害者のリハビリは最長でも180日に制限されることになったのです。

多田さんが続けてきたリハビリも、通っていた病院の主治医から打ち切りを宣告されます。

多田さんはそのことを『落葉隻語 ことばのかたみ』の中に収められた文章でこのように語っています。


落葉隻語 ことばのかたみ

落葉隻語 ことばのかたみ

  • 作者: 多田富雄
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2010/04/22
  • メディア: 単行本

後遺症で身動きもままならないのに、入院中の病院から出ていってくれと言われた患者。

転院を迫られても引き受けるところが見つからない重症者。

帰るに帰れない事情を背負った麻痺患者。

リハビリを打ち切られて極度に機能が落ちた重度の障害を持つ者。

声を上げることができない脳卒中の患者が、行政から見放されている。

「医療の効率化」の名の下に重症者が選別され、国から見捨てられた棄民と化している。


リハビリをすれば社会復帰できたのに、寝たきりになった患者の人権はどうなるのか。

最後の命綱を断ち切られて、命を落とした人に涙を注がないのか。

この日本で難民ではなく医療を奪われた棄民が発生したのだ。


多田さんは、リハビリの打ち切りは弱者への死の宣告であり暴挙であると、新聞や雑誌の誌面をつかって告発します。

同時に、白紙撤回をもとめて署名運動を呼びかけ、全国から44万人もの署名が集まりました。

多田さんはその署名をたずさえて、車椅子で厚生労働省に乗り込み抗議の意志を示したのです。


3 格闘の日々を支えたものは? から抜粋


式江さんとの二人三脚で闘病の苦しみを乗り越えようとしていた多田さんに新たな病が襲います。

5年前、前立腺がんが見つかったのです。


多田式江▼

主人はがんが見つかったことを絶望はしていませんでした。

これで寿命が短くなることを再認識しただけで、これで、そんなに長くはない、それまでに一生懸命やろうという感じだったと思います。


そのことについて、多田さんはこう書き残しています。


私は生きることにだんだん慣らされた。

なんといっても妻の力が大きい。



ダウンタウンに時は流れて

ダウンタウンに時は流れて

  • 作者: 多田 富雄
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/11/26
  • メディア: 単行本

いとしのアルヘンティーナ から抜粋

 

死ぬはずだった自分の命の限界まで生きたのだから、この地球からおさらばしようと思い始めた。

実際、脳梗塞になる前より、私は物事を深く考えるようになった。

他人のことも、以前より理解できる。

頭が良くなったようだ。

体が利かなくなってから、確かに寛容にもなった。

時には、不思議に高揚して、全身を詩に満たされることもある。

壊れた脳に新しい回路が作られたらしい。


残念ながら多田先生は2010年に


亡くなられてしまう。


意志は誰かが継承しているのかと思いきや


立ち上げられたと思われる


「自然科学とリベラルアーツを統合する会」は


現在閉鎖されているご様子で。


ちと勇足だったのだろうか。


個人的には、免疫とか寛容とか、


脳とか能とか気になるし


「小林秀雄」


「書評『ブラインド・ウォッチメーカー』R・ドーキンス」


なんかも看過できない。


実験(研究)と生活が多かれ少なかれ


リンクされているっていうのも


(好んでではないだだろうが)他に真似できないと感じた。


他の多田先生の書も読んでみたくなった、


暑い6月の初め洗車してたら腕を日焼けして


痒くなった休日でした。


 


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養老先生の古い随筆から普通を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

I KNOW YOU 脳


I KNOW YOU 脳

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: かまくら春秋社
  • 発売日: 1998/08/15
  • メディア: 単行本

 


「男と女」というテーマでは


多く対談されておられるのは


承知しておりますが


随筆で「恋」「結婚」についての


言及は珍しいです。


 


II 男と女の脳



私にも、いろいろ苦手がある。

その一つが恋。

科学には恋はない。

ところが和歌などを読んでいると、世の中いたるところ、恋だらけのような気がする。

どっちがほんとうか、それがわからない。

両方、嘘みたいな気がしないでもない。

2月のある暖かい日。

風も吹かないのに、庭木が揺れている。

見ると、リスである。

三匹のリスが、追いつ、追われつしている。

なるほど、リスにはもはや、恋の季節だな。

それから3か月ほどすると、生まれた仔が育ち、できたてのリスが、はじめて世間に出てくる。

わが家の家の裏は、数メートルの断崖になっている。

この崖をリスが這うのだが、同じリスでも、できたてのは、ときどき崖から落ちる。

若いうちはリスも崖から落ちる。

ときならぬ物音がするから、すぐにわかる。

あ、またリスが落ちた。

動物の恋は、わかりやすい

その結果、子供ができるだけである。

人間のは、どうもいけない。いろいろ、ややこしい。

そのややこしいものが、男と女でどう違うか。

そんなことが、簡単にわかるはずがない。

ややこしいから、小説にする。

詩にする。歌にする。

しかし、理屈にはならない。

もともと、恋はある種の必然である。

しかし、この必然は論理的必然とは違う


じつは、いまの世の中が、恋に向かない。

そんなことはなかろう、恋は公認ではないか。

そもそも恋に反対する人は、だれもいない。

いまの世の中は、歌舞伎や文楽の世界とは違う。

障害はない。そういう意味ではない。

世の中がいま恋に向かないのは、すべてが計算尽くだからである。

計算なら耳を傾けてもらえるが、恋に計算はない。

だから、恋というものに、世間の人気がない。

恋というのは、あたりかまわぬ馬鹿げた情熱である。

それはだれでも知っている。

ネコの恋だって、うるさくてかなわないから、2階から水をかける。

水をかけられたって、本人は必死である。

だから、また戻ってきて、また騒ぐ。

まわりにとっては、うるさいし、迷惑だけれども、その情熱を買う。

いまでは、その買い手は少ないらしい。

需要がなければ、供給は減る。


いまの世の中は、結果が提供できないと、理解してもらえない

計画書というのが、どこにあっても、それを書かなくてはならない。

このあたりは、行き当たりばったり、どうなるかわかりませんが、ともかくこれをやらせてください。

そんな計画書を書こうものなら、すぐに没にされる。

会社は儲けが中心だから、まだそれでもいいかもしれない。

ところが、大学の研究すら、そうなのである。

この研究をすると、こういう結果になります。

おかげで、こういういいことがあります。

それを書かないと、研究費をくれない。

やってみますが、どうなるかわかりません。

これでは通らない。

通らないというより、肝心の申請書類が、目的やら、有用性やら、そういうことを書くようにばかりできている。

だから、私はもはや書類を書かない。

だから、お金が来ない。


自然のすることは予測がつかないことが多い。

予測はつきませんが、私はこうなるはずだと思います。

でも、それも間違っているかもしれません。

ほんとうは、そうしか言いようがない。


恋もまた、自然である。

その成り行きは、だれにもわかりはしない。

そういうものに、計画書はない。

計画書のないできごとは、いまの世の中では、人気がない。

支持者がいないのである。

だから、人間の恋が滅びる。

リスやネコの恋をみている方が、恋らしい。

悪いことに、恋は一人ではできない。

かならず相手がいる。

自分だけで恋をするのは勝手だが、こればかりは面白くもおかしくもない。

自然が好きだから、野山を一人で駆け巡る。

それなら一人でできないことはない。

しかし、二人というのは、最低限の人数ではあるが、すでに社会である。

社会が成立する以上、恋は社会の風潮に影響されざるをえない。

「百万人といえども、我行かん」。

そう頑張っても、相手が笑うだけである。

これでは恋にならない。

華麗なるギャッツビー」は死ぬ。

相手は、なにごともなかったように、ケロッとしている。

これが、男と女の恋の違いであろう。

女は生き延びなくては、子供が育たない。

男は種付けが済んだら、もはや不用である。

これが、男と女の恋の違いに関する、唯一の論理的結論ではないか。

それが気に入らなければ、自分で恋をして、確かめてくれ。


うーん、僭越ながら感じること。


若い、かつ、怖い。


初出一覧で確認すると1993年3月なので


東大教授で教職員時代。


退官を検討されている頃で


ヤケクソ気味だったのかもしれない。


編集者の要望や世間の流れから書かされたと


思わざるを得ないけれど、


先生らしい一風変わった「恋愛観」で


どんな状況だとしても


そこは先生らしさ炸裂でした。


 


結婚


結婚とはなにか。

それをきちんと、学校で教わった覚えはない。

人間はなぜ服を着るか。

これも、教わった覚えはないから、こういう当たり前のことは、当たり前だとして、とくに教育はしない習慣なのであろう。

だから、こういうことを理屈で説明すると、みんなが半信半疑で聞いているような気がする。

結婚は、社会的制度である。

なぜなら、マンガにもよくあるように、ほかにはだれもいない島に、男女一組だけ住んでいたら、結婚もクソもないからである。

それでも結婚にこだわるとしたら、それは外の世界、つまりその島ではない世界が、二人の頭にあるからであろう。

それならやっぱり、結婚は社会的なのである。

社会は脳が作る。

そう思っていない人が多いことは知っているが、私はそう思っている。

脳が作るものの困った点は、脳が理解しないことは、説明できないことである。

だから恋とか子供とか、生老病死とか、要するに自然現象が説明できない。

社会は脳が作っているから、そこでのできごとは、本来説明できるはずなのである。

政治はちっとも説明できないじゃないか。

それは、説明できることを積み重ねたら、いつの間にか、説明できなくなるのであって、はじめから説明できないのとは違う。

この違いとは、ちとむずかしいか。


ともあれ結婚とは、恋や子供と深い関係にあるが、人工的な制度であろう。

それなら、本来はわかるはずのものである。

ところが、考えようによっては、こんなわけのわからぬものはない。

そう思えば、人工的だと決めたものの、結婚は、もしかすると、自然現象かもしれないのである。

水鳥の夫婦は、多くは一生連れ添う。

だから、仲のいい夫婦を、オシドリ夫婦という。

人間の夫婦が、それほど仲がいいとはかぎらないことは、経験的にだれでも知っている。

このへんが、むずかしいところである。

自然現象なら、水鳥なみに、夫婦は仲が良くていいのだが、そうなってはいない。

だから人工的かと思うと、そうでないようでもある。

簡単に答えがでない。


私の友人が、40代で奥さんを亡くした。

悪性の病気だったから、入院中すでに、やがて亡くなることは、わかっていた。

その奥さんをお見舞いに行った帰り、友人と同じ車に乗って、家に帰った。

車の中で、友人がポツッという。

「結婚ってなんだろう」。

その時自分がした返事は、とく記憶している。


男と女の関わり方は、考えようによっては、無限にあるだろう。

それはそれでいい。

すべての関わりかたがそれぞれあっていいのである。

しかし、もし結婚という形がこの世になければ、そうした関わり方は、一切の物差しを無くしてしまう。

そうなると、われわれはそれをどう考えるか、基準がわからなくなってしまう。

それでは、一般論ができない。

だから、人間は、結婚という制度を考えだしたのであろう、と。

それで納得していただけるかどうか、それはわからない。

しかし、結婚という制度があるおかげで、男女の関わりは簡単になっている

なぜなら、一切を結婚に照らして考えることができるからである。

同棲とか、不倫とか、そうしたたぐいのことばも、結婚制度があるから、成立するのである。

私はなにも、結婚が正義だとか、道徳の規範だとか、そういうことを言っているのではない。

それがないと、男女の仲を、どう考えたらいいか、社会的には、万事が不明確になるだろう、と言っているのである。

つまり結婚とは物差しであり、物差しに正義も倫理もない

それによって、ただし、物事を測ることが可能になるのである。

だから、物差しを壊すな、というのである。


恋も一つの関わりかたである。

これは自然現象だから論理がない

というより、その論理は遺伝子の論理なのである。

遺伝子の論理は、主観的にはわからない。

子供をつくるのは、遺伝子の論理である。

恋愛がそれに関係していることは、だれでも直感的には理解するであろう。

しかし、子供をつくるのに、なぜこの特定の相手でなくてはいけないのか、それを脳は理解しない。

なぜなら脳は遺伝子ではないからである。


結婚は脳の論理である。

だから、政略結婚も、金めあての結婚もありうる。

頭で考えるものなのである。

そんなことはない。

もっと純粋なものだ、そう思うなら、それでいい。

しかし、それなら、結婚について、考える必要はない。

恋愛と同じで、ただ必死になっていればいいのである。

しかし、多くの場合、結婚とは必死ではない。

だからやっぱり、恋愛に比較すれば、結婚は脳の論理優先なのであろう。


「ものさし」というのは後の随筆や


対談にも多くでてきますが


「前提」という言葉で


表されたりもしてましたような。


 


自分なぞは「ふつう」って言っておりますが


「ふつうはそうしないだろう」みたいに思うけど


「人によって普通が違うからなあ」と展開しております。


 


具体的な展開例としては


「普通はそこでときめかないだろう」


「普通はそこで恋愛に発展しないだろう」


とか


「普通はそこで仕事終えないだろう」


「普通はそこまで仕事として追求しないだろう」


とか。


 


まったく余計なお世話としか言いようがない。


しかし「ふつう」「物差し」って人によって


異なりますからなあ。


ってどうでもいい余談でございました。


義父が畑で作って送っていただいた、


馬鈴薯を茹でて食べながらののどかな休日でした。


 


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