他人の壁:養老孟司・名越康文共著(2017年) [’23年以前の”新旧の価値観”]
第2章 誤解を無理に解く必要はない から抜粋
■名越
まあ、一般社会でもトラブルが起きたときに、その当事者がいきなりフリーハンドで出て行っても、逆に燃料を投下して火の手が大きくなるだけですからね。
そのために弁護士がいるわけで。
■養老
自分が正しいという主張は、学問上にとどめておいたほうが無難です。
それですら収拾がつかない大論争が起こることもあるわけだから。
でも学問上ということは抽象的なことですから、日常には関係ないですからね。
学問なんて本当のこと言うとどうでもいいんですよ。
■名越
先生がそれを言ってしまいますか(笑)。
まあ、真実でかつ極論でしょうけど。
■養老
そういうふうに考えたほうが、考え方の整理がつくでしょうという意味ですけどね。
■名越
わかります。だから、余計に一般の方が「誤解を解こう!」とやっきになる必要がないという意味においてですね。
■養老
だって、分厚い学術書なんか見ると、その厚さだけで
「ああ、これ書いた人はやっぱりわかってないな」
と、思いますよね。偉そうにいうつもりはないけど、説明が長すぎて誰が読むんだって。
そういう本ってだいたいにおいて形が決まっていてさ、最初に難しいテーマをボンと出して、その後に知識や情報だけをずらずらと書いてあるんですよ。
だけど、そんなことはもう、すでに世の中ではわかっていることなんです。
問題はそういう認識に達するまでのプロセスといいますか、そこに至るまでの時間の流れなんですよ。
そのプロセスや時間の流れの中で人が生きてもがいていたわけで、その結果としてこういう答えになりましたということ。重要なのはそこなんですけどね。
なかなかわかってもらえない。
痛快としか言いようがない。
学問なんてどうでもいい、日常に関係ない。
これは人類がコロナ禍で気がついたことなのかもしれないです。
一番大切なものは”日常生活”。
これがないと始まらない。
まだ気がついてない方も、おられると思いますし
気がついていても、人間は忘れちゃう
生き物なのかもしれないけど。
終章「違和感」を持つことで主体的に生きる から抜粋
■養老
今回、「田舎へ行け」とか「寺へ行け」と何度も言ったというのは、IT技術がいくら発達しても、人工知能の中には田舎はねえよって話なんでね。
今の時代って実はけっこう面白くて、「人はなぜ生きるのか」とか「自分は何者なんだ」みたいな、非常に青臭いテーマに戻ってきている。
経済を成長させてGDPを増やした結果、どれだけ心が成長したのか、実はほとんどしてないかもしれないという話でしょう。たまに言うんだけど、政治家が「この橋は俺が作った」って、つくったのはおまえじゃないだろうと。そうでしょう。
現代人が、できあがった今の社会を見て、「我々が築いたこの文明社会」って、築いたのは自分じゃないでしょう。
青臭いかもしれないけど、そう言った大きな問いを突きつけられている時代なんです。
その問いにしっかり向き合って答えを出さないとならないのに、みんな考えようとしないで、そっぽ向いている。
「そんなことより、もっと世の中を便利にして」
とか
「合理的に」
とか言っている。
子供に英語を教えてグローバルスタンダードな人間にするんだとかね。
それで「どうしたら幸せになれるか」とか、
「どうやったら死の不安から抜け出せるか」とか、
そう言うことだけは心配して聞いてくるでしょう。
幸せになるためにできるだけ合理的な方法を教えてくれとかね。
■名越
たしかに、本当の意味で原点に戻っている感じはします。
自分たちは何をやってきたのか、ようやく振り返れる時代になってきているのに、本当に振り返れるのか、肝腎なところに来ているのでしょうね。
■養老
だからいつもいうんだけど、人間の始まりって、ゼロコンマ2ミリの卵なんですよ。
考えたことありますかね。シーラカンスの卵。
これがヤモリやトカゲ、鳥の卵に進化してきて、それが人になる。
もともとは粒みたいな小さい卵だったくせに、これが「科学だ」とか「人工知能だ」とか生意気いうわけです。
少しは謙虚になれということです。
今回は「他人への理解」とか「気づき」とかいうことが大きなテーマらしいんだけど、結局、「気づき」の裏って違和感だと思うんですよ。
■名越
ええ、わかります。
違和感を持たないと「気づき」はありませんからね。
おかしいなと思ったら、心の中に捨てずに持っていると、ぱっと花が咲くことがありますから。
赤い花か、白い花かわかりませんけど。
違和感が出たら打ち消さずに、いっぺんでもいいから違和感として心の中から取り出せれば、その人の人生はきっと変わります。
■養老
僕自身も若い頃から絶えずやってきたことで、自分の頭の中で「これ、変じゃねえか」という違和感を持つということですよね。
だって、変だと思ったら、それは自分が変なのか、相手が変なのか、どちらかだから。
自分を変えるか、相手を変えるかでしょう。
そういう意味では、今の人たちは「相手が変だ」というほうが多いんじゃないか。
僕はそれを不寛容と言うんです。
「違和感があるぞ、変なのは俺じゃない、こいつだ」となって、相手を抹殺する。
不寛容の極みです。
だから、「あるものはしょうがないじゃないか」ということ。
「あってはならない」と寛容できなくなった瞬間、人は不寛容になるんです。
■名越
心に違和感を覚えたら、それを驚くのはいいけど、別に恐れて否定しなくてもいいんですよね。
違和感を「悪いものだ」と否定しているうちは、違和感を取り出したことにはならない。
僕の師匠の植島啓司さん(宗教人類学者)は、
「仏とは心の中にある違和感である」という名言を述べられています。
つまり、自分の中にある絶対に同化できない異物のような存在を、彼は「仏」と言ったんですよね。
仏って阿弥陀さんみたいに慈愛に満ちていて、無条件にいいものなんだという固定観念があるけど、恐ろしい存在でもあると思うんです。
仏罰というものもあるわけだし。
そういう意味では、この植島さんの捉え方にはちょっと打たれましたね。
すごいと思った。
だから、冒頭から「わからないくてもいい」と言っているのは、何も「モノを考える必要がない」ということではなくて、今すぐ答えが出てこなくてもいいから、とりあえず違和感を持ち続けているうちに、だんだん溶け出して、黒砂糖みたいに見えてくるかもしれない。
それがもっと溶けてきて、次第に消化していくというようなイメージですかね。それが1ヶ月先か、一年先なのか、もっとかかるかもわかりませんけど。
■名越
主体的に生きている人と、なんとなく生きている人の輝きの差みたいなことは確かにあります。
無自覚に惰性で流されて生きている人と、毎日1時間でもいいから充実した自分の時間を持つように意識した人では、1ヶ月と2ヶ月くらい変わらないけど、2年、3年経てば、おそらく取り返しのつかないくらい差がついているでしょうね。
■養老
しかも、これけっこう、心に負担なんですよ。
違和感を抱えながら生きるって。
ストレスになるの。
だから、この違和感を打ち消す便利な言葉が、日本語にはあるじゃないですか。
「そういうもんだ」という。
そういうもんだと思った瞬間に、思考は止まるんです。
以前、学生たちに「コップに水を入れてインクを一滴落として、時間が経つとインクが消える。
なんで消えるの」と聞いたら、しばらく黙って「そういうもんだと思ってました」って」言うわけ。
なんだよそれって。
違和感がないんだったら、もうそれ以上考える必要は無くなるんですよ。
精神とか心理とか、そして仏教との関係も示されていた。
名越先生の言葉で、欧米人が仏教に惹かれるのは、
癒しとか緩いことでなくて
「彼らが考える科学的見解の先に、
仏教の教えがあると気付いたんだと思っています。
空海の教えの中に、量子論的な考え方があるということに
気づいているのは、ドイツ人やフランス人じゃないですかね。
仏典について一番多くの論文を書いているのも、
たしか彼らじゃなかったかな。」
というのも、科学、宗教とかを考える上で興味深かった。
余談だけど、話中にある「違和感」について
「違和」が「達成」に見えて
「達成感」と読み違えていて、
それこそなんか違和感あるな、と思った。
ひと昔のビジネスマンとか、
ガッツ溢れる若者とは異なり、
「達成感」が重要みたいな言葉って、
この二人言わなそうだよね。
今の人たちも言うのかな、目標とか達成とか。
それで今もご苦労されている方いて、
気分を害されたら申し訳ありません。
他意はありませんで、感じたことを言っているだけで
それは、つまり周りに気を遣えないことを
気がつけなくなってきていて、つまり
経年劣化からくる「老い」なのだろう。
イコール忖度もなくなるのか。
でも、こればっかりは
しょうがないとしか言えないなあ。
と池田清彦先生風に締めてみました。
(何のためだよ!)