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②槌田敦先生の2冊から”エントロピー”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


脱原発の大義: 地域破壊の歴史に終止符を (農文協ブックレット 5)

脱原発の大義: 地域破壊の歴史に終止符を (農文協ブックレット 5)

  • 出版社/メーカー: 農山漁村文化協会
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本

2. 多数の農民は失業者になる

【強者のための経済学になり果てた現代経済学】


から


現代社会において、貧富の格差はますます拡大している。


現代経済学者は、その原因を検討することなく、無責任にも「政府はもっと支出と雇用を」(クルーグマン、朝日新聞12年3月9日)などと主張する。

どこから、その資金を捻出するというのか。

富者から税金を取れば良いが、富者は政治を支配しており、損になることをする訳がない。

しかし、富者から見ても、格差社会はトラブルが多く、放置すれば暴動に発展する。


そこでわずかに応ずるだけである。

これでは、格差社会は解決できない。


結局のところ日本のように消費税を値上げして、弱者から税金を搾り取り、弱者を苦しみ追い込むことになる。

同じ人間に生まれて、強者である富者の繁栄と弱者である貧困者の悲劇。

現在経済学は富者の利益だけに関心を示す学問に成り果ててしまった。


【失業と貧困の最大の原因は自由貿易】から


貧困の原因は失業である。

そして、貧困者には需要がなく、失業者は供給できない。

格差社会では多数の人々には需要も供給もなく、商取引から排除されている。

その一方、少数の富者(強者)が商取引を華々しく繰り広げている。

アダム・スミスのいう「神の見えざる手」は壊れている。


日本では、自由貿易は、農業を破壊することが最大の問題であると考えられている。

そして、農業ばかりか、その他の産業も破壊するという。

しかし、自由貿易にはもっと基本的な失業と貧困の問題がある。


はっきり言えば、自由貿易は、農業者を大量に失業させ、これらの人たちを貧困に追い込むのである。


3. 今、必要なのは弱者のための経済学


【エントロピー増大にもかかわらず、人間社会が維持される条件とは】


から


物理学のエントロピー増大の法則により、人間社会の活動は資源を消費し、廃物を発生する。

この人間活動を続けると、環境にある資源は枯渇し、環境は廃物だらけになるはずである。

ところが、現実には資源は枯渇しないし、廃物はいつの間にか消えている。

つまり、地球は人間社会に豊かな環境を提供しているのである。

これが、人間経済が持続できる第一条件である。


その理由は、化石燃料のように資源が豊富で、現在の消費程度では糖分枯渇しないことに支えられている。

これに加えて、環境に排出された廃物がふたたび資源に戻っていることも幸運である。

これは、宇宙に余分のエントロピーが捨てられて、環境に物質循環が存在するからであるが、その物質循環に人間社会も載っているのである。


これに対して、原子力の廃物、放射能を資源として、これをウランに戻す能力は自然にはなく、ここには物質循環は成立しない。


つまり、ウランはそもそも使用可能な資源ではない。

それを無視して原子力を利用した結果が、原子力の困難の原因なのである。


人間社会維持の第二条件は、環境から資源を取り入れ、廃物を自然に返すことが保証されていることである。

その作業は需要と供給という経済活動で支えられた物質循環がしている。

これを強調する学問がエントロピー経済学である。


需要と供給による社会の物質循環を維持することにより、人間社会の持続性は維持される。

これに注目しない「持続可能性」の主張はすべて誤りである。


【商取引の法則、需要と供給】から


では、どのようにして、需要と供給により社会の物質循環が成立するのか。

それは、全面的に古典経済学の正しさを認めることである。

需要者は商品を受け取り貨幣を支払う。

供給者はその逆をおこなう。

その商取引が貨幣循環を成立させる。

これが物質循環を支えている。

そして自然から資源を得て、自然に廃物を返している。


ここで、需要曲線と供給曲線の考えが導入される。

需要曲線とは、その金額ならば買っても良いという商品を価格が下がる順番で並べた曲線であり、供給曲線とは、その金額ならば売ってもよいという商品を価格が上がる順番で並べた曲線である。


その交点が取引価格となる。

この金額で取引すると、需要者は予定価格よりも安い価格で買うことができて得をし、同時に供給者は予定よりも高い金額で売ることができて得をし、両者共に利益が得られる、

この利益(余剰という)は新しい需要となるので、経済成長の原因となる。

これが、いわゆるアダム・スミスの神の見えざる手である。


エントロピー経済学は、このアダム・スミスの神の見えざる手に加えて、この商取引が社会の中の物質循環を保証していることを重視する。

ところが、現代経済学は、その条件を壊す「自由貿易」を掲げている。

これは人間社会を壊す悪魔である。

貿易では、真の自由貿易、買うの買わないの「自由」を尊重する必要がある。


国内政策では、働けるものに補助金を出してはいけない。

失業者には貸付金、就職したら返金(所得税に加算)させる。

働けない子供、病人、老人には税収により生活資金を支援する。

このようにして「アダム・スミスの神の見えざる手」は成立し、失業と貧困のない健全な社会にすることができる。


【残された問題】から


貧困者は生きるために自然を破壊する。

貧困は砂漠化への道である。

このようにして、貧困国では子孫の生活する場所はどんどん消えていく。

ここには売る商品はなく、買う資金もない。

そこで必要なのはこの半砂漠で貿易や援助なしに自給する技術である。


また、近い将来に予測される寒冷化(『新石油文明論』2002年参照)で、北方の農地は使えなくなる。

この人達は集団で移住を求めるであろう。


古典的な戦争の心配もある。

その場合を想定して、温暖化に住む人たちがどのようにして北方の人たちを受け入れるか、検討を始める時がきた。

CO2で温暖化するという騒動で浮かれていた時代はすでに終わったようだ。


すごい。


槌田先生の中では2012年時点


12年前にすでに脱炭素社会キャンペーンは


終わっているのか。


現実的には、いいのか悪いのか、はたまた


浮かれているのか、落ち着いているのかも


不明だけれども、脱炭素キャンペーンは


終わっていないし、さらにご指摘通りで


本当に悲しいが古典的な戦争を


中東ではしていて昨夜のニュースから。


 イラン、イスラエルへミサイル発射 


 「報復攻撃」実施と発表


それは置いておいていいのか不明ですが


一旦置かせていただき


”エントロピー”についての理解に補強として


他の書籍から一部引かせていただきます。



環境保護運動はどこが間違っているのか (TURTLE BOOKS 7)

環境保護運動はどこが間違っているのか (TURTLE BOOKS 7)

  • 作者: 槌田 敦
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 1992/06/01
  • メディア: 単行本


増補・地球温暖化は悪いことか


◉自然のサイクルとは


汚染とは、物理学のことばでいうと、エントロピーです。

地球は、このエントロピーを宇宙に捨てることのできる星です。

これによって、地球上にはいろいろな活動が存在できるのです。

地球に存在する最も大切な活動は、大気の循環です。

つまり風が吹くことです。

この循環により、大気上空で放熱して、宇宙に熱エントロピーを捨てています。

水が蒸発して雨が降るという水の循環も大切な活動です。

この二つの循環活動があるので、地球表面は熱の汚染から免れ、快適な気候が保証されています。


しかし、これだけでは、もうひとつの物の汚染が溜まってしまいます

これは、生態系での養分の循環が解決しています。

土から養分を得て植物が育ちます

これを動物が食べ、植物と動物の死骸は微生物が分解して土に養分を戻すという養分の循環です。


この養分の循環で生態系は元に戻ったのですから物エントロピーは増えていないはずなのですが、その代わり発熱して熱エントロピーになっています。

植物から堆肥をつくるとき、発熱していることからこれを知ることができます。


生態系の循環は物汚染を処理して、熱汚染に変えているのです。

この熱汚染も大気と水の循環によって宇宙に捨てているので、地球上は物汚染も熱汚染も免れることができるのです。


ところで、この養分とは、リンや窒素などの肥料のことですが、水に溶けて下方へ流れ落ちてしまう性質があります。

それを解決しているのは鳥などの動物です。

海や平地で餌を得て、これを高地に運び上げ、そこで糞をして養分を供給しています。

これが地球規模の養分の大循環です。

これにより海洋だけでなく山地を含む陸地にも生態系が存在できるのです。


これらの四つの循環が自然のサイクルと呼ばれるものです。

これらの循環の中に人間の廃棄物を繰り返す限り、汚染問題が発生することはないのです。

しかし、この自然のサイクルの能力を超えて人間社会が廃棄物を発生させると、その汚染は宇宙に捨てることができず、地球上に留まることになります。

これが汚染問題なのです。


自然の循環が大切な営みであり、


自然が人間生活に欠かせないもの、


それ以上でも以下でもない。


それを崩すことは、暗い未来しか


見えてこない。


にもかかわらず、世界や近代文明で


ただいま現在行われていることは


一体何であろうかという疑問。


心配だらけだけれども、日常生活は


キープできるよう個々で頑張って


いかなければと気を引き締めさせて


いただき、仕事や読書を続けて参ります


所存でございます。明日も夜勤なので。


 


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①槌田敦先生の論考から”違和感”と”現実”を体感 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


脱原発の大義: 地域破壊の歴史に終止符を (農文協ブックレット 5)

脱原発の大義: 地域破壊の歴史に終止符を (農文協ブックレット 5)

  • 出版社/メーカー: 農山漁村文化協会
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本

現代の暴力装置=原発と自由貿易に騙されないために

弱者の視点・エントロピー経済学で考える


元理化学研究所研究員 前名城大学経済学部教授


槌田敦


から抜粋


強者(富者)は、安い電力を口実にして原発を建設し、経済発展を口実にして自由貿易を押し付け、強者の利益をさらに拡大しようとしている。

そして現代経済学は、この強者の欲望を支える道具となっている。


この強者のための現代経済学をふたたび、アダム・スミスの経済学に戻し、福祉のための学問、つまり弱者のためのエントロピー経済学を構築する。

そのため、まず、原発と自由貿易という現在の暴力装置のウソを暴き出すことから始める。


1.これは「事故」を超えて「事件」である


【福島原発事故は、これまでの原発事故と本質的に異なる】


から抜粋


スリーマイル島原発事故(1979年)の原因は、「逃し弁開閉の誤信号」だった。

弁が開いているのに、閉じていると表示され、原子炉の冷却水が流出していることに運転員は気づかなかったのである。


チェルノブイリ原発事故(1968年)は、「制御棒の設計ミス」だった。

原子炉を緊急停止しようとして緊急制御防を入れたら、かえって核反応が進み、核爆発となってしまったのである。


今回の福島事故は、このような単純なミスで起こったのではない

事故の原因は東電による安全対策の手抜きだった。


【大災害となった福島原発事故】


から


この福島事故で、東京電力は大量の放射能を環境にばらまき、強制避難で45人(NHKによれば68人という)を死なせ、数人を自殺させ、福島県民の心身を傷害した。


それだけではなく、BEIRーVII報告(アメリカ科学アカデミー2005年6月29日)によれば、100人が生涯において平均して100ミリシーベルト被曝すると1人はがんになり、またその半分はがん死する。

したがって、生涯被曝が50ミリシーベルト増と予想される福島県民200万人の場合、今回の事故によって1万人はがんになり、その半分5000人はがん死させられることになる。


【今後も安全費用の節約による原発事故継続の心配】


から抜粋


原発では事故があるたびに安全費用の追加が繰り返され、原発の単価はますます高くなっている。

その原因は、放射能という毒物が科学技術では消滅できないからである。

そこで、この放射能毒物の閉じ込めだけで対策することになる。


しかし、放射能はこの閉じ込めもすり抜けて、漏れ出してしまう

そこでまた別の閉じ込め作業の追加が必要となる。

これの繰り返しで、原発の費用は増えていく。

これが、原発の費用が火力の費用よりも高くなる理由である。


放射能は、もはや科学技術の手に負えないことを認めなければならない

原発で儲けようとして裏目に出て、損ばかり増えることになった。

経済学は、この原発の現状を認め、対策不可能な放射能を生み出す原発を廃止する側に立たなければならない。


ところが、それを許さない勢力が存在する。


原発でメシを食っている人たちである。


この人たちは直接電力会社に雇われている訳ではない。

下請けの下請けの…という形になっていて、多くの企業が原発にたかっている。

この連中が、原発停止では職を失うと騒いでいて、これだけの被害があったのに、一部の町長や町会議員に原発再開を言わせているのである


【事故原発の現状説明もウソだらけ】


から抜粋


ところで、この東電は、安全対策の手抜きをごまかすために、原子力・保安院とともに話題をすり替えてきた。

たとえば「炉心溶融」がそれで、マスコミはまんまとひっかかった。

炉心溶融(メルトダウン)とは、融点2800℃の酸化ウラン燃料が溶融することを言う。


スリーマイル島原発のように、完全な空焚きになればそのような事態になるが、福島事故では、原子炉の底には水があり、燃料を支えている構造材の鉄(融点1500℃程度)が溶けて、燃料と共に水中に崩れ落ちて冷えたと考えられる。

構造材の融解はウラン燃料そのものの溶融ではないから炉心溶融ではない。


それから、4つの原子炉建屋ですべて水素爆発したことになっている。

しかし、水素爆発は1号機だけで、2号機は爆発そのものがなかった。

3号機では1986年のチェルノブイリ型爆発である。

水素爆発では黒い煙にはならないし、プルトニウム241(半減期13年)が環境に飛び散ることもない。

4号機は蓋の開いた原子炉から水蒸気が激しく噴き上げ、それが8月になっても続いていたから、1999年のJCOの臨界事故と同様の核暴走があったと考えられる。

この原子炉には燃料が入っていないとされているが、ウソらしい。


【放射性廃棄物はどのようにするのか】


から抜粋


原発推進の経済学者たちは、放射性廃棄物の問題に口を閉ざしてきた。

それにもかかわらず、彼らは、今でも、原発で電気を得て、経済成長しようと叫んでいる。

私は、放射性廃棄物の問題について、子孫に対する4つの犯罪を整理した。


①処理・処分の困難な毒物を製造する行為、

②毒物を取り扱い困難にする行為、

③人間集団の遺伝情報を狂わせる行為、

④子孫に毒物管理を強制する行為

(『エネルギーと環境 原発安楽死のすすめ』1993年、183ページ)。

けれども、原発推進の経済学者たちを反省させるには、私の力は足りなかった。


槌田先生の指摘が正しいとすると


今まで大手既成メディアで


報道されていることとは


違和感があるなあ、という実感。


福島原発事故以前から、槌田先生は警鐘が


無視され続けている現状。


権力は自分たちでは手を下さずに


自粛警察と化している人々が動いている


いびつな構造。


なんかテーマが同じだからか


池田清彦先生に似てきてしまったな。


(どこがだよ!)


何を支持するのが良いのか、は


自分で調べてより正確な”知識”に裏付けされた


”考え”なのだろうと思った久々の日曜早朝読書


梅茶をすすりながらそろそろ朝食をとり


風呂とトイレ掃除しないと。


先週サボっておりますから。


 


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2冊から原発の是非を問うてみる [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]


環境保護運動はどこが間違っているのか (TURTLE BOOKS 7)

環境保護運動はどこが間違っているのか (TURTLE BOOKS 7)

  • 作者: 槌田 敦
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 1992/06/01
  • メディア: 単行本

あとがき 1992年5月 から抜粋


この世の中はまったく嘘だらけである。


私もできることなら「嘘だ、嘘だ」などとは言いたくはない。

だが、嘘と知ってしまったら黙っていられない性分だからしかたがない。


かつて、ナチの宣伝相だったゲッペルスが「嘘を100回繰り返すと真実になる」と言ったとか聞いた。

この話が本当かどうかは知らないが、騙しに乗せて動かす政治の世界をよく表している。

しかし、この表現はすこし違うような気もする。

そこで、もう少し正確に表現すると、「100人の人が同じことを言うと嘘も真実になる」とすればいい。

本当に嘘をついているのは1人でいい。残り99人がその1人の言う嘘に騙され合唱すれば、それが真実になるのである。


取るに足らない嘘なら、騙されるのは馬鹿だと言ってすますこともできる。

しかし、戦争問題、エネルギー問題、環境問題などで、政府の騙され大衆が合唱すると、とんでもないところに連れていかれる。


現段階での嘘の筆頭は原子力である。

約40年前のアイゼンハワー大統領の「平和のための原子力」は実は「軍事利用を維持するための平和利用」であった。

日本の原発関係者はこのことをよく知りながら「日本は被爆国、だからこそ平和利用」と我々の親たちを騙し、また「地球寒冷化」と「石油30年枯渇」で脅かして、「原子力しかない」と大合唱させ、原発を建設したのであった。


最近は、「原発は地球温暖化を救う」との大合唱が演出されている。

これによって、青森六ヶ所村にウラン濃縮工場と再処理工場という軍事施設が建設されている。

また、福井県敦賀に建設された高速増殖炉は高性能原爆用の高純度プルトニウムの製造を目的にしている。


最近は、これらが軍事工場であることを隠すために、科学技術庁はウランとプルトニウムについて一切を秘密にする方針を指示した。

以前から、日本も原爆を持つべきだと主張する人々がいたが、とうとう日本政府も原爆製造を決意したと理解される。

とくに、六ヶ所村に建設されるプルトニウム貯蔵所で何がされても、この科学庁指示で外からは何もわからないことになる。

日本版『アルザマス16』(旧ソ連核兵器製造所)への道がここに始まったと思われる。

さらに自衛隊とこのプルトニウムとの結合が、まず海外からの輸送の護衛という名目で始まろうとしている。


政治権力の思うままに引き回されると、自分だけでなく子孫までも不幸にする。

そのようなことのないようにするには、政府の言う嘘に合唱してはいけない。


槌田先生は柴谷篤弘先生との対談で


興味が湧きこの書を拝読。


この約20年後、東日本大震災での原発事故は


言うに及ばずでございますが


その論考はまた改めるとして、脱原発の


反対側の意見として考えるとすると


吉本隆明先生が真っ先に浮かぶのだけど、


不遜ながらブックオフに売ってしまったため、


かつ詳細は忘れてしまったのでございまして


その前にこの本を昨日読んでたら


興味深いというか、そうなるのか、と


思ったのがあったので引かせてください。



コロナ後の世界 (文春新書 1271)

コロナ後の世界 (文春新書 1271)

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2020/07/20
  • メディア: 新書

第4章 認知バイアスが感染症対策を遅らせた

スティーブン・ピンカー


AIへの不合理な恐怖から抜粋


新しいエネルギーについては、原発も選択肢の一つです。

原発はみなさんが考えるより安全なエネルギーです。

原発ができてから約60年で、死者は1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故での31人だけです。

2011年のフクシマでは原発事故による直接の死者は出ていません


一方、火力発電による大気汚染や、化石燃料の採掘、輸送中の事故で多くの人が死亡しています。

発電1キロワット時あたりの死者数は、原子力を1とすると、石油は243、石炭は387にもなります。

原発についての報道方法が、我々を根拠のない恐怖に陥れているのです。

次世代の原子炉はモジュラー式で小型ですし、冷却システムも改善されて安全です。

AIに対する恐怖も、不合理です。


この後のAIに対する論考になりまして


それはそれで興味深く、巷に流布される


AIにまつわる恐怖や不安については


落ち着いてよく考えれば払拭される的な


いたって至極冷静なものですが、そちらは


一旦割愛し原発についてだけフォーカス。


”フクシマ”の原発事故を


”直接の死者が出ていない”とされているが


それで本当に良いのだろうかという疑問。


チェルノブイリの事故も死者31人だけ、


という認識でそれも本当に良いのだろうか。


それこそ、認知バイアスなのではないか?


って”認知バイアス”のなんたるかを知らないので


ピンカー先生に何もいう資格はないのだけど


ここでまた与えられた新たな研究材料に


悶え苦しみつつ、原発論とは異とする


大量の未読の書たちへの詫び状を


心で作成しつつ夜勤明けでの


朦朧としてきた思考能力であるため


このテーマは改めたいと存じます。


どもすみません。


 


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3冊からやんわりハラリ氏の肩を持ってみる [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

『サピエンス全史』をどう読むか


『サピエンス全史』をどう読むか

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2017/11/27
  • メディア: 単行本

スーパーヒューマン

柴田裕之


から


力強い声だった。

インタビューに答える著者の声は、自信に満ち、力強かった。


昨年(2016年)9月下旬、『サピエンス全史』の日本語版刊行に合わせて、版元の河出書房新社の招待で来日した著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、4日にわたって各種メディアの取材を受けた。


初日の朝、ホテルのロビーで待ち受ける私たちの前に姿を現したハラリ氏は、物静かな方だった。


ところが、上階の取材会場に移ってインタビューが始まったときに私の耳に飛び込んできたのが、冒頭に書いたあの声、華奢な体のどこから出てくるのかと思うほどの声だった。

頭が切れる人であることは一目瞭然で、さまざまな問いに、澱みなく的確に応じていく。


核心を衝く質問に対しては、熱弁を振るうこともあるが、けっして興奮するわけではなく、あくまで冷静で、ときどき喉を潤すために口に運ぶグラスは、毎回丁寧に、きちんとコースターの中央に戻す。

理路整然と語るけれど、無機乾燥ではなく、ユーモアを交え、わたしたちにもわかりやすい日本の例を引く。


圧巻はやはり最終日、午後遅くのNHKでのスタジオ収録だろう。

『サピエンス全史』を特集する「クローズアップ現代+」(2017年1月4日放送)のためのもので、インタビュアーは池上彰氏。


このインタビューのうち、実際に放映されたのは正味4分にも満たなかったが、じつは収録は予定の1時間を大幅に超えて続いた。


途中で英日担当の同時通訳者がギブアップし(同時通訳は15分ぐらいで交代するのが標準らしい)、休憩後、収録再開となった。


これがまた見事だった。

ハラリ氏も池上氏も、中断前の雰囲気や勢いをそのままに、全く途切れを気取らせない形でインタビューを続けた。


収録を終えたハラリ氏は、疲れも見せず、


新宿の紀伊国屋書店本店に直行し、


『サピエンス全史』にサインした。


その後、ようやく遅い夕食となった。

場所は近くのベジタリアンの店。

そう、ハラリ氏は原則としてヴィーガン(肉や魚ばかりでなく、卵やチーズ、牛乳などもとらない人)なのだ。

しかも、瞑想を日課としている。

インタビューの合間にも、ホテルの部屋に戻ってしばし瞑想をしていた。


『サピエンス全史』をお読みになった方は、ハラリ氏と仏教の近しさを感じ取られたかもしれないが、それはこうした背景があるからだろう。

ただし、ヴィーガンであるのは宗教的理由からではない


私たちが人間以外に生き物を物扱いにしていることに気づき、それに与(くみ)したくないと考えたからだ。

だから、単に殺生を嫌うのではなく、動物の扱いに問題があると思われるのであれば、食肉産業ばかりか酪農の産物も口にしたくないという。

他人にも菜食を勧めるが、できるかぎりでかまわない、間違っても菜食を宗教に変えて狂信してはならないと説く。

イデオロギーの孕(はら)む危険を知り尽くした、いかにもハラリ氏らしい発想が生まれ、『サピエンス全史』でも幸福を大切な軸としたのだろう

しかも人間だけではなく動物までも対象にして。


ところで『サピエンス全史』を読んでいると、大きくかけ離れたものを結びつけ、話に織り込むのが実に巧みなことに感心する。


こうした形で結びつきを提示するのは、遊び心もあるのかもしれないが、言わんとすることを読者にどう伝えるかにいかに腐心しているかの表れでもある。


さらに、物語(ストーリー)として語るということをとても重視している。


ではなぜそこまで心を砕くのか?

それは一つには、伝えるのが科学者の使命であるという信念を持っているからだ。

それも難解な文章や専門用語だらけの文章で学者仲間だけに伝えるのではなく、広く世間に伝えることが大切なのだ。

そしてまた、なるべく多くの人が歴史に関心を持って欲しいと望んでいるからでもある。

なぜなら、現代にとって歴史は重要だからだ。

読者にも新しい目で世界を見てほしい、先入観を打破してほしい、問いを発し、何が虚構で何が現実かを考えてほしい、人間は過去に支配されているがそれに気づいていないから歴史を学んで自己を解放してほしいーーーそれが、「現実をあるがままに見て、知る」のがモットーであるハラリ氏の願いなのだった。

そしてそれが、現代の問題の解決策へとつながるというわけだ。


それにしても『サピエンス全史』は大部の書物だ。

なぜ現生人類にまつわるこれほどスケールの大きい物語を描いたのか?

それは、母国イスラエルの大学で教壇に立つうちに、教育がグローバル史を教えていないことに気づいたからだそうだ。

歴史の大問題にはマクロの視点に立たなければ答えられない。

グローバルな現代世界が抱える問題に取り組むには、大局的な見方をすること、いわゆるビッグピクチャーを捉えることがぜひとも必要だから、というのがハラリ氏の答えだった。


同行していたハラリ氏のマネージャーのヤハブ氏との話が、たまたま本のこの部分に及んだ。

生物工学やサイボーグ工学の力を借りて永遠の命を得たいですか、と私が水を向けると、いっぺんに非死(アモータル)の超人になるというのは自分には想像がつきづらいから、少しずつ、たとえば30年寿命を延ばして、それからまた30年という具合ならいいかもしれない、という趣旨の答えをいただいた。


ハラリ氏はどう考えていらっしゃるのでしょうね、と問うと、

「He’s already superhuman.(彼は、もうすでにスーパーヒューマンだから)」とのこと。

まさに膝を打つ思いだった。


かなりストイックな生活をされていそうなのは


風貌や喋り方を見ても感じ取れますが


身近でご覧になった柴田先生の印象もそのようで


得心(とくしん)いたしました。


Book Guide

『サピエンス全史』を楽しむためのブックガイド





身ぶりと言葉 (ちくま学芸文庫 ル 6-1)

身ぶりと言葉 (ちくま学芸文庫 ル 6-1)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: 文庫



ビッグヒストリー入門-科学の力で読み解く世界史-

ビッグヒストリー入門-科学の力で読み解く世界史-

  • 出版社/メーカー: WAVE出版
  • 発売日: 2015/10/09
  • メディア: 単行本


負債論 貨幣と暴力の5000年

負債論 貨幣と暴力の5000年

  • 出版社/メーカー: 以文社
  • 発売日: 2016/11/22
  • メディア: 単行本



人類がたどってきた道 “文化の多様化

人類がたどってきた道 “文化の多様化"の起源を探る (NHKブックス)

  • 作者: 海部 陽介
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2005/04/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



暴力はどこからきたか 人間性の起源を探る (NHKブックス)

暴力はどこからきたか 人間性の起源を探る (NHKブックス)

  • 作者: 山極 寿一
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2007/12/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2015/01/28
  • メディア: 単行本



人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫)

  • 作者: 西田 正規
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/03/09
  • メディア: 文庫



森は考える――人間的なるものを超えた人類学

森は考える――人間的なるものを超えた人類学

  • 出版社/メーカー: 亜紀書房
  • 発売日: 2016/01/07
  • メディア: 単行本



カイエ・ソバージュ

カイエ・ソバージュ

  • 作者: 中沢 新一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/03/06
  • メディア: 単行本


「人類の思考能力とそれが生み出してきた宗教と経済や哲学などとの内在的な関係を探る」講義の記録である本書は、『サピエンス全史』に比肩(ひけん)しうる長大な射程で書かれた著者の思考の集大成的な意義をもつ巨編です。



猿と女とサイボーグ ―自然の再発明―新装版

猿と女とサイボーグ ―自然の再発明―新装版

  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2017/05/25
  • メディア: 単行本



ダーウィンの遺産――進化学者の系譜 (岩波現代全書)

ダーウィンの遺産――進化学者の系譜 (岩波現代全書)

  • 作者: 渡辺 政隆
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/11/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

  • 作者: 吉川 浩満
  • 出版社/メーカー: 朝日出版社
  • 発売日: 2014/10/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



生物圏の形而上学 ―宇宙・ヒト・微生物―

生物圏の形而上学 ―宇宙・ヒト・微生物―

  • 作者: 長沼毅
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2017/05/25
  • メディア: 単行本



動物のいのち

動物のいのち

  • 出版社/メーカー: 大月書店
  • 発売日: 2003/11/01
  • メディア: 単行本



動物的/人間的 1.社会の起原 (現代社会学ライブラリー1)

動物的/人間的 1.社会の起原 (現代社会学ライブラリー1)

  • 作者: 大澤 真幸
  • 出版社/メーカー: 弘文堂
  • 発売日: 2012/07/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



新版 動的平衡ダイアローグ: 9人の先駆者と織りなす「知の対話集」 (小学館新書 468)

新版 動的平衡ダイアローグ: 9人の先駆者と織りなす「知の対話集」 (小学館新書 468)

  • 作者: 福岡 伸一
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2024/04/01
  • メディア: 新書


歴史を変えた気候大変動 (河出文庫 フ 8-2)

歴史を変えた気候大変動 (河出文庫 フ 8-2)

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2009/02/04
  • メディア: 文庫

歴史の研究 1

歴史の研究 1

  • 出版社/メーカー: 社会思想社
  • 発売日: 1975/11/01
  • メディア: 単行本


今はあまり振り返られることがなくなりましたが、世界史を文明の発生と解体という巨視的な視野で書いた歴史書はトインビーにはじまります。


世界史の中に宗教を積極的に位置付けて鈴木大拙にも強く支持されました。

『サピエンス全史』の遠い先達として読み返してみたい一冊です。



現象としての人間【新版】 新装版

現象としての人間【新版】 新装版

  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2019/02/26
  • メディア: 単行本



スラムの惑星―都市貧困のグローバル化―

スラムの惑星―都市貧困のグローバル化―

  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2010/05/20
  • メディア: 単行本



人工知能と経済の未来 (文春新書)

人工知能と経済の未来 (文春新書)

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2016/07/19
  • メディア: 新書


『サピエンス全史』は人類の終焉の後に新たな種「ホモデウス」が出現することを予言しています。

その未来の象徴が人工知能であることは言うまでもありません。

では人工知能は私たちにいかなる社会をもたらすのでしょうか。

これに答えた多くの本の中でも本書が出色です。


ハラリ氏の聡明な言説に打たれた後に


反対側の意見も気になるところ。


真実やいか、を思わずにはいられない。



国難のインテリジェンス (新潮新書)

国難のインテリジェンス (新潮新書)

  • 作者: 佐藤 優
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2023/04/17
  • メディア: 新書


はじめに から抜粋


年一度、全世界から政治エリート、経済エリートが集まる世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で、2018年と20年に基調講演をつとめたのがイスラエルの歴史学者で未来学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏(1976年生まれ)だった。


ハラリ氏は、人類は飢餓と疫病と戦争をほぼ克服することに成功したと宣言した。

そして近未来に生命科学とAI(人工知能)を運用した紙のような人間「ホモ・デウス」が出現すると予測した。


しかし、ハラリ氏の前提は、過去3年でことごとく覆された

20年春からパンデミックとなった新型コロナウイルス感染症(COVID−9)で人類が感染症をほぼ克服したという前提が崩れた。


22年2月24日にロシアがウクライナに侵攻した。


ウクライナ戦争は事実上、ロシアVS.(ウクライナを支持する)西側連合(その中には日本も含まれる)の本格的な戦争になった。


ハラリ氏に代わって「第三次世界大戦はすでに始まっている」と主張するフランスの人口学者で歴史学者のエマニュエル・ドット氏(1951年生まれ)の方が説得力があると現在では受け止められている。


そのため中東やアフリカでは飢餓が深刻さを増している。

人類は飢餓をほとんど克服したというハラリ氏の前提も成り立たなくなった。


世界は再び激動の時代に入った


佐藤先生の言い分もわかるし、この書の


佐藤先生方のの対談のどれもシャープな分析で


さすがと言わざるを得ませんが


ハラリ氏をちとフォローしたくなるのは


ハラリ氏がダボス会議で言った”戦争”とは


”国家間の戦争”という意味だったのでは


ないでしょうか、と言う疑問は拭えない。


そもそもダボス会議での講演を聞いてないので


どのような力の入れ方で物申されたか不明ですが


文字だけで見ると、確かに”感染症”も”飢饉”も


前提が崩れているのは否めない。


佐藤先生も実はそんなことは調子しているのだよ


単純に”国家間の戦争”ではないことくらい


想定しておられると思うが、仮にハラリ氏の


講演内容が勇足だったとしても、


ハラリ氏の言説の本質は大きく崩れないのでは


ないかなあ、特にホモ・デウスの出現は、などと


『サピエンス全史』も『ホモ・デウス』も未読の


自分が論考深めても、全く説得力のない


夜勤前のバスで読んだ本でございましたことを


唐突に付記させていただきます。


唐突の付記つながりで、最後にもう一冊


引かせていただきたく存じます。



コロナ後の世界を語る 現代の知性たちの視線 (朝日新書)

コロナ後の世界を語る 現代の知性たちの視線 (朝日新書)

  • 作者: 養老孟司 他
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2020/08/11
  • メディア: 新書


ユヴァル・ノア・ハラリ


脅威に勝つのは独裁か民主主義か分岐点に立つ世界


から抜粋


我々にとって最大の敵はウイルスではない

敵は心の中にある悪魔です。

憎しみ、強欲さ、無知

この悪魔に心を乗っ取られると、人々は互いに憎み合い、感染をめぐって外国人や少数者を非難し始める。

これを機に金儲けを狙うビジネスがはびこり、無知によってばかげた陰謀論を信じるようになる。

これらが最大の敵です。


我々はそれを防ぐことができます

この危機のさなか、憎しみより連帯を示すのです。

強欲に金儲けをするのではなく、寛大に人を助ける。

陰謀論を信じ込むのではなく、科学や責任あるメディアへの信頼を高める

それが実現できれば、危機を乗り越えられるだけでなく、その後の世界をより良いものにすることができるでしょう。

我々はいま、その分岐点に立っているのです。

(2020年4月15日)


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3冊から新井紀子先生の言説を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

AIの壁 人間の知性を問いなおす (PHP新書)


AIの壁 人間の知性を問いなおす (PHP新書)

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2020/09/29
  • メディア: Kindle版

第4章 わからないことを面白がれるのが人間の脳

統計の嘘とAIの限界


から抜粋


養老▼

同じようなことは、実は医療の世界では、ずっと昔からあります。

統計の話です。

小咄(こばなし)まであります。

難病にかかった患者に医者がいうんです。

「この病気は致死率は99%です。100人いたら99人は死にます」ってね。

患者は真っ青です。

そこで、医者は「でも、あなたは助かります」と言ってニコリとします。

「どうしてですか?」

「私がこの病気を治療した患者さんはこれまで99人いました。その全員が亡くなりました。100人のうち1人は助かります。それがあなたです」。


新井▼

AIの一番の問題はすべてデータに基づいて予想したり判断したりしていることです。

しかもそれを積み重ねていきます。

データというのはすべて過去のことです。

今いる人間についてのことを過去のデータで判断するってことは、昔も今も人間は変わらない。

時間の経過があっても人間は変わらないという前提がないと無理なんです。

でも、そんなことありませんよね。


人間や社会は変わるものなのに、世の中は変わらないという前提で統計というものが幅を利かせていて、それがAIが学習するデータになっているんです。

その上、ブラックボックス化しています。

ある統計を前提として統計を取って、それをまた前提として統計をとるみたいなことが起こって積み重なっているんです。


AIの仕組みも積み重ねですから、第一段階のAIがあって、その判断を前提としたAIが動いて、それを前提としたAIがまた動く。

そんなのが三つぐらい繋がったらもうメチャクチャです。

そういう脆弱な統計を拠り所にして問題が解決できると考えていること自体が、リテラシーが非常に低いということですね。

先生がおっしゃる「バカの壁」です。


先ほど、アメリカでAIを犯罪捜査や裁判で使っているという話をしましたけど、アメリカという国は、どうしてそうなってしまうんでしょうか。


養老▼

それぞれの社会は履歴を持っていますね。

歴史です。

その中で、暗黙の裡(うち)にほどほどに落とし所を見つけるのが伝統的な社会だと思います。

アメリカはその点ちょっと若い社会で、やることが乱暴ですね。

それを伝統的な社会の日本が手本にしているという変なことになっていますね。


新井▼

日本は、どうしてそれを手本にするんでしょうか。


養老▼

一つは敗戦でしょうね。

それからもう一つは、アメリカ流のいいところもあって、新しいものがどんどん出てくる。

AIもそうですよね。


新井▼

この間、とっても面白いビデオを観ました。

アレクサというAIスピーカーは、「電気をつけて」とか、「新井さんに明日の待ち合わせを8時に変更してくださいとメールしておいて」とか話しかけるとやっておいてくれる。

そしたら、オウムを飼っている家の様子を撮影したビデオがあって、オウムが人間の真似をして「アレクサ、電気消して」というんですよ。

すると、電気が消えるんです。

可笑しいですね。

そのうち、オウムの命令で勝手にメールが送られたりするんですよ、きっと。


あんないい加減なものを、製造者責任も考えずに社会に出してしまうところが、アメリカの底抜けなところだなとは思います。

それが新しいことをどんどんやるスピリットなんでしょうね。

自由競争を大切にしたいから、格差があっても仕方ない。

自己責任だから、保険がなくて道端で死ぬ人がいてもいいって。


日本は「お互いさま」の国だったりもしますよね。

キリスト教の国のように教会の活動に組み込まれたチャリティとかボランティアはありませんけれど、袖擦り合うも他生の縁とか、情けは人の為にならずとか、そんな「お互い様精神」のようなことでなんとなくやってきたところがあると思うんです。

でも、なんとなくやってきたことは、壊れ始めたらすぐになくなっちゃったという気もしています。

私の受けている印象では、今まさにそういう感じです。


日本のただ今現在をかなり悲観的な印象を


お持ちの新井先生。


この対談では、養老先生と近しい感性で


お話しされていると感じた。


アレクサに関しては、自分も使っているから


ちょっと異なることを思うのだけど


どこまで依存するかによるのかな、と。


自分たちにとって良いところを活用すれば良い、


って思うがその”良い”っていうのが


養老先生流にいう”ものさし”とか”前提”とかにおよび


面倒くさい流れになるので定義できませんけれども。


自分が気になるのは多くの人もそうだと思うけれど、


働き方が今後AIが進んでことによって、


どのように変わっていくかってことだったりする。



国難のインテリジェンス (新潮新書)

国難のインテリジェンス (新潮新書)

  • 作者: 佐藤 優
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2023/04/17
  • メディア: 新書

新井紀子

DXで仕事がなくある時代をいかに生き抜くか


から抜粋


佐藤▼

新井先生の『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』は、すっかり古典としての地位を確立しましたね。

計算機の延長に過ぎないAIが人智を超えないことや、その技術によって生まれたロボット「東ロボくん」が東大に合格できないことは、広く共有されるに至ったと思います。


新井▼

2015〜16年に見られたAIへの過剰な期待は、いまや「がっかり感」に変わっているように見えますね。


佐藤▼

シンギュラリティ(AIが人類を越える技術的特異点)は来ない。

ただ問題はそこにあるのではなく、AI技術の進展で仕事が消えていく一方、AIでは替えの利かない「読解力」が日本人全体で落ちてきていることですね。

その問題を新井先生は最近、「新文書主義」という言葉で説明されています。


新井▼

はい。

21世紀はテクノロジーの世紀であるとともに、新文書主義の時代です。

対面でのコミュニケーションよりもメールやマニュアルなど、文書によるやりとりの比率がどんどん上がっている。

しかも高度な内容を読み解かなくてはいけませんし、そこでミスをすると大きな損害になったりします。


佐藤▼

新型コロナの感染拡大で定着したテレワークが、それに拍車をかけている。


新井▼

何でも一人で読んで理解しなくてはならなくなりましたね。

テレワークだと、もう隣にいる先輩に「これ、どうするんですか?」とは聞けない。

自分一人で理解できますよね、自力で読めて当然ですよね、という前提で、仕事が行われるようになります。


佐藤▼

芥川賞作家の藤原智美氏も読解力の低下を危惧しています。

『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』というエッセイ集で、いまのSNSなどでやりとりされているのは、書き言葉でなく話し言葉で、このため日本人の読解力が急速に落ちていると指摘しています。


資本主義と民主主義とDX から抜粋


佐藤▼

これからの社会がDXによって大きく変わっていくと、当然、制度も大きく影響を受けますね。


新井▼

そこが佐藤さんと話したかったことです。

今の資本主義と民主主義がどんな影響を受けるかは、佐藤さんとじゃないと話ができない


政治形態が変わる時は、最初に新しいテクノロジーが興り、それによって富の配分や必要とされる職種に無理が生じて、革命や体制の変化が起きます。

民主主義もルソーが一所懸命に言ったから生まれたのではなく、先に蒸気機関車のようなテクノロジーが生まれ、産業が機械化されて工業が興り、資本主義が生まれたから、民主主義ができてきた。

それは工業が都市労働者を必要としたからです。


佐藤▼

それまでになかった職業です。


新井▼

都市労働者に機嫌よく働いてもらうには、ある程度、生活を豊かにしたり、自由を担保しなくてはならなかった。

また仕事に必要な学問を身につけた方がいいという資本主義の都合から、教育を充実させたり、子どもは働かせないで学校に通わせたりするようになった。

奴隷解放も労働者の待遇改善も、女性の社会進出も同じ流れです。


佐藤▼

つまりそれらはすべて資本主義の要請で、資本主義が発展するために必要なことだったわけですね。


新井▼

だから民主主義は、明らかに資本主義のおかげで生まれたのです。

そしてその資本主義が生まれたのは、19世紀テクノロジーのおかげです。


佐藤▼

今はAIなどのテクノロジーで、それ以上の変化が訪れようとしている。


新井▼

恐ろしいことに、DXによって起きるのは、人を不要とするタイプの変化です。

労働者がいらなくなる。

もっともシンギュラリティは来ないので、全部いらないということはなく、非常に高い能力を持つ人が少数必要な世界になっていきます。


佐藤▼

そうなると、会社の在り方だけでなく、雇用や労働者の意味が変わってくる。


新井▼

アダム・スミスは、資本主義が労働者を必要とするという前提で『国富論』を書き、現在の経済学もその流れの中にあります。

労働者がいらなくなることを想定していない。

そこにはさらに落とし穴があって、「神の見えざる手」以降の経済学は、完全競争によって「一物一価」に近づくことをよしとしたわけですね。

誰かが起業したり資本家が投資したりすると、最初は他に競争相手がいないから価格が不当に高くなりますが、それが完全競争によって一物一価になる。


佐藤▼

同一市場の同一時点における同一の商品は同一価格になる、という考え方ですね。


新井▼

それがどうして起きるのかといえば、情報の非対称性が解消されていくことによって起きるわけです。


一昔前は、商品について一般の人は知る方法がないから、近所の商店街の電器屋さんから商品を買っていたわけです。


佐藤▼

自分で調べ尽くすには、コストと時間とエネルギーがかかりすぎる。

だから電器屋さんへの「信頼」でことをすました方が良かった。


新井▼

そのコストがインターネットによってゼロになってしまった。

情報の非対称性が解消されて完全競争になるのが速すぎるんです。

そうなると、何かに投資しても、その投資を回収する前に一物一価になってしまい、利益が出ません。


佐藤▼

今のお年寄りがいなくなったら、街の電器店はなくなってしまうでしょうね。


新井▼

こうした変化の中で企業が何をするかといえば、やっぱりDXです。

DXで岩盤コストである人件費を究極まで削る方向に向かう。

今の業務をただデジタル化するだけのデジタライゼーションでお茶を濁しているような余裕が企業からなくなり、本気でデジタライゼーションをして業態変化をし始める。

それに成功した会社だけが生き残り、失敗すれば市場から退場せざるを得なくなります。


佐藤▼

そこでは働けなくなる人がたくさん出てきますね。

こうした問題はマルクスからも読み解けます。

『資本論』にこうあります。

「あらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷属、堕落、搾取の大衆が増大する」。

スキルのある高度人材は資本に集まってきますが、それは一握りで、多くは無知で貧困状態で、人の言うがままに従う大衆となる。


ではどうすれば良いのか、までも


話し合われておられるがここでは問題提起


のみに留めさせて頂きたく


新井先生の主たる言説は一体なんなのか


気になったので深掘りしてみた。



AIに負けない子どもを育てる

AIに負けない子どもを育てる

  • 作者: 紀子, 新井
  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2019/09/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


はじめに から抜粋


前著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を出版してから1年半。

多くの方から「腑に落ちた」という感想をいただきました。

まずは、文筆業のをされている方たち。

「物を書いて世に問うのだから批判されるのは覚悟している。けれども、近年あまりに理不尽かつ不可解な非難が多くて議論にならない。よぼど善意があるのかと思っていたが、この本を読んで、『もしかするとそういう人たちは文章を読めていないのかもしれない』と思い始めた」というのです。


次は学校の先生たちです。

小学校では、「算数の文章題を解けない生徒の多くが、『(問題で)何を聞かれているかわかる?』と聞いても答えられない。図にすれば解けるのだろうけど、図にすることができない。だからドリルは満点でも、文章題の答案は真っ白のままという生徒は少なくない。

それを読解力と結びつけて考えたことがなかったが、この本を読んで『確かに読解力が足りないんだろう』と思った」と言います。


私たちが考案した基礎的・汎用的読解力を測るリーディングスキルテスト(RST)は、「同義文判定」という問題群があります。

200字に満たない2つの文の意味が同じか、異なるか、二択で選択します。

この能力は記述式問題の答え合わせをする上で欠かせない能力です。


たとえば、こんな問題です。


・幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。

・1638年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。

 

以上の2つは同じ意味でしょうか。


中学生の正答率は57%にとどまりました。


「事実について淡々と書かれた短文」を正確に読むことは、実はそう簡単なことではなく、それが読めるかどうかで人生が大きく左右されることを実感するでしょう。

基礎的・汎用的読解力を身につけて中学校、そして高校を卒業させることこそが、21世紀の公教育が果たすべき役割の「一丁目一番地」だと共感してくださる方が一人でも増えることを切に願っています。


おわりに から抜粋


さて、前著の印税により、一般社団法人「教育のための科学研究所」は第6章でご紹介した「視力検査」のような仕組みで、短時間に正確に読解能力値を測るRST有償版の開発に成功し、2018年からRSTを広く提供できるようになりました。

この本の印税で次に「教育のための科学研究所」が何をしたいか。

それは、日本全国の幼稚園・保育園・小学校・高等学校のホームページを無償で提供することです。


私は、2005年から教育機関向けのグループウェアであるNetCommons(ネットコモンズ)をオープンソースで提供してきました。

開発コンセプトは「小学校のパソコン操作に自信のない教員でも簡単にそして安全に情報発信ができる学校ホームページソフトを提供する」こと。

ネットコモンズを使えば、業者に頼まなくても、またパソコンが得意な先生が頑張らなくても、ブログやツイッターで発信する手軽さで、学校ホームページを更新することができます。


ただし、学校が公式に情報を発信するのですから、教頭先生や校長先生が内容に目を通して決裁する必要があるでしょう。

そのための「ワークフロー機能」もちゃんとついています。


ネットコモンズは無償なので、どちらかというと財政的に余裕のない県ーーー鳥取県、北海道、岩手県などーーから導入が進みました。

そういう中で、2011年東日本大震災が起こりました。

被災県はどこもネットコモンズのユーザーでした。

福島県の教育センターには、震災直前に導入されたばかりでした。

ネットで福島県、岩手県の教育センターのホームページにアクセスしてもつながらない…。


一方、クラウド上でネットコモンズを利用していた学校は、地震直後から避難所閉鎖まで学校ホームページから次々と情報を発信し続けました。


一方の文部科学省は、実は各学校の基本情報、たとえば、学校名、住所、電話番号、生徒数、教員数、ホームページアドレス、緊急用メールアドレス、耐震工事が済んでいるかどうかなどの情報を検索可能な形で把握していませんでした。


私は、2012年から、学校のホームページは安全なクラウド上に移し、学校基本情報や緊急情報などを機械が理解できる形で集約すべきだ、とあらゆる機会に説いてきました。


もちろん文部科学省には真っ先にお願いに行きました。


でもどこの省にも「必要なことだし、大変良いことだけれども、うちでは引き受けられない」と言われました。


その間にも熊本や北海道で地震が起きました。


もう待つことはできません。


そこで、「教育のための科学研究所」では、まずは国公立・私立の区別なく、すべての幼稚園・保育園・小中学校に対して、基本的なホームページを無償で提供するプラットフォーム「edumap」を2020年春に向けて準備することを決めました。

好きなだけ使ってくださいと言えるほどお金はないので、1機関5ギガまで。

それ以上は実費を頂きます。


以上のどれかに該当する自治体や学校は、ぜひedumapに学校のホームページを移すことをご検討ください。


1. 自治体内にサーバを設置している。

2. サーバのメンテナンスに教育委員会がお金を払っている。しかし、OSなどのメンテナンスが長期間行われていない。

3. 情報の更新が1ヶ月に1回以下である。

4. 学校内の特定のパソコンからしか学校ホームページの内容の更新ができない。

5. パソコンからでないと読みづらい学校のホームページである。

6. 保護者への情報伝達は紙のおたよりと、日本語でのメール配信か電話連絡である。紙のおたより類をスキャンして、PDFファイルにして学校ホームページにアップしている。


もし、あなたのお子さんが通う学校が、まだ機械可読でない古いホームページを、しかも有償でメンテナンスしているなら、どうかedumapがあるということを、伝えてください

そのことで、教員の多忙感が軽減され、「読解力向上」のような教員が本来するべき仕事に集中することができる日が来ることを願っています。


こんなに高い視座をお持ちの方なのか


と思うか、ビジネスの一環かあ、


と思うかで持つ印象は異なろうと思いますが


どちらにせよ、私が思うのは


自分の思いを形にして世の中へ貢献され


価値が認められているってのは


素晴らしいと思うってことでございましたこと


謹んでご報告させていただきたく


そろそろ夕飯を作り始めたいと思う所存で


アレクサに無洗米に水をつけたので


30分アラームと告げたのでした。


 


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2冊の柴谷先生の書から”エチケット”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

反科学論: ひとつの知識・ひとつの学門をめざして


反科学論: ひとつの知識・ひとつの学門をめざして

  • 作者: 柴谷 篤弘
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 1973/01/01
  • メディア: ペーパーバック

表4から編集者の紹介文から

1968年の大学闘争いらい、科学とは何か、研究とは何か、という問いかけは切実な課題となっている。

西欧でも学園は荒れ、科学と技術のもつ本質的な意味の再吟味が呼びかけられた。

これは一方において主としてアメリカにおける科学の進歩と表裏一体をなす、軍事研究の意味が、ベトナム反戦の運動の中において問いただされたことによるが、また他方、公害・環境破壊との関連のもとに、多くの科学者を問題の本質の再吟味へと駆り立てたことにも大きな動機があった。


さらにはここ10年余りの、分子生物学を先鋒とする生物科学の急速な進歩、その根源的な問いには、拍車がかけられた。


すでに10年以上も前に、著者は「生物学の革命」で問題を先取りし、大胆にして啓示に富む呼びかけを行っているが、1966年来、海外にあって、日本および世界における社会の激動に対して著者はさらに眼を研ぎ澄まし、広いパースペクティブに立って、一層広くかつ深くその考察を推し進めたのが本書である。


目次を拝見すると、柴谷先生のベースである


”科学”が一般で流布している


”科学”とは異なり、その差異や同一性が


なんとなくですみませんが、若干、わかる。


”社会”とか”差別”とかを指摘されているのは


こういうことなのか、がわかる書のようで。


その柴谷先生のこの書、1973年ごろでございますが


この時点では考えが及ばなかった点があったと


約20年後の対談で仰っておられる。



エントロピーとエコロジー再考

エントロピーとエコロジー再考

  • 出版社/メーカー: 創樹社
  • 発売日: 1992/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

3 反科学・論か反・科学論か

科学と反科学のジキルとハイド


より抜粋


槌田▼

科学論なんですけれども、『反科学論』、これは本にも「反科学論」と書かれていて、非常にややこしい名前です。


柴谷▼

それはね、この間大学で講義をしたばっかし(笑)。

全共闘がいろんな動きをした1968、9年の頃に、あれは1968年5月にフランスでも起こりましたし、中国の文化大革命もあったし、アメリカ合衆国はそれより数年前から動いておりましたから、世界的にあの時にあったわけで、その時に「カウンターカルチャー」、「対抗文化」というのがアメリカで流行ったわけね。


「反」がなんとなく流行っていて、「反演劇」なんてのが出ていたんです、「アンチシアター」って。

それで私は科学を今までとは違う面から見ようと思ってまず考えたのは、「反科学」という日本語、あるいは「アンチサイエンス」というものを考えたわけね。


これは概念としてのアンチサイエンスと、実体としてのアンチサイエンスと二通りあるだろうと。

アンチサイエンスの概念としては科学のすべてを否定するような、精神的あるいは社会的な動きである。

もう一つのアンチサイエンスというのは実体であるから、科学とは似て非なる、オルタナティヴなものであるだろうと。

知の体系としての反科学というものがあるだろうと漠然と思って、できればこの両方をやらねばならないというふうに思って、「反科学論」という題で『みすず』に連載した。


71年から連載して73年にいよいよ本にするという時に


何か一つ抜けているなと思った。


どうしても思いつかないけれど、夢かお告げか知らないけれど、もうひとつ意味があるという気がする。

だけれど「反科学論」という題にもうひとつ意味が出てこないんです。

あるはずなのに出てこないんです。

それで概念及び実体としてのアンチサイエンスというので「反科学論」というふうに書いて、実体としてのアンチサイエンスを求めましょうという論旨で通した。


科学の批判をしながらもうひとつの科学を見つけようというかたちで通して出したわけなんですが、それが73年で、それからしばらくすると「反発達論」とか「反建築論」とか、「反日本語論」とかいろいろ亜流が出だしたんで、これはおれのが一番先だなと思っていたら、多分蓮實重彦さんが若い時に書いた本だと思うんですが『反=日本語論』というのがあって、それは「反」の下にハイフンがついているわけね。

「反日本語」というのは当然変なんですから、あれは当然今までの日本語論に対する「反」だということで、それを見た途端に、「あっ、これが自分が思いながらどうしても探り当てられなかったあれだ」というのがわかったわけ。

それが実は『反科学論』を出してから数年後のことです。

もはや後の祭りなわけですね。


槌田▼

僕なんかも「お前は反科学だ」ってやられて説明に困り果てたことがあるわけです。

だから迷惑なことを言ってくささる人がいるのだなと。


柴谷▼

迷惑を?「反科学論」で。


槌田▼

「反科学論」で迷惑というんじゃなくて、「反科学」という言葉が定着してしまいました。


柴谷▼

それは私のせいだけではなくてね、アンチサイエンスというのは英語でずっと定着したんですね。


槌田▼

英語ではそうかもしれませんけど日本語で。

しかもそれは「反科学」という意味が「非科学」とは違うといっても、「非科学」の意味で「反科学」を使って定着させた。


柴谷▼

そうですね。

私は「非科学」のつもりで言ったことはないつもりですけれど、読まないで名前だけで判断する人がいますから、そのワナにかかったといえば、そうなんでしょうね。

これは本来は「反=科学論」の意味なんだということを言ったはずなんですが、数年遅れたんです。


槌田▼

僕に対して「非科学」という時には、「非科学」は必ずしも文字どおりの「非科学」ではなくて、科学者としてのエチケットがないという意味の「非科学」でくるわけですね。

それがなかなか耐えられなかった。


柴谷▼

たとえば科学の世界に、論文をもとにして科学者の業績を判断する傾向があります。

しかし人々のために論文を経ずに貢献する道もあるべきである、と書いた。

しかし、このように『反科学論』を書いていろいろやっているけど、この業績さえも科学者社会というか学者社会というか、アカデミーの中で自身の業績として立身出世のために使われるようになれば、それは世も末であるとどこかで書いたと思うんです。

それがどうしても出てこない。


ところが実際にオーストラリアで昇進したんです。

CSIRO(オーストラリア連邦科学産業研究機構)で、その時は「対社会関係の論文も全部考慮に入れるから全部書いてだせ」というので全部業績の中に入れたんです。

こういうのは非常にユニークで、私が初めてだったらしい。

オーストラリアでは、こういうことも科学者の業績に含まれて、昇進させるべきだという、

驚くべきことですけれどね。


ですから「エチケット」に反していてもいいんだと考えた。


もう一つは私は科学を職にしてオーストラリアで給料をもらって、今はエクスチェンジ・レートが低いけれどその時は高かったから、高給をはんでいて生活は全然不安定でなかった。

もちろん英語でも『反科学論』を書いたけれども、日本人の目につかないから、主に日本語で書きますね。

そうするとたとえば槌田さんがエチケットに反する、非科学的だとか、アタックされたようなことは、私にもありましたが、こたえないわけね。


科学者の中でも無意味な”因習”のような


ものがあるのか、とそれこそ”科学”的では


ないなあと、ちと残念な気もするが。


”科学者”の前に”日本の”、っていう


枕詞がつくのだろうな、この文脈だと。


柴谷先生は元からですが、槌田先生の


言説もなかなかに興味ふかく、共同体から


弾かれているアウトローっぽさが特に。


ところで”エチケット”という表現が


面白いなと思い、インターネット黎明期


”ネチケット”なんてのもあったな、なぞと


趣旨と全く異なるところに目がいく


相変わらずな自分の視座または理解の


ずれっぷりに著者さんたちへの非礼を


詫びるすべもない浅学非才な読書からの


読解力を夜勤に向かうバスの中で


行った次第でございましたことを


ここに謹んでご報告させていただく所存です。


 


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カーソン博士の書評から”せつなさ”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

世界がわかる理系の名著 (文春新書 685)


世界がわかる理系の名著 (文春新書 685)

  • 作者: 鎌田 浩毅
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2009/02/20
  • メディア: 新書

第2章 環境と人間の世界

カーソン『沈黙の春』


書いたのはこんな人 から抜粋


子どもの頃から書くことが好きだった少女は、大人になってペンの力で世界を動かした。

レイチェル・カーソンが生まれたのは、アメリカの東海岸、ペンシルベニア州のスプリンデール。

ペンシルベニア州はアメリカ合衆国発祥の地といわれる歴史ある土地で、南北戦争の激戦地であった。


カーソンの父親は農場を営んでいた。

母のマリアは牧師の娘であり、若い頃に教師をしていたという。

大自然の中、知的な母に育てられた彼女は、感受性豊かな子どもとして伸び伸びと成長していく。

ペンシルベニア女子大学に入学し、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院で動物学を専攻。

この時期に、小さい時分から憧れを持っていた海と出会う。

カーソンは海の生き物たちに強く惹かれ、ついには海洋生物学者となる決意をする。


大学院を終えて連邦漁業局の職員として働きながら、彼女は海を扱う放送番組の脚本をしばしば手がけた。

また、政府刊行物のための自然保護地域に関するレポート執筆などを通して、次第にその筆力を発揮するようになる。

その彼女が作家になるきっかけとなったのは、上司にラジオ番組の脚本を見せたことだった。

この上司に科学雑誌への投稿を勧められ、言われるがまま原稿を送ったところ、雑誌「アトランティック・マンスリー」に掲載され、出版界への足がかりをつかむ。

そして44歳の時、『われらをめぐる海』が望外のベストセラーとなった。(1951年)


いきなり『沈黙の春』は書けないよなあ


とは思っていたけれども、鎌田先生の文書で


腑に落ちたとでもいうか。


運も持ち合わせておられたのだろうけれど


それはカーソン博士の本当にやりたい仕事では


なかったのかもしれないと思うと複雑ですな。


企業家や国家と争うというような


資質の方にはどうしても思えないので。



福岡ハカセの本棚 (メディアファクトリー新書)

福岡ハカセの本棚 (メディアファクトリー新書)

  • 作者: 福岡伸一
  • 出版社/メーカー: メディアファクトリー
  • 発売日: 2012/12/28
  • メディア: 新書

第2章 世界をグリッドでとらえる

不思議さに目をみはる感性


から抜粋


浜辺の小さなカニ。雨に濡れた地衣類(ちいるい)。銀の鈴のような虫の音ーーー。

レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』では、カーソンが夏を過ごした米国メーン州の自然が詩的に語られます。

カーソンは甥のロジャーと一緒に嵐の海を眺めに出かけ、潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、苔の絨毯に膝をついてその感触を楽しみます。

カーソンの著作では『沈黙の春』がよく知られています。

1960年代の初めに環境問題について論じたこの本を、私は大学の頃に読み、とても感銘を受けました。


『沈黙の春』でDDTなどの農薬をはじめとする化学物質がいかに地球環境に深刻な影響を与えているかを訴えたカーソンは、孤独な闘いを強いられることになりました。

本は売れ、世界中に反響を巻き起こしますが、一方、化学薬品メーカーや政治家から激しい攻撃を受けるようになったのです。

「根拠のない妄想」「独身女のヒステリー」といった心ない誹謗中傷に耐えながら、それでもカーソンは自分の信じることを語り続けます。


そんなカーソンを支えたのが、彼女自身の中にあったセンス・オブ・ワンダーではなかったか

センス・オブ・ワンダーを直訳すれば、「驚く感覚」。

本書を翻訳された上遠(かみとお)恵子さんは、この言葉をとても的確に「神秘さや不思議さに目を見はる感性」と表現しています。

カーソンにとってそれは自然の美しさに触れる喜びであり、そこに自分の出発点があることを忘れなかったからこそ、長い困難と孤独に耐えられたのだと思うのです。


私自身のセンス・オブ・ワンダーは、昆虫との出会いにありました。


宇宙の青でも、海の青でもない。

小さな虫の背中にさざなみのように変化する青が凝縮していました。

息を呑む美しさ。

その瞬間が、その感動が、私のセンス・オブ・ワンダーでした。


「残念なことに、わたしたちの多くは大人になる前に澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬(いけい)すべきものへの直観力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。」


センス・オブ・ワンダーは、成長するにしたがって不可避的に失われてしまう。

大人になるとは自分の有限性に気づくことです。

子どもの頃は誰もが果てしない未来を思い描きますが、やがて可能性は限定され、夢は諦めるべきものとして輝きを失います。

まぶしかった世界が色あせる事は喜ばしい事ではありません。

しかし一方、子どもの頃に出会ったセンス・オブ・ワンダーはどこかでわたしたちの中に残り、私たちを支え続けている

もしそのことを思い出せれば、私たちはいつでも自分の原点に立ち返り、希望を持って生きていけるのではないか。

カーソンはそう伝えたかったのではないでしょうか


なぜこんな青がこの世界に存在するのか。


生物学者になった後も、私はこの同じ問いを繰り返し問い続けてきたように思います。


本書のいちばん魅力的な部分は、次の箇所です。


「もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力を持っているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない、『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性』を授けてほしいと頼むでしょう。

この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです」


カーソンは

「私の文章に詩があるのではなく、自然の中に詩があるのです」

と述べています。


さすが福岡博士というか、カーソン博士というか。


言葉がありません、という言葉が浮かびます。


『沈黙の春』だけでは分かり得ない


レイチェル・カーソン博士の尽きない


”メッセージ”というか。


そんな平易な言葉では追いつかないだろう。


なので、言葉にできない。


それにしても、本日は自分で作った


野菜ラーメンを昼に食したのだけど


体調がいまいちで寝てばかりいたら


それらが原因ではないのかもしれないが


頭も痛くなってきたのであまり読書が


すすまない休日でしたがそんな日もある


のだよと言い聞かせる夕刻でございます。


 


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カーソン博士の警鐘を現代日本に照らす書 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

レイチェル・カーソンはこう考えた (ちくまプリマー新書 241)


レイチェル・カーソンはこう考えた (ちくまプリマー新書 241)

  • 作者: 多田 満
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2015/09/07
  • メディア: 新書

第6章 「べつの道」を考える

環境・生命文明社会


から抜粋 


アメリカの環境学者デニス・メドウズ(1942−)らの『限界を超えて』(1992年)は、その20年前に書かれた衝撃のレポート『成長の限界』以後の世界の変化をふまえ続編として出版されました。

現代世界がこのまま経済成長を追求すれば、環境破壊を中心として事態はさらに悪化の一途をたどり、人類社会にはもはや破滅しか残されていません。

破滅を避けるためには「持続可能性を追求する革命」が、今早急に必要であるというものでした。

「すばらしい高速道路の行きつく先は、禍いであり破滅だ」とするカーソンの立場、その破滅を避ける他のための「べつの道」は、「持続可能性を追求する革命」というメドウズらの立場に近いとみることができるでしょう。


21世紀環境立国戦略(2007年)で謳われた低炭素社会、循環型社会、ならびに自然共生社会を統合した社会の構築という基本施策は、今後とも堅持していくものでしょう。

これらは決して目指すべき社会が複数存在するわけではありません。

それぞれの側面の相互関係をふまえ、わたしたち人間も地球という大きな生態系の一部であり、地球によって生かされているという認識のもとに、統合的な取り組みを展開していくことが不可欠なのです。


低炭素社会とは、気候に悪影響を及ぼさない水準で大気中の二酸化炭素などの温室効果ガス濃度を安定化させると同時に、生活の豊かさを実感できる社会

循環型社会とは、資源採取、生産、消費、廃棄などの社会経済活動の全段階を通じて、3R、すなわち

Reduce(リデュース=廃棄物の発生抑制)、

Reuse(リユース=再使用)、

Recycle(リサイクル=再資源化)

の取り組みにより、新たに採取する資源をできるだけ少なくした、環境への負担をできる限り少なくする社会。

自然共生社会とは、生物多様性が適切に保たれ、自然の循環にそうかたちで農林水産業をおこなうことで、自然の恵みを将来にわたって享受できる社会のことです。


しかし、東日本大震災の経験を踏まえ、安全・安心な社会づくりの重要性が再認識されたいま、それを三つの社会像にもうひとつ付け加えるのではなく、それらの根底にあるものと位置付け、持続可能な社会が構築されると考えるべきでしょう。


本来、原発再稼働のための安全基準のように「安全」は科学的根拠を持って国が定めるものの、「安心」は主観的概念であるので、個人ひとりひとりが判断するという指摘がされています。

安全についてのコミュニケーションを十分に取ることで、相互理解が深まり、その信頼関係によって人びとは安心を得るのです。

ここでの持続可能な社会とは、健康で恵み豊かな環境が地球的規模ら身近な地域まで保全されるとともに、それらを通じて世界各国の人びとが幸せを実感できる生活を享受でき、将来世代にも継承することができる社会のことです。


これまでの物量的な豊かさだけではなく、日本人が大切にしてきた人と人とのつながり(礼儀正しさや謙虚さ、思慮深さなど)や、自然との共生など生命のつながり(いのちの共生)を実感できる質的な豊かさに重点を置いた政策が2014年度から整理・展開されています。

環境・生命文明社会が目指す社会は従来の発想や価値観からの転換を迫っています。


カーソン博士の文才は、お母様からの


文学指南があってのことや


『沈黙の春』(1962年)の前に、


海三部作といわれるいわば前哨戦があり


潮風の元で』(1941年)、


われらをめぐる海』(1951年)、


海辺』(1955年)が下支えをしているということ


さらに海ものばかりなのは


”海洋生物学専攻”だったからとか、


遺作『センス・オブ・ワンダー』(1965年)の


重要性、それを踏まえて日本では何ができうるか


までをまとめられている多田先生は


日本レイチェル・カーソン協会の会員で


あるからかカーソン愛が横溢されつつ


迷っている我々の行先に明かりを


灯されているかのような思想書なのでした。


実際は環境問題という括りで考えると


様々なファクトを通して考えないとならないので


慎重にならざるを得ないのでございまして


昨日も投稿したのだけど”脱炭素”という所が特に。


ですが、重要資料であることは間違いない


書だなあと思った次第でございます。


話は唐突に変わりまして


本日連休だったため比較的近くで


古本屋さんが多い町まで行って27冊(8.7kg)


買ってきた事は妻には内緒にしておこうと


思った夜なのでした。


 


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『沈黙の春』から”炭素”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

沈黙の春(新潮文庫)


沈黙の春(新潮文庫)

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2016/05/20
  • メディア: Kindle版

アルベルト・シュヴァイツァーに捧ぐ


シュヴァイツァーの言葉ーー

未来を見る目を失い、現実に先んずるすべを忘れた人間。

そのゆきつく先は、自然の破壊だ。


湖水のスゲは枯れて、

鳥は歌わぬ。

キーツ


私は、人類にたいした希望を寄せていない。

人間は、かしこすぎるあまり、みずから禍(わざわ)いをまねく。

自然を相手にするときには、自然をねじふせて自分の言いなりにしようとする。

私たちみんなの住んでいるこの惑星にもう少し愛情をもち、疑心暗鬼や暴君の心を捨て去れば、人類も生きながらえる希望があるのに。

E.B.ホワイト


二 負担は耐えねばならぬ


から抜粋


害虫などたいしたことはない、昆虫駆除の必要などない、と言うつもりはない。

私がむしろ言いたいのは、コントロールは、現実から遊離してはならない、ということ。

そして、昆虫といっしょに私たちも滅んでしまうような、そんな愚かなことはやめようーーーこう私は言いたいのだ。


化学合成殺虫剤の使用は厳禁だ、などと言うつもりはない。

毒のある、生物学的に悪影響を及ぼす化学薬品を、だれそれかまわずやたらと使わせているのはよくない、と言いたいのだ。


どんな恐ろしいことになるのか、危険に目覚めている人の数は本当に少ない。

そしていまは専門分化の時代だ。

みんな自分の狭い専門の枠ばかり首をつっこんで、全体がどうなるのか気がつかない。

いやわざと考えようとしない人もいる。


またいまは産業の時代だ。

とにかく金をもうけることが、神聖な不文律になっている。


殺虫剤の被害が目に見えてあらわれて住民が騒ぎだしても、まやかしの鎮痛剤をのまされるのがオチである。


昆虫駆除の専門家が引き起こす禍いを押し付けられるのは、結局私たちみんななのだ。

私たち自身のことだという意識に目覚めて、みんなが主導権を握らなければならない。

いまのままでいいのか、この先へ進んでいっていいのか。

だが、正確な判断を下すには、事実を十分知らなければならない。


ジャン・ロスタンは言うーーー

《負担は耐えねばならぬとすれば、私たちには知る権利がある》。


三 死の霊薬


から抜粋


いろいろ数ある殺虫剤は、大きく二つに分けられる。

一つは、一般に《塩素炭化水素》と呼ばれるもので、DDTがその代表であり、もう一つのグループは、有機リン酸系の殺虫剤で、マラソン、パラチオンなど。

共通な点は、まえに書いたように、どれも炭素原子を骨格として構成されていること。

この炭素原始は、また生物界には欠くことのできない要素で、このため、この原子をもとにつくられているものは、《有機》と呼ばれる。

まず手始めに、殺虫剤の構造を調べ、生命の源である炭素原子と関係があるのに、なぜまた死を招くようなことになるのか、考えてみよう。


主要成分である炭素ーーこの原子は、どの原子とも鎖状、環状、そのほかいろいろな形で結合し、またほかの物質の原子ともつながる、ほとんど無限と言っていいほどの力を持っている。

このような自由自在な炭素の働きがあればこそ、生物はバクテリアからシロナガスクジラにいたるまで、信じられないくらい自由自在な形態の変化を見せている。

脂肪、炭水化物、酵素、ビタミンなどの分子と同じように、複雑な錯蛋白質(さくたんぱく)分子のもとは炭素原子である。

また炭素原子は、おびただしい数の無生物の土台で、炭素は生命のシンボルとはかぎらない。


有機化合物には、炭素と水素が簡単に連結したものである。

そのうちでもいちばん単純なものは、メタン(沼気(しょうき)ともいう)で、バクテリアによる水中有機物の分解によって、自然に発生する。

適当に空気と混ざると、炭坑内でおそろしい爆発を起こす。

この構造式はとても単純で、一つの炭素原子に四つの水素原子がついているーーー


さらにこの四つの水素のうち一つなり、また全部をひきはなして、ほかの元素におきかえることもできる。

たとえば一つ水素をとって、その代わり塩素をおくと、塩化メチルができるーーー


また水素を三つはずし、塩素にかえると、麻酔の時に使われるクロロフォルムができるーー


水素を全部とりさり塩素にかえると、四塩化炭素になる。

みんながなじみのドライクリーニングによく使われるのは、これであるーー


このように塩素置換したメタン分子にあたえたいろんな変化の図表で、塩化炭化水素がどんなものか一応説明されると思う。

だが、これだけでは、炭化水素の化学世界の複雑さ、有機化学者がさまざまな物質を数かぎりなく作り出していく魔法の正体はわからない。


たとえば、炭素原子に何が結合するか、というだけではなく、どの位置に結合するかが、大切である。

このような巧妙な操作によって、ものすごく有毒な化学薬品がいくつもつくり出されたのだった。


DDTの成立から、危険性、その被害報告の具体例、


またその他の毒性のある化学薬品の数々を


調べあげているだけではなく、


才能豊かな文章・構成力でしたためられた、


まごうかたなき名著と言える。


ベストセラーで日本でも読み継がれている


不朽の名作と言わざるを得ない。


悲しいのは、この時の警鐘が今もほとんど


有効なのではなかろうかと感ぜられるところで。


解説を書かれている筑波先生の文章もかなり


熱量を感じるものだった。


炭素原子の部分が自分は気になっていて、


中村桂子先生の言説で


SDGsの脱炭素は、実施されると困る、人間が


炭素化合物でできているのだから


ってのとどう絡むのか、詳しくはわからない、


これまた悲しい自分の頭なので、別日に追求したいと


思ったのでありますが、昨夜なぜかよく眠れず、


頭痛と花粉症に苦しんだ休日、それでも家の


網戸貼り替え一式を買ってこれたから良しとするかと


思った次第でございました。


 


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最初期の池田先生の書から”清算”を考察 [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]

構造主義と進化論


構造主義と進化論

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 海鳴社
  • 発売日: 1989/09/01
  • メディア: 単行本

はじめに

から抜粋


本書は「構造主義」という時間とは最も無縁なものと、「進化」という時間に最も関係深いものを架橋しようとする試みである。

本書を書いた動機は二つある。


一つは、前著『構造主義生物学とは何か』(1988年)を書いたあと、進化については、まだなにか言い足りない思いが残ったこと。


一つは、「科学とは不変なるもの(構造、形式、公理など)によって変なるもの(現象、出来事、個物など)をコードしようとする営為である」という私の構造主義科学論によって、変なるものを扱っている科学の代表である「進化論」を解釈しようと考えたこと。


その二つの動機に沿って執筆していくうち、時間論を避けて通るわけにはいかなくなり、それとともに科学的営為の原点とも言うべき、古代ギリシャの自然哲学者たちにも言及してみたくなった。


そんなわけで、ごく常識的な科学史や進化論からみた言説としての本書には、

①少し風変わりな古代ギリシャの自然哲学史、

②新しい歴史的事実の記載は何もない進化論史、

③わけのわからない時間論、

④マユツバものの構造主義進化論の大構想、

などが書かれている。


もちろん私には私なりの成算があるわけで、私の密かな目論見によれば、本書は未来から書かれた進化論史の本なのである。


したがって現時点において、本書が、構造主義進化論のマニフェストとして読まれようが、できそこないの進化論史として読まれようが、時間や名を形式化しようとする形式主義者の稚拙な一試行(いちしこう)として読まれようが、かくべつの不満はない。


池田先生のライフワーク


”進化論”の最初期の書ということで


このあと”進化論”については


何冊も書かれているのだけれど


直近の『驚きの「リアル進化論」』と比較すると


基本ラインはあまり変わってないように


自分は感じた。


細かいところは違いますよ、そらもちろん


30年以上経過しているんだから。


そもそも進化論自体理解しているとは


自分は言い難いし。


そういうことではなくて、


”態度”というか”物腰”というかが


同じってことで。


そういう意味では確かに”まえがき”にあるように、


未来の視座を持った書なのだろう。


ただ、この書は個人的には読みづらいってのは


あるのですが、それは自分の頭がついていけてない、


ってことなのでしょうなあ。


あとがき(1989年3月) から抜粋


1989年1月7日に昭和天皇は死去した。

当時私は本書の執筆に没頭している最中であった。

天皇死去に伴う政府・マスコミあげての騒ぎと、それに便乗した天皇の戦争責任不問キャンペーンを傍に見ながら、私の心は鬱屈し、それはときとして現れる主題からの逸脱と、論敵へのいわずもがなの悪口となって本書に反映した。


それは本書の品格を損なうものではあろうが、もともと品格のない私はあえて書き改めることをしなかった。

文句のある人は私の悪口に数倍する罵詈雑言を私に浴びせるもよし、黙殺するもよし、紙上のものである限り、そのこと自体に異存はない。


柴谷篤弘氏は草稿を通読し、貴重な幾つものコメントを寄せてくださった。

前著の時と同様に深い感謝の意を表したい。


私事になるが、1988年6月1日に私の母は20年近くにもなる長い闘病生活の末に死去した。

母は、私の人生上の小さな失敗を我がことのように悔い、小さな成功を我がことのように喜んだが、私が政治的には必敗の学生運動に関わったときだけは、長いものには巻かれろ式のものいいで私を諌めることをしなかった。

それどころか国家がいかにインチキなものであり、姑息で卑怯な人間を再生産するかを(もちろんそのような言い方をしたわけではないが)語ってくれさえした。

だから私の反国家主義は母親ゆずりである。


死に近き母のベッドの枕辺で、本書の構想を練りながら、私には、母が死に逝こうとしているのに私の心はなぜかくも平静でいられるのか、いぶかしく悲しかった。

母はたとえ生きていたとしても、本書のようなものを決して読むとは思われないが(母は私が前著を見せた時も一瞥しただけで扉すら開けようとしなかった)、行動ばかりでなく心まで親不孝であった私のせめてもの気持ちとして、本書を母に献じたい。


個人的なことを滅多に書かれない印象のある


池田先生、実際にはそんなことはないのかも


しれないが、反権力の発芽は、お母様だった


というのは実は自分も似ているというか


自分の母親は威張りくさった態度というものを


忌み嫌っていてそれを受け継いでしまいまして。


(僭越ながら…養老先生シンパになるのも


無理ないよなあと思った。)


かつ、母が亡くなった時に平静だったのも


同じで、でもそれは自分なりに思うことがあり


自分の場合は子供が生まれたばかりだった為


母親が用意してくれていたステージが


変わったから、としか言えない。


抽象的でうまく説明できないのだけれども。


余談だけれども、池田先生はお母様に


献じるものがあるので清算されたと思うけれど、


自分は何を献じたのだろう、などと全く不毛なことを


考えてしまった朝5時起床で仕事してきた身では


なかなか眠くなってお腹減ってきましたので


食事したいと思い始めたところです。


 


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