③グールドさんの最後の書籍から神と科学を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
- 出版社/メーカー: 日経BP
- 発売日: 2007/10/18
- メディア: 単行本
第4章 対立の心理学的な理由
1 自然は私たちの希望をはぐくむことができるか?
から抜粋
古い秩序を守ろうとする伝統主義者たちにとって、1859年は最高の年ではなかった。
ダーウィンの『種の起源』の刊行という出来事が、不可避的かつ永久にこの年の主要な刻印とシンボルになるにちがいなかったからである。
道徳的に中立の世界、というダーウィンのヴィジョンは人間の喜びのためのものではなく、人間そのものの存在も、慰安への選好もいっさい考慮せずに構築されたものだったのだが、しかし同じ年に起きた文学的な事件によって、例外的な後押しを受けることになったーーー11世紀のペルシアの数学者であり自由思想家であるオマール・ハイヤームの『ルバイヤート』の、エドワード・フィッツジェラルドによるかなり自由な英訳の初版刊行のことだ。
オマールの四行詩はどれも、固有の意味も望ましい形相もない世界への諦観を哲学的に表現した珠玉の名作である(「ルバイヤート(rubaiyat)」は「ルバイ(ruba’i)」の複数形で、第一、二、四行目に韻を踏む独特の形式の四行詩である)。
ヴィクトリア朝中期の不安について、よくダーウィンが引用されるが、むしろオマールから数行を引いた方が、より多くの洞察が得られるかもしれないーーーこの時代には、科学の進歩によって後押しされた技術の急激な革新や植民地の拡大を前にして、道徳の伝統的確信が侵食されていた。
こうした宇宙的な混乱について、次のような思想を考察してみよう。
この宇宙へと、なぜかも知らないままに
どこからともわからないままに、水のごとく気ままに流れ
また、その流れより出でて、風のごとく荒地を吹きぬけ
いずこへかを知らないまま、私は気ままに吹きわたっていく
あるいは、地上の粗野な地所(ラクダの隊商(キャラバン)のための粗末な宿!)と私たちの生活のあてどなさについて。
思え、この壊れかけた隊商の宿を
その門は、夜ごと日ごとに入れ替わり
世々のスルタンは、いかに虚飾とともに
運命のときを耐え忍び、そして去り行きしか
さらに、自然を人間の希望や夢に従わせることの不可能性について。
ああ、愛する人よ。あなたと私が運命に語らって
この世のもののあわれすべてを把握できるなら、
私たちはそれをこなごなに砕いたりはせずに
組み立てなおそう、心の願いのより近くに。
こんな世界で「現金はふところに、支払いはツケで」というオマールの不朽の一行を引用していけないわけはないだろう(この言葉はふつう、アダム・スミス、J・M・ケインズ、ドナルド・トランプといった西洋の人物のものと誤解されているが)。
執筆された時点(2002年ごろ?)では、
トランプ氏のこの後の流れは夢にも思わなかっただろう
グールドさん。
挙げられる偉人達の名前として
経済学の父、経済学者からの、不動産王という
アイロニーで締めたものが、今ではそれに
元大統領というオチになっているという展開。
『種の起源』刊行当時、
カオスな時代背景を体現しているとして
オマールさんの詩を引用され
深すぎて今はよくわからないけど
気になったのでメモしてみた。
現代語に加工されておられ
受ける印象はそれぞれだろうが
混乱を招く事は本意じゃないよ
とでもいう感じで。
2 自然と冷水浴とダーウィンのNOMA擁護
から抜粋
ダーウィンは道徳については無関心か、すくなくとも熱心でないとされてきた。
生物学的な知識に関する革命的な認識から、人間の生きることの意味についての教訓を引き出すことについて、彼がしばしば否認する発言をしてきたからである。
かくも過激な自然の再解釈が、どうしてその時代の問題になんの手引きも提供しないはずがあろうかーーーなぜ私たちはここにいるのか、それはどのような意味を持つのか?
どうすれば生物学的な因果関係や生命の歴史の核心の深いところまで覗きこみ、そして生命の意味や事物の究極的な秩序について些細な一滴ーーー私の祖母がよく口にしていた言葉でいえば、豆粒ーーーを提供できるのか。
””この問題全体が、人間の知性には理解しがたいほど大きいのだと、私は心の底から感じています。
一匹の犬が、ニュートンの心をあれこれ押し測ろうとしているようなものなのでしょう。””
ダーウィンはただの臆病者だったのか?
干からびた知識人だったのか?
狭量な男だったのか?
樹を見て森を見ない、あるいは楽譜の音符は分析するが交響曲のわからない、月並みな科学者の典型だったのか?
私はダーウィンを、これとは正反対の存在だと見ている。
彼は生涯をつうじて、道徳や意味という偉大な問題に基本的な関心を抱き続けていたし、そのような探究の卓越した重要性も認識していた。
しかし彼は、自分が選んだ職業の強みと限界の両方を知っていたし、科学の力はそれ自身のマジステリウムの肥沃な土壌でのみ進歩し、強化されうることを理解していた。
手短に言えば、ダーウィンの科学と道徳についての見解は、NOMA(非重複教導権(マジステリウム))の原理にしっかり根をおろしたものであった。
ダーウィンは進化を利用して無神論を奨励したわけでも、神という概念は自然の構造とは整合しえないと主張したわけでもなかった。
そうではなく、科学のマジステリウム内で理解される自然の事実性は、神の存在や性格、生命の究極的な意味、道徳性の適切な基礎など、宗教という別のマジステリウム内の問題を解決できないし、特定することさえできない、と主張したのである。
かつて多くの西欧の思想家たちが、進化の不可能性を宣言するために神性という狭量で弁護不能な概念に頼ったことがあったにしても、ダーウィンは同じ尊大な誤りを(反対方向に)犯すことはなかっただろうし、進化の事実は神の不在を暗示していると主張することもなかっただろう。
さらにいえば、自然と人間の生の意味とのあいだの適切な関係に関するダーウィンの基本的な見解について、私たちはしばしば、しかも深刻に解釈を誤ってきた。
ダーウィンの立場はNOMAに根ざし、勇敢で、現実をよく見据え、そして究極的に人々を自由にするものである。
ところが、彼の見解は敗北主義的で、悲観的で、そして人々を奴隷にするものと、しばしば誤解されてきた。
私はダーウィンの見解を、自然の「冷水浴」理論と呼ぶことを提案する。
なんか面白い。
この後「冷水浴」理論について、
滔々と検証・分析されていくのだけど
長いので割愛しますけれど
ダーウィンを自論で深く分析される。
それがまたちょっと独特で
メタファーが多く、どこまで茶化してるのかが
すごく分かりにくく、でも自分にもその要素あり
ものすごく難しいけれど、興味深い。
マジステリウムもNOMAも接して二日しか
経ってないので正直分かってない所多いですが。
無神論を奨励していたわけじゃないダーウィンを
読み解こうとされているのだから
グールドさんご自身も無神論を奨励していない
ということなのか。
だとすると科学と神は共存できる、
ということなのか
実はざっと読んだだけじゃよくわからない。
でも西欧の方というかキリスト教徒が
多く占める国の方達にとって
9.11は巨大な転換点だったのだろう事は
なんとなくわかる。
しかしこれを、宗教的対立ではない、とする
チョムスキー氏の言論も気になるので
複合的に考察してみないとおおよその
見解には辿りつけなさそうで。
でもって解説が面白いのだけど長くなりすぎで
次回に譲ろう。
いずれにしても、課題図書が減りませんよ
こんなんじゃあ!
と嘆いているのか喜んでいるのか、
よくわからない夜勤明けでした。