垂水先生の翻訳書から”価値観”を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]
第16章
社会生物学者とその敵
狙いをはずした撃ち合い
グールドとドーキンスの長々しいデュエット
から抜粋
グールドとドーキンスの大西洋をはさんだ口論に、同僚たちはどのような反応をしたのだろう。
デネットはドーキンスを、「過度に単純化してはいるが」、それは意図的にしているのだとして擁護した。
同時に、彼は「グールドは多少は正しくさえある」ことを認める。
生物と進化は、ドーキンスが示しているよりは複雑なものである。
そしてデネットは、ドーキンスが実際「ありがとう、スウィーヴ。それが欲しかったんだ」と言うことができると結論した。
しかし、ニック・ハンフリーは次のようにコメントしている。
「リチャード・ドーキンスとスティーヴ・グールドが論争していることの一部は時代遅れで、もうやめるべきだ。『利己的遺伝子』とグールドの初期の著作が出版されて以降、新しい事態が生じている。
今や我々は新しい領域(テリトリー)に入っているのだ。」
これらは本当に、一人の科学者が別の科学者を誤解しているという問題なのだろうか。
もちろん、ここで私たちが扱っているのは根深い確信であり、二人ともおそらく一歩も譲らない正当な理由があると思っているだろう。
それが一つの知的挑戦でもあるのは疑いなく、両者がまったくの気晴らしとして楽しんでいるのかもしれない。
われわれは一種の決闘を見ているのだ。
さらにいえば、グールドとドーキンスの間のこの延々とつづく論争ーーどこにも行き着く先がないように見えるーーの要点は、グールドとドーキンスは本当はお互いの意見の相違が解消されることを望んでいないということなのではないのか。
むしろグールドとドーキンスは、彼らのベストセラー本で、新たな論点と反論を生み出すためのスパークリング相手として利用しているのではないか。
訳者あとがき(垂水雄二)から抜粋
社会生物学とは何だったのか。
それこそ本書の主題であり、私が下手な解説をするより読んでいただくほうがよいだろう。
ここでは、本書の扱いの特徴について紹介するにとどめたい。
社会生物学論争が複雑なのは、そこに学問的論争と、社会的・政治的論争という二つの側面、科学史の用語でいえば、内在的側面と外在的側面が共にかかわっていたことである。
論争の内在的側面とは、社会生物学(あるいは行動生態学)の理論的・概念的枠組みについてのものであり、社会生物学が遺伝子決定論、適応万能論、あるいは擬人主義だとする批判をめぐる論争であった(最近翻訳のでたジョン・オルコックの『社会生物学の勝利』は、社会生物学者の立場からのこの論争の総括であり、結局のところ批判は誤解・曲解・歪曲にすぎなかったと結論している)。
論争の外在的側面は、一般的にいえば、科学的に正しいことが道徳的・政治的に正しいかどうかということを含めて、科学および科学者の社会的評価の問題であり、のちの「サイエンス・ウォーズ」につながるものである。
具体的には、社会生物学が人種差別主義やそのほかの体制維持の根拠を提供するという批判をめぐる論争であった。
本書の最大の特徴は、著者が社会学者であることで、この本の面白さもそこにある。
論争の関係者につぎつぎとインタヴューを重ね、表向きの論争の背景にある事情を明るみにだし、人々の本音をひきだす。
また、この論争の初期から現場に立ち会ってきたという強みを生かした節目節目での出来事についての臨場感あふれるレポートは貴重である。
社会学者であるにもかかわらず、生物学に関する著者の理解力は生半可ではなく、ていねいに原論文を参照して、発言の裏付けがとられている。
論争をそれぞれが属する陣営からの社会的認知を得るための闘争と見る社会学的視点も新鮮である。
生身の人間としての科学者たちの喜びや怒り、野心や羨望が自ずと伝わってくる。
そういった意味で、三幕のオペラに見立てられた本書は、その浩瀚(こうかん)さにも関わらず一気によみすすむことができるはずだ。
いやあ、かなりの分量ありますぜ。
興味ある人でも一気は難しいのではなかろうか
というのは余計なお世話でした。
オペラというのが洒落てますな。
2巻ともですがこの書の表紙の意味が
腑に落ちたような気がいたします。
ネガティブなテーマなのは解せないのだけど。
そして、なによりも特筆すべきは、ウィルソンとルウォンティンという論争の主役の特異な人格を浮き彫りにし、彼らをはじめとする関係者それぞれの隠れた動機、つまり彼らにとっての「真理」観の違いを明らかにし、異なる「真理」感を奉じる人々の対立という視点によって、この論争の内在的側面と外在的側面のみごとな統合を実現していることである。
邦訳書の副題および原題『真理の擁護者たち』の意味するところはここにある。
1980年代に日本に社会生物学が導入されるが、それに際してはほとんど何の論争らしい論争も起きなかった。
しかし、これを日本のみの特殊事情として過度に強調するのはあたらないだろう。
本書で述べられているように、フィッシャーやホールデンのような集団遺伝学者を擁する英国でさえ、ドーキンスが問題の核心を誇張した形で提示するまで、大部分の生物学者は「種のための利益」という観点に固執していたのであり、エソエロジーの祖ローレンツもまた進化をそのようなものとして考えていた。
したがって、欧米においても、真の意味で遺伝子淘汰主義的な観点が行動研究者のコンセンサスになるのは、『社会生物学』『利己的な遺伝子』の出現以後なのである(そして一般むけの社会生物学書の翻訳出版がジャーナリズムをにぎわすことになる)。
一方で、遺伝子決定論が現状肯定の科学的根拠を与えかねないという危惧に基づく社会生物学批判の大衆運動は、1980年代の日本では起こりうる基盤がなかった。
生物学内の古典的左翼はルイセンコ論争を通じてアカデミズムの内部での権威を失っていたし、学生を中心とする新左翼は1960年代末から70年代初めにかけての全共闘闘争の終焉、連合赤軍事件によって、ほとんど壊滅状態に陥り、仮にルウォンティン流の反社会生物学キャンペーンがあったとしても、それを大衆運動として担える実行部隊は存在しなかった。
ただし、学問的レヴェルでの批判がまったくなかった(創造論者や重力進化論者のようなトンデモ的な進化論批判は論外として)というわけではなく、柴谷篤弘や池田清彦らによって、構造主義生物学の立場からの社会生物学批判・ネオダーウィン主義批判が精力的になされたことは明記しておくべきであろう。池田らの批判についてここで論じる余裕はないが、私見によれば、哲学的な議論は別にして、批判の実質はルウォンティンおよびグールドの適応万能主義批判に通じるものであり、社会生物学者の側からの応答もそれに準じるものであろう。
ドーキンスとグールドに興味があったのだけど
それはもう一段階、深い論争があった模様で。
ウィルソン博士は1冊、ルウォンティン博士は未読の為
あまりキャッチできなかったが、そこがわかると
この書の価値は高まるのだろう、自分にとってだけど。
80年代の生物学論争って、全共闘と関連してたってのは
言われてみればそうなのか、と思い
新しい価値観だったのかもしれないと。
70年代の学生運動って反社会的な面だけで
強調されるけれど、論争ってのはそもそも
反体制な行為だからなのか、とか。
さらにここで構造主義生物学の
柴谷篤弘・池田清彦先生が出てくるのか、
という納得の仕方をしてみるも、
どこまで理解しているのか、怪しいものだけれど
近くの大学のオープンカフェで読んでいたら
怪しい空模様のため急いで帰宅して
自宅のこたつからの投稿しております。
別の書で日高先生のローレンツ追悼文を読んだ。
ローレンツと日高先生の対談を
NHKで放送したらしいが今西錦司先生の
ご感想がちょっと批判めいたものだった
ということを垂水先生がお聞きになり
日高先生にお伝えになったというのを拝読
これも日本の動物行動学という領域での
新旧の価値観の交代劇だったのではなかろうかと
思ったのはまったくの余談でした。