なぜ世界は存在しないのか:マルクス・ガブリエル著・清水一浩訳(2018年) [’23年以前の”新旧の価値観”]
哲学を新たに考える から抜粋
この人生、この宇宙、そのほかすべて……
これはそもそも何なのだろうと、誰でもこれまでにたびたび自問したことがあろうと思います。
わたしたちはどこに存在しているのでしょうか。わたしたちはどこに存在しているのでしょうか。
わたしたちは、世界というひとつの巨大な容れ物のなかにある素粒子の集積に過ぎないのでしょうか。
それとも、わたしたちの思考・願望・希望には、それぞれに特有の実存性があるのでしょうか。
わたしたちが現に存在しているということ、もっと言えば、およそ何かが現に存在しているということそれ自体を、どのように理解すればいいのでしょうか。
そして、わたしたちの認識はどこまで拡げられるのでしょうか。
本書では、新しい哲学の原則を示してみせたいと思っています。
この哲学の出発点となる基本思想は、ごく単純なものです。
すなわち、世界は存在しない、ということです。
後ほど見るように、これは、およそ何も存在しないということではありません。
いくつかの例を挙げてみるだけでも、わたしたちの住む惑星、わたしの見るさまざまな夢、進化、水洗トイレ、脱毛症、さまざまな希望、素粒子、それに月面に棲む一角獣さえもが存在しています。
世界は存在しないという原則には、それ以外のすべてのものは存在しているということが含意されているわけです。
したがって、いったん前もって、こうお約束することができます。
わたしの主張によれば、あらゆるものが存在することになるーー
ただし世界は別である、と。
世界は存在しない、だけど、する、
っていうのは何だか禅問答の如し。
日本人なら、こういうと何となく合意される
「禅問答」ってすごいよな。
マルクス・ガブリエルの哲学でさえも、
言い得て妙の世界に連れていかれる。
って、「禅問答」に凄さを感じてどうするよ。
構築主義とは、次のような想定に基づくものです。
およそ事実それ自体など存在しない。
むしろわたしたちが、わたしたち自身の重層的な言説ないし科学的な方法を通じて、いっさいの事実を構築しているのだ、と。
このような思想の伝統の最も重要な証言者が、イマヌエル・カントです。
カントが主張したのは、それ自体として存在しているような世界は、わたしたちには認識できない、ということでした。
わたしたちが何を認識するのであれ、およそ認識されるものは何らかの仕方で人間の作意を加えられているほかない、というわけです。
このような議論にさいして、よく用いられる例をとってみましょう。
色彩という例です。
遅くともガリレオ・ガリレイとアイザック・ニュートン以降、色彩は現実には存在していないのではないかと疑われてきました。
このような疑いは、色彩に大きな悦びを感じるゲーテのような人の感情を大いに害するものでした。
それで、ゲーテは独自の『色彩論』を書いたほどです。
色彩の実在を疑う考え方からすれば、色彩とは、わたしたちの視覚器官に届いた光の特定の波長にすぎません。
世界それ自体は本来まったく無色であり、それなりの規模で集まって均衡状態にある何らかの粒子の群れからできているにすぎない、というわけです。
まさにこのようなテーゼが、形而上学にほかなりません。
このテーゼが主張しているのは、世界それ自体が、わたしたちにたいして現れているのとは違った存在だということだからです。
もっとも、カントはいっそう徹底的でした。
カントが主張したのは、時間・空間における粒子という想定でさえ、わたしたちにたいして世界それ自体が現れるさいのひとつの様式にすぎないということでした。
世界それ自体が現実にどう存在しているかは、わたしたちにはそもそもわからない。
私たちが認識するすべてのものは、わたしたちによって作りなされているのであって、だからこそわたしたちはそれを認識することもできているのだ、というわけです。
色彩については、自分も考察したことがあるんですけど
「赤」って他の人が見ているいる色と同じだろうか?から広がって
「光」って、とか、「コントラスト」って、とか。
ならば、物って人間って、人生って、世界って
みたいな。
若い頃なら誰でも通過する儀式なのかという気もするが
大人になるとそういう疑問など忘れてしまうのかもしれない。
それと文中のゲーテ繋がりだけど
家のトイレに置いておき
パラパラ読んでるので、この文章は自分の中で
ヒットしてフィットした。
世界は数多くある から抜粋
世界には、国家も、実現しなかったさまざまな可能性も、芸術作品も、それにとりわけ世界についてのわたしたちの思考も含まれているのだとすると、世界は自然科学の対象領域ないし生物学が統合したという話をわたしは知りませんし、《モナリザ》が化学実験室で分解されて説明がついたという話をわたしは知りませんし、《モナリザ》が化学実験室で分解されて説明がついたという話を聞いたことがありません。
そんなことをすれば大きな代償を払わなければなりませんし、そんなことで《モナリザ》の説明をつけようとすること自体がそもそも不条理です。
《モナリザ》は、何でかわからないけれど、
デモニッシュな魅力を讃えていて、不気味な表情、
謎に満ちた水墨画のような背景というのは
横尾忠則、村上龍氏の対談で指摘されていた。
それは置いておいて、名画というのも、印象は人それぞれで、
そう思わない人も沢山いるわけで。
そう思う人もいるわけで。
そもそも名画って本当に名画なのか、みたいな思考を哲学というのかなあ。
無以下 から抜粋
なぜ世界が存在しないのかを理解するためには、何かが存在するとはそもそも何を意味するのかをまず理解しておかなければなりません。
そして、およそ何かが存在すると言えるのは、その何かが世界のなかに現れるときだけです。
じっさい、世界のなかにでなければ、どこに存在するというのでしょうか。
というのも、ここで世界という言葉で理解されているのは、およそ起こりうる事象のすべてがそのなかで起こる領域、つまり全体にほかならないからです。
ところが当の世界それ自体は、世界の中に現れることがありません。
少なくとも、わたしは今までに世界それ自体というものを見たことも、感じたことも、味わったこともありません。
それに、わたしたちがその中で考えている世界と、もちろん同一ではありません。
わたしが世界について考えているとき、この思考自体が、世界のなかの非常に小さな出来事、わたしの小さな世界について考えているとき、この思考自体が、世界のなかの非常に小さな出来事、わたしの小さな世界内思考に他なりません。
この思考と並んで、他にも数えきれないほど多くの対象や出来事が存在していますーーにわか雨、歯痛、連邦首相府、等など。
(略)
わたしたちが世界の存在を信じている時に想像しているものは、叛逆的なスター哲学者スラヴォイ・ジジェクの本のタイトルがいうように、いわば「無以下」なのです。
この後「ニヒリズム」「リルケ」「トーマスマン」とか、
三島由紀夫的なキーワードが頻発するのは偶然だろうか。
「ゲーテ」然り。
「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」など、
昨今のカルチャー(映画)なども参照されてて
芸術とかクリエイティブなことと哲学を関連づけていて
なんとなく、親近感あり、とっつきやすかった。
全体の量とか質とかに対して
まったく理解が追いつかないけど、マルクス・ガブリエル氏の
新しい哲学としての入り口として
最適な書籍なのではないかと思った。
余談だけど映画「マトリックス(1999年)」について。
20年くらい前にレンタルしたけど鑑賞を頓挫。
ブルース・リーを知っている自分としては
ワイヤーアクションとか新しい映像感覚を
なんとなく受け付けることができなかったが
さっきアマゾンプライムで初めて全部観た。
単純に面白かったというのと
哲学者とか思想家とかがこの作品を多く
引き合いに出される理由が少しわかった気がした。
どこからきてどこへ行くのか、
裏と表、夢と現実、みたいな。
違ってたらすみません。(誰に謝る?)