往復随筆①日高先生と篠田節子さんが語る”心”と”美学” [’23年以前の”新旧の価値観”]
- 出版社/メーカー: 産経新聞ニュースサービス
- 発売日: 2004/06/01
- メディア: 単行本
日高先生と作家の篠田節子さんの
往復エッセーをまとめたもの。
巻末にお二人のリアル対談が掲載され
ものすごく興味深いのだけど紙数の都合か
短いので、もっとガッツリ掲載されたら
良いのにと思った次第。
コンプリート版みたいのがどっかにあるのか?
日高敏隆
からだだって「心」に関係する
ぼくが何年も前から考えてきたのは、「人間っていったいどういう動物なんだろう?」ということだ。
けれど、ついうっかりそんなことを口にすると、偉い先生からすぐ言われる。
「そんなことよりも、われわれ人間は何をなすべきかを考えるべきじゃないですか?」
それはたしかにそうかもしれない。
今、日本でも世界でも、日常生活でも、学校でも、いろんな問題がありすぎる。
そういう問題をどうしたら良いか、しっかりまじで考えなくてはならない。
でもそのためには、われわれ人間とはいったいどういう動物なのかを知らなくてはだめだ、とぼくには思えるのだ。
すこし大げさに言えば、20世紀には人間はこの問題を抜きにして、高尚な議論を展開してきた。
いわく、人間らしく生きる、人権を守れ、男女平等、平和を愛せ、環境にやさしくなどなど。
でもそのようなことが実現したとは到底思えない。
ぼくは動物学者だから、ぼくが「人間とはどういう動物か?」などと言うと、たいていはすぐさまこう言われる。
「人間は動物学ではわかりませんよ。だって人間には心があるし文化がありますからね」
さあ、じつはそれが問題なのだ。
人間には心がある?
それはたしかにそのとおりだ。
だけどよくわからないことある。
篠田さんも言うとおり、そもそも心なんてどこにあるのだ?
昔は、心は心臓にあると思われていた。
石器時代の洞くつ壁画のサイに真っ赤な心臓が描かれているのを見て、みんな喜んだ。
人間は、石器時代から心は心臓にあると思っていたのだと。
でもやがて、これは洞くつを訪れた観光客のいたずら書きだということがわかったそうな。
今ではこころは脳にあると考えられていて、心の「科学的研究」もさかんにおこなわれている。
でも、からだだって心に関係する。
生理の時や体調が悪い時、心は落ち込んだり、少々荒れたりする。
落ち込んだ心が体調を悪くし、それがまた心を落ち込ませることもある。
そうなると、心は脳にあるなどとかんたんには言えなくなる。
「かわいいね」と言いながらネコをなでていると、ネコはうれしそうにごろごろのどを鳴らしている。
そんなときネコの心はきっと幸せなのだろう。
人間だってあまり変わりはないのではないか。
と、ぼくは考えてしまうのだ。
(10月14日)
篠田節子
殺戮への抵抗感は生き物の戦略
このところ「NO WAR」のメッセージを国連に送ろうというメールが届く(続いてチェーンメールは、相手に迷惑をかけるだけなのでやめようという警告メールが別のところから発せられる)。
若者たち(とくに女の子たち)の間で、戦争反対の声が高まり、組織化されないまでも、何かの形で態度表明しようという動きが広がっている。
国益にも複雑極まる国際政治や利害対立にも言及することはない。
差し迫った他国民の生命の危機に対して、とにかく「殺すな」という単純明快で真摯な叫びをあげる。
そこには宗教理念もイデオロギーも介在しない(メディアの影響はあるかもしれない)。
自然を愛し、他の生き物を殺し、そして同胞を殺しつつ天下を取り、支配することを目指しながら、「殺すな」という倫理観は思慮を超えた生理感覚で私たちの体内に息づいている。
いや、倫理観以前のものだ。
生理感覚といった方がいいかもしれない。
「なぜ人を殺してはいけないのか」というのは、「なぜ他の生き物を殺してはいけないのか」という問いに広げられる。
そしてそれは問いかけの形はとっているが、問いかけではない。
哲学的、宗教的な投問でもなく、自身の中に抜きがたくある、他の生き物を殺すこと、傷つけることに対する本能的で生理的な畏れと嫌悪感、抵抗感に対する戸惑いと、苛立ちから発せられた叫びであるような気がする。
一方で他者を制圧支配しようとしながら、もう一方で人と人に近い生き物の殺戮に対して、安全装置のように人の心に取り付けられているこの抵抗感の正体は何なんだろう。
私にはヒューマニズムでもなければ、母となる女性の感覚でもなく、生き物としての戦略に基づくものではないかと思えるのだが、どうだろう。
殺戮への抵抗感を減じて実行に移すためには、訓練とそれを正当化する思想が必要だろう。
それがもっとも組織的に大規模に展開されるのが戦争だ。
安全装置を壊されて殺戮の実行者となった当人は最大のリスクを背負い、繁栄するのは抽象的概念に過ぎない国家や宗教か、遺伝子的には何の繋がりもない指導者やそれで利益を得る人々だけだ。
(3月31日)
日高敏隆
「美学」が人間を駆り立てる
動物たちも相当に悪いことをする。
昔から知られているのは共食いだが、最近はサルやライオンの子殺しの話が有名になってきた。
子殺しでなくて卵殺しをするのもいる。
同類の他人が産んだ卵をつぶして食べたりしてしまうのだ。
昔は田んぼや池にたくさんいたタガメという水生昆虫のメスは、もっとひどい。
オスが一生けんめい守っている卵の塊をばりばりこわしてしまう。
そして自分の子を失って困っているそのオスと交尾して自分の卵を産み、それをそのオスに守らせるのである。
けれど動物たちは、自分たちのこういう行為にへんなリクツをつけたりしない。
これが正義だとか、天に代わって敵を討ってやるなどということは言わない。
ただ自分の子孫を増やしたいから、そういう残酷なことをしているに過ぎない。
ところが人間は、人が死ぬことがわかっている戦争に、何だかんだとリクツをつける。
何とかリクツをつけて、これは「正しい戦争だ」「正義のための戦争だ」と主張する。
今度のイラク戦争でよくわかったとおりである。
「平和のための戦争」というのまであるから笑ってしまう。
でもこれは笑ってなどいられる問題ではない。
人間はなぜこんなことになってしまっているのだろう?
ぼくは昔からその理由を考えてきた。
今の結論は、それは人間だけがもっている「美学」のせいであるということだ。
いきなり美学だなんていってもよくわからないかもしれないが、要するに人間は自分のしていることに意味をつけたがるということである。
十代の終わりごろぼくは、病気の父をかかえた家族を養わねばならなかったので、毎日夜遅くまで働いていた。
そんなときふと考えてしまうことがあった。
いったいぼくは何をしているのだ、何のために生きているのだと。
苦労するのが嫌なのではない。
自分の生きている意味がほしかったのである。
生きがいということばを使う人もいる。
「自分の生きがいを見出したい」。
あるいは「やるに値するしごとをしたい」とか、「充実した日々を送りたい」とか、表現人によって異なるが、自分の日々の生活やしごとに何か美しい意味を見出したいと感じていることに変わりはない。
これがぼくの言う「美学」なのだ。
そして、どうやらこれが戦争にもからんでしまうらしいのである。
(5月5日)
日高敏隆
人間という動物の「人間らしさ」
篠田さんも想像しているとおり、人間が互いに顔や人柄を知り合いながら暮らしていけるのは、昔ながらの100人程度のことらしい。
かつてそれについて調べてみた人がいる。
確かイギリスの社会心理学研究者だったと思う。
その人はふつうの生活をしている人たちのもっている住所録に、何人くらいの人の名前が書き込まれているかを調べてみたのである。
その結果、その数はだいたい100人前後であることがわかった。
このくらいの数なら、その人がどういう人かわかっており、相手もこちらを知っている。
電話をかけたら「ああ、この間はどうも」とか「おう、君か。元気にしてる?」とかいう調子で、互いに相手が誰だかすぐわかる。
学校の先生とか食堂や商店の経営者とか市会議員のように、たくさんの人を相手にする職業の人はもちろんべつである。
それでもそういう人たちは、その人の住所録にある何百人の人をちゃんと覚えているわけではない。
とくに付き合いの深い100人ぐらいを認識しているだけだ。
つまり篠田さんの言うとおり、他人の顔と名前を記憶する能力は、文明の進んだ今日なお、大昔のアフリカ時代、石器時代とそれほど変わっていないのである。
ところがテレビの画面では、遠く離れた国の人々の顔や表情やことばがどんどん伝えられる。
そしてそういう人々の気持ちを感じ、その人たちを助けるために何かしなくてはいけないと教えられる。
そこでわれわれは、昔ながらの100人でなく、顔も名前も知らない何千何万人と言う人々と連帯せねばならないと思い込む。
それは確かに大切な気持ちであり、人間らしさに満ちた美しい心である。
けれどここで「人間らしさ」というときにけっして忘れてはならないのは、まさにその「人間」という動物はせいぜい100人程度しか記憶できないものだということだ。
その程度の能力しかないということも、「人間らしさ」の一面なのである。
人間らしらの一面をつい忘れて、人間らしさのもう一面、つまり遠く離れた人々のことまで思いやるという美しい心、を強調したくなることが、前にぼくが書いた「美学」である。
なぜだか知らないが、人間は美学なしには生きられないらしい。
そこが人間の困ったところだ。
(6月23日)
読んでわかるとおりイラク戦争の頃の書籍で
ただいま現在、ウクライナ戦争で同様のことが
繰り返されている人類というのは何なのだろうな。
やるせ無い気持ちとなってしまうな。
あとがき 日高敏隆 から抜粋
そもそもの初めは、産経新聞大阪本社の谷口峯敏さんからのファックスであった。
往復書簡ではなく、十代の若い人たちを読者に想定して、それぞれ自分の視点からのエッセーで若い人たちに語りかけてほしいとのこと。
さて、とぼくは答えた。
「科学者と文化人の間で」とあるから、科学者は文化人ではないのだなとか、十代の若者が産経新聞をどれだけ読んでいるだろうかとか、いろいろ疑問はあったが、まあ何でもやってみようというぼくのいつもの悪いくせで、とにかく引き受けることにした。
相手は有名な作家の、篠田節子さん。
自然の中にストーリーを見つけ出していくぼくらとちがって、作家は自分でストーリーを作っていく。
これはおもしろそうだと素直に思った。
タイトルは「人間について」ときまった。
すごいタイトルだ。
それを「十代の君たちへ」とは大変なことだ。
とにかく谷口さんを含めて篠田さんと初めてお会いしたが、だいたいどんなことを書くかという打ち合わせは結局ないままに、篠田さんから書き始めてもらうことになった。
そうしたら、いきなり「小学生の頃から、こころという言葉が大嫌いだった」で始まる原稿が送られてた。
さあ、どういう展開になるのだろう?
「文化」なるものはいったい何なのだ?それを動物行動学的に考えてみようというのが、ぼくがずっと思っていたことなのである。
そもそも今世界中で問題にしているいわゆる地球環境問題にしても、その根源は人間の文化にあるのではないか?
だいたい人間にはある意味での美学なしには生きられないというところがあって、その点は大人でも若い人でも変わりがない。
その「美学」とは何なんだ?
ぼくはこのエッセーのやりとりの中で、そんなことを語ってみたい思った。
それがうまく表現できたかどうかはわからないが…。
篠田さん巻末の対談でおっしゃるには
放送大学で日高先生の「動物の行動と社会」を
ご覧になって勉強されたとあり、
自分も興味あるのだけどどこかの
アーカイブで閲覧できるのだろうかと
調べたが今のところない模様。
平易な表現でひらがなが多いのは
10代向けだからなのですな。
50代で読んでしまいすみません。
日高先生の書籍をたった数冊ですが
連続で拝読して誠に僭越ながら思うこと
この人は学者さんっぽくないなあと。
どちらかというと文学者として
周りから揶揄されてきたのではなかろうか、と。
それゆえ、孤立してたり、
逆にさほど忖度とは関わらず
屹立できたのではないかなどど
まったく的外れかもで、かつ自分なぞが
分析しても意味のないことなんだけれども。
さて、そろそろ夜勤前に腹拵えして
ひと休みしとかんとと思う
梅雨空の関東地方でございます。