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池田先生の構造主義についての読書考 [’23年以前の”新旧の価値観”]

池田先生の対談集ってないのかと思って


探したらあったので読んでみた。


結論からいうと難しくて


ほぼわからないけれど興味深かった。


(ということがあり得るということを


身をもって知った)


 



生命という物語り―DNAを超えて 池田清彦対話集

生命という物語り―DNAを超えて 池田清彦対話集

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 1999年
  • メディア: 単行本
  •  

時間と生命


対談者:中村雄二郎(哲学)


恣意性と階層性


■中村

以前に池田さんの『構造主義生物学とは何か』を読んでいてよく分からないところがあった。

最近、その後の『構造主義と進化論』を拝見してだいぶ分かってきました。

まだ分からないところはあるけれど、どうしても専門が違うと同じ概念でも違った面が出てきてしまうんですね。

でも、いちばん大事なことは、構造主義という問題が日本で話題になって、それをそれぞれの領域の人が、ただ自分のところだけしかやっていなかった。

それをあなたが突破したことですよね。

たとえば、J・ピアジェの構造主義というのは昔からわりあい知られている。

ピアジェの構造主義とレヴィ=ストロースM・フーコーなどの構造主義はどう違うかというのは、多くの人は教科書的には分かっている。

けれども、それが現在の知の全体の中でどういう配慮になっているかというようなことは、ほとんどやられていない。

だから、そういう点で面白かった。


ただ、なぜこれまで生物学とかかわり合いがやられなかったのかと考えてみると、フランス構造主義の場合、フーコーはたしかに『言葉と物』でいろいろ生物学を扱っているけれど、それは生物学そのものというよりも、生物学を使ってディスコース(言述)の話をしている。

そういうことにも原因があったと思う。

だから、ピアジェなんかと絡ませるのはなかなか難しかった。

それから、構造主義的生物学というのは、もともと外国でやられたのは、むしろピアジェ的な構造主義との関係ですね。

そのほうが生物学とのかかわりとかの領域では分かりやすい。


■池田

そうですね。


■中村

ピアジェの場合には何といっても発達心理学だから子供の発達が中心でしょう。

そして子供というのも生物として生成している。


■池田

ええ。生成ですからね。


■中村

もともと生成主義だからピアジェの場合、生物学とのつながりは分かるけれど、池田さんは、さらにレヴィ=ストロース的、フーコー的な展開の上で構造主義を生物学の方法として使っているでしょう。

その意味での構造主義がむろんキーコンセプトでしょうが、もうひとつ、どうして構造主義生物学と言わなければならないのか、分かりにくかった。

もっとも、ほとんどの場合中心概念というのはかえって分かりにくいんですね。

本人がいくら説明したつもりでも分からないことがある。

それは私なんかもよくいわれることです。

しかし、言語学をモデルにして他の領域を考える場合、言語学の領域と他の領域をどういうふうに関係づけるかが問題です。


私は前からメタファーアナロジーホモロジーというのは違うといっていますが、大体の議論ではそれがごっちゃになっている。

そういう点でホモロジーというのはなかなか厄介なので、その辺の問題もあると思う。

私なんかが構造主義、あるいはソシュールを面白いと思ったのは、一つは、私はもともと考え方が多分に物理学的で、因果関係に対して強く信頼してきたけれども、同時に二項の結びつけ方としてそれ以外のものはないのだろうかと、かねがね考えてきたんです。

その点で言語論、特にソシュール派の能記と所記シニフィアン・シニフィエという形での二項の結びつけ方、あれは一つの新しいリアリティを切り開く突破口になったと思うんです。

コノテーションメタ言語の仕組みを示したことをはじめとして。

そうしたことが構造主義が、あれだけ人間科学全般にインパクトを与えたゆえんだと思う。

ところで、まさにその能記と所記の関係で大きく問題になるのが、あなたが特殊な意味を込めて<恣意性>ということですね。

だからそういう点ではいいところを狙われたなと思ったのですが、池田さんがおっしゃっる恣意性というのは、分かりにくいところがある。

それはソシュールのいっている恣意性そのものではないでしょう。ソシュール的な考え方を使っているのは、私が見るところによると、全体論でもなく、還元論でもないもの、そこに生物のリアリティがあるという着眼でしょう。

つまり、全体論がもたらす固定化も、還元論による固定かも排して、そこにもっとゆらぎをもった生命体をつかまえる装置として構造論を唱えたわけでしょう。

そこで恣意性ということが大きな意味を持ってきたのだと思う。


■池田

僕らが恣意性というのを考えたのは、中村さんが今おっしゃったように、還元論でも全体論でもない階層性みたいなことを考えたところから始まったのです。

今までのいわゆる物理化学還元主義みたいなやり方であると、どんどん還元にいってしまって最終法則があって、そこから一義的に演繹されるみたいな形ですべてが出てくるんです。

いちばん極端なのは「ラプラスの魔」みたいなものです。

これは松野考一郎さんがいいはじめたわけですけれども、本来的に粒子というのは有限速度の観測運動しかなしえませんから、どっちにしても系というのは内部的には完璧に境界条件が判明しているということはないわけです。

ところが普通の場合だと、ほとんど粒子だけの系を見ていれば光速で伝播しますから、無限の速度で伝播するとみなしても、大体どんぶり勘定は合うわけです。

だからあまり問題は起きない。

物理法則として最終的に担保されるもの、たとえばエネルギーた物質の保存則みたいなものには生物といえども従っているわけです。


ところが生物の場合には、保存性伝達過程が光速の十桁以上も遅いので境界条件の不確定性という問題が大きくクローズアップされてくるのです。

 

境界条件が完全に決定されていれば、エネルギーの保存則というのは動因として働きますけれども、決定されない系ですとエネルギーの保存則というのはそれが最終的にエネルギーを保存するようにみんなが動くというような、一つの目的因みたいになるわけです。

 

ですから事後的に見た場合には、何か目的をもって動いているように系が見えるということが出てきて、そうするとこれは難しい問題ですけれども、その途中でさまざまなことが起こると、突然本来いろいろなことができる可能性のうちのある一部だけの可能性にしかいかないということがあるわけです。

 

その時に、出てきたさしあたってのルールというのは可能性の限定であって、それ自体は結局物理化学法則のほうから見れば恣意的というか必然的ではないわけです。

けれどもそれが決まると今度はそれが拘束性になりますから、その条件に拘束されて次に行くわけですよね。

ですからさしあたってその拘束されたものをルールと見るわけで、そのルールは記述する時には構造法則みたいな形で記述するんだけれども、それは厳密な意味で決定論的な系ではないということを言うために、その生成に関しては恣意的だということをいおうとしていたわけです。


■中村

ソシュールが恣意性といった場合には、それは能記と所記のある特別な関係が言語記号の文節化の中で起きていることです。

それ自身としては必然性、あるいは一義的ではないけれども、しかし出来上がるとそれ自身が一つのストラクチャーをもって働きかけてくる。

要するにそういう関係ですよね。


■池田

そうです。


ううう。


何を言っているのかほとんど分からない。


しかしものすごく気になる、なぜかはしらねど。


この後も感覚的にはものすごく興味深いのだけど


ほぼついていけない。


 


この感覚は、80年代、吉本隆明さんと


遠藤ミチロウさんが対談していたのが


当時まったく理解できなかったものが


時を経てわかるようになった時と似ていて


後で分かればいいや、わかんなくても、


まあ、いっか、と思いメモさせて


いただいた次第でございます。


 


池田先生の書は自分の感覚値で言ってしまうと


少しづつ分かってくるのでそこに期待したい。


(養老先生もそうだったし、それでいえば


特定の誰かってことでもなく


作家や音楽家全般そうだと思うし


もっとマクロな視点だと


人生全般がそうなのかもしれない)


あとがき(1999年10月)から


十年近く前の古い対話もあるが、読み返しても、今だったら別の言い回しをするだろう、という所はあっても、古くなったという感じはしない。

十年間、私が少しも進歩しなかったとの見方もできるだろうし、世間が十年たってもまだ追いついていないとの見方もできないわけではない。


この世界をデジタル情報によって読み解こうという世界観あるいは戦略は、生命を理解する上ではほとんど役に立たない、と私は思い続けてきた。

情報はとりあえず不変であるが、生命は無常である


私が「科学」に与えた定義によれば、科学とは変なるものを不変なるものによって解読しようとする営為である。

従って、変なる生命を不変なる情報(DNA)によって解読するのもまた科学には違いない。

しかし、この二つの間の乖離は余りにも大きすぎて、DNAを調べれば生命がわかるという戦略は、余りにも安易であると私には思われた。

たとえば、生命の最も簡単な具現である生物の形態とDNAの間には、イヌという言葉と現実のイヌの間の関係程度のものでしかないのだ。

それを理解している人は案外少ない。

コトバのイヌと現実のイヌを結びつけるのは、日本語というラングである。

それは日本に住む大半の人々が日本語を理解するという文脈の中ではじめて機能する。


ニュートン物理学では、変なる運動は不変の質量と対応し、この二つを結びつけるのは運動方程式である。

DNAと形態はとりあえず対応するが、この二つを結びつける形態形成方程式はまだ見つかっていない。

というよりも、そんなものは存在しないのではないか。

それが私の問題であった。

私の考えによれば、この二つを結びつけるのはラングであり、それを理解する細胞群である。

しからば、この場合のラングとはいかなるものであり、これを理解するとはどのようなことなのか。

それが私の問題であった。

『生命の物語り』は未だだれにも語られていない。


なんかすごい。


ほぼ分かってないけれど、


なにをおっしゃっているのか、今は。


特に日常生活に支障があるわけではないし


無理にわかる必然性もないのだけど。


昨日、これとは違う他の


池田先生の書籍も買ってきたから


改めて拝読させていただきます。


 


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