SSブログ

更に追加で”ミーム”を日高先生の書から読む [’23年以前の”新旧の価値観”]


老いと死は遺伝子のたくらみ プログラムとしての老い

老いと死は遺伝子のたくらみ プログラムとしての老い

  • 作者: 日高敏隆
  • 出版社/メーカー: 武田ランダムハウスジャパン
  • 発売日: 2012/08/23
  • メディア: 単行本

さらに昨日と同じ書籍にて恐縮です。

第14章 「ミーム」


名を残すためなら死も選ぶ? から抜粋


人間が死後に残せるものは二つある。

一つはこれまで述べてきたように遺伝子である。

そしてもう一つが「ミーム」と呼ばれる自己複製だ。

わかりやすい例を出そう。


世界中のケンタッキーフライドチキンの店頭には、創業者カーネル・サンダースそっくりにつくられた等身大の人形「カーネルおじさん」が立っている。

この人形ができた由来はいろいろあるそうだが、要するにカーネルおじさんは、支店と共に自分の分身が殖えていくことを期待していたと思われる。

人形はプラスチックだから、この中にはおじさんの遺伝子はまったく含まれていないが、彼の存在したことの証と言うべきもの、つまり彼のミームは人形とともにかくじつに殖えていっている。


人間には、遺伝子だけでなく、業績や作品や名声、つまりミームも残したいという強烈な願望がある

インテリたちは、勲章をもらったり、銅像を建ててもらって喜んでいる人を軽蔑する傾向にあるが、インテリも研究や作品などの形で自分のミームを残したいと思っているわけだから、つまるところ同じである。


ミームを残したいという願望は、場合によっては、増殖し生き延びたいという遺伝子集団の願望に反し、遺伝子は残さなくてもいいから、ミームだけは残したいという形をとることすらある。

極端な場合には、後世に名を残すためにあえて死を選ぶ

日本の戦時中の「英霊」や宗教における殉教、アラブのジハードもそうだ。

古来、中国人は現実肯定的だと思われているが、ここで死ねば名が残る。

おめおめ生き残ったら名が残らないという考え方は過去に随分あったようだ。


名を残したいという願望は、人間以外のほかの動物にはありえない。


人間って虚しいなあ。


幸いなのか不幸なのか存じ上げないが


自分は、「名声」も「財」もないから


そういう願望はないつもりなのだけど。


子どもには、普通に幸せになってもらいたいという


親としてのアレはあるけれど。


 


「ミーム」という逃げを打った(?)ドーキンス から抜粋


遺伝子は残らなくても名は残したいという人間の願望は、遺伝子の願望と拮抗(きっこう)するものである。

自分の損になるような願望を遺伝子が個体に持たせるわけはないから、それはおそらく遺伝子の目論見ではないだろう

そう考えて、ドーキンスは「ミーム」という概念を持ち込んだ

ミームをもつ点において、人間はほかの動物とはちがう

「個体は単に遺伝子のヴィーグル(乗り物)にすぎない」と言うと、「人間はほかの動物とちがう」と思いたがる人間の反発が必ずある。

こうした意見に対して、ドーキンスは「ミーム」という、いわば逃げを打ったのだろう。


子供や孫が元気でいるという遺伝子の満足感ではなく、自分は子どもも孫も残さなかったが、業績や名が残るからいいのだというミームの満足感をもって死んだ人間は結構多い。

とくに男はそうだ。

ミームは悪い方向に作用すれば紛争や戦争を引き起こすことになるが、何かすごいものを発明、発見して名を残そうと言う努力は、文化、文明を形成する大きな力になる。

現在のわれわれの文明や文化は、ミームがなければ存在しなかっただろう。


すべては後世の判断次第 から抜粋


ただ、どんなミームが後世に残るかは、そのときの社会状況、文化や美学が決める

モーツァルトの遺伝子は今やどこに行ってしまったかわからないが、彼の作品はいまだに愛され、演奏されつづけている。

現在のわれわれの文化や美学がその価値を認めているのである。

戦争中には、本人も含めて日本人のほとんどは、特攻隊員として出撃することは名誉なことで名が残ると考えた。

けれども今は誰もそうは思わない。


三島由紀夫の割腹自殺はその最後のものだと思うが、彼の名は、あの行為自体によってではなく、彼の作品と一体になることによって残っている。彼のような小説を書きたいと思っている若い人は、今もたくさんいるにちがいない。


ミームを残したいと思っても、残せるかどうかは他人任せで、本人にはわからない


人工物は半ば永遠だ。

ピラミッドは5000年たった今もたしかに建っている。

つくった人はそれが後世に残ることを信じていたかもしれないが、それを自分で実際に見ることはできない。


人間は考古学が好きだ。

エジプトをはじめ、何千年も前のものを、当時のことをまったく知らない後世の人間が見て感激する。

とくに最近はそういうものを評価する傾向が強いと思う。

しかし、たとえばイギリスのストーンヘンジは、当時の人々が何位かの目的で一所懸命つくったものにはちがいないが、今では何のためにつくられたのかわからない。

ドイツの学者が、あれは蜃気楼が出やすいところにつくってあり、蜃気楼が出るといろいろなものに見えるという説を唱えているが、せっかくミームを残しても、価値観が変わると、そこに込められたメッセージは解読されない。

ミームは本来それほど確固たるものではないのである。


「年貢の納め時」から抜粋


人間は動物とちがって言葉をもつが、言葉は文明を築く一方で、諸悪の根源にもなっているという考え方がある。

同様に、人間だけが持つミームも、文明をつくると同時に、人間の悩みの源泉にもなっているのではないだろうか。


ドーキンスがおもしろいたとえ話を引用している。

コウモリたちが集まって、このごろよくあらわれる人間は、超音波ではなく光を使って周囲の世界を見ているらしい。

そんなもので周りがわかるだろうか、と議論しているという話である。

われわれ人間とすれば、「百聞は一見にしかず」という格言があるように、超音波だけで周りがわかるのだろうか、やはり目で見なければと思う。


われわれがいずれ死ぬというプログラムは決まっている。

それを素直に受けとめて、名は残るか残らないかわからないが、自分の血を受け継ぐ子孫も産まれたし、自分もそこそこやってきて、ささやかながら楽しみも味わえたのだから、まあいいのではないかと思えば、誰でももう少し楽に死ねるのではないだろうか。

そういうことは昔からちゃんとわかっていて、日本語では「年貢の納め時」という言葉などでそれが表現されている。


年貢を納めるかどうかはどうでもよいが、とにかく人間は誰でも、赤ん坊から子ども、子供から少年少女、そして青年、大人と、育っていくプログラムのおかげで成人し、子どもをつくり、なんらかの仕事をしていきながら、しだいに老いていく。

そしていつかは死んで消滅する。

これは動かし難い遺伝的プログラムであり、このプログラムのおかげで人間というものが存在し、自分というものも存在している

われわれはこのことを十分に考えてみなければなるまい。


そしてもう一つ。

この遺伝的プログラムは「人間の男」というのと「人間の女」というのと二つしかなく、個人個人でちがうのは、それぞれのプログラムの具体化のしかたである。

プログラムは決まっており、その具体化のしかたはその人次第である、という認識こそが今、大切なものになってきたのではないだろうか?


遺伝的プログラムでおおよそ決まっているが


環境や時代の価値観によって左右するという


まさに運命みたいなものだ、ってことかなあ。


結論はわかりきったことのような気もする。


それと瑣末なことかもだけど


「男」「女」だけではなく


複雑になっている性の多様性は


どのように考えれば良いのかなあ、


プログラムとして。


ただいま現在はLGBTがさらに進行、てのは


山口真由さんの書で読んだけど


これらの変貌に対して「ミーム」はどのように


変節していくのだろうか。


LGBTといっても身体の性とするならば


「男」と「女」しかないので日高先生のこの論考は


ただいま現在もステイなのだろうか。


(この二者という考えが古いのだろうか)


そもそも「ミーム」というのを「遺伝子」と


同じ括りで科学的な検証・論考をしていて


よいのだろうか。


などの疑問の連鎖、というか興味は尽きない。


 


最後にミームとは関係がないのだけど


巻末にあった小随筆がこれまた謎。


「特別付録・死の「発見」」の


三つの小随筆の中の一つ「人間の基準」から


フランスのレジスタンス作家のヴェルコール


人獣裁判』の話。


ニューギニアの奥地で人間によく似た


類人猿がみつかりトロピーと名づけた。


従順でおとなしいためオーストラリアへ


連れて行き工場で働かせた。


人間ではないので、餌だけ与えての報酬に


安上がりの労働力で喜んだ人間たち。


しかしある新聞記者が、トロピーは本当は


人間なんじゃないかと疑う。


だとすると人権侵害ではないかと。


その記者はニューギニアに飛び、


トロピーを観察、埋葬儀礼をしていたのを見る。


記者はメスのトロピーを捕まえてシドニーに連れて帰り、


なぜか友人の医者に自分の精液を人工授精してもらう。


トロピーのメスが子どもを出産。


しかしこれまたなぜか、記者は赤ん坊を


毒液で殺してしまう。


警察沙汰になるが、人間ではないので


何をどうしていいかわからない。


いったん裁判所判断となり、有識者を集めて


「人間の基準に関する委員会」を設立、


人間としての基準を討議、そこの最終判断として


「多少とも宗教心を持つことを人間の基準とする」と制定。


トロピーは死者の弔いをしていた為、人間と認定。


では、新聞記者は有罪か?


結果的には無罪だった。


記者がメスのトロピーとの赤ん坊を殺した時、


まだ法律はなかった。


法律は遡行(そこう)しない。


 


戦後まもなくという古い話とはいえ、


にわかに信じがたい話で。


本当にそんなことがあったのかなあ?と。


調べたらSFではなかろうかとも。


本当なら戦後とはいえ写真の一枚もあるだろう。


それとなぜこの話を日高先生が書かれたのか。


これは「臨済宗建長寺派宗務本院発行誌」


平成8年、63号の随筆のようで


人間の生死、倫理とかを説かれたのかなあとかは


思うのだけど。


興味と謎は深まるばかり。


 


遺伝子の深い話だったのに最後に


オリバー君のようなトンデモ話のようなものの


感想みたくなって残念でございますが、


いずれにしてもなかなか興味深い日高先生の


書籍でございました。


先生の深いところは学者さんでありながら


「んなこたあ、誰にもわからないんだよ」


みたいに聞こえるところかねえ。


 


nice!(42) 
共通テーマ:

nice! 42