池田清彦さんの書籍5冊から [’23年以前の”新旧の価値観”]
「原発事故後の日本」から抜粋
■池田■原発を推進したい人たちはずっと、CO2(二酸化炭素)は環境に悪い、CO2を出さない原発はクリーンな発電だ、などと言い続けてきた。だけど、CO2は汚染物質でも有害物質でもないし、むしろ自然にとって、人間にとって、必要で大事なもの。原発事故で撒き散らされる放射性物質の方こそが明かに有害な汚染物質でしょう。CO2排出量削減キャンペーンなんていうのも、偽善もいいところで、原発のような利権と結びついたペテンだったということに多くの人がいまようやく気づいてきたわけだけど。今度の事故で、当分は原発を推進することが難しいから、代わりに太陽光発電をという動きが出ているけれど、太陽光なんて金がかかるだけだな。■マツコ■太陽光でなんてそんなに発電できないでしょう?■池田■エネルギー効率は悪いね。エネルギー収支比(ERP)はせいぜい2あるかないか。■マツコ■石炭はどうなっているの?いま、日本の商社がオーストラリアの炭鉱を買ったりとかしているでしょう。■池田■石炭は日本にもまだ少し残っている。危ないから、掘る人がいないけど。石炭火力発電所はエネルギー効率もわりといいよ。■マツコ■じゃあ、いいんじゃないのかな。オーストラリアの炭鉱は深く掘らなくても、露天で掘って採れるのよね。なのにその石炭が発電にあまり行かないことにも、何か利権が絡んでいるのかもしれないね。■池田■CO2排出を問題視する人がまだいるからね。でも「環境にいい」と言われてハイブリッド車もずいぶんもてはやされたけど、あれだって、つくるのに金とエネルギーがたくさんかかるから、ほんとうは得かどうかわからないし、環境負荷が低いかどうかもわからない。電気自動車なんかは最悪でしょう。そういうことを考えれば、やっぱり石油で動くのが最も効率が良くて、その石油のかわりになるような新エネルギーの開発をしなければどうしようもない。でも、それで原発に走ったのは大失敗だったよね。東京電力もそうだけれど、原発依存率の高い関西電力なんかも原発のコマーシャルをばんばんやって「原発はクリーンなエネルギー」だということを宣伝してきたんだけど。
このあと、マツコさん、原発推進のキャンペーンの
CM依頼が来てて断ったと仰り、といった流れからの
核燃料の話にスライドしていく。
■池田■高レベル放射性廃棄物すなわちガラス固化体をあまり作らないようにやるのが核燃料サイクルで、それはつまり、使用済み核燃料を処理してプルトニウムや燃え残ったウランを取り出し、再び核燃料として使おうというシステムね。使用済み核燃料を再処理して取り出したプルトニウムとウランを混ぜてつくる燃料がいわゆるMOX燃料で、それを使う高速増殖炉が「もんじゅ」。でも「もんじゅ」は1995年にナトリウム漏れ事故を起こしてからトラブル続きで、今も運転停止の状態にある。つまり核燃料サイクルが全然うまくいかないから、高レベル放射性廃棄物がただひたすら貯まるんだよ。2020年にはガラス固化体が四万本になるといわれている。日本みたいに地震がある国の地下に埋めて、大きな地殻変動が起きて、そのガラス固化体ごと壊れたらどうする気なんだろうね?■マツコ■怖っ!■池田■本当に、おっかない話だよ。それに今、運転を休止している「もんじゅ」も、実はずっと危ない状態のまま。2010年8月26日に三トン以上もある炉内中継装置を原子炉容器の中に落っことしてしまって、引き抜けないまま、にっちもさっちもいかなくなっていた。2011年6月24日に引き抜く作業がやっと完了したが、再稼働するのは無理だろうね。復旧の担当課長は今年になって自殺しちゃったよ。■マツコ■じゃあどうすんの?ただもうその状態でずっと置いておくだけ?■池田■維持費だけで一日に5500万円もかかっているんだけどな。このままただひたすら、何十年もかけて冷却されるのを待って、廃炉にしていくしかないと思うよ。「もんじゅ」にはこれまで2兆4000億円くらいの金がかかっているんだけどね。
「もんじゅ」は平成28年、廃炉が決まったことは
周知のことでございますが、この時は本当に
理解できませんでしたよね。存在自体が。
日本では、原発をやめたくない口実に、政府はCO2を悪の権化のように扱っているが、人為的なCO2の増大が地球温暖化の主たる原因だという仮説は、既に崩壊して久しいのである。CO2は確かに温暖化効果ガスの一つだが、そのコントリビューションは極僅かで、地球の気温はほとんど人為とは無関係な要因によって変動している。約8000年前前に最終氷河期であるウルム氷期が終わると、地球の気温は現在に比べ摂氏1.5度ほど高くなり、この温暖な時期は3000年程続いた。日本では縄文時代にあたり、青森の三内丸山遺跡では、今は、もう少し南に生える栗を植えて、常食にしていたことがわかっている。今よりも海面が高く、現在の東京は下町は海だった。それから地球の気温は徐々に下がり始め紀元前1000年ごろには現在と同じくらいの気候になったと考えられている。栗の栽培ができなくなった三内丸山は紀元前2000年ごろには崩壊した。その後、気温は950年ごろから再び上昇に転じ1250年ごろまで、中世温暖期といわれる、現在より摂氏0.5度かそれ以上に高い時代になった。今では雪と氷の台地となっているグリーンランドは、名前のように西南部の沿岸部は緑の大地だったようで、開拓者が入植し農業やブタの飼育なども行っていた。しかし1250年ごろから地球は寒冷化して、小氷期と呼ばれる時代に入り、これは1850年ごろ終わった。地球の気温はここ一万年のスケールでも上がったり下がったりしているのである。これらの気温変動は人為的なものでないことは確かである。縄文時代に人類がCO2の濃度を人為的に上昇させたなどということはあり得ないからだ。それでは、1000年くらいの間に何が最も大きな気温変動の原因かといえば、太陽の活動である。この間に太陽の活動が低下した時期が5回あった。太陽の活動が低下すると黒点数が少なくなる。(略)CO2濃度が上昇したにもかかわらず気温が低下した1940年から1970年にかけては、太陽の活動も低下したことがわかっている。現在、太陽の活動が低下しているので、将来の気温変動で心配すべきことは温暖化よりもむしろ寒冷化なのだ。地球は既に小氷期に突入しつつあるが、人為的CO2の増大によりかろうじて、気温が定常状態に保たれているという可能性だってなくはないのだ。そうであれば、CO2はどんどん排出したほうがいいということになる。日本では政治的な理由により人為的温暖化を信奉するようにとの同調圧力が強いが、温暖化対策にお金を使うより、寒冷化に備えたほうがいいと思う。将来の地球の気温変動は今の科学では予測不能なのである。北極の海氷は減少傾向にあるがこの10年間はほぼ同レベルだし、南極の海水は観測史上最大を更新している。今後どうなるか。本当のところは誰にも分からないのである。
前後してしまうけど、「まえがき」から抜粋
さて、どうしたものか。一番いいのは人口を半分くらいにして減らすこと。人口を増やそうというのは安い労働力が必要なグローバル資本主義の要請であって、生態学的に考えれば、同じ資源であれば、人口が半分くらいになれば、一人頭の資源量は二倍になるのだから、人口は減った方がいいに決まっているのだ。そうすれば、ベーシックインカムといった、国民の全てに等しくお金を支給するといったことも可能になるだろう。まあ、私が生きている間は無理でしょうけれどね。
「国が検討すべきはベーシック・インカム」から抜粋
おそらく、あと半世紀もすると、ベーシック・インカムは一般的な制度となるだろう。一番極端な話をすると、エネルギーを産生することから作物や製品の生産まで全部AIに任せることができるようになったら、働く人がいらなくなる。そうすると何が起こるかというと、日本なら日本という国で、AIを国営化して、AIに全部やらせる。AIが日本の人口、日本人の嗜好などのデータから、この食品がこのくらい、この製品がこれぐらい必要だ、と必要に応じて生産して、それを日本人に配る。配るといっても人によってニーズが異なるので、均等に配るわけにはいかないから、結局買ってもらうしかない。例えば年頭に、1人アタマ何百万円か配って、それで自分の好きなものを買いなさい、ということになる。その金の8割は貯蓄には使えないようにする。一年ぽっきりで、8割は全部使い切らなければダメですよ。2割は、不動産を買うなり、車を買うなりするために取っておいていいですよ、ということにせざるをえない。8割のお金は一年券、2割は永久券で、ほぼ全ての商品を国が製造すれば、ベーシック・インカムはまたほぼ全て国に戻ってくる。ベーシック・インカムを人間が一律に受け取る、という世界になると今の世界の経済システムが全く変わってしまって、世界的なグローバル・キャピタリズムは潰れてしまう。そうなると人口が少ない方がシステムに適合的になる。そうなるまでには、まだ当分時間がかかるだろうけれど、ベーシック・インカム社会でなくとも人口があまり大きくない、こぢんまりとした社会の方が人々は幸せのような気がする。ポスト・グローバル・キャピタリズム、ポスト・コロナ社会には、こまわりのきく適度な大きさの共同体の方が適合的だ。現在の世界で言えば、例えばデンマーク。医療もタダ、学校もタダ、教育もタダ。その代わり税金がむちゃくちゃ高い。貧しい人でも、収入の半分くらい税金に持っていかれるシステムなんだけど、それでも、お金がなくったって暮らしていける。いざとなったら全部国が面倒見てくれるし、年とっても大丈夫な仕組みになっている。それから、お金のない人はほとんどタダ同然のアパートを国が貸してくれる。そういうシステムでやっている国もある。それは人口がある程度少なくて、まとまりが良くて、という国でないとできない。日本は人口が一億二千万人もいて、ちょっとでかすぎるかなあと思うんだけれども、県レベルでやるんだったらできる。例えば沖縄県だとか。そういうことになると、県ごとに細かく独立してしまった方がいいかもしれない。
国の仕組みはそういうのも一考あり(っていうか個人的にはそれがいい)、
ではエネルギーについてはどうなのだろうかというと、
これが一筋縄ではいかない。
なぜならエネルギーの奪い合いが戦争やら、人災をもたらすので
それを解消するには、について。
自給率の低い日本が今後、エネルギーに活路を見出すものとして、
CO2が環境に悪影響でないことを前提として「火力発電」を上げておられる。
「地球温暖化と科学的リテラシー」から抜粋
(略)新エネルギーとして日本に可能性があるものは、他にはメタンハイドレード、藻類である。マスコミが持ち上げている太陽光発電はコストパフォーマンスが悪くて話にならないし、風力発電は日本の風土には向かない。風力発電はコンスタントに風が吹くオランダには向いているが、強風がときどき吹いて、それ以外の時はあまり風が吹かない日本向きではないし、人家の近くに設置すると低周波による健康被害の恐れもある。先に述べたようにメタンハイドレードは可採量が多く、潜在的には有望なエネルギー源だが、今の段階ではまだ採掘にコストがかかり過ぎる。また埋蔵量が多い南海トラフは大地震の発生が懸念されている場所であり、採掘が地震を誘発する恐れもある。実際、アメリカではシェールガスを採掘するようになって、地震の回数が増えた。残るのは藻類である。今のところ有望なのは、単細胞の藻類である。中でも有望なのはボトリオコッカスと、藻類というよりもむしろカビに近い従属栄養生物のオーランチオキトリウムである。前者は光合成を行なって増殖して、細胞の中に油脂を作り、校舎は有機物を栄養源にして増殖し、同じく細胞の中に油脂を蓄える。ただ、ここでも問題はコストである。藻類の細胞の中の油脂を取り出すのに、今の技術ではコスト(1リットル約500円)がかかり過ぎる。せめて150円くらいまで下げれれば、石油を輸入することなく、国産の藻類燃料だけですべて賄える。藻類燃料の第一人者、渡邊信は琵琶湖の2分の位置の広さがあれば、日本の全石油消費量を産出する藻類を育成できると主張している。付言すれば、藻類燃料は空気中のCO2を固定化してこれをまた空気中に戻す燃料なので、CO2は増えない。いわゆるカーボンフリーである。政府はこういう技術にこそ税金を投入して、開発を進めるべきだと思う。
「あとがき」から抜粋
(略)国民も政府も金を儲けることが最大の目的で、そのために一致団結して頑張ろうといった旧来の社会モデルにしがみつくのをやめる必要がある。人々が、同調圧力に絡め取られて、政権があらぬ方向に走り出す方向に走り出す原因の一つは、金がなければ大変なことになるという国民の焦りと恐怖なのだ。しかしエネルギーと資源と人口が、今後も右肩上がりに伸び続けることはあり得ず、グローバル資本主義はいずれデッドロックに乗り上げるだろう。これからの世の中、そうなる前に、なるべく早く旧来の経済モデルから抜け出した社会が、最大多数の、最大幸福を実現することになるだろう。人々に幸福をもたらすのは、結局は金ではなくて、その人に固有の時間の使い方なのだ、ということを多くの人が理解して、人々の個性と多様性を尊重する社会が来ることを願うや切である。2015年5月池田清彦
「制度と社会のホンネとタテマエ」から抜粋
すべての人は、生まれる時代も親も条件も選べない。気づけば、今ここで生きている、という事実があるだけだ。だから自分の存在は、能動的な権利行使の彼岸にある。自分の命や体は自分の努力によって得たものではないので、自分の所有物ではない。私が臓器移植や自己決定による安楽死に反対するこれが一つの根拠である。生まれたばかりの時は、母親(やそれに代わる育児者、以下面倒なので単に母親と表記)にされるがままであった乳児はしばらくすると、泣いたり、笑ったり、むずがったりして、自分の意思を表明し始める。能動的な権利行使の萌芽である。母親はそれを見て、乳児の意思を忖度して、いろいろやってあげるわけで、ここに密接なコミュニケーションが成立する。母親の感情は、ダイレクトに乳児に伝わるため、愛情を持って育てられた子と、そうでない子は、共感能力のような必ずしも言語を介さないコミュニケーション能力の発達度合が違ってくる。これは乳児の将来の性格をかなり左右する要因になる。乳児はそのうち幼児になり、小学生になり、しばらくすれば大人になって、リバータリアン的にいえば、他人の恣意性の権利を侵害しない限り、いかなる能動的な権利も行使できる人になる。とはいってもアホな法律がいっぱいあるので、リバータリアニズムを徹底すると逮捕される危険がある。現状では、そのあたりは妥協して暮らすしかない。法律に違反しない限りは、リバータリアン的に生きた方が気持ちいいと私は思うけれど、他人の言いなりになって生きていた方が楽という人もいるだろうから、それもまた恣意性の権利なので、私は別に刺したる文句はない。私の邪魔をしないで、勝手に生きてくださいね、と思うだけだ。最近、天然の茶髪の生徒が無理やり黒い髪に染めさせられている高校があるというニュースが耳に入ってきて、びっくりしている。リバータリアン的にいえば、悪の権化のような学校である。私ならばさっさとやめてしまうけれど、なかなかそうもいかない事情があるのだろう。日本に限らず、どこの国でも、現時点で徹底的にリバータリアン的に生きようとすると、実力と自信が必要なのかもしれない。すべての人がリバータリアンとして生きても問題ない世界がくることを祈っているが、他人をコントロールしたくて仕方のない人が多いこの世では、人類が滅亡するまで私の望みがかなえられることはなさそうだ。
「首相がウソをつく国」から抜粋
首相、大臣をはじめとして、重要な公職についている人たちが、すぐにバレるウソをついたり、すぐにバレる不正を働いたり、さらには都合が悪いことは忘れたと言い募ったりすることが多くなった。日本はなぜこんなにウソつき大国になってしまったのだろう。敬愛する内田樹は「困難な成熟(2015年)」の中で、すぐバレるウソをつく人が多くなったのは、寿命が短くなっているからだ、という秀逸な考察をおこなっているが、寿命とは個人の平均寿命ではなく、己が依拠する共同体がどのくらい生き延びれば自分としては満足するか、という主観的な時間のことだ、と私は勝手に解釈した。たとえば、企業年金がなければ、あと半年で定年になる人は、その間に会社が潰れて、きちんと退職金が出れば、2年後に会社が潰れてもとりあえず文句はない。しかし10年後に定年を迎える人はこれでは困る。この二人の会社に対する接し方は微妙に異なることになる。会社に対してウソをつくにしても、ばれそうな度合いにはかなり温度差があるだろう。会社の経営者であれば、短期的な利益が上がれば、その後でその後で会社が潰れても構わないと考える人と、自分が死んだ後も会社の経営がつつがなくいくことを考える人とでは、行動規範は全く異なるだろう。前者はウソをついてもとりあえず儲かれば、ウソがバレて会社が潰れてもいいや、と考えるかもしれないが、後者はすぐばれるウソをつくことはないだろう。
なんか暗くなってしまうのだけど。
池田先生のおっしゃることって年々過激になっていくのは、
タイトル名をリストされているのを見ると感じます。
歳を重ね、定年もされると、どこにも気兼ねせず
忖度もなくなるってことなのかなあ、
といらぬ考察をしてしまう。
(良し悪しあるでしょうけど)
でも、口幅ったい言い方させていただくと
人間って言いたいことって結局、そんなに変わらないのだろうと、
思うのはかなり前の書籍の「はじめに」にある。
最後に一部引用です。
ここ50年ほどのあいだに、科学はとてつもなく巨大になり、自然環境を変えるほどになってきた。その結果、様々な悪影響が現れ出したのは周知のことである。我々は巨大になりすぎた科学をなんとかコントロールしなければならない。そのためには、まず、科学や科学者とは何かを知る必要があり、さらに、それらの生理や生態や病理についても知らねばならない。科学は自己増殖性という本性をもつゆえに、自分自身で自己をコントロールすることができない。長い間人々は、科学にコントロールされ続けてきた。しかし今や、普通の人々が科学をコントロールしなければならない時代になったのだ、と私は思う。