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まよけの民俗誌:斉藤たま著(2010年) [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

まよけの民俗誌


まよけの民俗誌

  • 作者: 斎藤 たま
  • 出版社/メーカー: 論創社
  • 発売日: 2010/02/01
  • メディア: 単行本

「はしがき」から抜粋


近頃まで私たちの身の回りにはまものがいた。

今だっているかもしれないが、多くのところでは住む場所を失ったのではないかと思う。

まものがどんな姿をしているか、これはまだ誰も見たことがないのでわからない。

目に見えない。これがまものの一大特徴なのである。

けれども性格ならよく知られている。

やたらと人の平安をうらやむのである。

人の幸せ、喜びが妬ましくて堪らない。

うの目たかの目、邪悪な目で人々の間を漁り歩くのだ。

まものが攻撃の対象とするのは何も喜びの中にある人間ばかりではない。

その折りが特に効果が上がる、つまりやっつけ甲斐あるというだけで、常日頃からまものは世に仇なすことばかりに精を出しているのである。

暴風をもたらし、大雨を降らせ、空の天井で地団駄を踏んでかんしゃく玉を破裂させ、地を震(な)らし、時には太陽をも呑み、田畑に虫を湧かせ、そちらこちらに火事を起こしてまわり、邪気を発して風邪をひかせ、取りついて体をなえさせ、炎の移り行く勢に悪病をはやらせる。

究極の目的は命を取るのだ。

普通人に死をもたらすのは死神だと言い慣和される。

だからまものはこの死神とも一つものと思われる、疫病を起こすのは疫病神、諸々の悪業をしかけるのは悪神とも称される。

まものはまた疫病神でも悪神でもあるのらしい。

これらの攻撃に対して、人はただひたすら身を縮め、青ざめていただけだろうか。そんなことはない。

敢然として戦を挑んだ。大事な子どもを取られないために、家族をその手から守るために。

しかし何としても人間の方に分が悪いのは相手は見えないことである。

切っ先鋭く槍を突き出し、剣で薙ぎ払おうが、相手に当たっているのか、当たらないのかさっぱり手応えがないのではどうにもなしようがない。

そこでやったことは、少しでも可能性のあること、というのは少しでもまものを撃退させるのにくみすると思われる方策を、数を頼んで、回を重ねて行ったことだ。

自分たちにとって脅威である猛々しいものを盾とし、角や棘のあるものを前面に持ち出し、臭いものや汚いもので辟易させ、叩き音や爆発音を立て、光る物で驚かせ、火と粉う赤色で身を包み、目を惑わせる形象を掲げ、果ては足払いの如きペテンにかける。


「つまらないものですが」から抜粋


人に物を贈る時には、それがどんなに素晴らしい物でも「つまらないものですが」「粗末な品ですが」と口上をいうのが、古来、日本人の贈物に関するマナーであった。

それが戦後、欧米人並みの率直、素直な目で滑稽な行きすぎた卑下と受け取られ、嘲笑をもってかくいわれるようなる。

「人に物を贈るのに、”つまらないものですが”はなんたることか。

そんなつまらないものならやらなければいいではないか。」

(中略)

贈物は多くは食品、ご馳走様になるのだが、これらにはまものが取りつきやすかった・そのまもの、沖縄などでいうモノをよけるために人々は贈物の上に、彼等を祓う力ありと見られた唐辛子をのせ、南天をのせ、生臭や、邪悪な眼光を絡め取るような結びをのせた。

けれどもこれでもまだ心配だった。向こうだってそうやすやすとは離れるものでもないであろう。

贈物が相手の手に渡る際に聞こえてくるのが「つまらないものですが」「粗末な品ですが」である。

「なあんだ」である。そんなつまらないものには用がないないのである。

つまり言葉の上覆いというものなのだ。

(中略)

「素晴らしいものです」「おいしいものです」と触れるならどうなるか。

眠った子を起こすの道理、通り過ぎようとしたモノまで引きよせ、振り返らせ、蝿がご飯にたかるようにモノにまみれることになる。

そのモノがついたままの品を相手方に渡すということは、最大の無礼・無作法であった。

作法というよりは、病気もなにも悪いことはみな家や口中に入りこんだ邪悪なモノによって起こると見ていた人たちの間では、ほとんど命がけの規則であったろう。


この後、奄美大島で昭和50年代に著者が見た情景、祖母と孫と思われる関係の方の言葉のコミュニケーションで、祖母が故意に悪い表現・言葉で孫に声掛け、孫を災いから守るという事があったようだ。


ただし、島の古い習慣のため、新しい人には気分を害する人もいたようで、そういう時は「可愛いね」と大和ことば(標準語)を使うようにしていると直接島のお年寄りから聞いたという。


自分の子をさして「豚児」というのがある。

多くの文字の上で使われるようであるけれど、書く方だって少し勇気を要するのではないか、と思われる謙称である。

果たしてこれもただのへりくだりだったのだろうか。

中身の自慢を隠して「つまらないものですが」を口にするの気持、つまり、子どもにも「粗品」ののし紙を貼りまわす心だったのではなかろうか。


「愚息」「愚妻」というのもそういう文脈だったのかな。


それにしてもですね「つまらないものですが」が


単なる謙譲語ではないとは。


欧米諸国からしたら、非合理的なものの言い方だよね。


最近よく、明治以降に日本が失ったもの、を考える機会が多く


妙に今よく読んだり、聞いたりすることと


リンクした内容だった。


このほか、


「くわばらくわばら」「ハックション」「おとといこい」


という言葉や「赤飯」「拍子木」なども、


「まよけ」として機能させる


自己流の解釈を入れちゃうんだけど、ある種の


防衛本能の慣習だったようで興味深かった。


仕事場でコミュニケーションの一環として


活用またはトークしてみたいと存じます。


なーんて、難しく考えず、単に面白かったし、


懐かしい部分もあった。


昔の「日本」というか「世界」で残した方が


良い風習は残しましょうよ。


と、言ってられない世知辛い今の世界がなんか悲しい。


余談だけど、斉藤たまさん、なんで「魔除け」でなく


「まよけ」なんだろうな。


瑣末なことですが。これも「まよけ」の一つなのかな。


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