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柳澤嘉一郎先生の書から”性分”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

ヒトという生きもの


ヒトという生きもの

  • 作者: 柳澤 嘉一郎
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2004/01/15
  • メディア: 単行本

老いて死に往くということ


 


棺を覆いてこと定まる から抜粋


このところ、能力主義という言葉がしきりに使われるようになった。

それにつれて、万事は結果、過程は問いません、といった風潮になってきた。

好ましいとは思えないが、それがグローバル・スタンダードなのだという。


しかし、考えてみれば、科学の世界はむかしからグローバル・スタンダードだった。

評価はすべて、その業績でなされてきた。

クルマのセールスのように、比較的、客観的にその結果を評価できる世界だったからだろう。

けれども、結果がすべてという世界は、正直なかなか辛いものである。


もちろん、よい結果を得るには、それ相応の努力や才能が必要である。

けれども、人生、運、不運もある

結果だけで評価されては、私の人生なんだったんだろう、と嘆く人がおおぜいでてきても不思議ではない。

しかし、結果がすべて、という科学の世界でも、過程は大切だと、私はかねがねおもってきた。

結果にいたる過程は、研究者にとっては日々の生活そのものである。

過程は結果とは別に、その人の人となりをしめしている。

過程は重視すべきだと私がいうと、いやいや、科学は結果がすべてです、といつも反論されてきた


近代における生命科学の素晴らしい発展に、その契機をあたえたJ・ワトソンとF・クリックのDNA二重ラセンのモデルも、それが発表されるまでにはさまざまなトラブルがあった。

モデルの組み立てに必要な実験データには、彼らのものは何一つなく、すべてがE・シャーガフとR・フランクリンのものだったから、ノーベル賞を受賞してからも、彼らは長いこと、いろいろといわれ続けた。


狂牛病のプリオンや、エイズの発見にからんでも、どちらがそれを先に発見したかで、研究者同士すさまじい争いがあった。

あるジャーナリストは、「科学とは、ただ名声を追うゲームなのか」と嘆いている。


最近のヒト・ゲノムの解読や、その結果を利用してこれから始まろうとする創薬の問題は、名声に加えて金銭がからんでいる。


もちろん、結果の名声を求めずに、ひたすら自分に誠実に、研究の過程を大切にして生きている科学者はおおぜいいる。

私はそういう人たちが好きだ。


細菌学者のO・エイブリーをあげたい。

それから、遺伝子学者のB・マックリントックも好きだ。

恩師だった発生遺伝学者L・C・ダン教授も心から敬愛している。


当時、アメリカでは、肺炎で死亡する人たちが年間五万人もいた。

肺炎は最も致死率の高い病気の一つだった。

にもかかわらず、その治療法がなかった。


エイブリーは赴任するとすぐに、この肺炎の治療法に取り組んだ。

まず、患者から肺炎菌を単離して、それをウサギやウマに注射し血清をとった。

ワクチン治療をこころみたのである。

これは肺炎の治療に、かなりの好成績をおさめた。

そしてこの功績により、彼は一躍、有名になって、さまざまな賞を受賞した。


ひたすら研究を楽しんでいるうちに、幸運にも素晴らしい結果にめぐまれたのだ。

けれども、彼にとって受賞は、正直いってあまり有り難くはなかったらしい。

むしろ、煩わしくて迷惑なことのようだった。

受賞の知らせをうけても、ほとんど受賞式に出席することはなかった


英国王立協会から、栄誉あるコプリー賞を授けられたときも、なんだ、かんだといって、結局、授賞式に出席しなかった。


とうとう、会長が賞を持ってロンドンからはるばるニューヨークまで赴くことになった。

長い船旅の末、会長一行はようやくニューヨークの研究所に辿り着いた。

けれども出迎えの姿もない。

実験室をたずねあててドアをあけると、エイブリーはうす茶色の実験衣を着て、いつものように1人で、ピペットを片手に実験をしていたという。


エイブリーが肺炎の血清療法を確立してからまもなく、化学療法も開発された。

1930年代後半、サルファ剤が開発され、40年代にはペニシリンが発見された。

こうして、肺炎は治療可能な病気となった。


致死率の高い肺炎が克服されると、エイブリーは研究のテーマを、肺炎双球菌の免疫タイプの転換の問題へと転向していく。


肺炎菌の免疫タイプは遺伝的に決められているが、熱で殺したタイプの違う菌と一緒に培養すると、殺した菌のタイプに容易に転換する。

この形質転換という現象がDNAによっておこることを発見するのである(1944年)。


これは、いってみれば、遺伝形質を決めている物質(遺伝子)がDNAであることをしめす大発見だった。

エイブリーは、この発見でノーベル賞を受賞してもおかしくなかった。

ところがなんと、この発見は、彼自身には、幸運よりむしろ不幸をもたらす結果となった。


なぜなら、親から遺伝する形質は、髪の毛の色から、顔つき性格まで多岐に渡っている。

このように複雑な遺伝形質を発現できる生体分子は、当然、化学構造が複雑な分子であるはずである。

それはタンパク質しかない、と考えられていたからだった。


ところが、DNAは、タンパク質に比べて、あまりにもその構造が単純だった。

とても遺伝子として働く分子とは思えない。

誰もがそう考えた。

そのために、エイブリーの発見は、多くの研究者たち、とりわけ生化学者や遺伝学者たちのつよい反論や批判を受けることになった。


けれども、彼は、自分の研究室の若いスタッフたちからは心から敬愛を得ていた。

そして、そのなかから後年、有名なR・デュボスをはじめ、次の世代の生命科学をリードした錚々たる科学者たちが輩出した。


こうして、世に認められぬまま、彼はやがて自分の体力と気力に限界を感じるようになる。

そして、研究所を辞してニューヨークを去る決意をする。

エイブリーは生涯独身だった。

家族は弟たった1人だけだった。


テネシーに去ってしばらくすると、学会に変化がおこる。

遺伝子がDNAであるという事実を示す結果が、つぎつぎと発表されはじめたのである。

エイブリーの実験結果が正しいことが認められはじめたのだ。

研究所を辞した5年後には、ワトソンとクリックが有名なDNAの二重ラセンのモデルを発表することになる(1953年)。


1955年、エイブリーは、すべての身近な人々に愛され惜しまれて、78歳の生涯を閉じた。


没後、ノーベル賞審査委員会は、エイブリーにノーベル賞を与えなかったことは、はなはだ遺憾だったと異例の声明を発表した。

しかし、ノーベル賞を受賞できなかったことを、彼自身、ほんとうに残念だったと思っただろうか

そうはおもえない

もし受賞しても、おそらく彼は、授賞式に出席しなかっただろう。


地味だけど多大なる貢献をしているが


華やかなところとは無縁、


そういった”性分”とでもいうか


そういう人に好感を持たれているのかなと。


僭越ながら貢献はともかくも


自分もそんな”性分”でございます。


嘉一郎先生の書は2冊目ですが


大きな発見としては、遺伝学者であるがゆえ


マウスの管理なども熟知されていたと。


桂子先生が病気で床に臥している際


部屋に研究所の機材を持ってきていたという


エピソードが他の著書にあったけれども


そこから察するにマウスがいたかまでは


存じ上げませんが、嘉一郎先生のフォローが


あったことは明らかで。


桂子先生が研究職を失した後


サイエンスライターで世に認められた時


どんなに嬉しかったことだろうと


思わずにいられない。


お互いを鼓舞し合える、最高のパートナー


だったことを伺わせ、本当に泣けてきます。


この他、睡眠不足に関する随筆もあり


スペースシャトルの事故もそうだったというのは


自分は初めて知って驚いた次第で


検索したら他にも歴史的事故があってさらに驚愕。


ヒトがなぜ戦争するのか、国連が依頼して


アインシュタインがフロイトと手紙を交わした件や


50年代にニューヨークへ留学した頃のエピソードの


インディアン・ギビングなども興味深かった。


余談だけれど、この書の表紙絵(装画・挿画)が


”赤勘兵衛”さんというのは桂子先生と同じだと


装丁の仕事にも目がいってしまうという


元デザイナーの自分の”性分”でございました。


 


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