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見えない戦争・インビジブルウォー(2019年):田中均著 [’23年以前の”新旧の価値観”]


見えない戦争 インビジブルウォー (中公新書ラクレ)

見えない戦争 インビジブルウォー (中公新書ラクレ)

  • 作者: 田中均
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/11/08
  • メディア: Kindle版

著者は元外交官で、北朝鮮に拉致された人を


日本に戻した(2002年)立役者の一人。


当時小泉政権で、安倍さんはよく知られる貢献人


(拉致被害においては)だが、田中さんは裏方なので


あまり目立たないけれどなぜか自分は興味があって


外交の力(2009年)」をむかし読了。


外交の厳しさやプロフェッショナルっぷりに


感嘆した記憶が残っていた。


以下本文からの引用でございます。


1980年代までは先進民主主義国の優位性は疑うべくもなく、「先進民主主義国サミット万能」の時代だった。

G5と呼ばれたフランス、アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本。

そして、イタリアとカナダを加えたG7。

G7の共同声明には必ず冒頭に「我々、先進民主主義工業国は」と謳い、ソ連圏と対峙する先進民主主義的価値が共通の基準となって、世界的な意思決定を行い協調体制が組まれてきた。

7カ国合わせた国内総生産(GDP)が全世界の7割近くを占め、アメリカの軍事予算は世界全体の半分を超える時期もあった。G7は圧倒的な支配力で、世界を牛耳っていた。

しかしそのGDP比率は、もはや5割を下回っている。

90年代になり、人、モノ、資本、技術、サービスが国境を越えて大量に行き来する様になると、新興国といわれるロシアや中国、インド、ブラジル、メキシコ、南アなどがその経済力とともに台頭し、G20の時代に突入する。

しかし価値を共有しないG20は意味のある決定はできない

ちなみに80年代後半、日米経済摩擦が問題となっていた頃の日本の貿易(輸出入総額)の30%は対アメリカだったが、2018年には15%に低下している。

代わりに急激に増えたのが対中国の貿易だ。

1990年にたったの6%だった同国の比率は、2018年には21%にまで上昇している。

この数字だけでも、この30年で世界の経済地図が大きく書き換えられてきたということを理解してもらえるだろう。

 

グローバリゼーションは先進民主主義国と新興国との国力のバランス、相対的な地位に大きな変化をもたらした。

同じ価値観を共有するG7時代は、方針を決めるのも楽だった。

だが1989年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結すると、世界が多極化した。

政治的・経済的に守らなければならない絶対的なものはなくなった。

二つのイデオロギーで対立していた世界はそれぞれの世界で自己完結的であったが、今日、さまざまな価値観がぶつかり合い、ガバナンスが利かない状態に突入している。

最近のG7ではもはや従来のような首脳宣言すら出せない。

しかもそこに経済的な相互依存があるから、事態はより複雑だ。

シェールガスや電気自動車の登場は、石油の相対価値を低下させ、産油国の優位性も失われた。

人や資本がダイナミックに動くようになり、ITによる情報の流通に歯止めが効かなくなると、国家としての価値観は相容れないが、経済的には切っても切れない関係が生まれるようになる。

現在のアメリカと中国がまさにそういった状態だ。


アメリカが安全保障の見地からファーウェイ(華為)を輸出禁止対象とし、サプライチェーンを寸断することも辞さないという行為は、やがて国家や企業は、価値に基づく安全保障と経済相互依存に基づく経済の繁栄のいずれをとるのかの判断を迫られ、踏み絵を踏まされる可能性を予感させる。

こういった状況は、それぞれの国内、特に先進民主主義国に大きな変化をもたらした。

グローバリゼーション、IT革命で巨万の富を築くものと、旧来型のビジネスのなかで貧困に喘ぐもの。

そういった富の偏在が社会を分裂したのだ。

2000年代に入ると、日本での「勝ち組負け組」「下流社会」といった格差社会を象徴するような言葉が使われるようになった。

国家間での人の行き来が増して、新興国からやってきた人々が先進国で職を得るようになると、当然それまでその仕事をしていた人たちが収入を失うことになる。

これが現在、世界に蔓延しているポピュリズムの種となった。
反グローバリゼーション、過激主義、反イスラム、極右・極左、大国主義、ナショナリズムなどは、すべてポピュリズムに乗っかり、権力と結びつき、勢いを増しているというのがここ数年の現状だ。

そのような国内の趨勢が国際関係に飛び火し、いつ火花を散らす紛争に変わってもおかしくない”見えない戦争(インビジブルウォー)”は、世界のそこかしこで生まれている。


普段あまり政治を意識しない不届きものなんだけど、


不在者投票してきた今日だからこそ、


選挙の日は仕事なもので。


そもそも日本って今どんな感じなのだろうか。


外交とは”結果を作る作業”であり、国内、国民に向かって心地よいことを吠える世界ではない。

民主主義国家の選挙で選ばれた政治家が国民の関心をひくことばかりを口にし、そのために方針を決めていくのも理解できないではない。

だが、プロフェッショナルな外交の本質は、相手との関係を踏まえて結果をつくり、国益を増進させることに他ならない。

いくら「がんばってます」というプロセスを見せても、結果を作らなければ意味がないのだ。

しかし皮肉なことに国民に不人気な結果であっても国益に資するという判断をできるのは選挙で選ばれた政治家であるはずだ。

そういう判断を先送りにし目の前の票を意識しているうちに日本はどんどん衰退する


自分自身の外務官僚としての経験から言えば、官僚と政治家の間には、一種の緊張感があるべきだと思う。

(略)

意見が対立し、政治家から叱咤されることは私も日常茶飯事だった。

官僚としては、国益を守るための仕事をすべきだと考えていたから、それも当然だと思っていた。

たとえば、小泉純一郎総理が靖国神社の参拝を繰り返したとき、官僚として総理大臣に「行くな」と言うことはできなかった。

だが「もし参拝したら海外からこういう反応が起きるでしょう。対中、対韓外交に著しい支障が出るでしょう。それを踏まえて判断してください」

とためらわずに伝えた。

それはアジアを所管するアジア大洋州局長としての当然の責務だった。

総理は顔を真っ赤にして怒っていたが、私は総理の機嫌を損なえば左遷されるのではないかなどということは微塵も考えなかった。

結果的には総理は毎年靖国神社を訪問し、そういう意味では私たちの意見は取り入れなかったが、それでも2回目以降8月を避ける工夫をし、大げさな形を取ることは控えられた。

中曽根内閣の時は、後藤田正治官房長官から「君、こんな官僚が書いた作文なんか読むはずがない!」と叱咤された。

橋本内閣の時は沖縄や安保の問題をめぐって、毎日のように「君が属する外務省北米局を潰し、防衛庁に吸収させるぞ」と橋本龍太郎総理に威嚇された。

梶山静六官房長官からは「君なんか沖縄に行って、そのまま沖縄にいて帰ってくるな」とまで言われた覚えがある。


小泉さんとは蜜月の仲だと勝手に


想像してたんだけど、そんなこともなかったのだね。


裸の王様に「裸だけどいいんですか?」と


言ってしまう人なのだね。


もちろん言いたくて言ってるわけじゃないって


いう論旨が書いてあるけど。


しかし、それでよく30年以上、外務省で働けたよなあ。


誰か良い支持者がいたのかな。


これもご自分で書いてるけど、これだけ


上に目をつけられてたら普通は左遷だよなあ。


しかししかし、一歩引いてみる。


そこまでじゃないけど、自分も疑問に感じてしまうと


態度や行動に出てしまう、という点では、


若干似ていてシンパシーを、僭越ながら、感じる。


黙ってりゃあいいものを。


話を田中さん小泉さんに戻すと、職種や職務の


違いはあれど、この二人って似てるところ


あるんじゃないかと思ってるのだけど、


群れをなさないと言う点で。既得権益に挑む姿とか。


総理官邸だけではなかった。自民党の部会では激しく罵倒された。

アジア太平州局長時代に藩陽で脱北者の日本領事館への駆け込み事件があった際には、衆議院の予算委員会で答弁に立つと与野党自民党議員から

こいつは黒を白と言うやつだ

と激しく野次られた。

まるで官僚の人格を否定するように。

それでも、どんなときも私は言うべきことはきちんと言い続けた。

政治家から見れば嫌な官僚だったかもしれない。

私だって官邸や自民党に行くのは嫌だった。

最終的には国民に選ばれた政治家が優位であることは議論の余地がない。

政治家がノーと言ったら官僚は従わざるを得ない。

理を尽くして説得ができるか否か。

命がけとは言わないが、官僚としての意地とプライドはあった。

説得できないこともあったが、彼らと話し合うことをやめようとは思わなかった。

それが自分の仕事だからだ。

私は外務官僚時代も、権力にひざまづずく事をしなかった。

反体制というつもりはないが、少なくとも国家権力、政治家というものと一体化しようと思ったことはない。

私が反権力の気風が根強く残る京都大学出身だからかもしれない。


京大ってそういう志向なのか。


40年前に知りたかった。


知ったところで絶対入学なぞ無理だけど。


田中さん、その後、国家公務員でありながら、


外務省入省後に留学したのがオックスフォード大学、


この英国の大学は三年間に及び大切なことを学んだという。


そのとき、教授から学んだのは、「書物に書かれていること、目の前にある現象だけを鵜呑みにしてはいけない」ということ。

常に「なぜそうなのか」「本当にそうなのか」ということを自分で問い、考える

批判的といわれようと物事の本質について考える習慣はこのオックスフォード時代に身についたように思う。

むろん、批判することが自分の仕事だと考えたことはない

官僚のもっとも大切な仕事は、説得だ。

政治家を説得し、国民を説得し、外務官僚であれば相手国を説得する。

説得力を持つには十分な情報を持っていなければならない。

そこに自らの知見と経験を加えて、国益にかなう将来の見通しを述べる。

それが官僚の仕事であり、「外交」の正しいあり方だ。

その見通しが、権力側と一致しなければ、批判と受け止められる。

きちんと説得し、批判と見られないことが重要なのだ。


あとがき から抜粋


これから日本こそ、「ジャパン・ファースト」であってはならない。

地域や国際社会との協調を基本としていかないと、一層の国力の低下をもたらすのではないか。

この本の中でもプロフェッショナリズムへの回帰の必要性は幾度となく取り上げた。

ポピュリズムに対比する概念はプロフェッショナリズムだ。

ポピュリズムは科学的・客観的な検証を得ないで、国民がもっともなびきやすい感情に訴えようとする

(略)

これに対抗できるのはプロフェッショナルな考え方であり、論議である。

しかし強い権力は論議を好まない

どのような国家であっても、人々は強い権力に頭を下げ、忖度する

だからこそ、チェック・アンド・バランスのシステムが働かないと、民主主義国家であっても先制国家と変わらない傲慢な振る舞いに陥ってしまう。

チェックとバランスの欠如が、まさに、”見えない戦争(インビジブルウォー)”の背景にあるといえる。


前後するけど、本文からの引用を以下に。


長年日本の多くの企業もそこで働く社員も、”アマチュア”だったのだ。

多くの人が等しく幸福に生活ができるのであれば、アマチュアであっても何も問題はない。

実際、戦後の長きにわたって日本は”理想的なアマチュア国家”だったと言っていいだろう。

企業は国家の庇護のもと利益をあげ、社員は真面目に勤めてさえいれば在籍年数に応じて給料が上がり続け、決して解雇されない。

日本が成長を続けていた時代は、そのようなシステムがよく機能していたと思う。

だが安全地帯に身を置くアマチュアのままでは、グローバリゼーションの時代には対応できない


一人ひとりがプロフェッショナルとして自分の人生を守らなければならない時代なのだ。


政治の世界の話だけではない、


普遍的価値のある内容だと思った。


ロシアとウクライナの戦争によって、


国家間の戦争が過去の遺物ではなく


まだありうるという点でいうならば、


この本は一般的には価値が下がるのかもしれないが。


かくいう自分も国家間の戦争なんて


今後あり得ないと思っていたんだけど。


2022年春までは。


これから否が応でも、グローバリズムが加速していく


社会で、サバイヴし得るのは、老いも若きも


個のスキルと経験、ということなのかなと。


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