①カール・セーガン氏の書から科学を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
映画「コンタクト」(1997)は公開ちょっと後に
見た記憶あり、面白く、いろいろ考えさせられた。
カール・セーガンさんの本は初めて拝読。
こちらも端的にいうなれば面白かった。
第一章 いちばん貴重なもの から抜粋
現実の世界にくらべれば、科学などはごく素朴で他愛無いものでしかないーーーそれでもやはり、われわれが持てるものの中でいちばん貴重なのとはのなのだ。
アルバート・アインシュタイン
(1879−1955)
飛行機から降りると、ボール紙になぐり書きした「カール・セーガン」の文字が目に飛び込んできた。
主催者側はわざわざ出迎えの運転手をよこしてくれたようだ。
私がここにやってきたのは、ある会議に出席するためだった。
そこに集まってくるのは、商業テレビ局の科学番組をレベルアップしようという、前途多難な課題にとりくむ科学者やテレビ関係者たちである。
「私は、ウイリアム・F・バックリーといいます」
ワイパーの音がリズミカルに響き始める。
「科学についていろいろ聞きたいことがあるんです。質問してもかまいませんか?」
ええ、もちろん。
しかし、話ししはじめてみると、バックリーさんが聞きたいのは科学の話なんかではないことがわかった。
空軍基地近くの基地に冷凍保存されている宇宙人のことや、”チャネリング”(死者の声を聞くという、とんでもない話)、クリスタル・パワー、ノストラダムスの予言、占星術、トリノの聖骸布(せいがいふ)といった話だった。
私はそのたびに、彼の期待を裏切らねばならなかった。
バックリーさんはある意味では、なかなか物知りだった。
たとえば、アトランティスやレムーリアといった「失われた大陸」にも詳しかった。
たしかに、海は今も多くの神秘を宿している。
しかし海洋学でも地球物理学でも、アトランティスやレムーリアの存在を裏づける証拠などない。
科学的な立場から言えば、そんな大陸など存在しなかったのである。
だんだん気が重くなってきたが、私は彼にそう告げるしかなかった。
雨の中車を走らせながら、彼はみるみるむっつりと不機嫌になっていった。
私は、突拍子もない話と一緒に、彼の精神生活の大切な部分までも否定してしまったようだ。
ただ真の科学には、こういった話と同じくらいわくわくさせられて、もっと謎に満ち、はるかに知的手応えのあるテーマがいくらでもあるーーーしかも、真実にもずっと近い。
はたして、バックリーさんは、星間空間を漂う冷たくて希薄なガスの中に、生命の構成要素である分子が存在することを知っているだろうか?
400年前の火山灰から、人類の祖先の足跡が発見されたことは?
インドがアジアに激突してヒマラヤ山脈ができたのだと聞いたことはあるだろうか?
皮下注射器のようなしくみのウイルスが、宿主となる生物の中に自分のDNAを注入し、細胞内の複写機能を破壊することは知っているだろうか?
あるいは電波を使って地球外知的生命の探査が行われていることは?
近年発見されたエブラという古代文明は、交易のためにエブラ産ビールの効能を宣伝していたことは?
いや、彼はそんな話を聞いたこともなかった。
量子力学の不確定性についてはまるで知らないし、DNAはあちこちで目にする三文字の羅列でしかなかったのだ。
世の「バックリーさん」たちは、言葉づかいもきちんとしているし、教養も好奇心もある。
宇宙の不思議に触れたいというごく自然な欲求も持っているし、科学のことだって知りたがっている。
それなのに、現代科学のことはほとんど知らない。
彼らのところに届く前にどこかで「科学」が抜け落ちてしまうからだ。
文化も教育も情報メディアも、こうした人々の役に立ってはいない。
社会がかろうじて与えるのは、上っ面な情報と混乱だけだ。
彼らは、真の科学と安っぽいまがいものとの見分け方を教えられたこともないし、科学の方法のことなどこれっぽっちも知らされていないのだ。
だまされやすい人たちを陥れるまがいものの説明は、そこらじゅうにころがっている。
一方、懐疑的な説はなかなか人の目に触れない。
それというのも、懐疑的なものは”売れない”からだ。
頭がよくて好奇心もある人たちは、もっぱら大衆文化からアトランティスなどの情報を仕入れているのだが、いいかげんなホラ話に出くわす機会は、誇張のないきちんとした説に出会う機会より、何百倍、何千倍も多いのである。
科学は不思議への思いをかきたてるが、それは似非(えせ)科学も同じことだ。
科学を大衆に伝えるのが下手だったり、伝える機会が少なかったりすると、すぐに似非科学がはびこり始める。
「きちんとした証拠がなければ知識とはいえない」
と考える人たちが増えれば、似非科学のはびこる余地は無くなるはずだ。
あいにく大衆文化では、
「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則がまかり通っている。
つまり、悪い科学は良い科学を駆逐してしまうのだ。
いつの時代にも、教育水準の低下は悩みの種であった。
約四千年前のシュメール人が残した史上最古のエッセーには、近ごろの若者はものを知らないという嘆きがみられる。
二千四百年前には、晩年の厭世(えんせい)的なプラトンが、『法律』第7巻のなかで科学的無知をこう定義した。
一も二も三も知らず、偶数と奇数の区別もできず、数を数えることもまったく知らず、夜と昼を分けて数えることもできず、月や太陽や星の運行についても無知な人のことです。……自由人は、少なくともエジプトですべての子供たちが読み書きといっしょに学んでいるくらいには、これら諸学科について学ぶべきでしょう。
あの国には、子供達のために工夫された算数ゲームがあって、楽しく遊びながら学ぶことができます。
……私自身晩年になり、我が国の嘆かわしい状況を聞いて、まったく驚いたしだいなのです。
このような状態は、人間ではなくて豚のような動物にこそふさわしいものだと私には思われました。
そして自分だけでなく、すべてのギリシャ人のために恥ずかしいことだと思ったのです。
もっとも、科学や数学についての無知が、古代アテネの衰亡をどれだけ早めたかはわからない。
しかし、一つはっきりしていることがある。
それは、現代において科学の初歩も知らないのは、過去のどの時代ともくらべものにならないぐらい危険だということだ。
オゾン層の破壊、大気汚染、有機放射性廃棄物、酸性雨、表土の侵食、熱帯雨林の破壊、指数関数的な人口増加など、地球的規模でさまざまな危険信号が出ている。
核分裂エネルギーや核融合エネルギー、スーパーコンピューター、情報”ハイウェイ”などが社会に及ぼす影響を考えてみるがいい。
そのほかにも考えるべき問題は多い。
妊娠中絶、ラドン汚染、戦略兵器の大幅な削減、麻薬の常習、当局による市民生活の盗聴、高解像度テレビ、飛行機や空港の安全性、胎児の組織移植、健康維持にかかる費用、食物添加物、躁病や鬱病や精神分裂症を緩和する薬、動物保護、超伝導、経口避妊薬、反社会的素因は遺伝するという説、宇宙ステーション、火星旅行、エイズやガンの特効薬の発見。
こうした問題の根本がわかっていなければ、国の政策を変えていけるはずもない。
ここまでで既にすごい。なんかすごい。
ドーキンスさんとは異なるすごさ、濃さ、深さ。
余談だけど、最初に出てきた「バックリーさん」って
実在の人物と思えない。
カールさんの想像上の人物ではなかろうか。
ヒポクラテスはエーゲ海南東部にあるコスという島の人で、医学の父と称えられている。
2500年が経った今もなお、「ヒポクラテスの誓い」のなかに、その名をとどめている人物である(彼の誓いの言葉を少し修正したものが、今でも医学生が卒業時に行う宣誓として、各地で使われている)。
ヒポクラテスが残した言葉には、たとえばこんなものがある。
「てんかんは神が与えた疾患だと思われているが、それはただ単に人々が、てんかんを理解していないからにすぎない。だが、わからないものを何でも神のせいにしていたら、神が与えるものには際限がなくなってしまうだろう。」
病気を診断する際に、ヒポクラテスは科学的方法を取り入れた。
病状は慎重かつ仔細に観察するよう力説し、
「何ごとも偶然のせいにするな。何ごとも見逃すな。互いに矛盾する観察結果を総合して考えよ。そして十分に時間をかけよ」
と説いた。
まだ体温計もない時代に、ヒポクラテスはさまざまな病気の体温曲線を描き出している。
そして、医者たるものは、どんな病気を前にしても現在の症状だけからこれまでの経過をつかみ、今後の病状を予測しなければならないと説いた。
誠実であれと力説し、医者の知識の限界をいさぎよく認めた。
実際彼は、自分が治療にあたった患者の半数以上は死んでいると、率直に後代に書き伝えているのである。
もちろん彼にできる治療法は限られていたし、手に入る緩下剤や、吐剤や、麻酔薬ぐらいしかなかった。
それでも外科手術が行われたし、灸も試みられている。
こうして古代ローマ帝国が衰亡するまでに、医学は大いに進歩したのだった。
しかしこの後、ヨーロッパは
ヒポクラテスさんの進めてきた医学が衰退
人体解剖を禁止され、星占いや魔術などが
横行してしまうと指摘。
ここでまでの中では明示されてはいないが
この後に”主流”となるものが原因のご様子です。
似非科学のなかには、たしかに面白そうなものもある。
それに、似非科学なんかに引っかかるほど自分は馬鹿じゃない、と思っている人もいるだろう。
しかし身の回りをみれば、コロリとだまされたケースがいくらでもころがっているのだ。
超越瞑想法(TM)やオウム真理教は、教養ある人々をたくさん引きつけ、なかには物理学や工学の高い学位をもつ人たちさえいた。
つまりその教義は、無知な大衆向けではないのである。
そこには何か別のことが進行していたのだ。
もう一つ重要な点は、
「宗教とは何か、宗教はいかにして生まれるのか」
という問題に関心を寄せる人ならば、TMやオウム真理教を無視するわけにはいかないということだ。
地域的で問題意識の限られた似非科学と、世界宗教とのあいだには厚い壁があると思う人もいるかもしれない。
だが、その壁は、実はごく薄いものでしかないのである。
本書のなかでは、神学の行き過ぎを批判することもあるかと思う。
というのも、似非科学と、凝り固まった教条的な宗教とは、なかなか区別できない場合があるからだ。
似非科学は、誤りを含んだ科学とはまったく別のものである。
それどころか、科学には誤りがつきものなのだ。
その誤りを一つ残らず取り除き、乗り越えてゆくのが科学なのである。
科学における仮説は、必ず反証可能なようにできている。
次々に打ち立てられる新たな仮説は、実験と観察によって検証されることになるのだ。
科学は、さらなる知識を得るために、手探りしつつよろめきながら進んでいく。
もちろん自分が打ち出した仮説が反証されれば嬉しいことはないけれども、反応が挙がることこそは、科学的精神の真骨頂なのである。
これと正反対なのが似非科学だ。
似非科学の仮説は、どんな実験をしても決して反証できないように仕立てられている。
つまり、原理的にさえ反証できないのだ。
似非科学をやっている連中はなかなか用心深いので、懐疑的に調べようとしても妨害されてしまう。
そして、似非科学の出した仮説を科学者が支持しなかったりすると、なんとかごまかす策謀がひねりだされるのだ。
おそらく科学と似非科学のいちばんはっきりしたちがいは、科学のほうが似非科学(あるいは「無謬(むびゅう)」の天啓)よりも、人間の不完全さや誤りやすさをずっとよく認識している点だろう。
もしも、人間の不完全さや誤りやすさを断固として認めなければ、誤りは(深刻で取り返しのつかない過ちも含めて)永遠に人間についてまわるにちがいない。
しかし、ほんの少しの勇気をもって自分を見つめ、情けない気持ちをこらえることができるなら、可能性は大きく開けるだろう。
科学者の「科学」に対しての責務というか
正しく理解促進を勧奨されるのは
日本の柳澤桂子先生とも同様で。
お二人とも切羽詰まった感じで警鐘される。
ご自身の、また人類の残り時間のために。
それが鋭く刺さり怖さも醸し出されていて
ボーッと生きている我が身が引き締まる思い。
しかし、何度もブログで書いてしまうけれど
科学類の書を読み続けると
「不思議」や「神秘」が
消えていってしまうのだなあ、と。
それが良いのか悪いのか、
またはそういうレベルじゃないのか
はたまた、それでもなお、なのか。
セーガンさんも柳澤先生も
またはドーキンスさんも
科学を正しく知った上で…
みたいな言説はなんか似ているなあ、
と思ってみたり。
余談だけれど、セーガン・ドーキンスさんとか
海外の方のこれ系の書籍って
厚さと価格がものすごいので
新書程度にまとめてくださらないだろうかと
純日本人の発想でございます。