中村先生の訳書から”東西の価値観”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
表紙から引用
なぜ人間は有性生殖をするようになったのだろうか。
ある種の動物は、自分をコピーして子孫を増やしているというのに。
遺伝子をコピーした子孫をつくるクローニングがおこなわれるようになれば、この問いに対する答えが見つかるかもしれない。
人間のクローンはすでに技術的には可能であるといえるだろう。
この最新生殖技術をさまざまな面から論じたエッセイコレクション。
中村先生と村上龍氏の対談で話しておられた
この書を読んでみた。
深すぎる論考で、この周りがまたさらに興味深そうだと感じた。
序 から抜粋
ロスリン研究所のイアン・ウィルムットと共同研究者たちが、雌ヒツジの乳腺細胞からのクローン作成に成功した(ドリーと命名)と発表したとき、いたるところで激しい感情的反応が起きた。
クローニングの実験は、少なくとも40年以上行われてきたわけだが、ドリーの出現によって、近い将来、ヒト・クローンの可能性に直面せざるを得なくなることがはっきりしたことが問題なのだ。
これは、まだ思考実験に過ぎないが、それでも動物クローンができたという事実以上に、人々の不安を掻き立てるものがある。
誰でもとは言わないまでも多くの人は、クローニングは人類の歴史におけるあるターニング・ポイントを象徴すると考えている。
今後の見通しについては、警戒心を持つ人、嫌悪を感じる人、喜ぶ人、これまでの生命観がいずれ通用しなくなるだろうと嘆く人などさまざまだ。
もちろん、この事態を冷静に事実として受け入れ、恐ろしいことと決めつけずに、科学の自然な発達にまかせるべきだと主張する人もいる。
とにかく多くの人が、さまざまな疑問をなげかけたのだ。
クローニングを選ぶのはどんな人だろう
これらの疑問には科学的な検討が必要であり、その結果事実が示されれば、私たちが思い描くクローンの可能性の多くは、非現実的だとわかるだろう。
この本の目的は、なるべく素人にもわかりやすく、クローニングについての基本的事実を解説することにある。
研究者たちーーこの本の第一部の書き手たちーーは、クローンとは、同じ人間をつくりだすことではなく、違う世代に生まれたクローンは、別れて育った双子ほども似ていないということを示してくれる。
このように科学は、多くの面で、真に問うべき問いは何かを明らかにしてくれる。
だがクローニングによって起こる倫理的、政治的、社会的、宗教的問題には、科学は答えを出せない。
それは、議論を通じて見つけていくしかないのである。
選択肢を明確に示し、適切な問題提起をする点で、人文科学や社会科学が活躍してくれるはずだ。
シカゴにて、1997年10月
M・C・N
C・R・S
答えは保留、しかし議論していかないとって
ある意味人間の勝手で無謀な試みだけれど
現時点では本当にそうだと感じる。
訳者あとがき から抜粋
翻訳という作業をする時は、いつも複雑な気持ちになる。
本来ならこれと同じものを自分の手で産み出すことができれば、その方がはるかによいのだけれどと思うからだ。
今回もーーいや今回は特にその気持ちが強い。
クローン羊ドリーの誕生は、日本でも話題になった。
クローンという言葉は、急速に進歩する生物学や医学の中で開発された新しい技術の社会的・倫理的問題を扱う時には常にとりあげられ、SFまがいの話の中で、おどろおどろしさを象徴する技術として語られてきた。
そこへドリー登場というわけで、話はぐんと現実味を帯びた。
となると、これをどう受け止めるか…とにかくヒト・クローンだけは当面禁止という約束をしておき、科学の問題として、生殖技術の一つとして、いやそれを超えた人間づくりの技術として真剣に検討をして態度を決めなければならないという状態になったわけだ。
もちろん、日本でも、研究や技術開発の担当省庁である文部省、科学技術庁の中に委員会が設けられ、動物を用いてのクローン研究や技術開発を妨げないことを前提としたうえで、ヒト・クローンの作成はもちろん、それに関する研究も行わない申し合わせをした。
けれども、人工授精や体外受精はすでに行われており、米国では代理母もすでに定着しているという状況の中、ヒト・クローンを禁止する論拠はどこにあるのか。
考えてみると、これは簡単に答えの出る問題ではない。
既存の価値に照らし合わせてみても…本書の宗教からの検討を見ても、それぞれの宗教によって判断はさまざまであり、絶対の基準などは見つからない。
憲法で保証されている基本的人権とはどう関わるのか、同性愛から見た時どうなるか、古来人間はクローンをどう受け止めてきたのか…人間の本質と関わる問題として検討すべきことがたくさんある。
しかし、日本では、社会、倫理、法という抽象的な言葉だけがとび交い、ここにあげたような具体的な事柄を、一つ一つ精密に詰めていく議論はない。
なんだか気分的に抵抗感があるという程度のことで、科学者が勝手なことをするのはけしからんというところに話を押し込めている。
本書を読むと、まあ、なんとしつこくやるのだろうと思いたくなるほど、さまざまな側面から検討し、それぞれの見解を述べている。
最も興味深いのは科学を社会から分離して、これは科学の問題だぞと構えて論じているのでなく、文化の中、日常生活の中の事柄として語っていることだ。
性、人権に関わりことなので、立場によっては、差別意識を思わせる考え方も諸々に見られ、読んでいて抵抗を感じることもあった。
しかし、はっきり実情を分析し、立場を明らかにすることはこの種の議論には不可欠のことだ。
これだけ議論しても、クローンについては是とも非とも結論するのは早すぎるというところに話は落ち着いているのだが、あいまいにして倫理という言葉だけを振り回しているのとはまったく違う。
21世紀、日本は科学技術立国を目指すというのが大方の合意のようだが、もしそうなら、新しい科学や技術について、単に技術開発の面だけでなく、このような社会的な面についてもきちんと評価をし、自ら判断していく場を持たなければ、一流の国にはなれないと思う。
繰り返しになるが、本書を翻訳したのは、日本でもこのような議論をきちんと行うようにしませんかという提案のつもりである。
お断りしておくが、なんでもアメリカ式がよいとか、ここに述べられた意見が素晴らしいのでこれを真似しようと言っているのではない。
日本の社会としてクローンという技術をどう考えるのか(もちろんクローンだけではない。臓器移植、体外受精など、これまでの技術についてすべてこれをやらずになしくずしで来てしまったので人間を巡る技術について、深く考えていかないと未来を考えることは難しい)を議論することが大事だと思っている。
とにかく範囲の広い話題が扱われており、小説や詩まで出てくるので、適切な表現のできていないところ、誤ったところがあるのではないかと気になる。
お気づきの点、お教えいただければありがたい。
1999年7月 中村桂子
羊のドリーは、当時日本でもニュースになっていて
是か非か、どうなっていくのだろうと思った。
こういう本が出るくらいなので国内外でも
議論が活発で簡単なことではなかったのだろうと
思ったのだけど、中村先生のあとがきを読むと
日本だときちんとした議論が行われてなかったという。
日本向きの科学技術ではないのか、当時は。
クローンの考え方が、西欧というか
キリスト教と日本だと大きく異なるだろうことは
想像できるのだけど。
余談だけど中村先生の、アメリカ式と日本は
異なるという態度はとても共感させて
いただいておる次第です。
それはともかく、この書で扱っているテーマは
さらに追求する価値あるなあ、と
かなり昔の話題を掘り下げることに意味が
あるのだろうかという一方、意味じゃないんだよ、
そういうのは、という自分もいて、
そろそろ出勤の準備をせねばと
思っている寒い朝でございます。