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長谷川先生のダーウィン”聖地巡礼”を読む [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


ダーウィンの足跡を訪ねて (集英社新書)

ダーウィンの足跡を訪ねて (集英社新書)

  • 作者: 長谷川 眞理子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2006/08/12
  • メディア: 新書

表紙裏、袖部分の紹介文から抜粋。

進化論の理論を確立し、今日に至る進化生物学の基礎を築いたチャールス・ダーウィン。

彼は、後世の学問に、真の意味で巨大な影響を及ぼした数少ない科学者である。

ダーウィンの考え方や投げかけた問題は、いまだに解けないさまざまな謎を含み、現在でも重要なものとなっている。

彼はどのような思惟(しい)の果てに、画期的な理論を創出したのだろうか。

著者は長い期間をかけて、ダーウィンの生まれ育った場所、行った場所など、それぞれの土地に実際訪れ、歩いてみた。

シュルーズベリ、エジンバラ、ケンブリッジ、ガラパゴス……。

ダーウィンゆかりの地をめぐる、出会いと知的発見の旅を通して、その思索と生涯、変わらぬ魅力が浮かび上がる。

1ダーウィンのおもしろさ から抜粋

「ダーウィンの進化論」というと、古色蒼然、たいへん古めかしい響きである。

「アインシュタインの相対性理論」というと、どうだろう?

こちらはべつに古めかくは聞こえない。

それどころか、現代物理学の最先端だ。

でも、チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)が、その進化理論の一部である性淘汰の理論を発表したのは1871年、アインシュタインの相対性理論が最初に発表されたのは1905年。

実は、それほどの差はないのである。

しかし、この感覚の違いはなんなのだろう?

やはり、ダーウィンは19世紀の人で、アインシュタインは20世紀の人だ。

二つの世界大戦と原爆、水爆の世界を知っているのと知らないのとでは、大きな違いである。

ダーウィンの進化論は過去のもので、今はゲノム研究だという感じだろうか?

いやいや、とんでもない。

ダーウィン先生はとても「現代的」なのである。

もちろん、ダーウィンの時代には、DNAどころか、遺伝の仕組みがまったくわかっていなかった。

ところが、進化の説明には、遺伝の話が不可欠である。

そこがわからないというのは決定的、致命的弱みであった。

そこで、ダーウィンは、遺伝の仕組みとしてあり得そうな話を考えるために、苦労して頭を絞っている。

さんざん頭を絞ってみたのだが、彼の考えた「パンジェネシス」という遺伝の仕組みは間違っていた。

しかし、まさにその同じ時期、チェコのブルノの修道院にいたグレゴール・メンデル(Gregolr Mendel)が、遺伝の本当の仕組みを示唆するデータを発表していたのである。

ダーウィンは残念ながらそれを知らなかった。

気づいていたら、飛び上がって喜んだだろうに!

そういう欠点はあるものの、ダーウィンの考察はたいへん深く、集めた集積は驚異的で、結局のところ、現代進化生物学を築く礎となった。

そして、彼が考え、著作の中にもちりばめたさまざまな疑問には、今でもまだ解けていない、おもしろい問題がふんだんに含まれているのである。

私がチャールズ・ダーウィンに本当に興味を持ったのは、1987年、ブリティッシュ・カウンシルの奨学金をもらってイギリスのケンブリッジ大学に行ったときである。

私は日本の大学で、人間の進化という、まさにダーウィンが一生をかけて考えたテーマが基礎であるところの人類学を専攻したのだが、日本の教育の中でダーウィンの影はきわめて薄かった。

ところが、ケンブリッジの動物学教室に行くと、ダーウィンの著作を読んでそこから何かヒントを得るという作業は、院生たちの間でごく普通に行われていた。

おまけに、そのとき私が所属することになったのがダーウィンの名を冠したダーウィン・カレッジであり、その建物は、ダーウィンの次男の家であったものと、その隣の屋敷とをつないだ建物だったのである。

ちなみに、ケンブリッジ大学は、ダーウィンが学んだ大学である。

ダーウィンの所属したカレッジは、クライスツ・カレッジであり、ケンブリッジの町の中心近くにあるそのカレッジは、今でも当時そのままの面影をとどめている。

2 メアホール から抜粋

人間誰しも、自分が持って生まれた才能を資本に、人生を切り開いていかねばならない。

しかし、その才能がどのように導き出され、養われていくかには、育つ環境が大きな影響を与える。

チャールズ・ダーウィンは、経済的にたいへん恵まれた人だった。

このことは、ダーウィンが経験を重ね、思索をねり、著作を出版していくうえでたいへん有利な背景を提供した。

前章で紹介した、父親のロバート・ダーウィン先生は、1848年に亡くなったとき、22万3759ポンド残したというから、当時としては飛び抜けた金持ちである。

彼の家も相当な豪邸であったが、母の実家であるウェッジウッド家はさらに桁外れの金持ちであった。

陶器で有名な、あのウエッジウッドである。

ウエッジウッド家とダーウィン家とは、チャールズのおじいさんからの代からのつきあいで、結婚を介して代々つながっている。

今度は、このウエッジウッド家を訪ねてみよう。

二代目のジョサイア・ウエッジウッドは2世は、牛の骨をまぜて作る堅いボーン・チャイナの製造技術を改良し、美しい色彩を施して、ウエッジウッド焼きを作り上げた。

これは、ヨーロッパのブルジョアたちの間でべらぼうなヒット商品となり、ロシアのエカナリーナ女帝からも注文がきた。

この人は、家業を継いでさらに財産を増やし、シュルーズベリから50キロぐらい離れた、メアという小さな村にある、メア・ホール(Maer Hall)と呼ばれる大邸宅を購入した。

ジョサイアの姉がスザンナであり、このスザンナとロバート・ダーウィンが結婚して、やがてチャールズが生まれる。

ジョサイア2世はつまり、チャールズ・ダーウィンの母方の叔父さんなのだ。

ウエッジウッドは自由思想の持ち主であり、奴隷制には反対していた。

これは、ダーウィン家も同じであり、チャールズも熱烈な奴隷反対論者であった。

このことは、ビーグル号の艦長ロバート・フィッツロイ(Robert FizRoy)との関係をこじらせる一つの原因となる。

フィッツロイは当時の上流階級の典型であり、奴隷制に断固賛成だったのだ。

4 エジンバラ から抜粋

チャールズ・ダーウィンは、金持ちで上品な上の息子として、恵まれた楽しい子供時代を送った。

8歳で母親のスザンナを亡くしたことは、生涯癒えない傷を彼の心に残したし、父親の口やかましさと憂鬱症は、毎日の生活にかげりをもたらすものではあった。

しかし、メアの屋敷でウエッジウッド家の子どもたちとドンチャン騒ぎをしたり、兄のエラズマスと化学実験に熱中したり、そして、猟銃で鳥やウサギを撃ちまくる狩猟の楽しみを満喫したりと、当時の社会の中では、楽しみを十分に享受できる境遇で育った。

しかし、15、6歳の頃のチャールズは、どうもその楽しみが度を過ぎるようになったらしい

シュルーズベリ・スクールの成績はかんばしくなく、なんらの見るべき才能を表すこともなく、遊んでばかりいた

そこで堪忍袋の緒を切らした父親は、2年早くチャールズにシュルーズベリ・スクールをやめさせ、エジンバラ大学医学部に入学させることに決めた。

このあと、運命を変えることになる一大事

有名なビーグル号乗船員に選ばれた顛末で

船長フィッツロイ氏がダーウィンを雇う

逸話についても面白かった。

まだ発見されてない有用な資源を

掘り起こして一儲けできると思って

岩を見てこれだ、という目利きの学者を

いろいろ探してたどり着いた人材が

ダーウィンだったとか、さらに

直接ダーウィンとは関係ないが

フェゴ島という裸の未開人(男性)を買取り、

自腹で知識教養を身につけさせ英国風に仕立て上げ

(自作の彼らのスケッチが異様に上手い)

最終的にまた島に返す、という理由不明な

これまた船長の思惑エピソードや、

ガラパゴスでの無防備な生物の楽園っぷりや

病気だった愛娘を当時流行していた水治療という

怪しげな療法を受けに行った場所に

今住んでいる民間人のおばさまとの触れ合いとか

なかなか読み応えのある書籍でございますが

一番自分として響いたのは下のエピソードで

ございます。

13 ダウンハウス Part1 から抜粋

ダーウィン関係の場所や建物でもっとも有名なのは、ケント州のダウン・ハウス(Down House)に違いない。

ここは、ダーウィンがその生涯のほとんどを過ごし、著作のほとんどを書き上げ、最後に逝った場所でもある。

ダウン・ハウスには本がたくさんある

ダーウィンの書斎はもちろんのこと、居間にも、その他の部屋にも、書庫にもたくさんある。

生物学関係の専門書、そのほかの学術書はもちろんのこと、ダーウィン家には、小説や詩もよく読んでいた。

ジェイン・オースティンやチャールズ・ディケンズ、ウィルキー・コリンズなどの小説は、「新刊」として家族みんなで楽しんだようである。

ダーウィンのみならず、私は、いろいろな人の家の書庫を覗くのが大好きだ。

博物館となっている歴史的な家に行っても、現代の友人の家に行っても、そこの書庫は必ず覗いてどんな本がおいてあるか見て回る。

ダウン・ハウスでも、閉館間近になりながら、居間の一つで、鍵のかかったガラス扉の向こうにある本の背表紙を覗いていた。

確か、園芸関係の本がたくさんあったと記憶している。

私にとって、あまりおもしろいと思われる本ではなかった。

そのとき、館員の男性が一人、手に何冊かの古書を抱えて部屋に入ってきた。

そして、持っていた鍵で、まさに私が覗いていた書庫のガラス扉を開け、その本を中に戻そうとした。

私があまりに物欲しそうにみつめていたからなのだろう。

30歳くらい、金髪でひげ面のその男性は、持っていた本の一冊を私のほうに差し出し、

「嗅いでみる?」と言ったのだ。

私は上の空で「イエス」と言って、差し出された本のページの間を嗅いでみた。

古い本に特有の「黄色い」匂いがした。

かさかさと乾いて、ちょっと酸っぱいような、脆(もろ)い匂いである。

5秒ぐらいだったろうか?

「いい匂いだよね」と言って、彼は本を書庫に戻し、鍵をかけて出て行ってしまった。

ダーウィンの蔵書を差し出して、匂い嗅いでみる?なんて言うのは、本が好きな人間でなければ絶対にしないことだ。

そして、私も本が好きな人間であることが、彼にもわかったのだろう。

それは、ちょっとないくらい意外で幸せな5秒間であった。

私はあまりに呆然としていたので、それが何の本だったのか、タイトルも見もしなかったし、まったく覚えていない。

ただ、あの「黄色い」匂いだけは鮮烈に覚えている。

私の最初のダウン・ハウス訪問のハイライトは、ダーウィン自身が何度も手にとったに違いない、あの本の「黄色い」匂いだった。

なかなか、すごいエピソードですなあ。

本好きには良くわかる。

ダーウィンも相当好きだったと言うのは有名。

進化に何も関係ないのだけども。

旅でのハイライトって一生残りそう。

自分も妻と昔に行ったリバプールでの

レストランで受けたウェイトレスさんの

フレンドリーで温かい応対が忘れられない。

そして「あとがき」も素敵でした。

あとがき から抜粋

進化の考えほど、広い範囲にわたって議論を巻き起こした考えはない。

発表以来、今日に至るまで、議論は尽きないのである。

一つは、科学上の議論だ。

ダーウィンは、生物が時間と共に変化し得ることを示し、そのメカニズムとして、自然淘汰と性淘汰の二つの理論を提出した。

彼がこの理論を考案したとき、進化という現象のかなめにある遺伝については、ほとんど何もわかっていなかった。

そこで彼は、ここはブラックボックスにおいておき、その外堀からの証拠をこれでもかと集めた。

あとは、周到な演繹的論理展開によって、議論を組み立てたのである。

彼の演繹論理は、およそ完璧である。

問題は、その前提となる諸事実だ。

ダーウィン以来、遺伝の仕組みについての理解は飛躍的に進んだ。

今や、ヒトゲノムもすべて解読されたほどである。

つまり、ダーウィンがブラックボックスのなかにおいておいた中身が、次々と明らかになったのだ。

そこで、それに伴って理論の改訂が行われていった。

今では淘汰ばかりではなく、木村資生が提唱した中立進化も重要な働きをしていることがわかった。

もはや「ダーウィンの進化論」の時代は終わった

進化生物学は、生物学の中の大きな柱となる分野として、発展し続けている

もう一つの議論は、宗教との対立である。

進化理論は、「生物は神が創造の日にすべてを作り、その日以来変化していない」という創造論に対立する。

そして、「命」「人間」「人間の精神」といったものに特別な地位を与えることなく、ヒト以外の動物からヒトへの連続性、そして、無生物から生物への連続性を明らかにする。

このことに対する抵抗は非常に強く、ことさら宗教的ではない人々からも、疑問や反論が寄せられる。

現在では、彼の考えた路線を延長して、確かに、人間の脳と心を進化で分析されるようになった。

しかし、それに対する抵抗は依然としてとても強い。

まずは1996年にローマ法王は進化を事実として認めたものの、人間の精神の領域だけは、進化の産物ではなくて直接神様から付与されたものだ、と但し書きをつけた。

人間の心と行動を進化的に分析しようとしたハーバード大学の生態学者、E・O・ウィルソンによる著作『社会生物学』は、それを不快とする人々からの総攻撃を受け、以後、社会生物学論争と呼ばれるものが10年以上にわたって続いた。

進化の考えには、何か、人間にとって気持ちの良くないところがあるのだろう。

それは、究極的な「唯物論」のせいなのだと私は思う

生命にも人間の精神にも、何も特別なものはない、それらはすべて、物質の世界と連続しているという考えが、どうしても心地よくないのだ。

しかし、心地よかろうとよくなかろうと、進化学は進んでいく

それは、認知哲学者のダニエル・デネットが『ダーウィンの危険な思想』で述べたように、生物に関するすべての現象の分析に入り込んでいく、何でも溶かす酸のようなものなのだ。

そこには聖域は一つもない。

こんな考えを最初に考えつき、それを発表したチャールズ・ダーウィンとは、どんな人間なのだったのだろう?

彼は、たいへんに愛情濃(こま)やかな人だった。

集英社新書ヴィジュアル版は、過日読んだ

茂木先生といい、愛に溢れてて

読んでいて気持ちの良い書籍でございました。

長谷川先生の本は2冊目ですが

100分de名著の「ダーウィン」の回

興味深かったし、指南役もとても良かった。

こういうバックグラウンドがあったので

選ばれたのだと後から知った次第です。

余談だけど、この後図書館に行って

長谷川先生の違う本を借りてくる

予定でございます。(買えよ!)

 


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