リベラルという病:山口真由著(2017年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
「はじめに」から抜粋
近年、日本の言論空間において「リベラル」という語をよく見かける。
日本においてリベラルとは一体何なのだろうか。
「憲法解釈を時代によって変える安倍政権は許せない。
彼らは戦争責任を認めて心から陳謝することなく、総理自ら靖国神社に参拝することで、隣国との関係を悪化させている。
我が国が世界に誇る平和憲法を改悪して、日本を戦争ができる国に変えるつもりなのか。
おまけに、彼らはマイノリティに対しても極めて冷淡だし、原発再稼働も認めるという。
このような極右政権に対して、我々リベラルは断固として闘うべきだ」
これが、リベラルの主張であるというのは、読者の皆様には、比較的受け入れやすいのではないか。
私は、2015年から一年間、ハーバード・ロースクールで学んだ。
アメリカは、リベラル政党である民主党が政権担当能力を持っている、稀有な国だ。
いわば、リベラルの本家とも言える。そこで私は衝撃を受けた。
リベラルの定義について、先に述べたようなことを言えば、アメリカではポカンとされるか、場合によっては「全く逆じゃないか」と反論されてしまうのだから。
では、アメリカで言う「リベラル」とは何か。
それを理解するためには、アメリカという国を知らなければならない。
普通の日本人からすると、感覚的に理解しがたいアメリカという国を等身大で知るには、リベラルとその対概念であるコンサバ(コンサバーティブ=保守)を理解する必要がある。
なぜなら、これは建国以来の歴史と文化そのものだからだ。
そしてアメリカのリベラルと比較すると日本式のリベラルのどこか特殊で、なぜ日本という風土から浮いた主張に感じられるのかという理由も見えてくる。
「ポリティカル・コレクトネスとは何か」から抜粋
「ポリティカル・コレクトネス(PC)」という言葉をご存知だろうか。
人種的・性的・性指向的、いかなる意味でも少数者を差別しないことをいい、とりわけ表現の側面で注目される。
20世紀半ばから使われ出した言葉で、1970年代にはフェミニズムと結びついた。
「看護婦」のような女性であることを前提としている用語、「ビジネスマン」のような当然に男性であると決めつける用語に対して、フェミニストが抗議したからだ。
そこから発展して、80年代から90年代にかけては性差別に限らず、人種やセクシャリティへの差別表現をしてはならないという動きになった。
当然の帰結として、これは「リベラル信仰」と密接に関わってきた。
日本でも、女性を表す「スチュワーデス」は「客室乗務員」「キャビン・アテンダント」といった、性別に中立な言葉に改められた。
「肌色」も、肌には色々な意味があることから、今では「うすだいだい」と呼ぶのが正しいらしい。
いかなる少数者も差別しない「リベラル信仰」のもと、アメリカではPCは厳格に適用される。
公の場での発言では、少数者を差別する、またはそう解釈されかねない言葉を使ってはいけない。
ひるがえって日本ではどうだろう。
2015年暮れ、広告最大手・電通の女性社員が、24歳の若さで自ら命を絶った。
その1年後には、彼女の死を「過労死」とする判決が下された。
彼女は上司から「女子力がない」と言われることもあったという。
2016年というこの時期は、のちのち、「日本のPC元年」と振り返られることになるかもしれない。つまり、日本においてもPCの風がぐんと強まった時期、そうなるのではないか。
実際2016年を境として「女子力」という言葉に対する風向きが変わったように思う。
たとえば、資生堂の化粧品CMの中で25歳の誕生日を迎えた女性が、友人に
「今日からあんたは女の子じゃない」、
「かわいいをアップデートできる女になるか、このままステイか」
と言われる内容が問題となり、放映中止に追い込まれた。
著者の山口さんは、5年くらい前か、「ニュース女子」という番組に出ておられた。
綺麗な若い女性たち VS ジャーナリストのおじさんたちという構図で昨今のニュースに論陣戦わすという内容。
女性陣が新しい感性で切り込むから、古いおじさんたちはなかなかうまく説明できず、でも経験と金と地位はあるんだからな、俺たち、みたいな。
そこでは山口さんは「弁護士」ってことしかわからなかったけれど、ハーバード・ロースクールを卒業(オバマ前大統領出身校)だったことでこの本をご自身が書かせたようだ。
そこでの経験や知識、感じたことがまとめられてるのだけど、特に印象に残ったのを以下に抜粋。
「LGBTQQIAAPPO2Sって何?」から抜粋
既にかなり複雑な概念である「LGBT」という言葉は、さらに難しくなっていく。
「LGBT」だけでは、豊富なセクシャリティのすべてをカバーしきれなくなったのだ。
「LGBT」に包含されない人たちからすると「LGBTの権利」自体が、自分を無視する差別表現となりうる。
それは、PCの観点から正しくないということで、最近では「LGBT QQIA」という言い方もされるらしい。LGBTの後の「Q」は、クイアを指す。「奇妙な」を意味し、もともと否定的なニュアンスで用いられていた、この言葉は、そのうち「奇妙でいいじゃん。楽しいじゃん」と「クイア」に分類された側から、積極的に用いられるようになった。
そして、「同性愛とか異性愛とか性行動で我々を分類するな、我々は普通とは違っていて、個性的で素晴らしいんだから」という人々の主張と、そう主張する人たちの総称になる。
つまり「クイア」はLGBTすべてを包括しうる。
とすると、「LGBT」だけでは拾えなかった性的指向と性自認のバラエティが、クイアで全てカバーされるのかと思いきや、それではしっくりこない人がいるらしい。
次の「Q」はクエスチョニング。
自分の性自認や性的指向が定まっておらず、疑問を持ち続けている若者を指す。
「I」はインターセックス。染色体異常などにより、生まれつき身体の性が心の性と一致しない人、日本で言うところの性同一性障害などのことだそうだ。
最後の「A」はアライ。ストレートでありながら、ゲイの権利を理解して一緒に戦う人には「同盟」を意味するアライという分類が与えられる。
さらにこれでも括りきれない人がいて「LGBTQQIAAP」が、より正確らしい。
付け加わった「A」はアセクシャル。異性にも同性にも恒常的な恋愛感情や性的欲求を感じることがない人のこと。「P」はパンセクシャル。
個性によって他人に魅かれるのであって性別を超越する人を意味する。バイセクシャルとかパンセクシャルの違いは、男女という性別の違いを無視しているか否かーーそもそも性別が二つなんて分類には意味がない、という境地にまで至ったら、パンセクシャルになるらしい。
さらに長い「LGBTQQIAAPPO2S」という表現まである。
付け加わった「P」はポリアモロウス(二人の間に限らず、複数人との間で恋人関係を認める行動のこと)、「O」はオムニセクシャル(相手の性的指向に関わらず、その相手に対して魅力を感じてしまう人)、「2S」トゥースピリッツ(こうした様々なセクシャリティを包括する言葉)。
もう限界だ。私には耐えられそうにない。差別主義の烙印は押されたくない。
かといって延々長くなっていく言葉と、刻々と複雑になっていく概念は、私の認知の限界を超えている。
言葉の端々にまで気を配って、どんな時も決して言葉尻を捉えられないようにしなければならない。
そんな社会では、私は神経症になりそうだ。
そう、ポリティカル・コレクトネスは、日本の「言葉狩り」よりもずっとややこしい。
かつ、日本よりもずっと厳密に適用される。
笑ってしまうくらい複雑なものを、狂気に満ちた誠実さで適用し続ける背景には「宗教」がある。
日米の文化の違いをまざまざと
見せつけられる内容だった。
ほとんど呪文とかパスワードにしか見えない。
LGBTQQIAAPPO2Sってなんだよー。
文字校正泣かせだよな。
それはさておき、アメリカって体系立てて
物事をまとめる「合理化の粋」っていうのか、
そういうのは尊敬に値するけれど、
行き過ぎてしまうきらいがある気がする。
それこそがアメリカであり、特定の宗教を持たない
日本人の自分には「理解不能」なのかも。
文中にも出てくるけれどアメリカで政治をやるのは、
本当に大変らしい。
政治をやる予定はないけど、いろいろな場所で
グローバル化は強まるだろうから、こういうことも
他人事ではなく「理解不能」なんて言ってたら
笑われてしまう時代かもしれない。