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柴谷篤弘先生の書から”独創性”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

バイオテクノロジー批判 (1982年)


バイオテクノロジー批判 (1982年)

  • 作者: 柴谷 篤弘
  • 出版社/メーカー: 社会評論社
  • 発売日: 2024/02/22
  • メディア: -


目次から引用


第1章 いま、科学技術とは何か

第2章 生物技術をどうとらえるか

第3章 分子生物学は独善に陥っていないか

第4章 外から見た日本の生物技術

第5章 転換に向かう生物技術

第6章 生物技術が変える社会の姿

第7章 組み換えDNA実験指針緩和をめぐって

第8章 国家装置の安全性を疑う

第9章 分子生物学の新しい展開と遺伝子操作の安全性

第10章 ”人間機械論”を超えて

第11章 このごろの私の立場

第12章 オーストラリアの鉱山から

第13章 核兵器の廃絶と国家の廃絶

第14章 反核と反=科学論

第15章 日本における科学ジャーナリズムの不在


まえがき から抜粋


私は日本とオーストラリアとで、組み換えDNA実験規制の要路にある行政機構と、それに参与する科学者が、ことを処理し、問題に対応する姿勢に大きい違いがあることを印象づけられた。


科学技術部門における日本人論にとって有用な資料を提供すると予想される。

他方世界的に人工知能の分野で日本が頭角をあらわし、次の科学技術革命を用意するものではないかという予想(ないしは恐怖)が、多くの人々の関心を呼ぶようになった。


オーストラリア国営放送協会(ABC)の科学部でも、当然この問題に興味を示し、日本へ取材に行った担当記者は、日本じゅうどこへ行っても日本人の独創性の有無の問題について議論をきかされたと私に語った。

同じ問題意識は、アメリカ合衆国科学政策における日本への対応についての最近の論調にも、あきらかに見て取れる。


問題の要点は、日本の官庁や大会社に特に顕著な集団帰属性が、企業経営に強い国際的競争力を与えるものではあっても、それは科学技術における独創性に大きな犠牲を強いるものではないのか、そしてそれは、個人の権利についての明確な意識と、それにもとづく民主主義的な政治制度の定着と密接に関連するものではないのか、ということである。


遺伝子組み換え問題についての私の限られた実践の範囲では、日本の事態はまだ従来どおりのパターンに従っており、「独創性」をのばすのに好適な環境からは程遠い。

しかし人工知能の領域で起こっていることは、日本において、集団的な独創性への飛躍が、あるいは可能になるのではないかという疑問を突きつけているとも言われる。


私にしてみれば、しかし、これは自己矛盾であるように思われる。

なぜなら独創性は自立した精神を要求し、そのような精神はまた、独創性を要求する社会的基盤そのものにも、批判の眼を向けるからである。


しかし「独創性」などにかかずらわなくても、批判的な眼さえ養えば、巻頭に引用した現代科学者の発言が、ともすれば「理性」を一般市民に求めるに急であること、そして本書の内容からは、科学者の側に同じ「理性」を求めることが至難であることを、見通すことは容易であろう


したがって、内発的な独創性の必要に開眼した日本の資本主義は、今基本的な選択に直面していると私には思われる。

私がこの本で強調しようとしている市民ひとりひとりにおける思考の自立は、それなりにこの選択の一方の分岐と触れ合うものであるが、それは右に記したように、ガンサー・ステントの言う「進歩の逆説」を内在させて、人間存立の全体的な思考の枠組みの転換を示唆するものであろう。


1982年10月10日 シドニーにて 柴田篤弘


まえがき前のページ から引用


中村桂子(1977)

<Berg教授からの呼びかけにこたえて、科学者が主体となった議論が始まった。

当然のことながら、その中には、この手法の利用を積極的に支持する人、慎重派、反対派が入り乱れていた。

ただ興味深いことに、どの立場の人にも一つの共通の基礎があった。

それは、科学ーー具体的には科学者が世間に信用され、正常に機能するには、研究に関する意思決定の過程を公開し、異なる立場からの意見や批判に虚心坦懐に耳を傾けなければならないということである。

著者らは遺伝子操作を、科学技術の進歩と社会の関係を解析する最適の対象と考え興味を抱いてきたが、ここで提出された、「科学と社会が”openness and candour”の基礎の上に相互に有効に機能し合えるか」という課題は、なかでも最も興味をそそるものである。

研究者が率直であらねばならないということは、とりもなおさず、社会も同じ態度を要求されることである。

誇張した期待も、無知ゆえの行き過ぎた不安も避けなければならない。

アマはアマ、プロはプロとして、お互いを尊重し合う話し合いをし、充分理解し合った上で判断をくだす、そんな関係が成り立つ社会への道が、この問題の議論の中から開ければ素晴らしい…。>


内田久雄(1978)

<今後「遺伝子操作は危険である」との意見を表明する人は少なくともNIHガイドラインをよく勉強し、その上で問題提起をすることにしようではないか?

一般論として「遺伝子操作は危険である」と言えば、今日では、自分の無知、不勉強を曝け出すことになる。

最近の新聞、雑誌に見られる危険論が内容的にアシロマ会議から進んでいないのは残念なことである。

アシロマ会議以降の技術進歩、研究実績は目覚ましい…。>


今堀和友(1978)

<今や人類は、その連帯責任において、この技術をどうするのかと問われている時なのである。このような重大決定を行うに当たって無益な感情論を排するためにも非専門家も現状と事実とをしっかり把握することが先決であろう。>


他の人の引用は多く見られるけれど


”まえがき”の前に置くのは珍しく


それだけこの書の意図するところを


あらわしているのだろうと察せられる。


今でいうところの”ディス”マインドばかり


目に行きがちなのだけれど、”独創性”についての


柴谷先生のお考えが興味を抱かせる。


好き嫌いはあろうし、異なる意見もおありとは


思いますが、柴谷先生のお考えは自分的には


端的にいうと、


”自分で考えて、自分で調べて、自分で判断して


自分で選択しろ、自分の人生なんだから”


って聞こえるのは自分の耳と頭が悪いからか。


なんだかジミ・ヘンドリックスがMCで言ってた


「魂を国に管理されてたまるか」ってのとか


ボブ・ディランとか、ジョン・レノンみたいだな


って思うところが浅学非才と恥入るばかり。


それにしても、池田清彦先生と似ているなあ


感性とか言葉とか問いとか、と


思ったりしたが多分逆または、


もともと、なのだろうと、類は友を呼ぶのかと


詮無いことを考えつつ、おとといからうって変わり


寒くなってきた雨の関東地方、休日のため


妻と買い物に行って参ります。


 


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