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加藤典洋先生の対談から”生態系”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


対談 ──戦後・文学・現在

対談 ──戦後・文学・現在

  • 作者: 加藤 典洋
  • 出版社/メーカー: 而立書房
  • 発売日: 2017/11/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

X 池田清彦 評論家、生物学者

3.11以後をめぐって


「環境問題」は人間中心主義 から抜粋


加藤▼

「環境」っていうのがまた、不思議な概念なんだね。

江戸時代にこういう考え方がなかったことは確かだ。

20世紀前半でも、またいまのような形では誰も頭にもなかっただろうね。

1962年に『沈黙の春』が出版されて、「環境問題」がクローズアップされるよね。

でも、地球環境を守ろうっていうのは、人間中心主義。

要するに、これ以上自然が破壊されると「われわれ」が危ないって、人間を中心に自然というものを捉えている。

で、それが、そうじゃないものに、このあと変わる。


最近Youtubeでチェルノブイリの動画を見たのね。


彼女によれば、あの事故以来、チェルノブイリ周辺の生態系がすっかり変わってしまったっていうんだよね。


池田▼

いまのチェルノブイリは、特定の生物はいたりいなかったりするんだろうけど、全般的には野生動植物の宝庫になっているようだね。

放射線に弱い個体はみんな死んじゃったけど、強い個体は生き残って繁殖しているわけ。

生物っていうのはしたたかで、環境の変化にどんどん適応して極端な話、それほど高レベルでなければ、放射性物質をまき散らしても、それに適応できる生物だけが生き延びて、そこに人類が含まれるかどうか知らないけど、それなりに世界は回っていく。

地球レベルで考えれば、人間は「地球に優しく」とかいうけれど、地球は放射能で汚染されようと何が絶滅しようと関係ない。

28億年前、地球に磁場ができてバリアが生じたことにより、宇宙線(放射線)が遮られたんだ。

それでDNAが破壊されなくなって、バクテリアが地球表面に進出してきた。

確かに高濃度の放射能は生物にとって脅威だけど、低レベルであれば野生動物の生存にとってさほど脅威ではない。

ガンになる前に繁殖してしまえばいいわけだから。


加藤▼

じゃあ、「放射能は全生物の脅威だ、生態系を壊す」みたいにはいえないわけか。


池田▼

そうなんだけど、一般的には、世界が放射能で満ちたら死ぬ生物はたくさんいるよね。

いま僕はものすごく長い時間軸で語ったけれども、人間にとっては、やっぱり自分や自分の子孫のために、現在の環境、つまり人間に都合のいい環境をいかにして守るかってことが大事だよ。

そう考えると、人間中心主義っていうのは、われわれの思考の基盤としてあるんだよね。


環境保護団体なんかは「生物にも権利がある」みたいなことをいうけれど、生物に権利なんかありっこない。

人間以外の生物には「権利」なんて概念はないんだから。

生物中心主義っていうのは人間中心主義の別名なんだよ。

まず現在生きている人間と近未来の人間が住み良い環境を維持するところから始めて、そこからちょっとづつ射程を伸ばして、100年後、200年後も人間が生存可能かってことを考えていかないと難しいよね。


だから、たとえば過激なディープ・エコロジストは、エネルギーが足りないなら昔みたいな生活を送ればいいっていうけど、それだとやっぱり死ぬ人が多くて大変だなって思う。

エネルギーがなくなると医療の世界が破綻するんだよ。

いつ停電になるかわからないところでは手術はできない。

自動車がなければ急病人は運べない。

そのほか、公衆衛生のインフラもすべてエネルギーに依存している。

それに、昔といまとでは世界の事情がまったく違うよね。

もう世界がつながっちゃってる状況で、日本だけが30年前の水準でしかエネルギーが使えないとなると、かなり悲惨なことになってしまう。

それを考えると、やっぱりエネルギーは現状維持をする必要があるんだよ。


加藤▼

そうか。

生態系も人間中心の概念なのか。

変わってないのか。これはいい勉強になりました。


今の生態系は人間中心の概念なのだろうか。


人間がそうしてしまったような気がする。


かつそれに適応してきて現状があるような。


なるべく自然の生態系にもどすのが


理想なのだろうけれど


それは容易ではないし、戻しても人間が


生きていけないんでは本末転倒で。


これは相当込み入った話になりそうだと感じた。


柳澤・中村先生たちであるダブル桂子先生と


相容れないと感じるのは、ここら辺りに


端を発しているのか。


いずれにしても、どちらもキャッチしてしまう


自分もいるのだけどなあと。


引き続き加藤先生の言葉から。


生活水準の話をすると、僕は、基本的には原発は減らしていったほうがいい、最終的には離脱したほうがいい、なくなったほうがいいし、なくなるだろうと思っているんだけど、離脱のために生活水準を下げることも辞さないっていう考え方には、賛同しない。

それは思想的に健全じゃないと思うから。


たとえば、京都大学原子炉実験所助教授の小出裕章さんの原子力に対する識見と行動には深く敬意を抱くんだけど、一定の条件下で汚染された食べ物を自分が引き受けるとか、この人の言うのを聞くと、考え方がちょっと純粋すぎるというか、それを、他の人にも勧める形になったら、それはそれで困ったことになると思う。

宮沢賢治もそうだけど、理系の人は、大変すばらしい。

でも、ときに、過度に純粋で、ちょっと単純だったりするよね。


パスカルは「繊細の精神」に対して「幾何学の精神」があると言ったでしょ。

彼はその二つを併せ持った。

僕はね、いま必要なのは、「理系の心」と「文系の頭」なんだっていう感じがしてる

つまり、いま起こっていることに対して、まずどう感じるか、というところでは、理系の心で対処する

単純に具体的に、事象に即して、数字を見て、恐怖する


で、今後、そのことをどう考えていくかというときには、時間軸を広くとって、見えない人々、いまはいない人々、もう死んだ人々、まだ生まれていない人々への想像力を駆使して、考えの枠組みを作らなければならない。

これまでは、パスカルの言葉は、「文系の心」と「理系の頭」というふうに考えられてきたと思うんです。

でもいま思えば、パスカルが言ったのは、それと一緒に、「理系の心」と「文系の頭」を持つと、二つが併存するよ、ということだったんじゃないか。


原発事故のあと、最新型の原発なら、問題ないと立花隆さんは言っているわけだけど、でも、これって理系の頭、文系の心で考えているんじゃないかな。

原発災害というのは、技術だけの問題じゃないってことが、今回、はっきりわかったわけですね。

原発を理系で考えて、被害を文系で受け止めるんじゃなくて、原発を文系で考えて、被害を理系で受け止めることも一緒にやるのがいいと思う。


東京湾でガスタービン発電 から抜粋


池田▼

「エコロジー」という言葉を作ったのは、19世紀後半に活躍したエルンスト・ヘッケルというドイツの生物学者だよ。

だから、生物の個体の周りにはさまざまな環境があり、それが重要だっていう概念はそう古いものではない。

で、「環境」とは何かというと、生物にとっての「情報」なんだ。

生物はDNAというくくりつけの情報に従って発生していくわけだけど、それに対して外から環境というバイアスがかかる

これもまた情報で、これによって生物は変わっていく

つまり情報とは、ある主体を変えるものなんだ。

いまの人は、「自分」っていう絶対に変わらないものがあって、そんな自分が危惧する情報を、必要/不必要、あるいは役に立つ/役に立たないってセレクトしてるけど、実は全然違う

情報っていうのは自分を変えるものだし、自分が変わらない情報なんてなんの役にも立たないんだから。

今回の原発事故にしたって、いろんな人が頭の中をシャッフルして、「いままでの考え方はマズかったかな」って考え方を変えてるよね。

そういう人は偉い人で、絶対に自分を変えない人っていうのはアホの極みだと僕は思うよ。


僕は「原発は危ない」っていうような話をずっと本に書いてきたんだけど、こんなに悲惨なことになるとは思わなかった。

そのへんでまだ認識が甘かったんだけど、あの事故のあといろいろ考えてみると、日本はとりあえず”つなぎ”で火力発電をやって、その間に新しいエネルギーを開発するのが最も合理的な選択だよ。

20年くらいかかると思うけれどね。


一方で僕は、原発はとりあえずはいちばん発電コストが安いっていうのを信用してたんだ。

でも、円居総一『原発に頼らなくても日本は成長できる』って本を読むと、そうじゃないらしい。

原発の稼働率が80%なのに対して、火力発電所は41%しか稼働してなかったっていうの。

なぜかというと、春秋に電力が余るから火力発電所を停止するんだけど、原発は動かしっぱなしが一番効率がいいから止めない。

で、火力発電所は止めるわけだ。


どんな発電所でも再稼働するのにすごいエネルギーが要るから、いちいちそれをやる火力発電所は、原発より発電コストが高くなるんだよね。

両方とも稼働率80%で計算すると、実はすでに火力発電のほうが安かったんだ。

加えて、原発の発電コストには、政府が出した補助金のたぐいは計上されないんだよ。

たとえば島根原発がある松江市は、年間で40億円とか、多い年で70億円以上の原発交付金をもらっている。

さらにいま稼働中の原発の廃棄物を処理するのに、どう見積もっても40兆円くらいかかる。

ついでにいえば、福島第一原発の事故の後始末には少なくとも140兆円は必要なの。

ひっくるめて計算すると、もう太陽光より高い。

とんでもない発電単価になるよ。


だからどう考えたって、火力発電がいちばん安いんだ。

いまのところはね。

僕は石原慎太郎のことはあまり好きじゃないけれど、彼は東京湾に100万キロワットのガスタービン、つまり天然ガスの火力発電所を造るって、猪瀬直樹に指示出しているでしょ。

あれはいい判断だと思うよ。


で、そうなると「CO2で地球温暖化が…」とかくだらない話に結びつける人が出るんだけど、温暖化の恐怖をあおっているIPCC(気候変動に関する政府間パネル)は、もともとイギリスのサッチャーが原発を推進するために始めたものだからね。

彼女は北海油田が枯渇するのがわかってたから原発をやりたがったんだけど、チェルノブイリの事故もあってそういう空気じゃなかった。

そこで「地球が大変だ!」って大騒ぎしたんだよね。

チェルノブイリの事故は1986年、IPCCの設立は1988年だからね。

日本もそれに乗ったわけだけど、CO2悪玉説なんて原発産業の回し者が考えたペテンだよ。


外交センスの欠如 から抜粋


池田▼

CO2が温暖化効果ガスであることは間違い無いんだ。

要は、そのコントリビューションがどのくらいあるかって話でしょ。

IPCCの報告でも、今後100年間の平均気温の上昇幅はせいぜい2〜3℃なんだよ。

石油枯渇の件は横に置くとしても、もしその数字が正しいとして(僕はウソだと思っているけどね)、その2〜3℃の上昇を抑えるコストと、上昇したあとにかかるコストはどっちが高いかって話だよね。


たとえば社会学者の橋爪大三郎さんは、農業が壊滅的な打撃を受けるっていうけれども、それは国という区切りがあるからなの。

シベリアやカナダは、すごい穀物地帯になるよ。

北海道の米なんか200%くらい増産するっていう試算があるくらいだからね。

要するに収穫できる場所がずれるんだよ。

だから困る国とそうでない国があって、たとえばアメリカ中部あたりはダメになっちゃうんだけれども、地球全体で見れば、平均気温が上がれば穀物の生産性が高くなるのは当たり前の話だからね。


いまから6500万年前、白亜紀の終わりに恐竜が滅びたときは、地球のCO2濃度は今よりも数倍高くて、気温も4〜5℃ほど高かったんだ。

そこであんなにでかい恐竜が生きていけたのは、そいつらが食べる植物がものすごく繁茂していたからだよ。

ただし、現在の農作物は現在の気候に合わせて作り出したものだから、そのままだとマズい。

だけど、そんなのは100年がかりで新しい環境に適する作物を作り出していけばいいんだから、さして問題はないんだよ。


この後加藤先生が、ペテンに賛同されて


別の意見からの論考をされつつ


とはいっても、国際社会の流れによらないと


ならんのでは?的な発言をされての


池田先生の回答。


池田▼

CO2と温暖化の因果関係っていうのは、実は誰にもわからない。

実証実験がまったくない分野なんだからなんとでもいえるわけ。

でも、世界の流れに一応乗っかっていかないと難しいというのも一理あるよね。

日本は国策として、うまく立ち回れるかが大事だよ。

鳩山由紀夫が首相だったときに、「温暖化効果ガス25%削減」と国際会議で明言しちゃったからいろいろ面倒なんだけど、、僕は震災はかなり同情を買ってると思うんだよね。

つまり、「日本は今非常に厳しい状況にあるから、とりあえず復興期間中のCO2削減は大目に見てください」ってお願いしても通用するんじゃないかな。

それに日本は新エネルギーに関してはかなりいい技術を持ってるんだよ。

ただし、それを開発するためには、必ずCO2が出るんだ。

だから「日本が新エネルギーを開発した暁には、それを安価で世界に提供するので、その開発に要するCO2については目をつぶってくれ」みたいな約束を取り付けてくるとかね。


そういう外交センスが、日本の政治家には欠けてるよね。

「25%削減します!」なんて演説をぶって、スタンディングオベーションで拍手されて喜んじゃってさ。

そりゃあ、日本だけが損をするんだから、みんな手を叩いて笑うよ。

そのへんの立ち回り方は中国のしたたかさを半分くらい見習うべきだよね。


あとがき から抜粋


ここには、1999年から現在にいたる23年間に行った私の11人の人との対談を収録している。


池田清彦さんとの対談「3.11以後をめぐって」は旧知の編集者山下陽一さんの企画で2011年夏、実現した。


池田さんは当時勤めていた早稲田大学国際教養学部の同僚で、研究室も隣りだったのだが、近くで知るだけにかねてこの人の「天才ぶり」に強い印象を受けており、この機会を利用して3.11以後の「わからないこと」を色々と尋ねることにした。

頭がよいということが人間の徳にあまり資することのないばあいが多いなか、数少ない例外。

この対談にもこの人の高徳者ぶりが発露している。

インプレス選書『IT時代の震災と核被害』に発表された。


池田先生含め、対談相手の一覧は以下でございます。


1

人々と生きる社会で

X 田中優子 時代見つめて今、求められているものは

X 石内都 苦しみも花

X 中原昌也 こんな時代、文学にできることって、なんだろう?

X 古市憲寿 ”終わらない戦後”とどう向き合うのか

X 高橋源一郎 沈みかかった船の中で生き抜く方法

X 佐野史郎 「ゴジラ」と「敗者の伝統」

X 吉見俊哉 ゴジラと基地の戦後


2

人びとの生きる世界で

X 池田清彦 3・11以後をめぐって

X 養老孟司 『身体の文学史』をめぐって

X 見田宗介 現代社会論/比較社会学を再照射する

X 見田宗介 吉本隆明を未来へつなぐ

X 吉本隆明 世紀の終わりに

X 吉本隆明 存在倫理について

X 吉本隆明 

X 竹田青嗣 

X 橋爪大三郎

半世紀後の憲法


どの対談も深いです。


文芸評論家である加藤先生の領域から


文学を軸に話を展開されているためか、


養老先生の対談など他にないようなものだった。


一方的に加藤先生がお話になっているけれども。


池田先生の対談が一番響いた次第です。


加藤先生は残念ながら2019年5月他界されている。


あとがきには、吉本隆明さんに対して並々ならぬ


畏敬の念が伺えかつ橋爪先生らも参加されている為


かなり興味深いのだけど、世代間ギャップみたいな


ものを感じてしまう。自分の知性が足りないだけか。


また別の時期に読むと感じ方が変わってくるのかも


しれないのですがと思いつつ、そんなに悠長に


何度も同じ本を読めないなあ、とか思ったりもする


寒い休日、年末感が思いっきり漂ってきた


というかまごうかたなき年末な今日この頃です。


 


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