昨日と同じ書から科学を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2001/03/01
- メディア: 単行本
昨日も同書を投稿しましたけど
改めて休日だった本日
映画館に「シン・仮面ライダー」を観に行く
電車や食堂で読書、気になったところを
ピックアップでございます。
第1章 日常性に埋没した感性
から抜粋
この世に生きているということは結局、それだけで十分な奇跡なのだ。
マーヴィン・ピーク『ガラス吹き工』(1950)
私たちはやがて死ぬ。私たちは運がいいのだ。
なぜなら、大半の生命は、生まれてくることもなく、したがって死ぬこともできなかったからである。
この世に生を受ける可能性を持ちつつも実際、生まれ得なかった生命の数は、アラビア海の浜の砂つぶよりも多いはずである。
生まれてくることのなかった命の中には、キーツよりも偉大な詩人、ニュートンよりも優れた科学者がいたであろうことは確実だ。
私たちのDNAが作り出すことのできる生命の数は、実際の人間の数よりも遥かに多いからである。
第2章 客間にさまよいいった場違いな人間
から抜粋
キーツもまた、ニュートンが虹を科学的に説明したことによって、その詩性を解体してしまったと非難した。
それがさらに一般化されて、科学は詩の敵であり、無味乾燥、温かみがなく、そこには若き詩人が求めるべきものは何もないとされた。
本当はまったく正反対である、ということを主張するのが本書の目的の一つである。
キーツには医学の素養があったので、結核にかかったとき自分で動脈血を調べてその症状から、自分の行く末をさとったであろう、といわれている。
彼にとって科学は決して良き知らせをもたらすものではなかったのである。
それゆえ清々たる古典神話世界に慰撫を求め、パンパイプや水の精、山や木々の精とのたわむれに我を忘れたとしても不思議ではない。
イェイツもまた同じである。
彼もケルトの神話の中に遊んだ。
失礼を顧みずにいえば、ギリシャ人は果たしてキーツの詩に自分たちの神話を見て取ることができるだろうか、あるいはケルト人はイェイツの詩に自らを見出すだろうか。
そう私は問うことを禁じ得ない。
インスピレーションの源から見れば、これら偉大な詩人たちはどのように評価されるだろうか。
理性を否定する偏見は詩の翼を押し曲げはしなかっただろうか。
ブレイクをしてキリスト教神秘主義に向かわせたもの、
キーツをしてアルカディアの神話に向かわせたもの、
イェイツをして古代ケルトへ向かわせたもの、
それらはすべて偉大な研究者たちをして科学的探究に向かわせたものと同質の好奇心である。
本書のテーマもここにある。
科学の衣装をまとった好奇心がもし詩人の中に生まれていたなら、さらに偉大な詩が生まれていただろう。
その証拠にSF小説の世界を指摘したい。
この分野は高くは評価されていない。
しかしジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズ、オラフ・ステープルドン、ロバート・ハインライン、アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、レイ・ブラッドベリを見たまえ。
そのストーリーはしばしば古代神話にあからさまに題材を得ているとはいえ、彼らは詩的な言葉を用いて科学の持つロマンティックな面を高揚し得たではないか。
スノッブな評論家からは受けのよくないSF小説だが、質のよいものはそれ自体、重要な文学形式の一つになっていると思う。
初期のSF小説が情熱的に描き出した世界は、有名な科学者による啓蒙よりずっと上手に科学に対する好奇心を喚起している。
一方、悪質なSF市場というものがあり、ここでは好奇心が悪用されて、より困った事態が立ちあらわれる。
しかしそこでさえ、神秘的抒情的な詩と科学が関連付けられているのがみてとれる。
《X -ファイル》のようなカルトサイエンスは無害だから大丈夫だとする意見がある。
結局のところ作り話に過ぎないから、というわけだ。
一見、それは確かに一理ある。
しかしいくらフィクションであっても、ある一方的な考え方を毎週毎週くりかえし宣伝するものであれば、それはきちんとした形で糾弾しなければならない。
人気テレビシリーズの《X -ファイル》では、毎回二人のFBI捜査官が登場し謎に直面する。
そのうちの一人、スカリー捜査官は、どちらかといえば合理的な、科学的な解決を求める。
ところが他方のモルダー捜査官は謎を超自然的なものとして納得する傾向にある。
あるいは経験から説明できないこともありうるとする。
《X -ファイル》の問題点は、たいていの場合、間違いなくモルダーが採用する見方、つまり超自然的な現象である、というのが答えになって番組が終わることである。
とくに最近の回では、超自然的なものに懐疑的だったスカリー捜査官ですら、これまでの自信に揺らぎを見せるという展開になっているのである。
これでも無害なフィクションといえるだろうか。
こうなると私には到底そうは思えない。
たとえば、二人の警官が毎回事件に直面する番組があるとしよう。
事件にはいつも二人の容疑者が登場する。
白人と黒人だ。
警官のうち一人は黒人に偏見を持っていて、他方は白人を嫌っている。
しかし毎週毎週番組の結末は黒人が真犯人であることが判明して終わる。
こういう番組があったとして何が悪い、これはフィクションにすぎない、だから無害だ、と開き直ることができるだろうか。
極端な例だと見えるかもしれないが、そんなことはない。
まったく公平な比較である。
超自然現象の擁護は、人種差別容認ほどは悪質で危険なものではないだろう。
しかし《X -ファイル》がやっていることは、組織的に非合理的な思考を喧伝していることであり、執拗に繰り返されるがゆえに、われわれは気づかぬうちにそれに毒されていく。
SFの名を借りて行われているもう一つの愚行は、トルーキン風のインチキ神話物語である。
魔法使いが科学者をあやつり、異星人がユニコーンに王女を乗せてエスコートし、霧の中から中世の城が出現するのとまったく同じ雰囲気で、何千もの発着口を備えた一大宇宙ステーションが出現する。
ゴシック調の小塔の上空をカラスならぬ翼の生えた恐竜が旋回する。
ここではまともな科学は、巧みに加工され、魔法に変容してしまっている。
しかもそれはいともたやすい怠落(たいらく)である。
すぐれたSF小説は決して、魔法と化した安易な呪文に堕することがない。
むしろそれは世界を普通の場所としてとらえることから出発している。
もちろん宇宙には謎がある。
しかし、それはありきたりな謎ではない。
SFはあまり読んだことないのだけど、
ドーキンス氏は質の良い小説として
引き合いに出されている。
自分は《X -ファイル》は大好きで、DVDも
最初のシーズンだけだけど持っている。
でもドーキンス先生にかかると
こういう評価になってしまうのですねえ。
憚りないよなあ。そんなになあ…。
「人種差別ほど悪質で危険なものではない」と
してしてるけれど。
確かに一理あるなと思うのは、陰謀論とかの
ネガティブ・キャンペーンの増幅の面も
否めないけれども。
そういう視点でなく、恋愛ものとして見ると
面白いんだけどねえ。
第7章 神秘の解体
から抜粋
私たちは、事実はどうあれ、偶然の一致にはなんらかの意味があり、ある種のパターンにそってそれが起こると思いがちである。
パターンを探そうとするのは人間のより一般的な傾向で、この傾向は特筆に値するものであり有益である。
実際、この世の中の多くの出来事や特徴はでたらめではなく、ある種のパターンをもっている。
そして、こうしたパターンを検出することは私たち人間にとっても、動物一般にとっても、有益なことなのである。
実は何もないのに一見パターンに見えるものを捉えることもあれば、逆に実はパターンがあるのにそれを見つけられないこともある。
シチリア島の沖の、片方にスキラの大岩を、もう片方にカリブディスの渦巻きを擁する海の難所を切り抜けるように、この二者のあいだで舵をいかに取るかが難しいのだ。
確率の考え方はこの難しい舵取りに大いに役立つ。
しかし確率論が定式化されるよりもずっと以前から、人間や他の動物は、十分に直感的確率論者だったのである。
ここにいくつか、自然における真の確率論的なパターンを挙げるが、これらは完全に明らかなものではなかったので、必ずしも人間が知り得ていたものではない。
■真のパターン
喫煙が肺癌を引き起こす。
喫煙者の多くが肺癌にならない。
喫煙歴のまったくない多くの人が肺癌になる。
鼠蹊(そけい)腺ペストが流行っている時には、鼠や、特に鼠についたノミに近づくと、感染しやすい。
いたるところに多くの鼠やノミがいる。
鼠やノミは、たとえば埃や「悪い空気」など他の多くのものに関連づけられたので、相関因子のうちどれが大切なのか分かりづらい。
ここでも、誤った相関関係がとらえられ、それが真のパターン検出の邪魔をしている。
さて、次に挙げるのは、人間が、見つけたと誤解してきた偽のパターンである。
■偽のパターン
(1)日照りを終わらせうるものは、雨乞いの踊りである。
(あるいは、人間のいけにえや、フェレットの腎臓に山羊の血を振りかけることや、特定の宗教が定めた習慣なら何でもよい)
(2)彗星や、他の天文上の出来事は、人間界における危機の前兆である。
(3)不運が続いた後には幸運がより起こりやすくなる。
■そのパターンを誤認しやすい理由
(1)雨乞いの踊り(など)に引き続き、雨がたまたま降る。
こうした稀で幸運な大当たりが記憶にとどまりやすい。
また、雨乞いの踊りをしても引き続いて雨が降らないときは、儀式のどこか細かいところを間違えたのだ。
とか、神は何か他の理由でお怒りなのだ、と思い込む。
まことしやかな言い訳を見つけるのは、常にたやすい。
(2)右に同じ。
作り話を助長すれば占星術師の利益になる。
雨乞いの踊りやフェレットの腎臓についての作り話を助長すれば、まったく同様に、僧侶や呪術師の利益になる。
(3)不運が続けば、一連の不運がまだ終わっていないと思いこみ、いっそうのその終局が待ち遠しくなる。
不運が続かなければ、この予言が実現したように見える。
私たちは無意識のうちに、「ひと続き」の不運をその終局によって定義している。
したがって、幸運が起こることが不運の終局を意味する。
ドーキンス先生はおもしろいと
書いておられたのは岸由二先生だった。
自分も違う視点というかもちろん
岸先生と比べようもないくらい
低い視点と思うけど、つい読んでしまう。
というか、よくわからないけれど
だからか、気になるとでもいうか。
詩人のキーツさんの言うことはよくわかる。
虹のロマンを壊すんじゃないよっていう。
科学は詩的感性を壊すっていう。
でもそれは間違いだというドーキンス先生の
言っていることがものすごく気になるけど
いまいちまだよくわからない。
余談だけど本日購入した本は
「わからない」という方法:橋本治著(2001年)
でした。
さらに余談、NHKの「サイエンスZERO」も
たまに観て科学とは面白いなと思い始めたって
遅すぎるだろう!という感じでございますねえ。