養老先生の古い随筆から普通を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
- 作者: 養老 孟司
- 出版社/メーカー: かまくら春秋社
- 発売日: 1998/08/15
- メディア: 単行本
「男と女」というテーマでは
多く対談されておられるのは
承知しておりますが
随筆で「恋」「結婚」についての
言及は珍しいです。
II 男と女の脳
恋
私にも、いろいろ苦手がある。
その一つが恋。
科学には恋はない。
ところが和歌などを読んでいると、世の中いたるところ、恋だらけのような気がする。
どっちがほんとうか、それがわからない。
両方、嘘みたいな気がしないでもない。
2月のある暖かい日。
風も吹かないのに、庭木が揺れている。
見ると、リスである。
三匹のリスが、追いつ、追われつしている。
なるほど、リスにはもはや、恋の季節だな。
それから3か月ほどすると、生まれた仔が育ち、できたてのリスが、はじめて世間に出てくる。
わが家の家の裏は、数メートルの断崖になっている。
この崖をリスが這うのだが、同じリスでも、できたてのは、ときどき崖から落ちる。
若いうちはリスも崖から落ちる。
ときならぬ物音がするから、すぐにわかる。
あ、またリスが落ちた。
動物の恋は、わかりやすい。
その結果、子供ができるだけである。
人間のは、どうもいけない。いろいろ、ややこしい。
そのややこしいものが、男と女でどう違うか。
そんなことが、簡単にわかるはずがない。
ややこしいから、小説にする。
詩にする。歌にする。
しかし、理屈にはならない。
もともと、恋はある種の必然である。
しかし、この必然は論理的必然とは違う。
じつは、いまの世の中が、恋に向かない。
そんなことはなかろう、恋は公認ではないか。
そもそも恋に反対する人は、だれもいない。
いまの世の中は、歌舞伎や文楽の世界とは違う。
障害はない。そういう意味ではない。
世の中がいま恋に向かないのは、すべてが計算尽くだからである。
計算なら耳を傾けてもらえるが、恋に計算はない。
だから、恋というものに、世間の人気がない。
恋というのは、あたりかまわぬ馬鹿げた情熱である。
それはだれでも知っている。
ネコの恋だって、うるさくてかなわないから、2階から水をかける。
水をかけられたって、本人は必死である。
だから、また戻ってきて、また騒ぐ。
まわりにとっては、うるさいし、迷惑だけれども、その情熱を買う。
いまでは、その買い手は少ないらしい。
需要がなければ、供給は減る。
いまの世の中は、結果が提供できないと、理解してもらえない。
計画書というのが、どこにあっても、それを書かなくてはならない。
このあたりは、行き当たりばったり、どうなるかわかりませんが、ともかくこれをやらせてください。
そんな計画書を書こうものなら、すぐに没にされる。
会社は儲けが中心だから、まだそれでもいいかもしれない。
ところが、大学の研究すら、そうなのである。
この研究をすると、こういう結果になります。
おかげで、こういういいことがあります。
それを書かないと、研究費をくれない。
やってみますが、どうなるかわかりません。
これでは通らない。
通らないというより、肝心の申請書類が、目的やら、有用性やら、そういうことを書くようにばかりできている。
だから、私はもはや書類を書かない。
だから、お金が来ない。
自然のすることは予測がつかないことが多い。
予測はつきませんが、私はこうなるはずだと思います。
でも、それも間違っているかもしれません。
ほんとうは、そうしか言いようがない。
恋もまた、自然である。
その成り行きは、だれにもわかりはしない。
そういうものに、計画書はない。
計画書のないできごとは、いまの世の中では、人気がない。
支持者がいないのである。
だから、人間の恋が滅びる。
リスやネコの恋をみている方が、恋らしい。
悪いことに、恋は一人ではできない。
かならず相手がいる。
自分だけで恋をするのは勝手だが、こればかりは面白くもおかしくもない。
自然が好きだから、野山を一人で駆け巡る。
それなら一人でできないことはない。
しかし、二人というのは、最低限の人数ではあるが、すでに社会である。
社会が成立する以上、恋は社会の風潮に影響されざるをえない。
「百万人といえども、我行かん」。
そう頑張っても、相手が笑うだけである。
これでは恋にならない。
「華麗なるギャッツビー」は死ぬ。
相手は、なにごともなかったように、ケロッとしている。
これが、男と女の恋の違いであろう。
女は生き延びなくては、子供が育たない。
男は種付けが済んだら、もはや不用である。
これが、男と女の恋の違いに関する、唯一の論理的結論ではないか。
それが気に入らなければ、自分で恋をして、確かめてくれ。
うーん、僭越ながら感じること。
若い、かつ、怖い。
初出一覧で確認すると1993年3月なので
東大教授で教職員時代。
退官を検討されている頃で
ヤケクソ気味だったのかもしれない。
編集者の要望や世間の流れから書かされたと
思わざるを得ないけれど、
先生らしい一風変わった「恋愛観」で
どんな状況だとしても
そこは先生らしさ炸裂でした。
結婚
結婚とはなにか。
それをきちんと、学校で教わった覚えはない。
人間はなぜ服を着るか。
これも、教わった覚えはないから、こういう当たり前のことは、当たり前だとして、とくに教育はしない習慣なのであろう。
だから、こういうことを理屈で説明すると、みんなが半信半疑で聞いているような気がする。
結婚は、社会的制度である。
なぜなら、マンガにもよくあるように、ほかにはだれもいない島に、男女一組だけ住んでいたら、結婚もクソもないからである。
それでも結婚にこだわるとしたら、それは外の世界、つまりその島ではない世界が、二人の頭にあるからであろう。
それならやっぱり、結婚は社会的なのである。
社会は脳が作る。
そう思っていない人が多いことは知っているが、私はそう思っている。
脳が作るものの困った点は、脳が理解しないことは、説明できないことである。
だから恋とか子供とか、生老病死とか、要するに自然現象が説明できない。
社会は脳が作っているから、そこでのできごとは、本来説明できるはずなのである。
政治はちっとも説明できないじゃないか。
それは、説明できることを積み重ねたら、いつの間にか、説明できなくなるのであって、はじめから説明できないのとは違う。
この違いとは、ちとむずかしいか。
ともあれ結婚とは、恋や子供と深い関係にあるが、人工的な制度であろう。
それなら、本来はわかるはずのものである。
ところが、考えようによっては、こんなわけのわからぬものはない。
そう思えば、人工的だと決めたものの、結婚は、もしかすると、自然現象かもしれないのである。
水鳥の夫婦は、多くは一生連れ添う。
だから、仲のいい夫婦を、オシドリ夫婦という。
人間の夫婦が、それほど仲がいいとはかぎらないことは、経験的にだれでも知っている。
このへんが、むずかしいところである。
自然現象なら、水鳥なみに、夫婦は仲が良くていいのだが、そうなってはいない。
だから人工的かと思うと、そうでないようでもある。
簡単に答えがでない。
私の友人が、40代で奥さんを亡くした。
悪性の病気だったから、入院中すでに、やがて亡くなることは、わかっていた。
その奥さんをお見舞いに行った帰り、友人と同じ車に乗って、家に帰った。
車の中で、友人がポツッという。
「結婚ってなんだろう」。
その時自分がした返事は、とく記憶している。
男と女の関わり方は、考えようによっては、無限にあるだろう。
それはそれでいい。
すべての関わりかたがそれぞれあっていいのである。
しかし、もし結婚という形がこの世になければ、そうした関わり方は、一切の物差しを無くしてしまう。
そうなると、われわれはそれをどう考えるか、基準がわからなくなってしまう。
それでは、一般論ができない。
だから、人間は、結婚という制度を考えだしたのであろう、と。
それで納得していただけるかどうか、それはわからない。
しかし、結婚という制度があるおかげで、男女の関わりは簡単になっている。
なぜなら、一切を結婚に照らして考えることができるからである。
同棲とか、不倫とか、そうしたたぐいのことばも、結婚制度があるから、成立するのである。
私はなにも、結婚が正義だとか、道徳の規範だとか、そういうことを言っているのではない。
それがないと、男女の仲を、どう考えたらいいか、社会的には、万事が不明確になるだろう、と言っているのである。
つまり結婚とは物差しであり、物差しに正義も倫理もない。
それによって、ただし、物事を測ることが可能になるのである。
だから、物差しを壊すな、というのである。
恋も一つの関わりかたである。
これは自然現象だから論理がない。
というより、その論理は遺伝子の論理なのである。
遺伝子の論理は、主観的にはわからない。
子供をつくるのは、遺伝子の論理である。
恋愛がそれに関係していることは、だれでも直感的には理解するであろう。
しかし、子供をつくるのに、なぜこの特定の相手でなくてはいけないのか、それを脳は理解しない。
なぜなら脳は遺伝子ではないからである。
結婚は脳の論理である。
だから、政略結婚も、金めあての結婚もありうる。
頭で考えるものなのである。
そんなことはない。
もっと純粋なものだ、そう思うなら、それでいい。
しかし、それなら、結婚について、考える必要はない。
恋愛と同じで、ただ必死になっていればいいのである。
しかし、多くの場合、結婚とは必死ではない。
だからやっぱり、恋愛に比較すれば、結婚は脳の論理優先なのであろう。
「ものさし」というのは後の随筆や
対談にも多くでてきますが
「前提」という言葉で
表されたりもしてましたような。
自分なぞは「ふつう」って言っておりますが
「ふつうはそうしないだろう」みたいに思うけど
「人によって普通が違うからなあ」と展開しております。
具体的な展開例としては
「普通はそこでときめかないだろう」
「普通はそこで恋愛に発展しないだろう」
とか
「普通はそこで仕事終えないだろう」
「普通はそこまで仕事として追求しないだろう」
とか。
まったく余計なお世話としか言いようがない。
しかし「ふつう」「物差し」って人によって
異なりますからなあ。
ってどうでもいい余談でございました。
義父が畑で作って送っていただいた、
馬鈴薯を茹でて食べながらののどかな休日でした。