ドーキンス先生の最新刊から飛翔を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
なぜこの時期に「飛翔全史」なのか
咀嚼力が弱いからなのか
結論からいうとわかりませんでした。
第1章 空を飛ぶ夢
から抜粋
鳥のように飛べるところを想像することはある?
私は想像するし、そうするのが大好きだ。
木々の上を楽々と滑空し、舞い上がっては急降下し、三次元を楽しみ、軽々と身をかわす。
コンピューターゲームとVRのヘッドセットがあれば、想像の翼を広げて、架空の魔法の空間を飛ぶことができる。
しかしそれは現実ではない。
レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめ過去の偉人のなかには、鳥と一緒に飛びたいと熱望し、そのための機械を設計した人がいたのも不思議ではない。
あとでそうした昔の設計をいくつか見ていくつもりだ。
そうした設計は使いものにならなかったし、たいていは使えるはずもなかったが、それでも夢は消えなかった。
『ドーキンスが語る飛翔全史』というタイトルから予想がつくとおり、この本は飛ぶことーーー数百年のあいだに人間が、そして数億年ものあいだに動物たちが発見した、重力に逆らうためのありとあらゆる方法ーーーについてのという本だ。
とびきり空想的な空想で始めよう。
2011年AP通信社の世論調査によると、アメリカ人の77パーセントが天使の存在を信じているという。
イスラム教徒は信じるように教えられる。
ローマカトリック教徒は伝統的に、人はそれぞれ自分だけの守護天使に守り導かれていると信じている。
つまり私たちの周囲ではものすごいたくさんの見えない翼が、音もたてずに羽ばたきしているということだ。
アーサー・コナン・ドイル卿が生み出した架空の探偵の代表格シャーロック・ホームズは、科学捜査並みに合理的に推理する。
ドイルが生み出したもうひとりのキャラクターは威圧的なチャレンジャー教授、おそろしく理性的な科学者だ。
ドイルはたしかに両者を敬愛していたが、彼自身はその二人の主人公が軽蔑したのではと思えるくらい、子供じみたつくり話にだまされた。
というか、文字どおり子どものつくり話だった。
2人組のいたずらっ子がつくった羽のある「妖精」のトリック写真にしてやられたのだ。
エルシー・ライトといとこのフランシス・グリフィスが、本から妖精の絵を切り抜き、ボール紙に貼りつけて庭につり下げ、一緒にいる姿を互いに写真に撮り合った。
この「コティングリー妖精」のいたずらにだまされた大勢のなかで、ドイルは唯一の有名人だった。
彼は『妖精の到来』と題した本まで書いて、チョウのように花から花へとひらひら飛び回る、羽のある小さな人間の存在を確信していると主張した。
現代人にとって、その写真は明らかにフェイクに見える。
しかし公正を記すためにいうと、これはフォトショップが開発されるずっと前、
「カメラはうそをつけない」
と広く信じられていた時代のことだ。
私たちインターネット通の世代は、写真をいとも簡単に捏造できることを知っている。
「コティングリー」の2人は最終的に自分たちの悪ふざけを認めたが、そのときには70歳を超えていて、コナン・ドイルはとっくに亡くなっていた。
コティングリーの少女二人は、
時を経て老境に差し掛かり
昔のことを吐露したとされる。
ドイルさんのような有名な人が
信じたことで本当のことを
言えなくなった、と。
しかし、一方でこんな話もあり
最後の一枚だけは「本物」だったのだ、
みたいな。
うーん、どうみても他のものと
同じ質感にしか見えないのだけど。
こういう説を信じたりするからオカルトは
消えたりしないのかなあ。
第2章 飛ぶことは何のためになる?
から抜粋
この疑問に対する答え方はたくさんあるので、なぜわざわざ問うべきなのか、あなたは不思議に思うかもしれない。
私たちは空想世界の雲のなかを幸せに漂う夢から覚めて、現実の世界にもどる必要がある。
正確な答えを出さなくてはならない。
そして、生物にとって、それはダーウィン説での答えを意味する。
進化的変化によって、あらゆる生物がいまの状態になったのだ。
そして生物に関するかぎり、あらゆる「何のため?」という疑問への答えはつねに例外なく、同じだ。
ダーウィンのいう自然淘汰、つまり「適者生存」である。
それなら、ダーウィンにいわせると翼は何の「ため」なのか?
動物の生存のため?
もちろんそうであり、その答えが実際にどう展開するか、いろいろ具体的にこのあと見ていこうと思う。
餌を上から見つけることも一例だ。
しかし生存という目的は話の一部に過ぎない。
ダーウィンの世界では、生存は繁殖という目的のための手段に過ぎない。
オスの蛾は通常、翅(はね)を使ってそよ風に乗り、メスのほうへと進むが、それを導くのはメスのにおいだーーー1000兆分の1に薄められても使う。
このことはオス自身の生存には役立たないが、先ほど言ったように、生存は繁殖という目的の手段にすぎないのだ。
この話をさらに詳しく検討していくなかで生存の考えに立ち返ろう。
生存といっても、個体ではなく遺伝子の生存だ。
個体は死ぬが、遺伝子はコピーとして生き続ける。
繁殖によって実現する生存は、遺伝子の存在である。
遺伝子、とにかく「良い」遺伝子は、何世代も、何百年にもわたって、忠実なコピーの形で生き延びる。
同様に、翼は翼をつくる遺伝子の長期生存のためになる。
第3章 飛ぶことがそれほどすばらしいなら、
なぜ翼を失う動物がいるのか?
から抜粋
そしてなぜ海が煮えたぎっているのかーーー
そしてブタに翼があるのかどうか。
ーールイス・キャロル『鏡の国のアリス』1871年
海は煮えたぎっていない。
ただし、いつの日か(およそ50億年後には)そうなる。
そしてブタに翼がないのは確かだが、なぜないかと問うのは、じつは愚問ではない。
もっと一般的な疑問をちょっとふざけて投げかけているのだ。
「これこそがそれほどすばらしいなら、なぜすべての動物にこれこれがないのか?
なぜブタを含めてすべての動物に翼があるわけではないのか?。」
たいていの生物学者はいうだろう。
「なぜなら、自然淘汰が作用するのに利用できる、翼を進化させるのに必要な遺伝的変異がなかったからだ。
適切な変異が起こらなかった理由、というか、おそらく起こりえなかった理由は、ブタに胚(はい)発生が最終的に翼になる可能性のある小さな突起を生やすようになっていないことにある。」
私はその答えにすぐには飛びつかないという点で、生物学者のなかでは変わり者かもしれない。
私は次の3つの答えをつけ加えたい。
「なぜなら翼はブタにとって役に立たないから。
なぜなら翼はブタ特有の生き方にとっては障害になるから。
なぜならたとえ翼がブタにとって役立つとしても、その有用性を経済コストが上回るから」。
翼は望ましいものとはかぎらないという事実は、先祖に翼があったのに、それを放棄してしまった動物がはっきり示している。
それがこの章のテーマだ。
働きアリに翅はない。どこへでも歩いていく。
というか、「走る」という言葉のほうが合っているかもしれない。
アリの祖先は翅のあるハチだったので、現代のアリは進化の過程で翅を失ったのだ。
第4章 小さければ飛ぶのは簡単
から抜粋
コティングリー妖精が存在しなかったのは残念だ。
というのも、天使やプラークやペガサスとちがって、この想像上の小妖精は楽々飛ぶのにぴったりのサイズだった。
大きくなればなるほど、飛ぶのは難しくなる。
花粉やブヨくらい小さければ、飛ぶのにはほとんど努力はいらない。
そよ風に浮かぶだけでいい。
しかしウマのように大きいと、まったく不可能でなくても、大変な努力が必要になる。
なぜ大きさが問題なのか?その理由は面白い。
ここで少し数学が必要になる。
何かの大きさを倍にすると(たとえば縦を倍にして、横と高さもすべて同じ割合で大きくすると)、体積と重さも倍になると考える人がいるかもしれない。
しかし実際には、8倍になる(2 x 2 x 2)。
これは拡大できるどんな形にも、たとえば人間、鳥、コウモリ、飛行機、昆虫、ウマなどにも当てはまるが、四角いオモチャの積み木で考えるとわかりやすい。
冒頭で話した空を飛ぶ空想を受けて、天使の翼のある人、つまり大きな妖精と考えよう。
大天使ガブリエルは一般的に、普通の人間と同じ身長170センチくらいとして描かれている。
コティングリー妖精の約10倍だ。
そのためガブリエルの体重は、妖精の10倍ではなく1000倍ということになる。
翼が天使を持ち上げるためには、妖精よりどれだけ頑張らなくてはならないか、考えてほしい。
そして拡大された翼の面積は1000倍ではなく、100倍に過ぎない。
フィレンツェのウフィツィ美術館に訪れたことがある人なら、レオナルド・ダ・ヴィンチのうっとりするほど美しい『受胎告知』を見たことがあるだろう。
天使ガブリエルが描かれているが、その翼は驚くほど小さい。
小さいことは大変けっこうなことだ。しかし、もしあなたがなんらかの理由で大きい必要があり、それでも飛ばなくてはならないとしたら?
たとえ経済コストは高くても、大きいことにはもっともな理由がたくさんある。
小さい動物は弱いので食べられてしまう。
大きな獲物を捕まえるともにとはできない。
同じ種のライバル、おそらく交配のためのライバルを怖がらせるのは、相手より大きいほうが簡単だ。
理由はどうあれ、小さくはなれず、しかも飛ぶ必要があるなら、地面を離れる別の解決策を見つけなくてはならない。
ドーキンス先生、最終章は
STARUMに参加していて
チューリッヒのホテルで
書いているとのこと。
これに、イーロン・マスク氏も
参加していたようなので
最初のページに書いてある
「想像の翼を広げる野心家のイーロンに捧ぐ」
ってのはそういうことなのかもしれない。
いわゆる科学書っぽくないのは
いつものことなのだけれども
神を徹底的に否定されている論調とは
異なって、穏やかになっているような。
年齢的なことなのか、思想上の理由なのか
ちと謎ではあります。
それにしてもいつも内容が濃いのは驚愕しますし
常に動向が注視され、
常に次が期待されてしまうのは
辛いところだろうなあと思ったり。
余談だけれどこの書籍のイラスト担当
ジャナ・レンゾヴァーさんの
イラストについて
プロフィールのページに
制作過程を示す三段階があって
①は線画、
②はそれを黒で潰す、
③カラーで完成
になっているのだけど、
なぜ②で黒に潰すのか?
タブレットで描いたことがないので
わかりませんが
考えられるのは、デジタルの場合
一回塗りつぶしたほうが着色しやすいのかも
しれないなどと
まったく本文と関係のないことに
目が入ってしまう愚か者でございました。