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中根先生の52年後の続編から日本社会を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


前回投稿時に続編があることが

わかったので購入して読んだら

姉妹編もあるようで、エンドレスなのかこれは

と集中が削がれる為、それはいったん忘れよう。

52年後の続編ってすごい世界でございます。

 

タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書)

タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書)

  • 作者: 中根千枝
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/05/17
  • メディア: Kindle版
  •  

プロローグ 日本の先輩・後輩関係

先輩・後輩の関係ーー集団構成と人間関係

から抜粋

前著において、日本においてみられる機能集団構成の特色は、その人が持っている個々人の属性(資格)よりも「場」(一定の個人が構成している一定の枠。テリトリーとは違い、「場」はよりスタティックなもの)によることを指摘した。

ここではとくにキー・コンセプトとして、先輩・後輩の秩序の認識について述べてみたい。

 

とにかく集団が形成されることになる場に最初に着いた者(A)を頂点とし、次のBはその下位になる。

Bの次はCとなり、これがいわゆるタテの関係で、変更を許さないシステムを生む集団構成の原則となる。

話をわかりやすくするために、職場にあてはめていえば、6、7人ほどの組織があるとして、そのなかでいちばんの古株が頂点となり、その「場」に在籍する時間の短い者が最も下位となる。

いつ、その場に入ったか、その順番が大事なのである

先輩・後輩の典型ともいえるのが、軍隊における「古参兵」である。

かつての軍隊には、長い間在籍している古参兵がいて、彼らが権力をもっていたとしばしば言われる。

現在でも、スポーツの世界などで、先輩と後輩の関係が強固なのはめずらしくないだろう。

こうしてできる小集団は上位の大集団に統合される体制であってもそれ自体の機能はもちつづける。

企業や政党のなかの派閥を想定してもらえばわかりやすい。

前著の姉妹編『タテ社会の力学』において述べたように、この小集団は封鎖性という特性を持つ。

タテのシステムにより新入社員ほど低い位置におかれ、その責任者(上司)からはときにきびしい態度をとられる。

ひどい場合は不合理なノルマを負わされたり、パワハラ、セクハラなどを受け、いじめにさらされたりする。

その結果ノイローゼとなり、ついに自殺してしまうケースもある。

小集団はそれ自体封鎖性を持つものなので、やられるほうは社内でも相談する相手もなく一人苦しむことになる。

先輩・後輩の関係は「長幼の序」とは違う

重要なのは年齢ではなく、その場にいつ入ったか、という順番である。

たまたま先輩が後輩よりも年上ということもありうるが、その反対の場合もある。

「長幼の序」はそもそも中国のもので、実年齢の順であり、韓国でも同様だが、少しでも自分より年上と思われる人を優先するのは、日常生活でもみられるものである。

したがって、長幼の序の社会では、年を取ること、とくに「老」はプラスの意味を持つ

中国の有名な社会学者、費孝通(フェイ・シャオトン・1910~2005年、著書に『中国の農民生活』『中国の奥地』など)は教え子のみでなく、知人からも「老費(ラオフェイ)」とよばれていた。

この中国語の発音はそれ自体尊敬と親愛の情をもち、なかなかよいものであった。

日本では「老」はどちらかといえばマイナスで、「お年だから」はまだよいほうで、「老いぼれ」とか介護の対象などとなりやすい。

会社においても、定年になると、「場」から外れ、哀れを伴う。

この中国と日本の違いは、中国のほうが歴史的に豊かであったということに由来しているのであろう。

このような、中国の長幼の序とは異なって、日本の先輩・後輩の関係は、年齢には重きが置かれない

その「場」に来た順番が大事になってくる。

実際、英語や中国語などで先輩、後輩という言い方が使われることはあまりない。

近年世間を賑わせた、大手広告代理店の新入社員の自殺、学校のいじめ、日本的組織における女性の地位などは、まさに、こうした「タテ」のシステムと大いに関係がある。

こうした出来事から見えてくる日本社会の姿を読み解くのが本書の目的である。

「長幼の序」というのは刺激的な言葉で、齢五十を過ぎて

初めて知ったような、聞いたことあるような。

としても、中国での使われ方は良いと感じた。

先週TVのニュースで韓国の飲み会の風景をレポートしてて

目上の人と飲む時のマナーで、対面に座ってた場合

アルコールグラスを持って

身体を捻り横を向いて飲むらしい。

正面でグラスを上げて飲むことは失礼に当たるという。

 

日本の場合は、そういうのはないなと。

女性がお酌するとか、若手は積極的に

食事をとりわけするとかが

評価軸になったりするというのは一昔前まで

あったような。今はわかりませんけれども。

 

話は逸れ、20年くらい前の話だけど

女性社員は、忘年会でサンタのコスチュームを着せられ

赤いミニスカートでお酌させられてたのを思い出し

あれはなんだったのだろうといにしえの記憶へ想いを

馳せてみたりしたのだった。

今はあり得ないだろうなあ。わからんけど。

 

第四章

これからのタテ社会

見えにくい日本の貧困

から抜粋

これまで日本の社会構造について述べてきました。

タテのシステムには、多数にとっての安定性など長所があります。

しかし一方で、タテならではの弊害があります。

理論的にいえば、日本では皆、小集団に属しています。

しかし、経済状況が悪化したりすると、小集団の機能が弱まり、小集団の保護を受けられない人びとが生まれてきます。

深刻化する貧困問題は、その典型です。

貧困に陥った人びとに、いかに手を差し伸べるかは、重要な問題です。

現在、日本では七人に一人の子どもが貧困状態にあると言われています。

少し前になりますが、貧困家庭の子どもについて取り上げた番組がありました。

着るものを見ても、生活の様子を見ても、一見しただけでは貧困かどうかは分からない。

おそらく身なりが他の人と違うことに、抵抗があるのでしょう。

収入が少ないなかで、衣服代などにかなり出費せざるをえず、ますます生活は苦しくなるはずです。

インドでは、貧しい身なりでも不幸には見えません。

市場で、魚、肉、野菜を、みんなが買う。

魚や肉のにおいのついた汁が台に残っている。

インドの最貧困の人たちは、市場が終わる頃にそれをもらいに来る。

身なりも貧乏とすぐわかるけれども、見ていてもまったくおかしくない。

また、彼ら貧しい人たち同士の連帯があるから、貧しくても、日本みたいに取り残されたような悲劇は感じられない。

インドでは、貧しくてもお互い助け合うという習慣があるのです。

日本では、NPOやボランティア活動が盛んになってきているといわれますが、貧しい人とともに連帯しようというつながりは、インドなどとくらべると少ない

タテが基軸となっていて、連帯がないために、貧困に陥っても助けを呼べず、こぼれ落ちる人が出てきてしまう。

その結果ひとりぼっちになってしまうのです。

ヤングケアラーという社会問題。

本当に若者だけの問題なのだろうか。

どうしても若年層だけと思えないのは自分だけなのか。

 

インドの連帯感ってのは、ちと想像つかないのだけど

日本も世界で比べると助け合っているのかと思いきや

タテ社会が阻害しているのか、格差を生み出している

要因の一つというのは目から鱗級なものだった。

 

エピローグ

場は一つとは限らない

「二君にまみえず」から抜粋

これまで、「タテ」というシステムについて、そして、現在起きている事象について考えてきました。

長時間労働や、あるいはいじめの問題などが報じられるため、私は「タテ」の強固さを感じていました。

「タテ」には良いところがあります。

しかし一方で、タテのもつ封鎖性が現実に問題を引き起こしています。

日本人は会社や学校などで「場」に所属しています。

会社、学校にできる場というのは、家(ウチ)をより大きくしたものではなく、もう一つのウチです。

この二つのうちはしばしば拮抗関係にありました。

学校の友人や会社の同僚とのつきあいを大事にすれば、家族が犠牲になる、というように。

日本社会において、二つ以上の集団に同様なウェイトをもって属するのは困難です。

ヨーロッパ中世の封建制においては、「二君にまみえず」という道徳は存在していません

ヨーロッパでは、二君、三君と主従関係をもつのが常でした。

そうすることで、突然主を失うリスクをできるだけ避けようとしていたのです。

一方の日本では、「二君にまみえず」が理想とされていました。

戦国時代には、主君を変えて何人かについた人びとが少なくなかった、と言う人がいますが、日本では同時に二人以上の主君を持ちませんでした。

それは、このタテの関係でいえば、実行することがたいへん困難だからです。

同一主君に仕えていても、長年仕えてきた人と、途中から仕えた人とでは、後者は圧倒的に不利なのはおわかりでしょう。

それは今日の雇用においても同様です。

「二君にまみえず」というのはよく分かるな。

一君に仕える、というのはいかにも日本の伝統のような。

若い頃からダブルワークで生計立ててれば別でしょうが。

 

長時間労働も悪き文化のようなものだけども

残業代出るだけ今はマシになりましたよって

おじさんのぼやきでございます。

 

一つだけの「場」からの転換

から抜粋

しいて二種類の所属をもっている人を探してみると、何世代にもわたって住民のコミュニティが形成、維持されている下町の商店や開業医、寺の住職などかもしれません。

彼らは村・町の一員であると同時に、別の村・町に散在している同業集団の一員なので可能なのです。

最近、若い人たちが趣味などに没頭して、好きなことでコミュニティを職場以外でつくっていこうという動きがあると聞きます。

タテとは異なる関係をつくろうと思ったら、やはりそれぞれが努力をしないとできません

ただ座っていたのでは、一人のままですから、連帯は重要なのです。

日本のタテ社会は、どうしてもネットワークの弱さを抱えています。

その弱さをいかに補完していくか、複数の居場所をいかに見つけていくか、高齢化が進む現在、そうしたことを考える時期にきていると思います。

「連帯」というと弱い気もする、今の日本。

隣は何をする人ぞ的な関係が薄い付き合い方で

小津安二郎監督の頃に見られる

昔の日本家庭同士の付き合いというか

お醤油の貸し借りができる間柄では今はもうないからね。

深くなるためには煩わしいと思われるような諸々を

クリアしないとならないですからね、現代は。

 

インドやイギリスでは、階層のネットワークがあり、

一人にならない他人との関係を作る方便を知っていると。

ゆえに、会社を定年になると「場」を失い孤独になる。

そうなる前に小集団以外で関係を作る事を推奨されるが

これがなかなか難しいそうと感じるのは、

今の日本人の一人だからだろう。

 

前作と比べると、当然だけどアップデートされているので

格段に読みやすく、共感するところが多かった。

 

1953年にインドにフィールドワークに行くことを

多くの人が反対する所、今西錦司先生が

「女性でも大丈夫」と推されていたとか。

インドに留学中、女性講師が講義をする際、

受講する生徒さんが来なかったと言われるような

圧倒的に男性優位の時代、

ご自分が日本で教鞭をとった最初の講義をされる時の

不安などの葛藤も記され、「タテ」のみならず

「女性差別」についても言及・論考される。

 

「タテ社会」という言葉は筆者の造語ではなく

編集者作であるとのことだけど、

現在では普通に使われ、

(最初に提示されたのは中根先生で、

「タテ」と「社会」をくっつけたのは編集さんとの事)

その言葉だけではなく、概念を詳らかにされ

分析・考察・他国との比較検証され

50年以上前に論考されていたのは、驚くべき事だと感じた。

社会人類学のなんたるかに少しだけ触れた気がした。

 


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