立花隆さんの「対談」から洋の違いを考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
連発しております立花隆さんの書にて恐縮です。
対話者にも興味がありまして
多田富雄さんや日高敏隆さん河合隼雄さんたち。
全般的に難しい内容だったけれど
日高さんのドーキンス話からの文化論が
今は響いたのでした。
Talk2 ナチュラル・ヒストリーのすすめ
対話者 日高敏隆 動物行動学者
『利己的な遺伝子』から抜粋
立花▼
ドーキンスの『ザ・セルフィッシュ・ジーン』(邦題『利己的な遺伝子』)は日高さんがお訳しになったんでしたね。
日高▼
共訳ですけれどね。
立花▼これはどういうストーリーなのか、ごく簡単に説明していただけますか。
日高▼
われわれ人間を含めた動物を見ていく場合に、「個体」というのが一つの基盤になっているわけです。
しかし、その個体は実は遺伝子を生き残らせるための機械で、主役は遺伝子なんだというんです。
「遺伝子の乗物(ヴィークル)」という言い方をドーキンスはしている。
遺伝子は、自分のコピーが生き残って増えていってほしいと願っている。
そのためには自分が乗っている乗物=個体がうまく育ち、子供をたくさん作ってほしい。
で、個体を一生懸命操作してうまく生きるようにしてやっているんだという話です。
考えてみれば、はかない話なんですね。
仏教の無常観に通じるような……。
立花▼
遺伝子っていうのは、物質的にはどんどん交代していくわけですね。
日高▼
そうとう激しく、常に交代しているでしょうね。
立花▼
そうすると、遺伝子が生き残るというときに、実際に何が生き残るのかというと、物質的にはどんどん新陳代謝して別のものになっていくわけだから、結局、継続して残るのは遺伝子が伝える情報だけなんですね。
そうすると、自己保存メカニズムを持つ情報が遺伝子だということになる。
遺伝子の仕組みというのが、どういうふうに生まれたのかは、結局よくわからないけれども、あるとき突然自己保存システムを作り出した情報が現れたわけですね。
日高▼
でしょうね。
しかしよくいろんな起源の話をするでしょ。
その場合、起源というのが本当にわかるんでしょうかねえ。
時々非常に疑問に思うことがある。
立花▼
生命の疑問を実験的に研究している人に聞いたことがありますけれども、起源全体のほんの一部について、単なる机上の理論でないことが、ある実験事実として、やっと何かある程度わかってきたのかなという感じですね。
しかし、生命の起源のワン・プロセスというのが何百万年という単位でしょう。
それを実験室でもう一回やってみると言ったってそれだけの時間はかけられないから、何百年間を、たとえば一週間なら一週間に凝縮するために、いろんな要素を濃縮してギュウッと詰め込むという方法をとる。
そういう場合、量が質に転換する可能性だってありうるわけですね。
日高▼
結果的に、違ったことをやっているかもしれない……。
立花▼
ええ、ああいう本当に歴史的に起きた現象で、しかも再生不可能なものは、やっぱりちょっと科学の範疇の向こう側にあるんじゃないかって気もしましたけれどもね。
(略)
ドーキンスに話は戻ると、実は僕はあの本を読んで、もう一つわからないことがあるんです。
例えば、個体が老いた場合、死んだほうがその遺伝子にとっては得になるんだという説明がありますね。
要するに子供、孫の世代にどんどん乗り換えたほうが、自分の遺伝子が生きる確率が高いからだという。
日高▼
ええ。
立花▼
だけど、死んで下の世代に遺伝子の再生産の作業を譲ったら、子供で二分の一、孫で四分の一って、親の遺伝子はどんどん減っていっちゃうでしょう。
反対にどんなじいさんになっても、引退しないで一生懸命ガンバって、若い女を相手にしてどんどん遺伝子の再生産をやれば、二分の一づつ再生産できるわけだから、遺伝子のサバイバル戦略としては、そのほうが得だってことにはならないでしょう。
日高▼
生殖できる間はね。
でも、できなくなってもまだ生きているわけですからね。
そうなると、やっぱり、子や孫と食糧資源だとか、空間資源を奪い合うというよりは死んだほうがいいということになるはずですよね、遺伝子にとってはですよ。
立花▼
要するに何でも遺伝子のサバイバル戦略なんだとドーキンスは言うわけですね。
だけどそのサバイバル戦略をになっている主体の遺伝子というのは何なんだと言う問題がありますね。
ゲノム(※)なのか、それとも個別の遺伝子なのか。
個別の遺伝子にそういうサバイバル戦略を支えるメカニズムがあるかと言ったら、ない。
DNAの自己複製メカニズムはあるけれど、それは盲目的に自己複製するだけで、個体の行動を通して発動される戦略なんてものとは関係がない。
ではゲノムなのか。
ゲノムには、確かに生存本能というか自己保存本能が組み込まれているだろう。
だから自己自身の個体を生き残らせるようには行動する。
だけど死んでしまったら、ゲノムにとってはそれで一巻の終わりですよね。
ゲノムは個体と運命共同体だから絶対にサバイバルできない。
ゲノムを構成していた個別の遺伝子は、二分の一の確率でバラバラに生き残るチャンスがある。
でももし生き残ったといっても、別の個別遺伝子と一緒になって、別のゲノムに再構成されて生き残るだけですね。
別の主体になってしまう。
いってみれば、バラバラの遺伝子というレンガでできた建物を壊して、別のレンガと寄せ集めて別の建物を作るみたいな話ですね。
ドーキンスは遺伝子という言葉で、あるときはゲノムを意味させ、あるときは個別遺伝子を意味させ、両者をうまく混同させてしまうから、つい話にのせられてしまうけれど、よく考えるとおかしい。
個体は自己の遺伝子を残したがるなんていうけれど、このバラバラのレンガのレベルまでいったら個性なんてないですよ。
もともとそれは人全体が共有している遺伝子プールから適当に抜きだされたレンガなんだから、これは俺のものだなんていうのはおかしな話です。
だいたいこのレベルで比較したら、人と人の遺伝子なんてほとんど同じです。
人とチンパンジーだって、大部分が共有されているくらいですからね。
※=遺伝子Geneと染色体chromosomeの合成語で、生活活動に必要なすべての遺伝子を持った染色体の1セットを指す。
ヒトの場合、約30億塩基対のDNAで構成。米国に2年遅れて日本でも、91年から政府のヒトゲノムプロジェクトがスタートした。
日高▼
自分の遺伝子なんて言い方をするでしょう。
あれは、相当特殊なものを言っているわけですね。
で、非血縁種にはそれがないという前提でしょう。
ないかどうかわからないですよね、そんなことは。
だから、確かにあやしいところはあるんだけれど、それでも面白いストーリーではあるわけで、しかも前の人はそれを考えてこなかった。
そこを評価したいんです。
立花▼
結局読んでいて思ったのは、二分法的にどんどん論を進めちゃうでしょう。
どの行動でも、それはサバイバル戦略にプラスかマイナスかということでね。
しかし、現実には、プラスでもマイナスでもない、中立的な行動が生物の行動の大部分を占めている。
ある行動がずっと受け継がれて残っているというのは、サバイバル戦略にとってプラスだったからという場合ももちろんあるだろうけれど、中立的だから残っていることも大いにあるんじゃないか。
日高▼
結局西洋人というのは、非常にはっきり議論を持っていきますからね。
立花▼
ただ、こっちから見ていたものを、今度は裏側から見せてくれる、という面白さは確かにありますね。
日高▼
ドーキンスって人は、会われたことがありますか。
立花▼
いや、ないです。
日高▼
日本に来たことがあるんですよ、シンポジウムがあって。
その時に彼は前の講演者の話をずっと聞いて時々メモをとっているんですね。
「何のメモをとったの」ってきいたら
「どのスライドを借りるかということだ」と。
自分は一枚しか持ってきてない(笑)。
自分の番が来ると
「これはドクター誰それから借りたスライドだ」
と言って、それに彼自身の説明をつけていくんですね。
そのとき今言われたようなことを言っているんです。
ネッカー・キューブですか、立方体の絵がありますよね。
こっちが出っ張って見えるけれど、じーっと見ていると逆にへこんで見えるという。
自分の話はそれと同じようなものだ。
これによって事実は何も変わらない。
物の見方がまったく逆になるということなんだ。
それだけの話である、と。
ドーキンス氏の来日されてた時のエピソード
興味深い。
ネッカー・キューブって言い得て妙。
さらにスライドを借りようとメモって
ものすごい合理主義の香りがする行動。
スライド(ドキュメント)って
プレゼンする時に
ものすごく大事にする人と
そうじゃない人っているけど。
知的に説得しようとしたら前者だよなあ。
文字だけのドキュメントとか
表現力にセンスを感じられないドキュメントで
熱意だけでしゃべられても
胡散臭いもの。
って好みに分かれるところなので
否定はしませんけれど。
日高▼
西洋人には、どうせ神様の前では人間はみな不完全なんだから、しょうがない、自分は神様じゃないというような、どうもそういう文化があるんじゃないですかね。
ところが日本人は、そういう神様がいないものだから、自分が神様になろうとするところがあって、「ここのところはよくわからないし、こちらの方もありますが、こういうものもあるんです」とかね。
それで、聞いた方は「一体あなたは何が言いたいんですか!」ということになちゃうんですよ。
学会なんかでよくあるんですけれども、「それはこういう結論ですか?」と聞かれて、「いや、私は、そういう大それたことは申しません。こういう事実を述べているだけです」というわけです。
しかし僕は、これは最も謙虚じゃない態度だと思いますね。
大体事実なんてものが、ほんとうにあるかどうかわからないはずでしょう。
本人がそう思ったものを言っているだけの話なんだから。
それより「私はこういうことではないかと思います」と言ったほうが、ずっと謙虚になる。
その辺りのことが、日本人と西洋人の場合、全く反対になっているようですね。
よく笑い話をするんですけれども、フランスで家に招かれて行くと、テーブルに花が生けてある。
「この花は綺麗ですね」と僕が言ったら、なぜだと聞かれたんです。
これは一瞬詰まりますね(笑)。
仕方ないから、花の取り合わせがいいとか何とか言って。
で、また別の家に行ったときに、また「なぜだ」と聞かれたんです。
三軒くらいそれをやられたので、三軒目のときには
「何軒の家で、僕がそう言ったら、なぜだと聞かれたけれども、そういうふうに言うのはなぜだ」と聞いたんです。
そうしたら向こうが困っちゃってね。
「よくわからんけれども、おそらく自分は神様じゃないから、断定的に”これは綺麗だ”と言ってはいけない。そういう権利はないんだとみんな思っているんじゃないか。こうこうこうだから、自分は綺麗だと思うふうに言わないといけないと思っているんだろう」
というんです。
立花▼
外国の美術館なんかに行くと、必ず美術館の専門家のガイドによる館内ツアーがあって、ガイドが何人もの客を率いて、この絵はどこがどういうわけでいいのかという解説を延々やって、みんな熱心に聞いているでしょう。
日本人っていうのは、どちらかというとそういう解説を聞くよりただ素直に鑑賞しようという感じがありますね。
その辺のメンタリティは、本当に違いますね。
日高▼
ヨーロッパの田舎で井戸端会議を聞くでもなく聞いていると、「なぜ」とか「なぜならば」という言葉が必ずたくさん聞こえてくる。
日本ではそんなことはないですから。
……いま突然思い出したんですが、アリストテレスの『動物誌』(※)なんかでも、とにかく「なぜならば」という言葉が、むちゃくちゃに多いですね。
※=自然が元来、身体などにおいて階層をなしているように、動物界にも階層が存在することを著し、人間は動物の中で最も神に近いとされている。
立花▼
東洋で発達したナチュラル・ヒストリーと西洋で発達したナチュラル・ヒストリーが相当違うというのは、その辺りのことも関係してくるんじゃないですか。
日高▼
東洋では「なぜ」という発想があまりないんですね。
アリストテレスの『動物誌』にワニの話が出てきましてね。
ワニが水の中でしばしば口を開けるけれども、普通の動物は下顎が、こう下がるものなのに、ワニは上顎が上へ動くって書いてある。
そこは実はヘロトドスの『歴史』からとっているんですがね。
それでやめておけばいいのに、
「なぜならば」
と来るんです。
「ワニは。ほかの動物とは上顎と下顎が逆さまについた動物だからだ」
「そうすると、舌は上顎についているはずである。ところがワニでも舌は下顎についている」
「なぜならば、そうでないと呼吸に困るからである」。
本当はね、ワニも下顎が下がるんですよ。
ところが、そうしながら頭を持ち上げるもんですから、下顎が動かないように見えるんで、上顎を上げたように見える。
立花▼
なるほど。
日高▼
「なぜならば」という説明は、全部うそになるんです(笑)。
立花▼
動物学の歴史には割合そういうのが多いですね。
日高▼
いや、物理だって何だって、そういうのは、たくさんありますよ。
ええ?ええええ?
日高さんってユニーク!面白い!
余談だけど80年代、
画家の横尾忠則さんの随筆に
宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の中に
「なんで来たのか?」と聞かれ
「来たいから来た」と答える場面があり
それが本当だ、として東洋の在り方を考察されてた。
そして「なぜ」を繰り返して結果的に
西洋は原爆を作ってしまったのではないかと。
全くの余談、この対談が掲載されていた
雑誌「マザーネイチャーズ」は
7号で廃刊してしまい、趣向を変えた
「シンラ」という
雑誌に変貌したようで。
であるならば、若かりしデザイナー時代、
新聞広告のデザイン制作で
「シンラ(SINRA)」一、二度担当しましたよ
90年代に。雑誌は2000年まで発刊されてたのか。
ってのは言いたいだけの昔話でした。
立花隆さんの「対談」から文明を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
- 作者: 立花 隆
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/05/15
- メディア: 単行本
生と死のパラドックス[対話者]荒俣宏
■立花
先日、イギリスへ行ってきたんだけど、そのときにコリン・ウィルソンに紹介されて、おもしろい人物にあったんですよ。
「いまの人間の葬り方は間違っている」と彼は言うんです。
人間が死んだあと、その死体を焼くのはもったいない、焼けば公害は起きるしエネルギーも使う。
これはエコロジーに反する。
いちばんいいエコロジカルな人間の葬り方は死体から堆肥(コンポスト)をつくることだと言うんですよ。
■荒俣
死体をリサイクルするんですね。
でも生命って、生きているだけじゃなく死ぬことも重大なんですよ。
全生物の生存システムを支える主要な食糧の一つは、生命それ自体なんですから。
■立花
その人は前から有機農法みたいなことをやっていて、堆肥作りの運動もやっていたんです。
堆肥って、日本だと生ゴミからつくるけれど、本当は、植物質に適度な量の動物質を混ぜると最良のものができるらしいですね。
彼はもともと、牧場とか食肉処理場で出る動物質のものを利用して、そういう非常に良質な対比をつくっていた。
それがある日、地元の新聞で自分はもうすぐ死ぬという人からの投書を読んだそうです。
人間は最期はいかにして死ぬべきかみたいなことが書いてあった。
彼は突然ピンときて自分も投書した。
人間が最も有効に死ぬためには、自分の体を土に戻して堆肥になるのがいちばんいい。
死体を切り刻んで、堆肥の発酵槽に入れて、いい堆肥をつくって畑にやる。
これを称して、コンポスト葬(堆肥葬)と彼はいうわけです。
しかし実は、コンポスト葬はアイデアができただけで、技術開発はまだなんです。
それで、すぐ人間でやるわけにはいかないから、とりあえず動物の死体でコンポストを作る技術を開発しようと、実験的なプラントをつくりはじめたところなんだそうです。
だから僕もその技術ができたら、その方法でお願いしますと言ってきた(笑)。
■荒俣
土に還れば、草ものびるし。
(略)
だいたい死についての考え方というのは、生の方を中心に考えられているわけですね。
でも、自然界にあってはごく少数の生きている生物が、それ以外の非常に大きな死によって支えられている構造になっている。
僕がおもしろいと思うのは、ダーウィンが進化論を考えるようになった原因に死がかかわっている、という点です。
一般的に見れば進化論は「いかに生きのびたか」を問題にしている説だと考えられていますが、実は発想の出発点は「なぜこんなに多くのものが死んじゃうんだろうか」ということなんです。
彼のおじいさんのエラズムス・ダーウィンは、「死ぬのが生物の仕事」といつも言っていて、たぶんそれが孫の発想に影響したんですね。
「死ぬもの」が「生きているもの」を支えている
から抜粋
■立花
荒俣さんは、ダーウィンの『ビーグル号航海記』を翻訳していますね。
■荒俣
ええ、その中でダーウィンが南米大陸に行ったら、そこにはウマや巨大な哺乳類、大きなナマケモノなどの骨がゴロゴロあって、それこそ化石の銀座みたいな場所だったというところがあるんです。
自然は豊かなのに、一万年くらい前まで棲息してたウマなどが全部死に絶えている。
なぜこんなにたくさん死ぬのか、なぜ種が全滅しちゃうのか。
それが大きな疑問となって、もしかしたら死ぬ理由があるんじゃないかと考えはじめた。
その結論が自然淘汰説なんです。
つまり彼が考えたのは、生物はいろいろな災害や環境の変動に備えて、あらかじめ「死」を織りこんで生命の全体数を生産しているのではないかということだったわけですよ。
魚が何億も卵を産むのは、大量に死んでもある数字を残すという戦略があるからで、そうでなければ、あんなにたくさん子供を産んでも仕方がない。
生物の多様性(バラエティ)についても同じことがいえる。
だからなぜ大量死が必要なのかというところを問い直せば、逆に生物の生きる戦略というか、進化が明確にわかってくるに違いないと考えたんです。
そこで思いついたのが、「死ぬもの」は「生きているもの」を支えている、そういう考え方でした。
自然淘汰というと、種内とか種間競争があって、弱いものが負けて適者が生存することだと考えられています。
「負ける」という言い方だからなんとなく競争と思ってしまうんですが、考えようによっては「お前は生きなさい」と死ぬほうが生き残る方に譲っているともいえる。
にもかかわらず、時代が経つにしたがって、ダーウィンの考え方の中の「生きるための闘争」という側面だけに光が当てられ、大きく発展を遂げてしまった。
それが、実はいま、我々の生死の問題にもかかわってきている。
たとえば、ダーウィンの説を利用した病理学者に博物学に転じたE・メチニコフ(1845〜1916年)という人がいるんです。
■立花
人間の体内を一つの生態的なフィールドとして、体内の生存競争を唱えた人ですよね。
■荒俣
ええ。この人が出てから、死や病気の概念も変わった。
それまでは、人は体が衰弱したり、事故に遭って死ぬとなっていたけれど、彼は個体内にダーウィンの考えを全て当てはめ、体の中で白血球の集団と細菌の集団が闘っていて、白血球が負けると細胞全体の大量死=個体の死になるとした。
このイメージって、まさしく大量死から種の絶滅にいたる光景でしょう。
われわれは自分の死を、たとえば脳死とか心臓停止のレベルで考えてますが、メチニコフは種の絶滅というレベルで個体の死を考えた。
これはすごい考え方で、結果として、個体の死の問題と種の絶滅の問題がつながっているという最大の幻想をつくりあげてしまった。
その結果、死ぬことは生存競争に負けることだという概念になってきて、みんななんとか死に勝たなければいけない、科学から哲学からよってたかって死をいかに遠ざけるかということになってしまった。
ダーウィンやメチニコフ以前は死について、ぜんぜん違うとらえ方をしていたと思うんです。
むしろうまく死ぬとか、キリスト教でいえば死んだ後にわれわれは解放されるとか、日本でも浄土に行けば助かるみたいな考えがあって、むしろみんな死を楽しみに待っていた面がなくもなかった。
だから先ほどのコンポスト葬の話は、ダーウィン以前の死の考え方というのか、むしろダーウィンの出発点である死有用論のおおもとにに戻ったのではないかなという感じがしました。
■立花
別の角度から見てみると、人間の発生過程でも同じように大量のものが死んで、少数のものが生き残り、それが生命体になっているという現象がある。
一番典型的なのは神経細胞で、脳の神経細胞なんて胎児の段階で半分以上が死んでしまうんですよ。
■荒俣
え、そんなに死んじゃうんですか。しかも細胞は代謝しませんから、死んだら終わりですよね。
■立花
生き残ったものがわれわれの脳になるんです。
何が死に、何が生き残って生き続けるのか、そのプロセスはわかっていないけど、その大量死があってはじめて脳というものができてくる。
だから個体の発生過程にもやはりそういう現象はあるんです。
■立花
魚は卵という形で外に出てから死ぬから目立つけれど、人間は体内で大量の卵子が死んでいる。
もっとすごいのは精子でしょう。
一回何億でそれもだいたい全滅しちゃう。
生涯の射精総数はわからないけれど、それに数億掛けるのだから、これはほとんど魚並みですよ。
■荒俣
なんか、魚よりも多いかもしれませんね。すごいなあ、われわれの死も。
■立花
だから、いわゆる爆発的な生命死というのは人間の場合もあるんですよ。
■荒俣
そういうふうに、われわれはいかに多くの死を織り込みながら生きているのかを考えると、一面では、せっかく生かしてくれてるんだからなんとか生きなきゃいけないということも倫理としてあるけれども、もう一面では、われわれがいつ死の側にまわったとしても、次の生を生かすという点でそう無意味なことではない、という感じもありますね。
■立花
生命体の問題だけじゃなくて、それを精神現象に拡張して考えても、生は大量の死に支えられているということがある。
たとえばこうして言葉をしゃべっているときでも、ちゃんと生き残る言葉の陰には、しゃべるまでに頭の中をうごめいていた無数の言葉がある。
その比といったらすごい数ですよね。
■荒俣
そうですね。
そうしてみると、死というものは、生以上にわれわれに身近な存在で、どこにでも偏在しているといえますね。
かなり興味深い。
ダーウィンは、進化を「生」からでなく「死」から
発想を得たっていう点。
それはきっとあっただろうなと。
■立花
今は人間が自然的な生物ではなくなって、マン=マシン系というか、人間一人ひとりの個体に人工物が付随していて、資源消費が何倍にもなっている。
例えば先進国だと自動車を一人一台持っていて、その車は人間が呼吸する何百倍、何千倍の空気を使っているわけです。
■荒俣
実際には何十億の人口に何千倍かを掛け算しなきゃいけませんね。車だけではなくて、工場やビル、発電所などを考えていくと、あんなに大きな巣を作る動物はいないわけですから。バカですよね、ほどんと(笑)。
おまけになかなか死なないという条件が加われば、地球は危機的状況になるでしょう。そろそろ死はいい事なんだぐらいのことは強く言ってもいいのではないかと思います。
■立花
エコロジー運動でもラジカルなグループは、人口をもっと縮小しなければダメだという主張をしています。
実際にはいろんな自然条件の制約から考えて、地球環境が保持可能な人口数を計算してみるとそうしなければだめなんです。
■荒俣
多くの同類の死によって生を支えてきたのが生物の種であるのに、人類はそうではなくなってしまった。
だから支え方をもう一度元に戻さなくてはいけなんでしょうか。
人類の今の状態は、効率がよすぎてしまい、少しの死で多くの生を支えるようになってきてしまった。
ちょうど逆ピラミッド状態になっている。
■立花
人間が自然の食物連鎖の中に組み込まれていたら、ここまで人口が増えなかったわけですね。ここまで増えたのは、人工的な食物連鎖系をつくったのが理由です。
言っていることはわかります。
だからと言って、今のこのご時世において
最近話題になった高齢者排除説は違うと思います。
そういう展開にはお二人はならなかったろうな。
ちなみにこれに対して良いと感じたまとめがあった。
それにしても「死」が「生」を支えてたって話は
何かに似てるなって思ったのは、
内田樹・平川克美さんと養老先生が教育論を
話していた鼎談で養老先生曰く教師時代に
成績ビリの生徒に向かって
「お前がいるから他の奴が助かってるんだぞ、
お前ビリで偉いんだぞ、お前を切ると(やめさせると)
他のやつがビリになるだろう!」って
いってたって話だった。
(そうしてやる気を出させてたってことかと)
それからすると、自分もほぼ成績はビリだったので
学校時代役に立ってたのだな!と勇気が沸きました!
ってそんなので湧くんじゃねーよ、今頃。
立花隆さんの「前段」から無知の知と死を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
はじめにのような
前段のような位置付けから。
平易な表現のようでいて、いつもながら
とてつもなく深い。
序論と解題 立花隆 から抜粋。
人間存在をトータルにとらえようと思うと、関心領域は次から次へ広がっていかざるを得ない。
人間というものを、その物質の相において根源的なレベルでとらえようと思えば、分子生物学までいかざるを得ない。
それが『精神と物質』などの仕事になっている。
人間を物質の層においてではなく、精神の相においてとらえようと思えば、意識の世界の探究に入っていかざるを得ない。
そして、あまりにも広大無辺な意識世界を探ろうと思ったら、これまた、その世界の内包と外延を知るために、異常な意識体験を知ることが重要になってくる。
臨死体験から始まって、神秘体験など、さまざまな意識体験の世界に興味を持つようになったのは、そのためである。
このようにして、人間存在というものをあらゆる相においてとらえようとすることで、私は結局何を望んでいるのか。
一言でいえば、私は人間としての見当識を得たいのである。
見当識というのは、医学用語で、自分の置かれている状況を客観的に正しく把握する能力をいう。
脳機能の異常ないし意識レベルの低下を疑われる患者に対して、医者はまず見当識がどの程度あるかを検査する。
そのとき使われる定型的な質問が、
「ここはどこ?」「あなたはだれ?」「いまはいつ?」
という三つの質問である。
この三つの質問に正しく答えられれば、その人の意識は、百パーセント正常と見なされる。
この三つの質問に正しく答えられるということは、運動機能をのぞく脳のほとんどあらゆる機能が働いているということを意味するのである。
失見当識といって三つの質問に対する答えのいずれかがおかしければ、その機能をになっている脳の部位が障害を受けていると推測されるのである。
さて、この三つの質問だが、そのすべてに、真剣に、本質的に答えようと思うと、なかなか答えられない。
「ここはどこなのか」。
通常は住所を答えるか、病院の中と答えれば、よしとされる。
しかし、もっと本質的な意味で、ここはどこなのか。
我々は、日本のある町に住んでいる。
そして、日本は地球の北半球にある。
地球は太陽系にあり、太陽系は銀河系にあり、銀河系は宇宙にある。
ここまではたいていの人が答えられる。
しかし、だが、この宇宙とはどこなのかと問われたら、なんと答えればよいのか。
「ここはどこ」という問いに対しては、通常、住所(アドレス)、つまりより大きな座標系の中の一定の位置を指定することが答えとなる。
太陽系がどこにあるかは、銀河系内の特定の位置を指定すればよいし、銀河系がどこにあるかは、我々の宇宙の特定の位置を指定すればよい。
だが、我々の宇宙がどこにあるかを指定するための座標系はどこにもないのである。
つまり、我々はこの宇宙がどこにあるかを指定する術がないのである。
すなわち、我々は、本質的に我々がどこにいるかを知らないのである。
「いまはいつ」という問いに対しても同じことだ。
いまはいつなのか。
通常は、西暦(または日本暦)○○○○年○月○日○時○分と、時間的座標軸の一点を指定することで答えられる。
しかし、ではこの西洋暦という時間軸は、無限の時の流れの中のどこに位置しているのか。
これまた我々には答える術がないのである。
そして、「あなたはだれ」なのか。
これまた簡単には答えられない。
通常は、名前を正しく答えれば、自分が誰かわかっていることになる。
しかし、名前などというものは、ただのレッテルに過ぎない。
名前というレッテルをはぎとったあなたはだれなのか。
通常は、住所、年齢、職業、親子兄弟の名前などを答えれば、自分がどういう人間かわかっているとみなされる。
要するに、自己の存在を、時間と空間の中で位置付け、さらに社会的人間関係の網の中で位置付け、個人的人間関係の網の目の中で位置付ければ、一人の人間を定位づけられると考えるわけである。
しかしこれは、その人間を外面的にとらえ、いわば個物としての位置情報(空間的、時間的、機能的)を並べることによって個有性を表現しようとする発想である。
しかし、あなたは個物ではないはずだ。
単なる位置情報の集合体ではないはずだ。
では、あなたはだれなのか。
結局、わたしたちは、自分がどういう存在なのかよくわかっていないのだ。
自分がどこにいるのかもよくわかっていないし、いまがいつなのかもわかっていない。
わたしたちは、この無限の空間の中において、悠久の時の流れの中において、本質的には、失見当識状態にあるのである。
そして、何がわからないといって、とりわけわからないのは、わたしたち自身の存在である。
考えれば考えるほど、私がここにこうして生きて存在しているということは、不思議なことである。
私はなぜここにいるのか。私はいかにしてここに存在するようになったのか。
それはそうだけどさあ…
って思いは拭えない。
そんなこと言ってたら
キリがないではないですか、みたいな。
しかし、よく読むと本当にその通りだし
立花さんの思考の整理というか
論理展開って恐れ入る。
博識の立花さんが
「自分がどういう存在なのか
よくわかっていないのだ」
と言われたら、自分なんか
「まったく何も知りません」って
いいたくなりますよ。
空海晩年の著作『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』は、空海の密教理論の精髄をなるものとして知られている。
その冒頭の序に次のような一節がある。
生れ生れ生れ生れて生の始に暗く
死に死に死に死んで死の終に冥し
生と死の向こう側は人間にとって同じように永遠の謎なのである。
近代の化学主義によって立つ人は、死の向こう側には何もない。
従って謎もないというであろう。
そういうのはたやすい。
だがそういいきった途端に、心の片隅で、本当にそうなのだろうかという疑いが首をもたげてくる。
先に引いた空海の『秘蔵宝鑰』には、次のような一説もある。
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲せることを識らず
狂っている人間は、自分が狂っているということを知らないし、あらゆる目が見えない生物は、自分が目が見えないということを知らない、というのである。
人でも生物でも、自分が知っている世界だけが世界のすべてだと思ってしまう。
自分に見える世界だけが世界のすべてだと思ってしまう。
知らないものを「ない」といい、見えないものを「ない」といってしまう。
正しくは、「ない」ではなくて、「私は知らない」または「私には見えない」というべきである。
しかし、人間は知らないことを知らないままにしておくことには耐えられない動物である。
知らないことはなんとかして知ろうとする。
しかし、どんなに努力してもわからないことはあるものだ。
原理的にそれを知ることが不可能というものがある。
知る方法がないということがある。
その場合、健全な立場は、不可知論に立つことである。
わからないことはわからないとすることである。
わからないことについては判断中止(エポケー)をすることである。
しかし、人はなかなかそういう健全な立場をとることができない。
そして、イソップの「すっぱいブドウ」のキツネの立場を取りがちである。
自分が跳びついてもとることが出来ないブドウはすっぱいのである。
いくら知ろうとしてもわからないことは、知る価値がないことか、そもそも存在しないことにしてしまいたいのである。
境界内の人間には、教会の外に何かあるかどうかすら知り得ないはずなのに、「境界の外には何もない。何もあるはずがない」と断固としていいはる人は、すっぱいブドウのキツネと同じなのである。
イソップのキツネと違って、人間の場合には、手に入らないものに対して、もう一つの別の心理的対応がある。
すっぱいブドウに対して、「甘いブドウ」の立場とでもいったらいいだろうか。
手に入らないものがいいものかどうかもわからないのに、それはとてつもなくいいものだと思い込み、より一層欲しがり、あこがれてしまうことである。
失恋した場合で考えるとわかりやすい。
「なんだ、あんな女。ブスで下司でつまらない女」とたちまち相手の評価を下げて、すぐ立ち直るタイプがすっぱいブドウタイプ。
失恋するや、より一層相手を素晴らしい女性と思い込み、まるで天使か天女の如くあがめたてまつるようになってしまうのが甘いブドウタイプである。
死後の世界は天国、極楽であるとするのは、甘いブドウタイプである。
宗教はだいたいそう教えるが、別にその根拠があるわけではない。
どんな宗教の経典を読んでも、天国の存在証明はない。
真実はこれこれこうであるぞよ、というドグマの形で、証明抜きの教祖のご託宣として下されて終わりなのである。
それでも、信仰の世界に入ってしまった人は、証明の有無などまったく気にせずに、それを信じてしまうのだろうが、信仰の外にあるものには、そう簡単には信じられない。
世の大半を占めるすっぱいブドウタイプと甘いブドウタイプのあいだにあって、健全な懐疑心を堅持してエポケーをつらぬける人は意外に少ない。
なぜなら、先に述べたように、エポケーは、知りたがりを本性とする人間の性に反するからである。
しかも、死はすべての人に一歩一歩確実に容赦無く迫ってくる。
死が身近に迫ってくれば、誰でも死について考えないではいられなくなってくる。
エポケーなどとのんきなことをいっている場合ではないという気がしてくる。
死は人生最後のライフステージである。
あるライフステージから次のライフステージに移るとき、人は不安と緊張でいっぱいになる。
これまで体験したことがなかったことを体験しなければならないからである。
小学校に入学するときも、中学校に入学するときも、就職するときも、結婚するときも、みんなドキドキしたはずである。
とはいっても、そうしたライフステージの移行については、先輩を見習うことができた。
経験者がいろいろ教えてくれた。
お膳立てもしてくれた。
手引書もあった。
同じことを同時に初体験しなければならない仲間もいた。
しかし、この死という人生最後のライフステージに関してだけは、先輩を見て学ぶということが出来ない。
死にいたる過程は見ることができても、死そのものは観察できない。
もちろん経験者(死んだ人)が教えてくれるということもない。
手引書があったとしても、その内容は本当かどうかわからない。
体験を共にしてくれる仲間もいない。
たとえ恋人同士で心中するとしても、死は共有できない。
本当の死の瞬間に相手がどのような意識体験をしているのかはどちらにも永遠にわからないのである。
若い頃は死が怖かったという立花さんは
年をとってそれは和らいできたという。
身近に接してきたり、年齢だったり、
大量に取材してみて考えたりという
いくつか理由があるとして最後におっしゃるのは
死というものが、生命の本質であるということに気がついたからである。
死は、命あるものにしか訪れない。
生きているものしか死なない。
生きているからこそ死ぬのである。
あるものが生命を獲得するということは、同時に、一定期間後の予定された死を獲得するということでもあるのだ。
我々はいずれ死ぬことを条件に今生きているともいえるのである。
生命は死すべき宿命と同義語といってもよいのである。
だからこそ、生あるものは、死に思いをいたさざるをえないのかもしれない。
私もいずれ死ぬだろう。
それまで私は、相変わらず、
「生とはなに」、「死とはなに」、
「ここはどこ」、「いまはいつ」、「わたしはだれ」
と繰り返し問い続けるだろう。
立花さん亡くなってから、
先月で丸二年が経過。
扱っておられるテーマに普遍なものが多く
今読んでも響くし、この先もおそらく
価値は高いのではないだろうか。
さらに、昨今ジャーナリズムの是非を思うこと多く
日本や世界の政治、コロナ禍を経た世界や
ウクライナ戦争をどのようにご覧になっただろうかと
思う人は、かなり多いのではないだろか。
少なくとも自分は痛切に感じる。
余談だけど初版は1994年で平成6年
松本サリン事件の発生した年だった。
立花隆さんの読書日記から我が身を引き締めた話 [’23年以前の”新旧の価値観”]
巻頭特集「読書の未来」
対談相手 石田英敬(東京大学附属図書館副館長)
若いときには知的な背伸びを から抜粋
■立花年を取って最近よく感じるのは、昔、すごく読むのに苦労した本を読み返すと何でもなく理解できてしまうことです。
■石田なるほど。
■立花それでこう考えたんです。
読む行為というのは本来単純なものなのに、自分で複雑にして難しくしているだけなんじゃないか、と。
読む行為の中身は基本的に概念操作ですよね。
脳がやっているのはせいぜい四則演算、微分積分くらいの単純な計算で、それを組み合わせて、読むという行為が成り立っていると思うんです。
若い時は、その組み合わせ方を自分自身で複雑にして、あるいは一見複雑なものを単純なものの集積に関平することができなくて、だから難しいと感じたんじゃないか。
読書をしたり、あるいは今日、石田さんとお話ししたりする際に使う脳の高次機能に費やされるリソースの割合は案外、小さいのではないかと思います。
手足を動かしたり、体のいろんな恒常性を維持したりするために費やされているリソースのほうがはるかに大きい。
そういう活動は基本的にルーチン化することで半自動的にすませることができるということがわかって、脳は脳内細胞の活動領域やメモリ領域の割り振りを大幅に合理化している。
年を取るとそういうことができる。
つまり、脳細胞をスカスカになった状態で使ってすませている。
若いときに脳全体をハイパー活性化状態に置いて、脳細胞全体に脂汗を流させていた頃にくらべると脳を飛躍的に合理的に使えるようになったのではないか(笑)。
それで昔難しいと感じた本を難しいと感じなくなる。
そういうことが起こっているんじゃないかと思うんです。
いわゆる老人力が発揮されている状態です。
■石田どうでしょう、たぶん違うと思います(笑)。
私には立花さんの文化的コンピテンス(能力)が高くなった結果、少ない努力で理解できるようになったと思われますね。
私が大学一、二年の学生たちによくいうのは、「100パーセント理解できるような本は読んでもしょうがない」ということです。
なぜかというと、完璧に理解できる本をわざわざ読む必要がないからです。
そうかといって半分以上分からないとちんぷんかんぷんになる。
だから六割とかそれくらいわかるような本を読むのがいいでしょうね。
電子書籍は紙の本を殺すのか
から抜粋
■石田いまアップルのiPadなど、スレート(石板)型のデバイスが出てきていて、それはそれで便利ですが、コデックス(冊子本、綴じ本)の備えている機能はなかなか捨て難い。
むしろスレート型デバイスの登場で、コデックス型の利点があらためて認識できるようになりました。
■立花ヴィクトール・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』
という15世紀パリを舞台にした小説に、「コレがアレを殺す」という有名な章がありますよね。
そこにノートルダム大聖堂の司教補佐クロード・フロロが、印刷されたばかりのグーテンベルクの印刷本と寺院の大伽藍を比較して、「コレがアレを殺すだろう。書物が建物を」とつぶやく場面が出てきます。
グーテンベルクの活版印刷が登場したからといって、それで建物が消えることはありませんでしたが、大聖堂に象徴されるキリスト教が絶大な権力を振るっていた中世は終わった。(※)
写本に代わる印刷本という新しいメディアの登場が文明の交代を促したわけです。
いま、これまでの印刷本に代わる電子書籍が登場して普及しつつあるわけですが、15世紀と同じように、「コレがアレを殺す」ことはありえるんでしょうか。
■石田
iPadのような電子的なスレートが、コデックスを殺すのか、ということですね。
いま立花さんがおっしゃったように、実際にグーテンベルクの印刷本がノートルダム大聖堂を殺すことはありませんでした。
メディア史研究でも一般に、古いメディアを新しいメディアが完全に乗っ取ってしまうとは考えられていません。
広く受け入れられているのは、成層論、つまり、新しく登場するメディアが古いメディアを完全に消し去るわけではなく、層が推積していくように、各メディアの関係が変わっていくという説です。
これまで新しいメディアが登場するたびに「コレがアレを殺す」という議論が繰り返されてきましたが、スレートとコデックスの関係だけでなく、テレビ、ラジオ、映画などマルチメディアとの関係についても考えなければならないと思うんですね。
マーシャル・マクルーハンは、活版印刷技術が生み出した文化圏としての「グーテンベルクの銀河系」による文明が間も無く終焉を迎え、テレビに見られる視覚優位の電子メディアによる文化圏の到来を予見しました。
しかし、実際に今見られるのは、マクルーハンが描いた未来像より複雑な状況です。
たしかに電子メディアは世界を席巻していますが、活字メディアの中心的役割を果たした文字が消えてなくなったわけではなく、むしろインターネットの登場で文字が復権してきたとも言えます。
ただし、文字は復権したけれども、紙の上の文字においてではないという点が状況を複雑にしているわけですが。
■立花
たしかに、メール、メッセンジャー、ブログ、ソーシャルネットワーキングサービスなど、ウェブ上のいたるところに文字が躍っている。
インターネットの登場で、人類がやりとりする文字量は爆発的に増えたことは間違いありません。
■石田
特に、何かコメントを付けるというのが、インターネットでの発信活動の柱の一つですよね。
記事、動画、写真などに対して多数の閲覧者がコメントを付ける。
それによってウェブは成り立っています。
動画共有サービスのニコニコ動画なら再生中の動画そのものにコメントを表示させることもできる。
しかし、現状では、コメントのつけ方に秩序が確立していません。
私はそれがインターネット上でも起こる問題の背景にあると考えています。
ウェブ上で、あるメッセージなり、コンテンツなりにコメントを付け加えるとはどういう行為なのか。
それは紙の本で言えば、注釈とか脚注をつける行為に非常に近いと思うんです。
注釈の付け方には、意見の表明、引用、参考文献の例示などいろいろある。
フランスのポンピドゥ・センターのグループと共同研究で、注釈のカテゴリーの洗い出しをしているところですが、いずれはそこで得られた成果をソフトウェアの開発に活かしたいと考えています。
先ほど立花さんが学生時代にゼミで『荘子集解』を読まれた経験を話されましたが、注釈のつけ方には書物の歴史はじまって以来の長い伝統があります。
その中で、注釈をつける行為が成熟し、制度化されてきた。
しかし、書物以外のメディアについては、それがまだ確立していません。
注釈をつけるとは、コンピュータ用語で言えば、「メタデータ」を付けるということです。
新しいメディアに対してどんなメタデータを付け加えるか。
その手段がこれから文化的に洗練されていくんだろうと考えています。
初出2013年なので、この時から10年経過。
注釈のメタデータのお考えについて、なるほどなあと。
注釈・脚注って大事で、深めるためだけにあるのでなくて
そこから膨らむこともある知的好奇心。
付け加えたいのは、インターネットの特性として
リンク機能もありますよね。
注釈を置くよりリンクさせて補足みたいな。
リンク以外にもJava Scriptでページ上に小窓とか
フキダシみたいのもだせますしね。
それと「コレがアレを殺す」記述についても補足で
この対談だけだと少しわかりにくかったので
この対談の前に立花さんが同じ引用を踏まえて
「まえがき」で言っていたことと合わせて考えると
分かりやすかった。
まえがきから抜粋
※グーテンベルク革命によるルターの書物の爆発的な広がり(ほんの数年で30万部。ドイツの出版物の半分以上がルターの書物となった)が、宗教改革をもたらし、カトリック教会のヨーロッパ精神世界支配を危ういものにしたのである。
大聖堂の建物は、つまり宗教とか権威のメタファで、
本というのは一般の人たちの知識のメタファで
それとの闘争の始まり、みたいなことかと。
今自分のよく読む本のテーマに置き換えるなら、
神と科学、みたいなものにも通じるなあと。
拡大解釈しすぎかな?
デジタル・キュレーター から抜粋
■立花今や知を俯瞰するということが難しくなってきましたよね。
サイエンスに限っても全体を俯瞰するなんてことは誰にもできません。
あるカテゴリー、たとえば生物学についてはフォローするということができても、同時に他の物理学、化学についてもフォローできるのかといったら、それは極めて困難です。
全体をフォローしたいと思っても、それでカネを稼いでいくということがなかなか成り立たないですね。
出版の世界もかなり弱ってきていますから。
僕なんかいままではかろうじて生きてきましたけれども、どこまでこういうスタイルの仕事が続けられるのかといったら、もう瀬戸際だと思います。
■石田
いま人間の代わりに、知をインテグレートしようとしているのは、コンピュータです。
■立花
株取引の世界がまさにそうですよね。
株取引はいま、コンピュータですべて統御されています。
金融会社が株取引のための計算能力をひたすら高めていった結果、いまや人間は取引のほとんどすべてをコンピュータにお任せ状態だそうです。
そういう状況は社会の至るところで見られるようになっています。
■石田
ええ。でも私はやはり人間の知が介在しない世界は怖いと思うんです。
もちろんだからといって昔に戻るのではなく、ITを基盤にしなければならない。
IT化で、テキスト、映像、音楽など、あらゆるメディアがデジタルな情報になりました。
インターネットが本格的に開始された1995年を起点とすると、それから10年間くらい、情報はバラバラなままだった。
それが再編集、あるいは構造化されつつあるのがその後の展開だと思います。
インターネットの世界はボトムアップが基本なので、放っておいても、いずれ構造化は進むのかもしれません。
しかしトップダウンで秩序を与えないと失われるものが大きいでしょう。
それではどのようにインターネットの世界に秩序を与えるのか。
そこに大きな示唆を与えてくれるのが書物だと思うんです。
■立花
書物が歴史的に培ってきた構造は、あらゆるものを考える基本だと思います。
ぼくの読書日記がその助けになれば嬉しいですね。
ということで、立花さんの書評がこの後続く。
その中から3つだけ引かせていただきます。
私の読書日記 2006.12〜2013.3
脳科学・日本のメメントモリ から抜粋
ジル・ボトル・テイラー
を読み出したらところ、これが面白い。著者は脳科学者。ハーバード大の脳組織のリソースセンターの研究者。
ある朝突然脳卒中に襲われる。
左目奥から「突き刺すような痛み」を感じたかと思うと、左脳の知的能力(言語能力など)をほとんど失ってしまう。
身の回りで起きていることの状況確認能力が失われ、判断能力がなくなり、肉体を自分で主体的に動かす能力も急速に失われてゆく。
左脳の中心部に広範な脳内出血が起きたのだ。
脳機能のすべてが「ゆっくりモード」に入っていく。
ポケットから電話番号表を記した紙を出し、電話をかけるという単純な行動すら、なかなかできない。何十分もかかってしまう。ウメキ声を出す以外、発語もできない。
パニックになって不思議でない状況の中で、脳は驚くほど静かな幸福感に満たされていた。
からだの感覚が失われ、からだと外界の境界がはっきりしなくなる。
意識が宇宙と融合して「ひとつになる」。
それは仏教徒のいう涅槃(ニルヴァーナ)に近い状態だった。
助けを呼びたくて焦っている自分がいる一方、説明のつかない幸福感を受け入れる自分がいた。
これはまことに不思議な本である。
脳科学者が自分の脳が壊れる過程と、それが回復していく過程(一応の回復は最初の8ヶ月間。フルに回復するには8年かかった)を微細に内側から語っていくことで、これまでのいかなる脳科学書も及ばぬレベルで、脳の真実が解き明かされていく。
破壊されたのが左の脳で、それが復活再生するまでいきのびさせてくれたのが右の脳の力であったところから、著者が経験的に語る独特の右脳・左脳(特に14章)は実に説得力があって面白い。
人間にはどちらの脳機能も重要だが真の世界認識にいたるには両方の機能が必要という。
「左脳マインドはわたしを、いずれ死にいたる一人の脆弱な人間だと見ています。右脳マインドは、わたしの存在の真髄は、永遠だと実感しています。」
(2009年4月)
なかなかにしびれそうな書籍で。
脳梗塞にもあてはまるんだろうか。
読んでみたいと思わせられた。
見出しにあるメメントモリ(死を忘れるな)は
この後の日本の書のことです。
これ以降見出しは立花流のもので
いくつかの書を紹介しているという
そういう法則です。ちなみに。
原発政策、オウムの精神史、移行化石と進化 から抜粋
アメリカではいまなお、ダーウィンの進化論を信じない人がほぼ半数いる。
昔から、ダーウィンの進化論を信じない人々の主要な論拠の一つが、種が進化するときの中間形態の化石が発見されていないということにあった。
しかし、近年、見つからないがゆえに”ミッシング・リンク”と呼ばれてきた中間形態の化石が続々と見つかりはじめている。
ブライアン・スウィーテク『移行化石の発見』はそのような驚くべき化石の発見史の物語。
たとえば、クジラは陸に上がった哺乳類が再び海に戻った種だが、陸上を4本足で歩いていた時代の化石が見つかっているし、鳥は恐竜から進化したという説が長らく本当のこととされなかったが、移行期の羽毛におおわれた恐竜の化石が発見されて本当だと信じられるようになった。
面白いのは最終章「進化は必然か偶然か」。
ある環境が与えられたら、ある進化が起こるのは必然なのか。
別の言い方をするなら、この地球環境が人間を生み出したのは必然なのか。
ある進化が起きたとき、やり直したら同じ進化が起きるのか。
1988年ミシガン大学で大腸菌を使って壮大な実験が行われた。
全く同じ大腸菌群を育て、五百世代ごとに冷凍保存していった。
三万五百世代で重大な進化が起きた。
世代をずっとさかのぼって、サンプル解凍で多数のやり直し実験をしたところ、また三万世代で大きな進化が起きたが、進化の方向は違っていた。
さらに実験を続け四万世代まで来ているが、結論は、進化は偶然の上に偶然が積み重なって起きるのだから、同じ進化じゃ二度と起こらないというもの。
人間も同じで、この進化は偶然の積み重なりで起きた。
地球環境がさらに数億年続いても同じ進化は起こらない。
我々人間が滅んだら、人間が再生することはない。
(2011年4月)
この立花さんの言い回しは深く示唆に満ちて聞こえて
震撼するような、昨今の世界事情・環境問題。
読み手の今考えてるテーマやら知識量によって
変化してしまうってのも読書の面白くて
かつ危険なところだろうな。
余談だけど、三島由紀夫をいまいち本気で読めない
というか読まないのは危険すぎるから
というのがございますかな。太宰治もかな。
もう五十歳過ぎればそんなこともないけれどね。
突飛なるもの、進化と文明、アクターズ・スタジオ・インタビュー から抜粋
映画好きの人なら誰でも知っているのが、ジェイムズ・リプトンの「アクターズ・スタジオ・インタビュー」だろう。
アクターズ・スタジオ・インタビュー―名司会者が迫る映画人の素顔
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/06/01
- メディア: 単行本
アクターズ・スタジオは、1940年代にできたアメリカで最も有名な俳優養成機関だ。
そのスタジオにアメリカの俳優、演出家、作家、映画監督などが次々に呼ばれ、副校長でもあるリプトンが公開で行うインタビューは、世界百二十五ヵ国で放送され(日本ではNHKBS)、アメリカでは八千四百万世帯が見ているという超人気番組。
そのインタビューは驚くほど質が高く、映画演劇研究には欠かせない資料となっている。
本書『アクターズ・スタジオ・インタビュー』はその内幕を本人自身が詳しく語ったもので、きわめつきにおもしろい本だが、あきれる他ないのが、この本の作り。
目次もなければ索引もない(索引がなかったら資料価値はほとんどゼロ)。
内容も原著が厚すぎるので訳者が大幅に削ったという。
だいたいこの訳者は、94年開始のこの番組を数回しか見たことがない由で、その価値をほとんど知らない人らしい。
解説らしい解説もほとんどない。
(2010年7月)
立花さんっぽいなあ、と思う文章。
一刀両断。索引ない本は資料価値ゼロ、
とまで言い切る。
出版社で企画に携わる人、よく読んでください。
そして自分、出版の仕事じゃないけれど
立花さんが生きていたら
「君の仕事の仕方は価値ゼロだね」と
言われないようしないとと
身の引き締まる思いのする言葉だった。