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利己的遺伝子の小革命:1970-90年代 日本生態学事情:岸由二著(2019年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


利己的遺伝子の小革命:1970-90年代 日本生態学事情

利己的遺伝子の小革命:1970-90年代 日本生態学事情

  • 作者: 岸 由二
  • 出版社/メーカー: 八坂書房
  • 発売日: 2019/11/09
  • メディア: 単行本

岸先生(進化生態学者・市民活動家)の


若き日の論文・随筆を纏めた書籍。


日本の生態学の始祖とも呼ばれる


今西錦司さんへの愛が横溢する


随筆も素敵だったのだけど


どのような書籍を読まれてきたかが


興味深くチェックしてしまいました。


 


IV ブックガイド


ナチュラル・ヒストリーと現代進化論


から抜粋


欧米の大方のアカデミックなナチュラルヒストリーは、すでに長きにわたってダーウィニズム(『種の起源』は岩波文庫他で読める)を理論的背景としており、ユダヤ・キリスト教文化の中で、「科学的」な由来物語を語る羽目になったダーウィニズムの文化的な緊張感を、さまざまな形で反映させている。

欧米において、たかがケモノや鳥や化石を語るナチュラルヒストリーの分野が、出版や放送を介して高い社会的ステータスを享受しているように見えるのも、突き詰めればそんな緊張感のゆえではないかと思える。


翻って日本のナチュラルヒストリーを見渡すと、一見したところさしたる文化的緊張感は感じられない。

伝統的には物好きと貴族の趣味という受け止められ方さえ強いのである。

しかし、1970年代以降、日本の読書界でも文科系の識者が動物行動学などの成果を援用して頻繁に人間を語るのが流行った時代があった。

その流行のなかでは、ナチュラリストの仕事が日本でもそこそこに大げさな議論の対象になってきたのである。


攻撃』(みすず書房)、『ソロモンの指輪』(早川書房)、『行動は進化するか』(講談社)、最近では『人間性の解体』(思索者)等の著者であり、1937年にノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツ博士、そして日本のサル学を創始して1979年に文化勲章を受賞し、今は自然学(『自然学の提唱』講談社学術文庫)を掲げる今西錦司博士は、この流行の中にあってとりわけ大きな権威であった。

ローレンツ博士の論調は、個体の位置を厳密には検討せず、個体に対する種の優位を漠然と主張してしまうやや古風なダーウィニズムに依拠していた。

いっぽう今西博士は、『私の進化論』(思索社)、『ダーウィン論』(中公新書)、『主体性の進化論』(中公新書)などの一連の著書で種社会概念を鍵とする全体論的な進化論(いわゆる今西進化論)を宣言しており、反ダーウィニズムの故をもって一部の文化人の間でとりわけ大きな期待を寄せられていた。

遺伝子概念や個体の存在に律儀に重視する現代進化論の実績とは少々、あるいは徹底的に隔絶したこれらの議論は、ある時にはマルクス主義の教養の中にあると思われる知識人にさえ高く評価され(例えば『偶然と必然』鈴木茂(有斐閣)が興味深い)、一方では土岐の首相の「知的水準」演説が今西進化論をグロテスクに援用して国家論をぶちあげる、などということもあったのである。

ローレンツや今西博士のナチュラルヒストリーは、この時代、明らかに単なる自然愛好の領域をはるかに超えた仕事を日本で果たしかけていた。


しかし、そのような矢先、ローレンツや今西進化論の大きな権威は、少なくともアカデミズムの領域内で大幅に衰滅してしまったのである。

1970年代の半ば、欧米のナチュラルヒストリーの分野に社会生物学(ソシオバイオロジー)あるいは行動生態学と呼ばれるアプローチが台頭し、80年代に入って日本のナチュラリストたちの間に一気に浸透してしまった。

これが最大の原因だ。


生物=生存機械論』(R・ドーキンス、紀伊国屋書店)、『行動生態学を学ぶ人のために』(J・クレブス・N.デイビス、蒼樹書房)、『動物の社会』(伊藤嘉昭、東海大学出版会)などというテキスト類を一瞥すれば明らかなように、社会生物学や行動生態学と呼ばれる分野は、現代進化論の自然選択論を使って生物の適応性を解明しようとする徹底的にダーウィン主義的なナチュラルヒストリーである。

そのアプローチは、種や抽象適応的な挙動を基準にした従来のナチュラリストの生物論の一部を、個体の適応的な挙動を基準にした細かい分析に一気に変換してしまった。

厳密にいえばこのアプローチは、原理的な個体主義というわけではなく、エッセンシャリズムへの転落を嫌う集団論の一つの表現方法に過ぎないのだが、個体や遺伝子の視点を実体化する傾向が強烈である(『延長された表現型』R・ドーキンス、紀伊国屋書店)。

しかしあえてそんな理論で割り切ってしまうと、動物たちが示す利他行動や敵対行動、協調行動、」親子関係、さまざまな集団構造などが、そこそこに説得的に解釈できてしまうように見えるから、不思議で面白いのである。


転換後のダーウィニズム的なナチュラルヒストリーは、もちろん対応する人間論を引き連れてきた。

翻訳だけでも類書は多いが、たとえば『人間の本性について』(E・O・ウィルソン、思索社)、『ダーウィニズムと人間の諸問題』(アレグザンダー、思索社)、『社会生物学論争』(ブロイアー、どうぶつ社)などを参照すれば、とりあえず概要をつかむことができる。

思弁的な人間論議をこえない試論の束のようなジャンルだが、欧米ではこれら一連の人間論が激しい論議の種となり、1970年代半ばから10年あまりも論争(社会生物学論争)が続いたのだった。

80年以降の日本のナチュラリストのこの領域での動向は、当然のことながらそこそこに冷静で、安易な通俗化を推進して人間論を極端に卑俗化する傾向はいままでのところ僅かである。 

最近の例外は竹内久美子著『浮気人類進化論』(晶文社)だが、これはあまり無茶くちゃで、さしあたりはかえって罪はない。

続編はないと信じたいが…。


日本のナチュラリストのこの度の大転換は、長い目で見れば日本の社会・文化の中で現代ダーウィニズムの自然像がどのような位置や機能を発揮してゆくか、という問題に実は繋がっている。

今西進化論の粗雑な哲学が、実は国家論にさえ絡んで人気を博したらしい社会の中で、私たちはこれから、はるかに複雑で誤用されれば被害も大きい現代進化論を、賢く扱っていかなければならないのである。

進化論を愉しむ本』、『生物の進化最近の話題』(J・チャーファス、培風館)、『近代進化論の成り立ち』(松永俊男、創元社)、『進化思想の歴史』(P・ボツラー、朝日選書)、『ダーウィン以来』、『パンダの親指』(S・グールド、早川書房)など、風景を知るのに有用な本の手助けはこの際みんなお借りしておきたいし、池田清彦の『構造生物学とはなにか』(海鳴社)のような別の生物学の試みにも、たとえ期待はしなくても、一応の目配りはしておいてよいのかもしれない。


おしまいに、岩波新書の最近の新刊『生物進化を考える』(木村資生)に特に触れておかなくてはならない。

本書は、分子進化の中立説を提唱する世界的な集団遺伝学者によって日本語でかかれた現代進化論の画期的な入門書であり、丁寧に読めば現代ダーウィニズムの広さと複雑さが実によくわかる。

しかし、この名著には、同時にダーウィニズムの鬼門である優生論議が唐突な形で登場して心配性の私たちを戸惑わせる。

今西進化論が際どい日本論の神学モドキになるのが困りものであったと同じように、現代ダーウィニズムが際どい優生論の神学にされるのも困る。

鈴木善次著『日本の優生学』(三共出版)などを脇に置き、歴史的な風景の中に木村理論を置いておかなければならない。


なんだか深いけれど、よくわからない。


ここに挙げられている書籍を読んだ上で


またこちらを読むと印象違って


さらに深く進化論を感じることができるかも。


でもまだ読んでない本は山のように


積んであるんですけど…。


 


自然


ブックガイド10


から抜粋


生物の多様性の解明を主題とするのは進化論や生態学の分野である。

しかし、その分野の日本の状況にいくらか通じている読者なら、中心的な話題がどこか生きものの世界からずれていることに気づくはずだ。

たとえば利己的遺伝子論のブームがある。

そこでは専門家でも扱い難いはずの理論枠が、どうやら恋愛論や人事分析のマニュアルのように、あるいは読者の心理分析の原理のようなものとして読まれ始めた。

日本の独創的なナチュラリスト、今西錦司さんが亡くなって、今西進化論もまた話題になる。

しかしその進化論も、生きものの世界の多様性との問題ではなく、ダーウィニズムとの対決や、極めて抽象的な自然観の領域の問題として話題になる。

もう数十年もそうだった。

理論は生きた現実の世界に道を開くのではなく、逆に生きた多様性の領域から架空の遺伝子へ、あるいは全体論的自然観へ、そして読者の心理分析へ、いとも簡単に退行する。

持続的開発あるいは持続的社会を旗印にかかげる地球環境問題にも似たような単純化を感じる。


一般論から地球に広がる中間領域の多様な姿がどうしてこれほど見えにくいのか。

現実の多様性への関心が退けば、地球的に考え地域で行動するという標語も、やがては高層ビルの一角の、テレビ画面を前にした果てしないおしゃべりに退行してゆくかもしれないと思う。

私たちの視野を、遺伝子や、自然観や、地球の映像ばかりに単純化してはいけない。

さまざまな風景画あり、生きものたちの賑わいのある具体的な光景に、しっかり繋ぎ止めておかなければいけない。

遺伝子も、自然観も、地球の映像も視野に入れつつ、しかし焦点はいつも地上の多様性に戻れるような、そんな視野を育てる回路をさまざまな領域で工夫しなければならない。

そんな思いで、図書を紹介する。


①『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス著

 

初版が『生物=生存機械論』(1980)として邦訳されたとき、本書は日本のナチュラリストたちの自然淘汰を大いに励ますものだった。

「自然淘汰の産物である個体は、遺伝子コピー率を高めるのに都合の良い性質や振る舞いをするようプログラムされているはず」というドーキンスの発想法は、さまざまな生物の、さまざまな生き方の解明に、大きな啓発となった。

しかし、それから11年目、『利己的な遺伝子』の題で翻訳された第二版の周辺は異様な軽さだ。

生きものの世界ではなく、人事を面白おかしく思弁する道具として、公然と誤用・悪用する便乗家たちに囲まれてしまったからだ。

中原英臣・佐川峻・竹内久美子などという著名者の並ぶ書籍の類は、世界の多様性の探求に関心はなく、どれもこれも利己的遺伝子を、意志のある霊(神?)のように扱って読者を撹乱する。


ドーキンスはおもしろい。

しかし彼のいう「利己的遺伝子」は相対増殖率の高い遺伝子の非数学的譬喩(ひゆ)に過ぎない。

霊感不要な読者は、利己的遺伝子から恋愛論ではなく、たとえば週刊朝日百科『動物たちの地球』でこの世に繋がることだろう。


②『嵐のなかのハリネズミ』スティーブン・J.グールド著

 

グールドは驚くべき博識で進化生物学の良識を防衛するハーバードの古生物学者だ。


特に重要なのは第一部「進化理論」。

ドーキンスの利己的遺伝子説に代表される社会生物学の適応論に徹底的な批判を加え、人間特有の行動に関する憶測に富んだ遺伝論議を売りものにする社会生物学はたわごととし断定しきる論議は、利己的遺伝子流恋愛などと併読して、大いに啓発的な主張である。


③『自然学の提唱』今西錦司著 1986年

 

山岳を愛し、サル学を育て、すみわけ論の枠組みを作った今西錦司さんは、晩年、進化論に没頭した。


自然の多様さの卓抜な観察者だった今西さんが、多様性を把握する名人としてではなく、種社会の疑似宗教的な観念の主唱者として記憶されるのは皮肉である。

本書の今西錦司さんの論調の向こうに、日本的ショウビニズムが見えるか、生きものの賑わう自然が見えるか。

読者自身が試される。


④『生物進化を考える』木村資生著 1988年

 

「進化論には昔から泥沼的な面があり、若い読者がそれにはまらぬよう、ガイドとしての役割も本書が果たしてくれるよう念願している」。

そんな前書付きの本書は、今日本語で読める最も安価で最も正統的なダーウィニズムのテキストだ。

なお、進化論の泥沼と、それらを巡る批評の現場は『最新・大進化論』(1992年、学研Mook)、『進化論を愉しむ本』(1991年、JICC)などがおもしろい。

多様性の由来を解明する科学という観点から楽しく明快な現代進化論のテキストを作る仕事は、なお果たされてはいない。


⑤『講座進化2・進化思想と社会』柴谷篤弘・長野敬・養老孟司編 1991年

 

自然の多様性の解明という進化生物学本来の職能がまったく見えなくなる泥沼は、実は進化論の日常なのかもしれないのだ。

そんな日常を、多くの読者が見破るようになれば、進化生物学や生態学は、もちろん多様性への回路を開く。

本書にはそんな泥沼から抜け出すための科学社会学的なヒントがある。


⑥『地球白書1992~93』レスター・ブラウン編著 1992年

 

地球環境の危機に関する基礎的な情報を、毎年、極めてユニークな切り口から集約し、政策提言としても有効な発言を続けてきた報告で、今や地球環境に関する唯一の正解共通テキストになった。

持続可能な社会へ向けて、農業を大切にし、軍縮も訴え、石油多消費や原発増設を厳しく批判する姿勢に好感が持てる。


⑦『徹底討論 地球環境―環境ジャーナリストの「現場」から:

石弘之、原剛、岡島成行著 1992年

 

環境問題の動向にジャーナリズムが与える役割は極めて大きなものがある。

つきあい記者のおざなり報道でなく、インセンティブの鮮明な記者による報道は、本当に重要なものだ。

 

環境問題の現場の多彩な次元が見えて来る、稀な本だ。


⑧『環境倫理学のすすめ』加藤尚武著 1991年

 

1970年代のアメリカを中心に環境倫理学と呼ばれる分野が盛況を見せ、膨大な仕事が蓄積された。

本書はその成果を要約し、そこから地球環境問題の基本構造を展望しようという本格的な仕事である。


⑨『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン著

 

1962年に原著の出版された『沈黙の春』は化学薬剤の散布によって撹乱される生物界の様相を深い共感で描き、環境政策にまで大きな影響を及ぼした不朽の名著だ。

この小冊子はそのカーソンの遺稿である。

観念ではなく、畏怖と安らぎで、メインの森や海の生きものたちや潮風と繋がっていた、素敵なナチュラリストの、静かなメッセージだ。


⑩『全・東京湾』中村征夫著 1987年

 

私たちのイメージは、実に容易に現実の自然と乖離する。

単純な言葉がそんな遮蔽効果を示して愕然とするのは、たとえば東京湾、ウォーターフロントの場合である。

私たちが心配し、保全しなければならない東京湾は、まさにそんな東京湾であることを、中村征夫がみごとに発見した。

ウォータフロントという観念の向こうに消えていた東京湾は、実は利己的遺伝子論や今西進化論の向こうに見えなくなった生きものたちの賑わいであり、地球全体主義の命名の向こうで単なる青い玉になってしまうかもしれない地球であり、その他、たくさんの隠蔽されてしまう自然であると、私は思う。


あとがき 2019年9月20日


「付記」から抜粋


1990年以降、私が、生態学、魚類学などの学術活動から全撤退した経緯については、市民活動への転換というわたくし個人の希望という事情だけでなく、進化生物学・社会生物学にかかわるわたくしの活動を強く批判し、妨害し続けた政治系列の研究者たちからの圧力もあった。

一昨年、ひょんなことから、その経緯の一端を率直に記録し、伊藤嘉昭さんを追悼する著書の一章として公刊する機会があった。

関心のある皆様には、参照いただけると幸いである。


生態学者・伊藤嘉昭伝』辻和希編(2017年)所収

「嘉昭さん応答せよ」岸由二


なかなかないですよ、この書籍は。


読んでみたいのですが。


 


岸さんは面白いと


一言で言うにはアレですが


養老先生言うようにもっと沢山


岸さんの言葉を読みたいと思った。


でもなかなか前に出るタイプではないのだろう。


それと、大衆・一般受けしない、


また、そういうのを自ら拒まれる


タイプの人なのだろう。


養老先生も実はそういう気がするけど


たまたまミリオンセラーを出された結果


平成で最も売れた作家みたいに言われるけど。


アウトサイダーな感じはものすごく感じる。


不器用な人で、世間の動向を


単純に受け入れられず


「なんかおかしいなこれ」と


思ってしまう人たちに


なぜかシンパシーを感じるのは、


自分もそういう要素が少なからず


あるからなのだろうなきっと。


なおかつ、天邪鬼な気質とでも言うのか。


それでも僭越ながら一様に


共通している点もあるような気がして


言葉にしづらいけど敢えてするなら


なんとか良い方に、世界、地球、宇宙が


向かうよう多様性ある、寛容である社会を


目指すとでもいうか…。


難しくなってきたのでここらで撤収。


胃カメラ、ヘアカット、整体、書店に行き


自己を整えた冬の休日に思う1日だった。


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