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澁澤龍彦先生の横溢する知性を感受 [’23年以前の”新旧の価値観”]

 澁澤龍彦全集〈19〉 ドラコニア綺譚集,ねむり姫,三島由紀夫おぼえがき,補遺1983年


澁澤龍彦全集〈19〉 ドラコニア綺譚集,ねむり姫,三島由紀夫おぼえがき,補遺1983年

  • 作者: 澁澤 龍彦
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 1994/12/01
  • メディア: 単行本


三島由紀夫おぼえがきの読後感想


20代の頃、読んだものを再読。


不思議なくらい覚えているもので懐かしい印象。


三島さんと澁澤さんの邂逅、


一期一会のエピソード群。


 


澁澤さんファンにとっては


有名な阿頼耶識を皿屋敷とか、


エレベーターに閉じ込められ事件で


「ああ、こわかった。澁澤さんが一緒だと思うとね」


三島さん言ったとか。


 


自然・自由を体現されておられる澁澤さんでさえ


三島さんの前では人格を演出していたところも


あったという記述。


 


それより、編まれているのは他にもあり


フランス文学作家ユスナール女史の


三島さんの論考のあとがきも含まれており


どこかで見た記憶があるのだけど


当時はほぼ意味が分からず飛ばしてたが


今回読んでみて何となくわかったというか


気になったので引用、抜粋。


ユスナール『三島あるいは空虚のヴィジョン


あとがきから抜粋


その衝撃的な死から十年経って、フランスでもようやく、ジャーナリズムなどで三島文学に対する本格的なアプローチが試みはじめたと聞くが、そういう一般的な情勢について私はなんの知るところもないし、なんの興味もない。

もともと日本文学の国際化だとか、国際社会における日本文学だとかいった問題には、なんの興味もない人間だからである。

私にとって関心があるのは、いつでも個々の作家、個々の作品である

ユルスナールは私の愛惜措くあたわざる作家であり、三島は私にとって、あだやおろそかに扱うことのできない作家であればこそ、私はこの二作家の結びついた本書に注目したのであり、あえてこれを翻訳しようという気にもなったのである。

要するにそれだけのことだ。


本書のなかに、おそらくユスナールの偽らざる実感だろうと思われる、次の記述がある。

人間には二つの種類があるようだ。すなわち、より良くより自由に生きるために、死をその頭の中から追っ払ってしまう人間と、逆に肉体の感覚や外部世界の偶然を通して、死が自分に送ってくれる合図の一つ一つに死を感じれば感じるほど、ますます自分が賢明に強く生きているということを自覚する人間である。」

ーー『ハドリアヌス帝の回想』を書いたユスナールもまた、三島と同じく、明らかに後者のタイプに属する人間であろう。

彼女の三島に対する深い共感の根は、ありていにいえば、古代のストア哲学者におけるような、その死との親近にあったといっても差し支えあるまい

これにくらべれば、両者が傾向を同じくしている同性愛などは、無視してよいというのではないが、少なくとも第二義的なものと考えてよいのではなかろうか。


英訳、仏訳でおおよその小説、評論などを読み込んだユスナールさんに対し


かなりの勉強家であると太鼓判を押しつつも以下のように指摘。


ただ、なにぶんにも日本の伝統や風俗習慣に明るくないヨーロッパの作家のこととて、私などの目から見ると、日本文化に対する無知から生じた事実の間違いもあり、いかにも読みの浅さを感じさせるところもないわけではない。

たとえば『仮面の告白』の糞尿汲取人は、彼女が考えているような頑丈な庭師のイメージとはまったく違うだろう。

また彼女は三島がタントラ思想(げんにヨーロッパで流行している)の影響を受けたと信じているようだが、そういう事実は万が一にもなかったはずである。

豊饒の海の物語を動かすダイナミズムともいうべき転生の観念については、彼女はよほど奇異なものを感じるらしく、しばしば困惑の情を表明することを隠さない

三島がなんの象徴としてでもなく、ただ単なる点景の自然物として作中に配置したにすぎない鼈(すっぽん)とか、土龍(もぐら)とか、犬とか、あるいは広島から送られてきた樽の中の牡蠣とかいったものにも、彼女は無理やりシンボルとしての意味を見つけ出そうと(つまり解読しようと)躍起になっている。

そんなものは見つかりっこないのである。


そのほかにも、私の気がついた範囲で、明かな疑問や間違いは本文中に割註で示しておいた。

もちろん、こういったからとて、随所に女史ならではの卓見が光っているのは、申すまでもなく、とにかく私たちには見過ごされがちな論点が、かえって外国人の目によって剔出(テキシュツ)されているような部分も少なからずある。


その一例として、彼女が指摘する「登頂」のライトモティーフをあげておこう。

春の雪』の結びで、本多は月修寺のある雪に覆われた小高い山に登るが、それ以降、スタンダールの小説におけるとひとしく、この同じ「登頂」のライトモティーフが幾度となく繰り返されて出てくるというのだ。

また、これはべつだん独創的な見解というわけではなく、三島文学の親近者にとっては周知のことかもしれないが、

「三島には、聡明さと力とを同時に具えた女に対する好みがある」

などといった指摘は、指摘している本人が男まさりの女性であるだけに、一段と真実味があるように思われる。

三島の母とほぼ同年のユスナールが、彼女に対してもっとも同情的なものも考えてみると面白いではないか。

どういうわけか、本書においては同性愛の観点は大幅に制限され、あからさまにはほとんど論じられていない。

その処女作以来の小説作品に、あれほど同性愛者を登場させることを好んだユスナールにしてみれば、これはむしろ奇異な思いをいだかせるほどのものだろう。

しかし私の思うのに、おそらく同性愛は彼女にとって自明の理に属する精神の傾向で、わざわざ論ずるには値しないものだったのではあるまいか。

そう思わせるようなニュアンスが、あくまでも端正な彼女の行文の間から読み取れるような気がするのである。


すでに同性愛というのは


第二義的なものだっだと


ご自分でご指摘されているのに、


この結びで再度繰り返されるのは


何か意味があるのだろうか。


 


あまり意味がないと思われるゆえに


それは特に取り上げる価値もないと思うのは


自明なのではなかろうかと書いてはおられるが。


このあとがきしか読んでなくて


ユスナールさんを読んでないので


行間を読み取るも何もないんだけど。


 


これこそ、


「無理やりシンボルとして意味を躍起」に


なって見つけようとするようなもので


「そんなものは見つかりっこない」のかも


しれないが。


 


自分にとっては澁澤さんは


レジェンドそのものの一人で


深読みしすぎなのかもしれない。


 


アイドルとかヒーローに対する


誇大妄想っていうのは


古今東西、共通かもしれないですなあと


思うサイゼリヤでお茶する


午後のひとときでございました。


 


それにしても、澁澤さんは頻繁に


読むわけではないけれど


時折読んでは、博学で本当に面白く


洒脱で粋で、テンダネスな


インテリジェンスというような。


憧憬を持って尊敬せざるを得ない


作家の一人。


 


若い頃、某書店で立ち読み、著者近影を


拝見し、読んでみたい!と


思ったのがきっかけで


いわばビジュアル優先だったのでした。


横尾忠則さんが新聞でビートルズを見て


聞いてみたい!と思ったと


どこかで読んだ記憶ありました。


若き日の感性が何かを感じたのだろうな。


 


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