ローレンツ博士の書から”閃き”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
- 出版社/メーカー: 思索社
- 発売日: 1990/06/10
- メディア: 単行本
コンラート・ローレンツとフランツ・クロイツァーのこの対談は、1980年春、ウィーン郊外アルテンベルクにあるこのノーベル賞受賞者の私邸で行われたものである。
から抜粋
クロイツァー▼
先生はどのようにして、行動研究の道に入られたのですか?
行動研究に入ったのは、先生がカントのカテゴリーと取り組むようになるずっと以前のことだったはずですが。
ローレンツ▼
そうです。
ずっと以前です。
私は人生において何度も、少なくとも二つの決定的な点で、人間にはないような幸運を得たのです。
私はいろいろな動物を知っていました。
私はまだ非常に小さい時に、父に向かって、ミミズは昆虫であるのかないのかという質問をしたことがあります。
「昆虫とは節のある動物のことだよ」
と父が言ったので、私は
「ミミズは環の節がついているじゃないか。昆虫よりずっとちゃんと節がついているよ。」
と言ったのです。つまり、この体節ーーミミズの節のことですがーーは、昆虫やカニなどのあらゆる節足動物と同じ節であることを私は正しく見ていたことになります。
この私の質問に父は答えられませんでした。
わからなかったのです。
その後私はこの質問に対する答えを偶然、宇宙シリーズの中のヴィルヘルム・ベルシェの『世界創造の日々』の中に見つけました。
そこには、アルヒェオブテリスク、つまり始祖鳥の絵がありました。
この鳥はジュラ紀の石灰石にきれいに刻印されています。
羽と鳥の足と鳥の翼を持っており、あきらかに鳥なのですが、翼にはまだ爪のついた足指が3本残っており、くちばしには歯があり、おまけに椎骨(ついこつ)にいくらか羽毛のついたトカゲのような長い尻尾を持っていました。
そして、そのページには、これが、爬虫類から鳥への移行段階であると書いてあったのです。
これについては、父とのある散歩のことを思い出します。
その場所もはっきり覚えています。
まったく奇妙なことに、場所と真の体験がセットになっているのです。
その時、私は父と一緒にカイザー記念展望台への道を登っていました。
そして、父にこの鳥のことを話したのです。
父は奇妙にも好意的に私の話しを聞いてくれました。
私は猛烈におしゃべりをしました。
いつもなら「少しは黙っていなさい」と言うのが、その時にかぎって父は言わないのです。
それどころかたいへん嬉しそうに聞いてくれ、私は何から何まで話せました。
進化について、ダーウィンについてーーこうした話しを気持ちよく聞いてくれ、微笑んでいるのです。
突然、私はピンときました。
おやじはこれ全部知っているんだなと言うことがです。
そして今でも覚えていますが、父に対して深い恨みを抱きました。
彼はこんな重要なことを全部知っているのに、私に話してやる価値を認めていなかったことにです。
そこで私は古生物学者になろうと思いました。
自分に言い聞かせたのです。
進化こそすべてであり、これこそ世界の歴史であり、本当に重要なのは、これ一つであると。
今でも私はそう信じています。
覚えていますが、その時はまだ高等中学校に入っていませんでした。
10歳になっていなかったわけです。
私は古生物学の本を買い、勉強しました。
そして大学では動物学と古生物学をやろうと思っていました。
ところが、私の父はかなり権威主義的な人で、お前はどうしても医学をやるべきだと言い張ったのです。
その理由は、有能な医者が飢え死にした話は聞かないからだと言うのです。
しかし、本当にこの言葉のとおりでした。
私はもし医者になっていなかったら、ロシアで飢え死にしていたかもしれません。
だが、これに伴う本当の利益は、解剖学教室でフェルディナント・ホッホシュテッターと接触できたことです。
彼は、たんに比較解剖学者であっただけでなく、もっと意味のあることに比較発生学者でした。
当時私は18歳でしたが、その時にはもうたくさんの動物を知っていました。
父親がローレンツ博士を導いたことは分かるのが
話した事をすでに知っていたと直感し許容できず
恨んで古生物学者の道を進むってのは
自分的にはどうにも解せない。
子供の話はいくら権威主義の父親だって
子供が頑張って話してるなら聞くと思うし
話す価値もないのかという点だって、
面倒くさかったのではとも思えるだろう
と思うのだけど。
父との関係性が一般的な知識からの参照なので
これ以上は何もいえませんけれども。
しかしそれがなかったら、ローレンツ博士は
医学知識を持つことはなく、ここまでの
偉大な人物となりえただろうか、とも思ったり。
クロイツァー▼
先生は最初ポッパーを、彼が帰納を否定するゆえに批判したことがありますが、彼は、先生とまったく同じことを言っているのではないでしょうか?
つまり、人間の思考なるものが発生するに至るまで進化を信じて、進化の過程における大きな前進は、飛躍として起きていると彼は言うのです。
そしてそこから出てくる結論が、時によっては反証の対象になりえると言うわけです。
ローレンツ▼
概念的思考をするわれわれの頭脳の中では、概念や着想や理論や仮説は、ひとつひとつの個体と同じような行動をしているのであって、それゆえ相互にゲームをしており、そのゲームは、諸々の種が進化の過程で演じるゲームとそれほど異なるものではありません。
そして、よくあることですが、ある偉大な《閃き》が起きるのはほとんどの場合、とっくに慣れ親しんでいる二つの思想を結びつけてみて、両者が関連しあい、相互に説明しあうものであることに気づく時です。
クロイツァー▼
アーサー・ケストラーはそれを、《天竈の火花》もしくはビゾツィアツィオーンと呼んでいますね。
ローレンツ▼
そのとおり、天竈の火花です。
しかし、それを表すドイツ語がないので、私は《電撃(フルグラチオン)》と言ったまでです。
クロイツァー▼
でも、この言葉は、《天竈の火花》、つまり稲妻の衝撃を表すラテン語の概念でしょう。
ローレンツ▼
この表現は神秘主義者たちの言葉に由来しています。
この神秘主義者たちは確かに気のいい聡明な人々ではありましたが、我々の立場は彼らと異なります。
つまり、あるシステムの中で予期せざる火花が閃いても、我々は、それがゼウスの稲妻であると考えるのではなく、なんらかの短絡が起きたと思うわけです。
そして稲妻の比喩はこの場合非常によく当てはまるのです。
第二部 質問に答える
以下の質問は、第二ドイツ放送の作った質問リストによるものである。この質問は、シリーズ番組『世紀の証人』において、その日の招待客に《おきまりの質問》として行われることになっていたものであるが、ローレンツ氏の議論を補足するのにたいへん適切であると思われるため、以下に付録的に収録する次第である。
から抜粋
クロイツァー▼
年をとっていくことを先生はどのようにして耐えておられますか?
老年が始まったことに先生はなにによって気づかれましたか?
その点でなにに困っておられますか?
どのような防止策をとっておられますか?
老化のつらさを楽にしてくれるようななんらかの長所もありますか?
ローレンツ▼
老化というのは、子供にも予測できる進行性の病気です。
この病気を治して生き延びたものはいません。
私の感じではーーこれは誰でも自分のことについてしか言えませんがーー老化のもたらす実害は、知的精神面的な面よりも、肉体的な面にあります。
私は関節炎に悩んでいて、杖を突いて歩かねばならないことに困っていますし、また疲れやすいのにも弱っています。
前ほどつめて仕事ができなくなってしまいました。
逆に利点もあって、その一つは、重要なこととそれほど重要でないことを区別して、後者を比較的簡単に忘れることができる点です。
そのために、いわば忘却の大海の中で山頂がひとつ突き出している感じで、全体の展望がしやすくなっています。
前よりも全体を見通しやすくなったと思っています。
手短にいうと、こういったところが老化のもつ長所と短所でしょう。
クロイツァー▼
先生の生涯において《幸福》とは何でしたか?
どういう時に先生は幸福であると思いましたか?
あるいはどういう時にそう思いますか?
なにが個人的な幸福でしたか?
ローレンツ▼
それはいろいろあります。
個人的な幸福とは、友情と愛です。
自分のことを好いてくれ、遊びに来てくれる知人たちを持っているのは、信じ難いほどの安心感を与えるものです。
これは人間の内面的均衡を保つのに不可欠だと思います。
だからこそ、洗脳は全くその反対で、人を孤立させ、全てを奪ってしまうのです。
クロイツァー▼
つまり生物学的に説明するならば、チンパンジー1匹だけではチンパンジーとは言えず、人間1人だけでは人間とは言えないわけですね。
ローレンツ▼
人間1人は、全く人間だとは言えません。
また好奇心を持たず、仕事をしない者も人間とは言えません。
私にとって最高の幸福、子供のような純粋な幸福は、何か新しいものを見ることです。
まだ手にしたことのない荷をほどくのは、今でも大きな幸福です。
なんらかの表現がうまくできたとき、また本を書き終わったときです。
最高の幸福はおそらく《電撃(フルグラチオン)》のうちにあるのでしょう。
つまり、着想の閃きがあって、「ああ、なるほど」と言える時のことです。
クロイツァー▼
《天竈の火花》が閃く体験ですね。
ローレンツ▼
そう、天竈の火花の体験です。
おそらく人間に与えられた最高の幸福でしょう。
ローレンツにカントを教えたのは、
相棒のティンバーゲンの奥様だったという
エピソードもあった。
”解剖”で”医者”で”カント”ってくると
養老先生を連想するが他にも共通項が
多々ありそうだと読んでて思った。
カントは一冊読んだが難解で自分には
理解できずしかしところどころの
キーワードが何となく引っかかった程度でして。
自分よりも上の世代は、マスト哲学者として
”デカンショ”という合言葉のもと
デカルト、カント、ショーペンハウワー
の3人を指し今でも古典として読み継がれてるのは
言いたいだけでございました。
《天竈の火花》って検索したのだけれど、
読み方すらわからなかった。
「竈」が「かまど」ってのは分かるのだけど
閃き、インスピレーションのメタファっぽい
というくらいで、ひとまず置いといて
それが人生においては幸福で大事である、と。
それはそうと、更に人生で大切な日常生活として
昨日風呂掃除し忘れたので、今日はせなければ。