追加で”老い”を日高敏隆先生の書から読む [’23年以前の”新旧の価値観”]
- 作者: 日高敏隆
- 出版社/メーカー: 武田ランダムハウスジャパン
- 発売日: 2012/08/23
- メディア: 単行本
さらに引かせていただきますゆえ
ご容赦賜りたく存じます。
第4章 遺伝子のプログラムとは
適応度(フィットネス)の増大を求めて から抜粋
第3章に述べたとおり、動物たちは種族維持のために生きているのではなく、一匹一匹の個体が、それぞれ自分自身の血のつながった子孫、つまり自分の遺伝子をもった子孫を、できるだけたくさん後代に残すことを「目指して」生きている。
それぞれの個体にとって、問題は種族の存続ではなく、自分の遺伝子を残すことなのである。
自分の遺伝子ーーー実際には、自分の遺伝子を持った子孫ーーーをどれだけたくさん後代に残せるか、これをダーウィンの進化論と関連でその個体の「適応度」と呼ぶことは前に述べたが、これについてもう少し詳しく説明しておこう。
ダーウィンは有名な『種の起源』という本の中で、次のようなことを述べている。
「よりよく適応した個体は、より多くの子孫を残すだろう。
そうすると、そのような特徴を持った個体が殖えていくので、種はしだいにその方向に変化していくであろう。
このようにして進化は起こる」
これがダーウィンの進化論の骨子である。
この長ったらしい言い方をつづめて、
「適者生存」という表現が生まれ、広く人々に知られている。
しかし、残念ながらこの表現は、ダーウィンの言ったことをちゃんと伝えているとはいえない。
ダーウィンはいうなれば、「適者多産」と言ったのであって、「適者は生き残る」とは言わなかった。
適者がいかに長生きしても、子孫を残さなければ、進化など起こるはずはないからである。
それはともかく、ダーウィンの言うように「よりよく適応した個体はより多く子孫を残す」のであれば、逆に「より多く子孫を残しえた個体はそれだけよく適応していた」ことになる。
このような論法で、「自分の血をひいた子孫をどれだけたくさん後代に残しえたか」をもって、その個体の適応の度合を計ることができる。
それで、これをその個体の「適応度(フィットネス)」と呼ぶことになったのである。
この言葉を使うならば、動物たちはオスもメスも、それぞれの個体はそれぞれ自分の適応度をできるだけ増大させようとして生きていることになる。
個々の個体にとって、問題は自分の適応度増大であって、種の存続でも種の維持でもない。
種の存続は個々の個体が自己の適応度増大に努力した結果であって、最初からの目的ではない。
それでは、遺伝子ということも適応度ということも知らない動物たちが、なぜ自分の適応度を高めよう、自分の遺伝子を残そうと努力するのであろうか?
「神が・・・」というのでなければ、それは遺伝子がそうさせるのだ、というほかない。
前章で述べたとおり、リチャード・ドーキンスの利己的遺伝子論は、この考え方を基礎としている。
つまり、生き残って殖えていきたいと「願って」いるのは遺伝子であって、そのために遺伝子はいろいろなしかけをこらして、自分が殖えていけるようにしつらえているのだ、というのである。
なんだか、否定的な口調に思えるのは気のせいか。
読めば読むほどわからなくなってくる
「遺伝」と「環境」の関係、あるいはその相関。
第5章「育つ」「育てる」プログラム
遺伝決定論と環境決定論 から抜粋
前章で「遺伝プログラム」について少々長々と述べた。
いつになったら「老い」の話になるのかといぶかる読者も多かろう。
だが、もう少し待っていただきたい。
この一連の文章では、老いとか老年とかについて、医学の見地からではなく、いかにして老化を防ぐかという見地からでもなく、少しべつの観点から述べてみたいと思っているからである。
前章で述べたのは発育のプログラムについてであった。
文中、「遺伝子プログラム」という言葉を使ったが、これは少々不適切な言い方であって、ほんとうは「遺伝的プログラム」というべきである。
一個一個の遺伝子がプログラムを組んでいるわけではないし、また遺伝といってもここで言っている遺伝子とは、厳密に遺伝子DNAとか分子生物学でいう遺伝子を指しているわけでもないからである。
言ってみればそれは、外界環境や食物条件やあるいは学習によって一義的に決まるのではない、内在的なものをかなり概念的に言っているにすぎないのである。
しかし、生物にそのようなものを認めざるをえないことは、誰でも知っている。
そんなことは当たり前だと言われるかもしれない。
けれど20世紀には、このごく当たり前なことが、ともすれば忘れられていた。
いやもっときつくいえば、あえて忘れよう、無視しようとされていたのである。
同じ草を食べていながらウマがウマでありつづけ、ウシはウシの子を産んでその子がまたウシに育つということは、そこに動かし難く遺伝的なものが内在していることを意味している。
そのように動かし難く内在するものを、20世紀は嫌った。
生物の体に内在する、遺伝的なものによって生物の存在が決定されることは、遺伝決定論として排斥された。
ナチズムに対する反発がそれに輪をかけたこともたしかである。
それに代わって歓迎されたのは環境決定論である。
生物は遺伝によってではなく環境によって決定されるといえば、それは進歩的、発展的、人道的な論として受けとられた。
女はもともと女なのではなく、社会によって女に作られるのだと主張したボーヴォワールの著書『第二の性』は、当時の女たちのバイブルとなった。
一方、このような思想は、子どもの教育にも波及した。
子どもの能力や性格は遺伝的に決まっているのではなく、生後、とくに生後1年間の環境と教育によって決まるとされ、親たちは乳児期からの教育に奔走することになった。
古臭くて固定的な「遺伝」を否定して、良くなるのも悪くなるのもすべて環境という発想は、老化に関しても流行となった。
老化を防ぐ食事、生活法、そして薬、といったものが次々と新聞、雑誌に紹介され、人々はこぞってそれを求めた。
「すべてはそれに従って進行する」から抜粋
いずれにせよ、われわれを含めたあらゆる生きものに、このようなプログラムがあるということが、しだいに認識されざるをえなくなってきている。
それを遺伝的プログラムと呼ぼうと、そこに「プログラムされたもの」が存在していることは、否定できないように思われるのだ。
時代の流れとともに、われわれの認識は変わる。
かつては「遺伝」は嫌われて、「環境」が好まれ、強調された。
今日ではそれが一転して、何でも「遺伝子」になってしまった感がある。
遺伝子操作で人類の明るい未来が開けるような言説すらある。
けれど、これから述べていくとおり、「遺伝的プログラム」というものを、何でも「遺伝子」というこの風潮にのって受け取ってしまうのは、新たな誤解のもとになるだけである。
遺伝子について
”優生学”と命名され池田清彦先生も
別の視座で論じられていたことを思い出す。
ボーヴォワールは仕事の関係で
『老い』を読んだことがあるが
世界の老いについて論考されていて
日本の姥捨て文化も言及されていたのに
かなりびっくりした記憶がある。
ここまで日高先生の書から
引かせていただきつつ、
読む順番間違えたなあ、と今更ながら。
先にこちらを読めばよかったと少し後悔。
遺伝的プログラム論 人間は遺伝か環境か?――遺伝的プログラム論 (文春新書)
- 作者: 日高 敏隆
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2006/01/20
- メディア: 新書
人は作るものではなく、育てるものだ
というのは有名な先生の言葉。
それが触りだけわかるような
今の段階だとここまでが自分の頭だと
精一杯なのでございました
夜勤明け、谷中生姜とノンアルが
美味しい季節になりました。
なんかいつも以上に中途半端な
終わり方だなこれ。