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日高敏隆先生の書から老いと遺伝子を読む [’23年以前の”新旧の価値観”]

老いと死は遺伝子のたくらみ プログラムとしての老い


老いと死は遺伝子のたくらみ プログラムとしての老い

  • 作者: 日高敏隆
  • 出版社/メーカー: 武田ランダムハウスジャパン
  • 発売日: 2012/08/23
  • メディア: 単行本


気になる箇所をチェックしてたら


とんでもない量になってしまいそう。


こういう書籍は文庫にならないのだろうか?


第1章人はなぜ老いるのか


「加齢」と「老い」は本来的にちがう から抜粋


「老い」とはいやな言葉である。

ぼくの知っている限り、どの文化の言葉をみても、「老い」とそれから派生する語には、侮蔑的な意味がある。

そのためであろう。

近ごろでは「老化」といわずに「エージング」、それを訳して「加齢」という。


しかし、「加齢」と「老い」とは本来的にちがうはずだ。

加齢というのはその字のとおり年齢を加えていくというだけのことで、必ずしも老いを意味するわけではない。

ワインなどの例でもわかるとおり、エージングは良い意味でさえある。

ヴィンテージは加齢だが、ワインではたいへん良い意味がある。

けれど、齢(よわい)を加えていけば老けてくるのは避けられない。

老(ふ)けていくうちには老(お)いてもくるだろう。

老いてくればいずれ死ぬ時も近いだろう。


だから人は、老いを嫌う。老いたくないと思う。


そこで誰でも、「人はなぜ老いるのか?」と問うことになる。

これはきわめて素直な問いであって、むずかしい哲学的なものでもなんでもない


問いは素直でも、答えはむずかしい。

いや、むずかしいというだけでなく、いく通りもの答えがあるのである。

それは、問いが老いに関することだからなのではない。

われわれが「なぜ?」と問う場合すべてに共通したことなのだ。


「原子爆弾はなぜできたか?」という問いになると、答えは少なくとも二つになる。

一つは、原子核分裂のしくみやその生ずる効果についての物理学的研究の成果、という答えである。

ナチス・ドイツがつくろうと思ってついにつくれなかった原子爆弾が、なぜ第二次大戦末期にアメリカでつくられたのかは、物理学の発展の歴史をみればわかる。

もう一つは、なぜアメリカがそれを遮二無二つくろうとしたかである。

ソ連への優位を保とうとする国家的願望云々(うんぬん)というのが答えになる。


ローレンツの「なぜ」 から抜粋


生物に関することになると、「なぜ」という問いは、さまざまな意味をもつ。

今から半世紀以上前、1930年代に動物行動学(エソロジー)を確立して、のちその業績に対してノーベル生理学医学賞を受けたオーストラリアのコンラート・ローレンツが、生物学における「なぜ」について次のような意味のことをいっている。

つまり、生きものに関しての「なぜ」には、少なくとも二つの意味がある

一つは、ドイツ語で言えばwarum(ヴァルム)、どういうしくみでそうなっているか、ということだ。

たとえば、「われわれはなぜ目が見えるのか?」という問いに、それは目はカメラのような構造をしていて網膜に像が結び、それが視神経によって脳にどう伝わり、というような答えだ。

これは、なぜ目はものを見ることができるのかということに近い。

もう一つは、ドイツ語でwozu(ヴォツー)、何のために、ということである。

われわれは目でものを見ているが、何のために見るのだ?

イヌは、目はあまり良くないが匂いにはものすごく敏感で、われわれが目で見ているよりもっと細かく匂いでものをわかっている。

なぜなのか?

というたぐいの問いである。


「人はなぜ老いるのか?」というときのなぜにもこの二つの場合があるが、そのどちらも少しちがっている。


まず第一のなぜについての答えは、かなり医学的なものになる。

老化のしくみ、ないし原因としては、さまざまなことがあげられよう。


いずれも何十年という年月の間に、体が痛み、故障し、がたがくるということである。

ふつうの機械だったら20年も使っていたらたいていはがたがくるだろう。


しかも人間の体はそこらの機械よりずっと精巧にできている

しかもきわめてきめ細かくできている。

心身症などというものは、機械にはない

しかし、心身症でかなり体調がおかしくなっていても、人間はずっと生き続けている。


「何のために?」には、答えようがない から抜粋


けれど大きくちがうのは、次のような点である。

われわれが「人はなぜ老いるのか?」という問いを発する時、それは「なぜ老いねばならないのか?」といううらめしさを含んだ問いである。

それは、われわれが「目はなぜ見えるのか?」と問うときとはまったくちがう

この場合、人は、目はなぜものを見ることができるのか、と問うている。

目で世界が見えることはすばらしいことである。


けれど、老いるのは、少しもすばらしいことではない。

むしろ悲しいことである。


だから、なぜ老いるのか?という問いに、なぜ老いることが可能なのか、というニュアンスはまったく含まれていない。

「なぜ老いてしまうのか」というのが本意である。


「なぜ」の二つ目、つまり「何のために?」ということになると、これはもう答えようがない

なぜ目があるのか?


けれど、こういう意味で「なぜ老いるのか?」と問われたら、何と答えればよいのだろう?

つまり、何のために老いるのか?と問われても、答えようはないのである。

しかし、「老い」ではなく、本来の意味でのエージング、つまり加齢について言えば、「何のために」という問いは成り立ちうる。


日高先生に答えようがないのなら、


自分なぞわかる訳はない。


そもそも「わかる」ような範疇に


あるものとも思えないので


正しい方向の「問い」を発想すら


できんです。


ちと思い出したのが


以前読んだ「LIFE SPAN」のようなことも


考えたことがなかったけれど


いわれてみれば多くの疑問符が出るこの問い。


いったんクールダウンして


自分なりに素直に感じることなのだけども


人類が生まれてからこのかた「そういうもの」で


できてきたからなんじゃないすかねえ。


しかし軽薄に答えるしかない


「そういうもの」とは一体何なのだろうか。


第3章 何のために生きるのか


ドーキンスの「利己的遺伝子」説 から抜粋


個体はいつまでも生きていたいと願っているかもしれないが、そういうわけにはいかない。

いつか必ず死ぬ。

しかし、その前に自分の子孫を残しておけば、その個体の遺伝子セットは生き残り、しかも殖えていく

もしかすると、生き残って殖えていきたいと「願って」いるのは遺伝子かもしれない。

遺伝子が生き残っていくためには、その遺伝子セットが宿っている個体が子孫をつくってくれる必要がある。

そこで遺伝子は、自分が宿っている個体を操って、できるだけたくさん子どもをつくり、育てあげて、さらに孫ができるようにさせるのだ。

これがリチャード・ドーキンスの唱える「利己的遺伝子」説である。


この考え方はドーキンスのオリジナルではない。

かつて、アウグスト・ヴァイスマンという生物学者が、生殖質連続説という説を唱えた。

生殖細胞(精子あるいは卵子)に含まれる「生殖質」は、合体後、個体の体をつくる。

個体の体は成長し、大人になれば、体の一部にある生殖細胞を放出して、それに含まれた生殖質が次の個体をつくる。

こうして次々につづいていく。

個体に宿る生殖質は、次々の次の世代にひきつがれ、個体の体(「体質(ソーマ)」)は死んでも、生殖質は生き続けている。

体質は死ぬが、生殖質は連続していくのだ。

これがヴァイスマンのいう生殖質連続説である。


このヴァイスマン説の「生殖質」を遺伝子と読みかえれば、ドーキンスの利己的遺伝子説になる

ドーキンスに言わせれば、個体は遺伝子のヴィーグル(乗り物)であって、体内で遺伝子を生かし、子孫という形で送り出すのが仕事である。

ドーキンスのべつの表現では、個体は遺伝子が生き残るためのサヴァイヴァル・マシーン(生存機械)だということになる。

生存とかサヴァイヴァルとか言っても、それは個体自身の、ではない。

その個体に宿っている遺伝子の生存、サヴァイヴァルについてのことである


個体が子孫をつくる前に早死にしてしまうと、その個体に宿った遺伝子も「死んで」しまう。

そこで、そのようなことにならないよう、遺伝子のセットはその個体がちゃんと生きていかれるように一所懸命「働く」。

ただしそれは、遺伝子が個体の幸せをおもんぱかってのことではない。

個体が死んでしまったら、遺伝子自身が損をするからにほかならない。

そして、その個体が子どもを作ってくれないと、遺伝子は殖えることができないから、遺伝子はその個体が子どもをつくるために努力させる。


個人は「遺伝子の乗り物」か から抜粋


人間も動物である以上、この筋立てに変わりはない。

財産のこととか社会的な背景、個人の気質などがからまるから、話は多少とも複雑になるが、若いときの駆りたてられるような愛と性の思いも、しょせん自分たちの生き残りを目指す遺伝子たちのなせる業といえる。

ある程度年をとってみると、そういう情熱は遠い昔のことのように思えるかもしれないが、その当時は夢中だった。

そして多くの人はその願いがかなって結婚し、子どもをつくって育てあげ、嫁にやり、嫁をとり、孫の顔を見て幸せを感じている。

遺伝子も喜んでいることであろう。

遺伝子にしてみれば、自分たちがちゃんと生き残って、しかも二代にわたって殖えることができたのだからである。


このような見方をすると、われわれの人生はそれこそ身もふたもないことになる。

すべては遺伝子がしくんだものであり、われわれはそれに操られてきたにすぎないのか?

自分の全存在をかけて、この人こそ、と信じた恋愛も、しょせんは遺伝子のしわざであったと思ったら、誰でも空しさを感じるであろう。

個人は遺伝のヴィークルであり、サヴァイヴァル・マシーンであるというドーキンスの説に立つと、個人の自我や尊厳はいったいどういうことになるのか、という重大な問題も生じてくる。

人間以外の動物たちについてはドーキンスの言う通りかもしれない。

けれど、われわれ人間についてはどうなのだ?

ここで、「動物」たちはそうだ、しかし人間は、と居直ることはたやすい。

だが、そのような居直りによって、われわれは何一つ得ることはないだろう。


人間がほかの動物とちがって遺伝などという固定的なものから、すべて自由であり、「世界に開かれた存在」であると信じていた、近代というか20世紀的な発想は、今、崩れつつあるような気がする。

そのような中で、ドーキンスの利己的遺伝子説に象徴されるエソロジー(動物行動学)の近年の動物観・自然観は、たいへん重要な意味を持っていると思う。


それによれば、動物たちは種族維持のために生きているのではなく、それぞれの個体が自分の適応度増大のために生きている。

言い換えれば、種のために個体が生きているのではなく、個体は自分自身のために生きているのである。

必然的に、それぞれの個体は利己的になるが、利己に徹した損得勘定のために、社会が無茶苦茶になってしまうことはない。

そして、その結果として種族は維持されるばかりでなく、進化もするものである。


種族維持のために社会システムや掟も、かつては存在すると信じられていたけれど、じつはそのようなものは存在していないらしい。

「自然の掟」などというものは、単なる偶然のできごとらしいのである。

そして人間においてすら遺伝子ないしは遺伝子的なものの重みというものが、これまで考えられていたよりはるかに大きいこともよくわかってきた。

それは遺伝子についての分子生物学の発展のおかげでもあった。老い、遺伝子、「選択」と「学習」など


日高先生の論考は興味が汲めども尽きません。


よく引き合いに出されるドーキンス氏についての


考察・研究が本当に気になる。


ドーキンスさん自身のも何冊か拝読したけど


大和感性でないからか自分の地頭が悪いからか


どうしても違和感が残ったりもするのだけど


先生の解釈だと腑に落ちるような


気がする訳でして。


この他、デズモンド・モリスの年齢観察など


興味深い内容の書籍で読むのがもったいない。


この本から10年以上経過、さらに遺伝子への


新しい発見もあるのだろうけど、


日高先生の解釈として書籍を読めないのが


本当に残念です。


そこはもう自分で調べて考えてくれ、


ってことなのだろうけれど


それは酷な話だよなあ、などと思う


梅雨の一日でした。


 


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