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本とソノシートからブルース・リーの哲学を吟味 [’23年以前の”新旧の価値観”]

 



友よ、 水になれ——父ブルース・リーの哲学

友よ、 水になれ——父ブルース・リーの哲学

  • 出版社/メーカー: 亜紀書房
  • 発売日: 2021/07/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


昨年、図書館で予約をして


約1年経過して届いた書籍。


娘シャノン・リーさんの著作。


はじめに から抜粋


私が父の哲学を実践することで理解し、学んだことがあるとすれば、それは、充実した人生を送るためにブルース・リーになる必要はない、ということです。

偉大な父の娘なのだから、親の十分の一でも立派な人間にならなくてはいけないーーーーそうやって自分にかけた呪詛(じゅそ)に打ちのめされ、何度身のすくむ思いをし、恐怖に縮こまってきたことか。

おかげで、人生で何度も立ち止まるはめになりました。

でもある時気づいたのです。

そこでいちど深呼吸して、思い出せばいいことに。

父は私がブルース・リーになることを望んでいないのだと。

ああ、よかった。

この本を読んだ皆さんは、きっと理解されることでしょう。

ブルース・リーが望むのは、皆さんが最高の自分になることなのだと。

その自分はブルース・リーとはまったくちがったものに見えるはずです。

なぜなら、あなたはあなただから。

どういうことか。

そう、ブルース・リーにも苦手なことはたくさんありました。

彼は電球を取り換えることができず、卵を料理することすらできなかった。

イケアの家具を組み立てている父を見てみたいものです。

(うまくいかず苛立ちのあまり六角レンチを投げつけて、それが壁に突き立っているようすが目に浮かびます。)


本書では、父の”水になれ”という哲学がどういうもので、父の人生と遺産に長年浸ってきた私がどのようにそれを理解しているかをお伝えできるよう、最善を尽くします。

父のこの名言をご存知ない方のために説明しておくと、これは武術の修行中に父が初めて気づいた境地を表したものです。

本書を通してこの言葉はずっと、人生を精いっぱい生きることの暗喩(メタファー)として使われます。

でも私にとっていちばん大切に感じられることは、「水のようになる」という考え方には、人生における流動性や自然な性質のありように抗わず、みずからもそれを体現しようとする意識が込められている点です。


李小龍がブルース・リーになるまでの流れに沿って


娘のシャノンさんの解釈・言葉を補うように


ブルース・リー本人の言葉が挿入される。


武道家であると同時に読書家でも


知られるだけあって底知れない深さ。


ブルース・リーの哲学だけ読みたいという人や


武道専門の方には物足りないと思う方も


おられるかもしれない。


自分はブルース・リーの哲学が


アップデートされたように感じられ


それをナビゲートできるシャノンさんは


適任だったのではないかと思った。


第三章 永遠の学びの徒


自助努力 から抜粋


好奇心を失わず、自分をじっくり見極める姿勢を整えたら、私たちは勇気を持って恐れと正面から向き合い、自分の理解を自分の経験に組み込む準備を整えなければいけません。

新しい発見につながる独自の探究をたえず行っている状態が、自分の可能性を発見し、結果として自分の流れを見つける手段になるのです。

この学び、この発見、このプロセスは無限で、それゆえ私たちの可能性も無限であることを興奮と驚きを持って受け止めましょう。


""たしかに、私には毎日のように新しい事実や発見があるかもしれない。

 しかし、それを以てなにかを達成したとはいえない。

 私はいまも学んでいるところで、学びは無限なのだから。""


第八章 息づく空


それがおのずと打つ から抜粋


映画『燃えよドラゴン』が初めて上映された時は、父が脚本を書いて撮影した場面がカットされていましたが、公開25周年に当たり、ワーナー・ブラザースがその場面をすべて復活させました。

そこで父は師匠の僧侶と歩いていて、師匠が父に問いかけます。


僧侶:きみの才能は単なる身体的レベルを超えたようだ。

いまやきみの技能は精神的洞察の域に達している。

いくつか質問がある。

きみが極めたい最高の技は何か?

 

リー:技を持たないこと。

 

僧侶:よろしい。相手と対峙したとき何を考える?

 

リー:相手はいません。

 

僧侶:それはなぜか?

 

リー:”私”という言葉が存在しないからです。

 

僧侶:なるほど。続けて。

 

リー:優れた武術家は緊張せず、準備を整えている。

考えず、夢も見ていない。

何が起こってもいい準備ができている。

相手が伸びれば自分は縮む。

相手が縮めば自分は伸びる。

チャンスができたときは、私が打つのではない。

それがおのずと打ち込むのです。


第十章 友よ


ブルース・リーを偲ぶ から抜粋


私は最近、父の生涯にぴったりの言葉に出合いました。

”真の習熟は奉仕”

というものです。

私はこんなふうに解釈しています。

円熟したスキルが発するエネルギーはそれ自体が奉仕活動なのだと。

なぜなら、その熱は人々の気持ちを高め、人生で成しうることに私たちを挑戦させてくれるからです。

あなたが自分の光を輝かせるとき、すべての人の光がさらに明るさを増す、そういうことです。


本文にも、解説にもあったけれど


ブルース・リーを哲学者として捉え


その視点に重きを置いた書籍はあまりなかった。


日常の文脈にリーの哲学を落とし込まれた


決定版といってもいいだろうと思う。


 


余談だけど、自分は小学生とき


映画雑誌「ロードショー」を


毎月購入してもらっていた。


1979年ロードショー8月号付録


7周忌追悼記念企画として


ブルース・リーの肉声を


まとめたLPレコードの発売の


プロモーションだったのだろう、


ハイライト版のソノシートをよく聴いており


昔から哲学者だと思っておりました。


今だにそのソノシート、持っております。


上記に引いた『燃えよドラゴン』の当時未公開


シーンとほぼ被る内容だったというのが


今になってわかるわけですが


貴重だったのだなあという感慨もあり


以下に引かせて締めとさせていただきます。


いつ頃の収録なのかは不明でございます。


MY WAY OF KUNG-FU


By BRUCE LEE


「私の武道哲学」から


優れた武道家というのは、気を張り詰めることもなく、

あれこれと考えることもなく、どんな場合でも相手の出方に応じることができるのです。


武道家は自分自身に対して責任を持たなければならない。

自分のやったことがどういう結果になろうと逃げてはならない。


敵が押してくれば引く、引けば押す、チャンスがあれば攻撃を仕掛ける。

しかし、”私”が攻撃するのではない。

あくまで、自然に(体が自分の頭から離れて)勝手に動くのです。


技術など持たないことです。

敵なんかいないのですから。

なぜなら”私”なんて言葉自体、存在しないのです。


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