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米原万里さんの小説から世界平和を祈願 [’23年以前の”新旧の価値観”]

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)


嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2012/09/01
  • メディア: Kindle版

養老先生が薦めておられたので読んでみた。


プラハのソビエト学校に通う日本人マリと


ルーマニア人のアーニャの交流


家族たちの話。


気になった箇所をピックアップ。


The Pen is mighter than sword.

(ペンは剣より強し)

ーーー言論は、武力では抑え込めないものだ、という趣旨のこの有名な成句は、イギリスの政治家で、小説家、劇作家でもあったジョージ・ブルワー・リットンが、その戯曲「リシュリュー」のなかで、用いてから、たちまち広まった。

ところが、この名文句を、ロシア人が口にするのを聞いたことがない。

どうやら、ほぼ同じような意味のロシア古来の次の諺(ことわざ)の方が人口に膾炙(かいしゃ)しているせいかと思われる。

что написано пером, нельзя вырубить топором

(ペンで書かれたものは、斧では切り取れないよ)

斧というところに、何かほのぼのとした生活臭が感じ取れる。

そして、この慣用句は、「武力に対する言論の優位」という意味もさることながら、もう一つ、「筆禍は取り返しがつかない」という意味に使うことが多い。


日本語学校の習性で、つい正式ノートに鉛筆で書き込んでしまう私に向かって、数学の先生も、ロシア語の先生も諭した。

「マリ、一度ペンで書き込んでしまったものは、斧でも切り取れないのよ。

だからこそ、価値があるの。

すぐに消しゴムで消せる鉛筆書きのものを他人の目に晒すなんて、無礼千万この上ないことなんですよ」


よくアーニャとプラハの街を散歩したものだが、時々、悪ガキどもにはやし立てられることがある。

「やーい、チンヤンカ(中国人)、チンヤンカ」

そんなとき、アーニャはカンカンになって怒り、相手がどんなに大人数でも立ち向かって行って蹴散らしてくれる。

そして、心配そうに私の顔をのぞき込んで慰めてくれる。

「マリ、気にしちゃ駄目よ。人種差別ほど下劣な感情はないんだから」


幼少期をマリはプラハで過ごすが


やがて母国日本に戻り社会人・通訳の仕事に就く。


その後、出張でルーマニアを


訪問したマリは、街にいる人たちの不安げな


表情や風景から違和を感じる。


払拭されたはずの独裁政権の影、


人種差別の名残等など。


そんな中、息抜きとして


ホテルの近くにある世界で唯一の


イディッシュ・ユダヤ系の劇場は


古びて汚れてしまっているとはいえ


残され現役で存在、その時の演目


ミュージカルを観劇。


ユダヤ人に優遇的ではなかった、


独裁政権が劇場を容認していたことの意外性を


伝えると案内の青年ガイドはこう答える。


「ハハハハ、そういうものですよ、現実は。

差別していればいるほど、それを隠蔽しようとするものです。

世界で唯一のイディッシュ語の劇場なんて、これほど分かりやすいアリバイはないじゃありませんか。

チャウシェスクはなかなかの曲者です。

これを餌にイスラエルはじめ、世界中に散らばるユダヤ人からの資金調達をもくろんでいましたからね。

これは、一定の成功を収めています」

 

「あなたがガイドになってくれてホント良かった。この国に対する私の皮相な見方を、いちいち覆してくれるんですもの。

これ以上の案内人はいないと思うなあ。つくづく自分のノー天気加減を思い知ったわ」

 

「それだけ、あなたは幸せだったってことです」

 

「たしかに、社会の変動に自分の運命が翻弄されるなんてことはなかった。

それを幸せと呼ぶなら、幸せは、私のような物事を深く考えない、他人に対する想像力の乏しい人間を作りやすいのかもね」

 

「単に経験の相違だと思います。人間は自分の経験をベースにして想像力を働かせますからね。

不幸な経験なんてなければないに越したことないですよ」


アーニャとのやりとりももちろんだけど


上記の青年ガイドとのやりとりも興味深かった。


アーニャとその兄ミルチャ、ご両親、


祖国の変遷、環境の変化など各視点から


政権・国のイデオロギーに翻弄される様や


時を経てわかったことが描かれて


どれが真実・本当のことなのか?


と言ったらミステリーみたいだけど


そんなテイストを持ったシビアな小説だった。


本当のことなんて、


本当はさほど重要ではないのかもしれない、


ハッピーでいられるならば、って思ったり。


解説 斎藤美奈子 から抜粋


あの米原万里が独我独尊の自分史なんか書くはずはないわけで、お読みになれば分かる通り、本書は20世紀後半の激動の東ヨーロッパ史を個人の視点であざやかに切り取った歴史の証言の書でもあります。

個人史の本も、個別に存在してはいるものの、両者をみごとに融合させたという点で、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』はまれに見るすぐれたドキュメンタリー作品に仕上がったのでした。


とはいえ、本書を読んで「あー良かった。日本は平和で」と単純に胸をなでおろすのは、あまりにノーテンキというものです。

中東欧とは事情こそちがえ、日本もまた複雑な東アジアの歴史と民族の問題を背負っていることに変わりはないからです。

本書がもうひとつ優れているのは、著者と同世代の女友達のみならず、彼女らの家族、とりわけ父母の世代の歴史にまで視野が及んでいることです。

娘の世代が六〇年代の各国共産党事情にふりまわされたのだとしたら、父の世代はそれぞれの国で非合法時代の政府運動を戦った歴史がある。

マルクス・レーニン主義はいまでこそ「時代遅れ」と蔑まされていますけれど、もとはといえば貧困を救済し、平等を実現するための理想主義から始まったことを忘れるべきではありません。


抽象的な人類の一員なんて、この世に一人も存在しないのよ。

誰もが、地球上の具体的な場所で、具体的な時間に、何らかの民族に属する親たちから生まれ、具体的な文化や気候条件のもとで、何らかの言語を母語として育つ

(略)

それから完全に自由になることは不可能よ。

そんな人、紙っぺらみたいにペラペラで面白くもない

アーニャに向かってマリが投げるこの台詞は、通訳という仕事を通じて異文化間、異言語間のコミュニケーションに心を砕いてきた米原万里ならではの実感であると同時に、私たち読者に対する強烈なメッセージでもあるように思います。


深い、深すぎるだろう、米原さん。


エッセイ、小説、翻訳、通訳と


八面六臂の活躍とはまさにこの事だよなあ。


養老先生も書いておられたけど、


惜しい人でございますよ。


2006年没から、17年も経つのか。


ロシア・ウクライナ戦争を


どのようにご覧になったろうか。


 


斉藤さんの解説にある


マルクス・レーニンが時代遅れってのも


今となっては隔世の感あり、


レーニンはよく存じないけど


マルクス「資本論」は資本主義の限界と


共に昨今よく見聞きいたします。


時代の流れは早いと感じざるを得ない今日この頃。


 


今日は子供の入学式、ニック・ドレイクを聴きながら


仕事休みなので、野菜多めのラーメンを作り


妻と子供を送り出したところです。


人数制限がありパパは留守番となりました。


 


1日も早く世界に平和が訪れてほしいと、


切に願う次第でございます。


 


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昨日と同じ書から科学を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか


虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2001/03/01
  • メディア: 単行本


昨日も同書を投稿しましたけど


改めて休日だった本日


映画館に「シン・仮面ライダー」を観に行く


電車や食堂で読書、気になったところを


ピックアップでございます。


第1章 日常性に埋没した感性


から抜粋


この世に生きているということは結局、それだけで十分な奇跡なのだ

マーヴィン・ピーク『ガラス吹き工』(1950)


私たちはやがて死ぬ。私たちは運がいいのだ。

なぜなら、大半の生命は、生まれてくることもなく、したがって死ぬこともできなかったからである。

この世に生を受ける可能性を持ちつつも実際、生まれ得なかった生命の数は、アラビア海の浜の砂つぶよりも多いはずである。

生まれてくることのなかった命の中には、キーツよりも偉大な詩人、ニュートンよりも優れた科学者がいたであろうことは確実だ。

私たちのDNAが作り出すことのできる生命の数は、実際の人間の数よりも遥かに多いからである。


第2章 客間にさまよいいった場違いな人間


から抜粋


キーツもまた、ニュートンが虹を科学的に説明したことによって、その詩性を解体してしまったと非難した。

それがさらに一般化されて、科学は詩の敵であり、無味乾燥、温かみがなく、そこには若き詩人が求めるべきものは何もないとされた。

本当はまったく正反対である、ということを主張するのが本書の目的の一つである。


キーツには医学の素養があったので、結核にかかったとき自分で動脈血を調べてその症状から、自分の行く末をさとったであろう、といわれている。

彼にとって科学は決して良き知らせをもたらすものではなかったのである。

それゆえ清々たる古典神話世界に慰撫を求め、パンパイプや水の精、山や木々の精とのたわむれに我を忘れたとしても不思議ではない。

イェイツもまた同じである。

彼もケルトの神話の中に遊んだ。

失礼を顧みずにいえば、ギリシャ人は果たしてキーツの詩に自分たちの神話を見て取ることができるだろうか、あるいはケルト人はイェイツの詩に自らを見出すだろうか。

そう私は問うことを禁じ得ない。

インスピレーションの源から見れば、これら偉大な詩人たちはどのように評価されるだろうか。

理性を否定する偏見は詩の翼を押し曲げはしなかっただろうか。


ブレイクをしてキリスト教神秘主義に向かわせたもの、

キーツをしてアルカディアの神話に向かわせたもの、

イェイツをして古代ケルトへ向かわせたもの、

それらはすべて偉大な研究者たちをして科学的探究に向かわせたものと同質の好奇心である。

本書のテーマもここにある。


科学の衣装をまとった好奇心がもし詩人の中に生まれていたなら、さらに偉大な詩が生まれていただろう

その証拠にSF小説の世界を指摘したい。

この分野は高くは評価されていない。

しかしジュール・ヴェルヌH・G・ウェルズオラフ・ステープルドンロバート・ハインラインアイザック・アシモフアーサー・C・クラークレイ・ブラッドベリを見たまえ。

そのストーリーはしばしば古代神話にあからさまに題材を得ているとはいえ、彼らは詩的な言葉を用いて科学の持つロマンティックな面を高揚し得たではないか。

スノッブな評論家からは受けのよくないSF小説だが、質のよいものはそれ自体、重要な文学形式の一つになっていると思う。

初期のSF小説が情熱的に描き出した世界は、有名な科学者による啓蒙よりずっと上手に科学に対する好奇心を喚起している。

一方、悪質なSF市場というものがあり、ここでは好奇心が悪用されて、より困った事態が立ちあらわれる。

しかしそこでさえ、神秘的抒情的な詩と科学が関連付けられているのがみてとれる。


《X -ファイル》のようなカルトサイエンスは無害だから大丈夫だとする意見がある。

結局のところ作り話に過ぎないから、というわけだ。

一見、それは確かに一理ある。

しかしいくらフィクションであっても、ある一方的な考え方を毎週毎週くりかえし宣伝するものであれば、それはきちんとした形で糾弾しなければならない。


人気テレビシリーズの《X -ファイル》では、毎回二人のFBI捜査官が登場し謎に直面する。

そのうちの一人、スカリー捜査官は、どちらかといえば合理的な、科学的な解決を求める。

ところが他方のモルダー捜査官は謎を超自然的なものとして納得する傾向にある。

あるいは経験から説明できないこともありうるとする。

《X -ファイル》の問題点は、たいていの場合、間違いなくモルダーが採用する見方、つまり超自然的な現象である、というのが答えになって番組が終わることである。

とくに最近の回では、超自然的なものに懐疑的だったスカリー捜査官ですら、これまでの自信に揺らぎを見せるという展開になっているのである。


これでも無害なフィクションといえるだろうか

こうなると私には到底そうは思えない。

たとえば、二人の警官が毎回事件に直面する番組があるとしよう。

事件にはいつも二人の容疑者が登場する。

白人と黒人だ。

警官のうち一人は黒人に偏見を持っていて、他方は白人を嫌っている。

しかし毎週毎週番組の結末は黒人が真犯人であることが判明して終わる。

こういう番組があったとして何が悪い、これはフィクションにすぎない、だから無害だ、と開き直ることができるだろうか。

極端な例だと見えるかもしれないが、そんなことはない。

まったく公平な比較である。

超自然現象の擁護は、人種差別容認ほどは悪質で危険なものではないだろう。

しかし《X -ファイル》がやっていることは、組織的に非合理的な思考を喧伝していることであり、執拗に繰り返されるがゆえに、われわれは気づかぬうちにそれに毒されていく。


SFの名を借りて行われているもう一つの愚行は、トルーキン風のインチキ神話物語である。

魔法使いが科学者をあやつり、異星人がユニコーンに王女を乗せてエスコートし、霧の中から中世の城が出現するのとまったく同じ雰囲気で、何千もの発着口を備えた一大宇宙ステーションが出現する。

ゴシック調の小塔の上空をカラスならぬ翼の生えた恐竜が旋回する。

ここではまともな科学は、巧みに加工され、魔法に変容してしまっている。

しかもそれはいともたやすい怠落(たいらく)である。

すぐれたSF小説は決して、魔法と化した安易な呪文に堕することがない。

むしろそれは世界を普通の場所としてとらえることから出発している。

もちろん宇宙には謎がある。

しかし、それはありきたりな謎ではない。


SFはあまり読んだことないのだけど、


ドーキンス氏は質の良い小説として


ダクラス・アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』を


引き合いに出されている。


 


自分は《X -ファイル》は大好きで、DVDも


最初のシーズンだけだけど持っている。


でもドーキンス先生にかかると


こういう評価になってしまうのですねえ。


憚りないよなあ。そんなになあ…。


「人種差別ほど悪質で危険なものではない」と


してしてるけれど。


確かに一理あるなと思うのは、陰謀論とかの


ネガティブ・キャンペーンの増幅の面も


否めないけれども。


そういう視点でなく、恋愛ものとして見ると


面白いんだけどねえ。


第7章 神秘の解体


から抜粋


私たちは、事実はどうあれ、偶然の一致にはなんらかの意味があり、ある種のパターンにそってそれが起こると思いがちである。

パターンを探そうとするのは人間のより一般的な傾向で、この傾向は特筆に値するものであり有益である。

実際、この世の中の多くの出来事や特徴はでたらめではなく、ある種のパターンをもっている。

そして、こうしたパターンを検出することは私たち人間にとっても、動物一般にとっても、有益なことなのである。

実は何もないのに一見パターンに見えるものを捉えることもあれば、逆に実はパターンがあるのにそれを見つけられないこともある。

シチリア島の沖の、片方にスキラの大岩を、もう片方にカリブディスの渦巻きを擁する海の難所を切り抜けるように、この二者のあいだで舵をいかに取るかが難しいのだ。

確率の考え方はこの難しい舵取りに大いに役立つ。

しかし確率論が定式化されるよりもずっと以前から、人間や他の動物は、十分に直感的確率論者だったのである。

ここにいくつか、自然における真の確率論的なパターンを挙げるが、これらは完全に明らかなものではなかったので、必ずしも人間が知り得ていたものではない。


■真のパターン 


喫煙が肺癌を引き起こす。


喫煙者の多くが肺癌にならない

喫煙歴のまったくない多くの人が肺癌になる。


鼠蹊(そけい)腺ペストが流行っている時には、鼠や、特に鼠についたノミに近づくと、感染しやすい。


いたるところに多くの鼠やノミがいる。

鼠やノミは、たとえば埃や「悪い空気」など他の多くのものに関連づけられたので、相関因子のうちどれが大切なのか分かりづらい。

ここでも、誤った相関関係がとらえられ、それが真のパターン検出の邪魔をしている。


さて、次に挙げるのは、人間が、見つけたと誤解してきた偽のパターンである。


■偽のパターン


(1)日照りを終わらせうるものは、雨乞いの踊りである。

(あるいは、人間のいけにえや、フェレットの腎臓に山羊の血を振りかけることや、特定の宗教が定めた習慣なら何でもよい)


(2)彗星や、他の天文上の出来事は、人間界における危機の前兆である。


(3)不運が続いた後には幸運がより起こりやすくなる。


■そのパターンを誤認しやすい理由


(1)雨乞いの踊り(など)に引き続き、雨がたまたま降る。

こうした稀で幸運な大当たりが記憶にとどまりやすい

また、雨乞いの踊りをしても引き続いて雨が降らないときは、儀式のどこか細かいところを間違えたのだ。

とか、神は何か他の理由でお怒りなのだ、と思い込む

まことしやかな言い訳を見つけるのは、常にたやすい


(2)右に同じ

作り話を助長すれば占星術師の利益になる。

雨乞いの踊りやフェレットの腎臓についての作り話を助長すれば、まったく同様に、僧侶や呪術師の利益になる。


(3)不運が続けば、一連の不運がまだ終わっていないと思いこみ、いっそうのその終局が待ち遠しくなる。

不運が続かなければ、この予言が実現したように見える

私たちは無意識のうちに、「ひと続き」の不運をその終局によって定義している。

したがって、幸運が起こることが不運の終局を意味する。


ドーキンス先生はおもしろいと


書いておられたのは岸由二先生だった。


自分も違う視点というかもちろん


岸先生と比べようもないくらい


低い視点と思うけど、つい読んでしまう。


というか、よくわからないけれど


だからか、気になるとでもいうか。


 


詩人のキーツさんの言うことはよくわかる


虹のロマンを壊すんじゃないよっていう。


科学は詩的感性を壊すっていう。


 


でもそれは間違いだというドーキンス先生の


言っていることがものすごく気になるけど


いまいちまだよくわからない


 


余談だけど本日購入した本は


「わからない」という方法:橋本治著(2001年)


でした。


 


さらに余談、NHKの「サイエンスZERO」も


たまに観て科学とは面白いなと思い始めたって


遅すぎるだろう!という感じでございますねえ。


 


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ドーキンス先生の書籍から常識を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]


虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2001/03/01
  • メディア: 単行本


序文 から抜粋


私の初めての著書『利己的な遺伝子』を出版してくれた外国のある編集者がいった。

あの本を読んだあと、冷酷で血も涙もない論理に震撼して三日眠れなかった、と。

別の複数の人間からは、毎朝気分良く目覚めることができますか、という手の言葉をもらった。

遠い国で教師をしているという人物からも手紙が来た。

この本を読んだある女生徒は、ともに人生とは目的もなく空疎なものだと知らされて泣き出してしまった、と。

他の生徒まで虚無的な悲観論に染まってしまっては大変だと思ったこの教師は、泣き出した女生徒に、友達にはこの本のことを言わない方がいいと忠告したそうだ。

このように、救いがない、無味乾燥だ、といった非難は、しばしば科学に対して投げつけられる言葉である。

科学者の方もわざとそのような表現を好む。

私の大学のピーター・アトキンスは著書『エントロピーと秩序』(1984)において次のような調子で述べている。


私たちはカオスから生まれた子供である。

そして何かが変化するとき、その奥底では腐敗が起きている。

根底には、ただ崩壊があるのみで、カオスが食い止めようのない波となって押し寄せてきている。

カオスになることには、何も目的などはなく、あるのは、カオス状態に向かう方向だけである。

宇宙の内部を奥深く冷静に見つめると、このような、なんとももの寂しい真理が見えてくるが、これこそ私たちが受け入れなければならない現実なのである。


このような発言はまさにサッカリンの持つ偽の甘味を一掃するものであり、この世界にまつわる感傷的な幻想を剥ぐため、あえて選ばれた声高な言葉なのである。

しかしこの言葉は、個々の人間が持つ希望をないがしろにするものではまったくない

確かにこの宇宙には究極的な意思や目的などなにもないだろう。

しかし、一方、個人の人生における希望を宇宙の究極的な運命に託している人間など、私たちのうちに一人として存在しないこともまた事実なのである。

それが普通の感じ方というものだ。

われわれの人生を左右するのは、もっと身近で、より具体的な思いや認識である。

本来、生きる意味に満ちた豊かな生(せい)を科学が意味のないものにしてしまう、という非難ほど徹底的に的外れなものもあるまい。

そういう考え方は私の感覚と180度対極に位置するものだし、多くの現役の科学者も私と同じ思いだろう。


しかし、私に対するそのような誤解のあまりの深さに、私自身絶望しかけたこともあったほどである。

だが本書では気を取り直し、あえて積極的な反論を試みることにした。

ここで私がしたいのは、科学における好奇心(センス・オブ・ワンダー)を喚起することである。

というのも、私に対する非難や批判はすべて、好奇心を見失った人々に由来しており、それを考えるとなのか心が痛むからである。

私の試みは、すでに故カール・セーガンが巧みに行ったことでもあり、それゆえに彼の不在が今はいっそう惜しまれよう。

ともあれ、科学がもたらす自然への畏敬の気持ちは、人間が感得しうる至福の経験のひとつであるといってよい。

それは美的な情熱の一形態であり、音楽や詩がわれわれにもたらすことのできる美と比肩(ひけん)しうるものである。

それはまた、人生を意義あるものにする。

人生が有限であることを自覚するとき、その力はなおさら効果を発揮する


ここから数年して「神は妄想である」のような書を


出されれば冒頭のような女生徒がいても


おかしくはないだろう。


ドーキンス先生も絶望してたことがあるとか。


にもかかわらず、心が痛み


自分の意図したところではないのだ


とおっしゃるドーキンス先生。


うーん、真意がわかりかねる。


自分のキャパの限界なのか。


第12章 脳のなかの風船


から抜粋


妻と私はどちらも、ある旋律に心奪われて眠れないという事態に困ることがたびたびある。

その旋律は頭の中で何度も何度も繰り返し、情け容赦なく一晩中流れる。

ある旋律は特にあくどい罪人で、たとえば、トム・レーラーの「マゾヒズム・タンゴ」であったりする。

これは、(素晴らしい韻を踏んだ言葉とは違って)なんら重大な利点を持たないメロディーであるが、一度とりつかれたらまず振り払うことができない。

よくあることだが、昼のあいだに危険な旋律の一つを脳に取り込んだなら(レノン&マッカートニーもまた別の重大な罪人である)、どんなことがあっても寝る時間になって口ずさんだり口笛で吹いたりしてはならない。

他人に感染させる恐れがあるからだ。

一つの脳の中の旋律が他の脳に感染するという発見は、まぎれもないミームの話である。


ビートルズとほぼ同世代でイギリス人。


曰く言い難いが、ドーキンス先生って洒落ている。


それは池田清彦先生にしたら、騙されてるんだよ


ってことなのか。


自分もどちらとも確信を持てないのだよねえ。


なんといっても『利己的な遺伝子』を未読なので


なにもいう資格もないのだけどもねえ。


 


なぜ読まないかというのはあの厚さにある


というのも無きにしも非ずですが


有名な書籍って捻くれているから抵抗あって。


いずれ読んでみたいと思っているんだけど。


 


それにしても、本書、長くて難しいのだよ。


こういう時は優れた訳者による解説が助かります。


訳者あとがき:ドーキンスVSグールド


2001年3月


本書は、リチャード・ドーキンスの最新作Unweaving the Rainbow(1998)を訳出したものである。

タイトルは、詩人キーツの言葉に由来する。

キーツはニュートンを嫌っていた。

なぜなら、ニュートンは、虹を物理学的に解体し、光のスペクトルとして説明してしまったことによって、虹の詩的側面を損なってしまったからである、と。

そんなことはない、むしろそれは逆である。

虹を解体(アンウィーヴ)したことによって得られた新しい世界観によってこそ、この地球、この宇宙に対する”センス・オブ・ワンダー”が喚起されるのであり、それが本当の「詩性」の源となるべきものなのだ。

ドーキンスはそう考えて、正義感あふれる筆をふるった。

それが本書である。


第1章、2章でまずドーキンスは、科学によって喚起されるべき良き詩と、科学を騙った悪い詩に世界をばっさり二分したあと、返す刀で、イギリスの知識人に見られるような、科学を実利的なものとして低く見る態度を切り捨てる。

そうした上で、彼は、虹を解体して得られた新しい世界観のシンボルとして「バーコード」という言葉を持ってくる。

遠い星からやってくるかそけき光のスペクトル中に含まれるフラウンホーファー線の「バーコード」が、私たちが決してたずねることのできない世界の成り立ちを語ってくれること(第3章)音の世界も周波数のバーコードとして解体しうること、および脳がそれを見事に再構成してバイオリンの音に変えること(第4章)を論じる。

それから、彼は、遺伝子のバーコードともいうべきDNA指紋鑑定法の有効性を懇切丁寧に解説してくれる。

さらに、DNA証拠を巡って、法廷ではこの証拠の意義を理解できるような人がかえって、陪審員として忌避されてしまう現状をなげく(DNA証拠を退けるための弁護士の作戦である)(第5章)。

続く、第6、7章は、訳者にとっても特に興味深い章だった。

私たちの脳にはある種の特殊な傾向がある。

それは、まれにしか起こらないような「偶然の一致」になにかしら深い意味を見出しがちである、という傾向だ。

多くのオカルトやトンデモ科学は巧みにこれを利用して人をだましているのだ。

ドーキンスは「ペトワック」という彼ならではの新術後を作ってこの詐術を排す。


霊能者がテレビ番組で、放送を通じて全英の腕時計に念力をかけたところ、全国から「止まった!」との電話が殺到した事件の謎にもいどむ。

さらにドーキンスは、人間が持つこのような認識上の傾向を、急速に社会が情報化した中で取り残された脳のなせるわざとして進化論的に説明する。

そのロジックの切れ味はさすがドーキンスというべきだろう。


このあとの章(第8、9章)はドーキンス理論の支持者にとっても、批判者にとっても見逃せない重要な論点を含む。

ドーキンスのライバル(論理上でも商売上でも)、スティーヴン・グールドは、進化の単位は、あくまで個体であって個々の遺伝子ではない、として利己的遺伝子説を糾弾した。

なぜなら、環境からの淘汰圧は、表現型たる個体にこそ作用するのだから、と。

爾来、ドーキンスVSグールドの仁義なき戦いが始まる。

特にドーキンスの辛辣さには驚かされる。

本書第8章でも延々13ページにわたって、グールドのベストセラー『ワンダフル・ライフーーバージェス頁岩と生物進化の物語』批判が展開される。

読者としては、両書を読み比べて論争を楽しみながら(いずれも早川書房刊である!)どちらに分があるのか評定してみるのも良いだろう。


思えば、進化論ほど人気のある科学論争も他に類を見ない。

それは結局、ヒトが自分の成り立ちを自分で言葉にしたいからなのだろう。

ダーウィニズムがなお十分に説明しきれていない最大の問題点は以下のように要約できるだろう。

すなわち、複雑なシステムであればあるほど、そのシステムを構築するサブシステムが多くなる。

しかし、各サブシステムは、全システムが完成するまでは、機能を持ち得ない。

機能を持ち得ない以上、サブシステムの組み立て過程では、自然淘汰が働く余地がない。

なのに、生命をつかさどる複雑な系はいずれも、あたかもサブシステムを一定方向に糾合するかのように斉一的にシステムを組み立てている。

なぜこのようなことが可能だったのか。

つまり、盲目の時計職人は、画竜点睛の「点」となる部品を入れるまで、どのように時計(として機能する以前の時計)の組み立て工程を長期間にわたって一定方向に維持することができたのだろうか?

この問題に対するドーキンスの答えは、最終章にあらわれる「自己増殖的螺旋上昇(スパイラル)」という鍵概念(キーワード)に、萌芽的な形で込められているように見える。

しかしなお、その推進力の由来は未解明の課題として残される。


刺客ともいうべき、グールドさんですか。


聞いたことはもちろんあるのだけど、こちらも


読まないと埒があかないようですなあ。


 


福岡先生の先日のテレビ拝見


かなり面白かった。


動的平衡」も読んでみたい。


 


科学には無縁だった2−3年前からすると


最近の読書歴には自分が一番驚愕。


 


とはいえ、全くの余談だけど


こういうのも実は


萌芽は前からあったりするんだよねえ。


アインシュタインは好きだったし


これも曰く言い難しで、あえていうなら


それはなんとなくマインドだったりして


それをいうなら、昨今読み散らかしている


養老先生も昔から読んでいたしで。


 


角度とか視点が異なってて


今のこの時期だから見えてくる何かというか。


 


自分は音楽が昔から好きで


ロックというジャンルの反体制の


マインドって実はここらと


繋がっていたりするのかも


しれないなあ、などと


全くどうでもいいことを考える


休日前の夜でした。


 


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普通の生活から感じるシンギュラリティ [’23年以前の”新旧の価値観”]

シンギュラリティが気になる昨今、


落合陽一さんのそれ関係の書も読んでみた。


 



超AI時代の生存戦略

超AI時代の生存戦略

  • 作者: 落合陽一
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2017/05/26
  • メディア: Kindle版 

主題としてシンギュラリティ「34のリスト」


ってことで6年前でこれってすごいなと思いつつ


今それは自分的にあまり気にならずに


何となく気になったものを以下に。


 


第二章 超AI時代の「働き方」


フックの付いた知識


データ量でなく特徴量を記憶に埋め込む


■人間にしかできない「おぼろげな想像力」


から抜粋


暗記するためにノートにひたすら書いたり、何回も唱え続けたりすることはないけれど、ざっくりとフックがかかっている状態、おぼろげにリンクが付いているような状態が、これからの時代に理想的な知識の持ち方だと思う。

 

これはどういう仕組みで、思いつきから実装までたどり着くことができるのか、ということさえ押さえておけば、個別の細かいところはその都度調べたりしながら作ることができるということだ。

この感覚は、これから必要な創造性にとって、もっとも重要な状態になっていると思う。

つまり、「2つのものが抽象的なイメージで合わさったら、どういう答えになるんだろう?」というように、おぼろげなものが重なることによって、人間にしかできない想像力が出てくるのだ。

 

たしか荒俣宏氏が、

「創造性というのは、忘れる能力にかなり依存する」

というようなことを言っていて、確かにそうだと思ったことがある。

問題設定が明らかならば、忘れる能力も重要だと思う。

なぜなら、問題が立っていれば、「これらを組み合わせれば、対象が解ける」ということがわかるけれど、本当の創造性というのは、「複数のものを使って問題を解く」というところより、問題自体はなんだったか、ぼんやりしたところから見つけてくる能力だからだ。


これだけコンピュータが進んでDBも整備されてくると


ご指摘のように全てを知る労力よりあれはあそこら辺に


あったな程度に知っておけば、良いという。


 


話は逸れるかもだが昔わからないことは大人に聞いたが


今は検索で済んでしまうというようなことを


仰っておられたのは所ジョージさんだった。


 


トップ・オブ・トップ


民主主義社会をハックするためのアクセス権を持つ


から抜粋


資格をとろうとする人がたくさんいるけれど、資格の最低保障のものだ。

要するに、最低限、合格だった人たちということをイメージさせるものが資格であって、最低ラインで合格だった人から中流くらいの人までの仕事は、これから先コンピュータがやっていくだろう。

重要なのは、その業界でトップレベルかということだ。

資格を取るようなレッドオーシャンの分野では、トップを目指さないと意味がなくなる。

せっかく資格を取っても、トップじゃないところにいたら意味がないので、何かしらニッチなことでもいいので、まずはトップにならないといけない。

つまり、資格を取って最低限を保障したあとは、そこから賞を取って、「トップであることを示せ」ということだ。

それを目指していかなくてはいけない。


■全員がトップになれる戦い方

こういったことが、コンピュータが労働をするようになってくると、ますます増えていくことになる。

トップ・オブ・トップにならないと意味がないのだが、それは別に99パーセントの人に「死ね」と言っているわけではなくて、100人いれば100通りのトップの取り方があるということだ。

わかりやすい例でいうと、ニッチな賞やニッチな栄誉は、探せばたくさんある。

ニッチな栄誉をもらっていれば、とりあえず居場所は確保される。

そして、「世界的に優秀な賞をもらった人」と、「日本で優秀な賞をもらった人」の違いは、大は小を兼ねる面もあるけれど、日本で賞をもらった人は、

「じゃあ、日本のローカライズなら任せてください」

と言えばいい。

これだけで十分に強い。

だから、トップを取れというのは、必ずしも無理な言い方ではない。

それは、いろいろなところで言えるだろう。


■最低保障で安心してはいけない

何らかしらの分野で一位になる、もしくは、ニッチを制するということは非常に価値がある。

文学を例にとっても、ミステリー大賞を取っている人と芥川賞を取っている人だったら、芥川賞の方が権威があって厳しそうだけど、ミステリー大賞を取っている人の方が謎解き好きには需要がある。

あるいは、「このマンガすごい!」賞の方が、もっとたくさんの読者を集められることだってある。

それがさらにニッチでもいい。

たとえば、観光マニュアルランキング1位は、芥川賞に比べてどういう価値があるのかといったら、観光マニュアルを芥川賞の人に書いてもらおうとは誰も思わない。

そういった中で、そのニッチの一位を取る方が、「一部上場企業に勤めている人」や、「弁護士資格を持っている人」と比べて生き残りやすいかもしれない。

それを意識していかないと、シンギュラリティ的には、ほとんどがコモディティ化してくるので意味がなくなってしまう。

トップ・オブ・トップを目指し、でも、トップ・オブ・トップが必ずしも難しいわけではないという世界になっていくのだから、「最低ラインを保障する戦い方はやめよう」ということだ。


エピローグーーーユビキタス社会からデジタルネイチャーへ


神が死んだ後に残った「人間性」


から抜粋


デカルトが1637年、『方法序説』の中で語ったのは、キリスト教によって規定されていた哲学のパラダイムが、17世紀初頭のコペルニクスーーガリレオ的転回によって崩れ去ったあと、人間の知性を中心として哲学を再構築する人権宣言のようなものだと思う。

その後にホッブスが『リヴァイアサン』を著したり、ジョン・ロックが社会契約説によって、自由について語ったりしたのも、神託=スコラ哲学以降の人間中心発想、そして活版印刷以降のイメージ共有型社会による発想に根差していると言えるだろう。

人間のイメージを思想として形作り共有することで成り立つ社会だ。

メディア装置は人のコミュニケーションに大きな影響を与える。


活版印刷のようなメディアの誕生、誰かの考え方を伝え共有し、その人々の頭の中のイメージとして共同幻想を持つことで社会を保とうとする時代、そんなイメージ共有社会は500年ほど続いた。

そして最後の150年は、エジソンのキネトスコープから始まる映像文化によってマスメディアが強化され、20世紀を映像の世紀にした。

そして、20世紀の大戦によって生み出されたコンピュータ技術は、21世紀をインターネットの時代に変え、イメージ共有社会からの脱却を生み出そうとしている。


この脱却はデカルト以降の最も大きな脱構築の一つだと思う。

私たちはキリスト教の後ろ盾を失った哲学のように、人間性を失った先にある次の科学・哲学を構築する時期に来ている。


人はイメージや記憶の共有によって得られる共同幻想を捨てて、どこに向かうのだろうか。

メディア論や芸術論自体も変わっていくのではないだろうか。

映像の世紀のメディア論は、人間を中心に構築されたものだった。

マーシャル・マクルーハンの「メディア論」は身体性の拡張に根差したものであったし、ジェームズ・J・ギブソンのアフォーダンス議論も身体や視点抜きでは語れないものだ。

しかし、現在私たちは身体を超身体化・合身体化し、「一人称的視点と向き合う自然」といった唯一知性観を脱した。

それはテクノロジーが私たちに促すテクニウム(ケヴィン・ケリーが著書で提唱したテクノロジーの「生態系」を指す造語)的な変化、デジタルネイチャー化する計算機の自然圧力でもある。


楽観的シンギュラリティ:魔法の世紀へ


から抜粋


魔法というパラダイムはさまざまなところで誤解を生みながら伝わっているところがある。

それは、科学技術とまじないの対比構造の中の魔術という意味ではなく、煌びやかで楽しそうなものという受け入れ方をされている節があるが、その言葉の印象自体は、僕は最近一周して気にいるようになった。

ブラックボックス化した科学技術社会は一見すると、コンピュータの奴隷のように振る舞うように見える。

しかし、それを魔法と捉えるか奴隷と捉えるかによってできる印象の差はかなり違うのではないだろうか。

魔法の世紀とするか、奴隷の世紀とするか。

今私たちに求められていることは、シンギュラリティへの恐怖を掻き立てることなく、人と機械の調和した、そして人間中心主義を超越した計算機自然の中で、新たな科学哲学を模索していくことである。


共存というか、良い所を引き出し合う関係、仲間に


人間とAIがなれたらってのは自分も先日ブログで


書いたばかりでございまして


僭越ながら同意する次第でございます。


 


「計算機自然」というのはなかなかに


わかりにくい概念でございますが、


何冊か落合さんの書籍を読むと何となくわかってくる。


今の時点でいうとこういう言葉ってことなんだろう。


 


「デジタルネイチャー」というのも落合さんの造語で、


いわく「デジタルネイティブ」という語はお嫌いだとか。


「デジタルネイティブ」ってどこかの広告代理店が


好んで使いそうで、若干、浅めの印象がする。


ディスっているわけじゃないすよ、代理店を。


 


「コンピュータの奴隷」というのは刺激的な言葉だけど、


AIの進化を良き方向にするためにも


一旦休憩したほうが良いってのは、多くの人が思うのでは、


というのもイーロン・マスク氏が提案してた昨日のニュース、


昨今イーロン氏は良い話がなかったが、これは良いと感じた。


 


 高度なAIの開発中断、マスク氏ら要求 慎重論の背景は? (3月30日配信)


 


余談だけど「科学」「宗教」「哲学」の仕切りが曖昧になり、


将来同義語になるといったのは


カーツワイルさんだったか、ドーキンス氏だったか、


養老先生だったか、柳澤桂子さんだったか。


まあ、普通に生活してる我々でも、そういう感覚は当然ながら


感じてきますよなあ。


自分だけなのかもしれんけど。


 


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