三木成夫先生を医学知識ゼロで初めて読んでみた [新旧の価値観(仕事以上の仕事)]
三木先生の書籍を拝読してみた。
内蔵波動より
いのちの波 から抜粋
すべて生物現象には”波”がある。
それは、個々の動きを曲線で表すと、そこには多少にかかわらず波形が描き出されることを意味する。
山があれば谷があり、谷があれば山があり、というように両者はなだらかに移行しながら交替する。
これは、上り坂があれば下り坂がある、といいかえてもよい。
そこには、だから当然、一つの繰り返しがある。
山なら山の形が、少しずつ形を変えながら僅かに異なる周期でもって繰り返される。
ふつう繰り返しというと、同一物のそれが連想されるが、自然界にはそのようなものはない。
どんなに似通ったものにも、両者のあいだには必ず微妙な違い、ニュアンスがなければならない。
あの水面に立つ波模様を見ればいい。
ここではまず、生物現象に見られる各種の波についてふりかえってみる。
初めに、細胞を見よう。
たとえば神経細胞の活動状況を電気的に調べると、それが一個の場合は「細胞波」、集団の場合は「脳波」としてそれぞれ記録される。
もちろん、秒以下の周期でもって、前者は簡単な波形を、後者は複雑な波形を描き出す。
次に、臓器を見よう。
その平滑筋をもったものは収縮を繰り返す。
血管は目に見えぬ幅で律動する。
心臓は生きていることの唯一の証しのように不眠不休の拍動を続ける。
鰓呼吸も同様だ。
肺呼吸にない力強さがある。
この鰓の母体をなす腸管は蠕動(ぜんどう)する。
胃袋も膀胱も、そしてあの子宮も、すべてが波を打つ。
これは個体についてもいえるだろう。
その活動と休息の波はとりどりの周期でもって現れる。
それは睡眠と覚醒の波であったり、好調と不調の波であったり、さまざまだが、これが種の次元となると、もっと大規模だ。
魚の回游と鳥の渡り、これはもはや地球的な往復運動ではないか。
このほかに、種の興亡の波があり、体形の周期的な変化がある。
たとえば大和民族は数百年の周期で長頭と短頭を交替させるというが、それは頭蓋骨のゆるやかな搏動か。
しかもそれと歩調を合わせるかのように、その身長もまたゆるやかに伸び縮みするという。
万物流転ーーーリズムの本質
から抜粋
生を象徴する「波」ということばは、もちろん水波から来たものだが、それは波頭の巻き込みが物語るように「渦巻き」の連なりから説明され、分解していけば、ついには「螺旋(らせん)運動」に行き着くのであろう。
この運動は、古来、東西の人びとからひろく宇宙形成の原動力としてとらえられてきた。
ゲーテもその一人であるが、最晩年の論文「植物の螺旋的傾向」にもあるように、「天ノ命」として教えられた植物の生態からこの世界への道が拓かれたという。
植物の生長は垂直の方向に螺旋を描いておこなわれる。
それは、動物の毛流の描き出すゆるやかな渦がヒトの頭の天辺でにわかに急となり、つむじを巻いて終わるのと同じであろう。
こうして動物にも数多くの螺旋の形象が現れる。
植物と同じように、そのからだからのびる構造物はみな渦を巻くのである。
一方、両端で固定された内蔵の管も渦を巻く。
たとえば、口と肛門の両端で固定された腸管は、途中で左巻きと右巻きに捻転を起こし、また肝臓と鰓で固定された心臓の管も左右に捻れながら肥大していく。
こうした捻れは卵管や精菅にも起こり、しかもこれらの管のすべては、その壁がたがいに交織しながら螺旋状に走る繊維層でしっかり固められる。
腸管を裏返した樹木の各層も当然これと同じだ。
そしてこの行き着く極致の構造として、染色体の二重螺旋が待ち受けているのであろう。
江戸の俳人宝井其角(たからいきかく)は、交尾を終えたカマキリの雄が、そのまま雌にかじられていく光景に、稔りを終えた草が葉を枯らせていく光景をダブらせて、「蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな」の句を詠んでいる。
食から性への位相転換は、動物には親の死を、植物には葉の枯れをそれぞれにもたらす。
そこでは、だから、蟷螂の死が、あたかも枯れるがごとき尋常の姿として映し出される。
ただ位相が変わったそれだけだ。
しかもこれが、四季の流れに沿った永遠回帰の一コマとして描き出される。
「いのちの波」の本質をこれほど端的に示した世界はあまりないだろう。
(1983年57歳)
養老先生と同じで、偉人の言葉が随所・頻繁に
出てくるのはやはり相当な読書家であり、
それを咀嚼して考える人なのだろう。
そらそうだよ、東大の教授なんだから!
でも、まだ一冊だけなのでよくわからない。
肉声も聞いて、少し理解深めてみて。
さらに、かの吉本隆明先生の言葉が
大変興味深く、さらに理解が深まったです。
顔の文学
2脱肛と魚のエラ――三木成夫の考え方
から
専門的に言うと解剖学者というのか、脳生理学者というのかわかりませんけれど、養老さんの先輩筋に当たる三木成夫さんという人がいまして、僕はものすごく偉い人だと思っています。もう数年前に亡くなりましたけれども、この人は顔というのをどういうふうに規定しているかというと、人間の体の発達史に即して人間の顔とは何なのかということを言おうとしているわけです。
つまり、機能の面からではなくて、動物から人間に発達してきたものとしての人間の顔とは何かということを三木さんは言っているわけです。
三木さんの言い方をしますと、人間の顔というのは形から考える考え方をすれば、人間の食道まで通っている腸管がちょうど内側から外側へめくれ返ったものだ。肛門で言えば脱こうというのがあるでしょう。
つまり、痔の病気に脱こうというのがある。この脱こうと同じで、要するに脱こうの上のほうに付いているのが人間の顔だというのが三木さんという人の考え方です。
腸管の延長線が頭のところに来て、それが開いてしまっているというのが人間の顔だと考えれば大変考えやすいし、発達史的に言いますとそのとおりで、そういうふうに考えると人間の顔の位置付けができると、三木成夫さんという人はそういう説き方をしています。
この説き方はとてもおもしろいので僕なんかの好きな説き方です。
つまりこれを発生史的な説き方といいます。人間が発達してきて、それで人間にまでなったという言い方が、あるいはもっと、人間の定めだったのだ。
定めだったんだけど、だんだん陸に上がってきて哺乳類になって、それで人間になったのだという発達した過程というのがあるわけです。
その過程から言いますと、つまり過程からいう考え方というのをこの人はよく非常に綿密に、非常にわかりやすく、しかも非常に一貫した考え方をとっていて、結構腸管が上のほうでめくれているというのが人間の顔だと考えれば妥当だし、一番よいと言っています。
もう一つ解剖学的に言うと、魚にえらというのがあるでしょう、人間の顔というのはえらと同じ、えらが発達したものだと考えると大変考えやすいと三木さんは説明しています。
顔ということを、あるいは表情をしている顔全般ということを、筋肉も含めて全般ということを、魚のえらが発達したものだと考えると考えやすいということを言っています。
今言いましたように、腸管の延長線が人間の顔の表情、顔ですから、顔の表情の内臓感覚というのがここにきているということになるわけです。
三木さんの説明の仕方をすると、口にとっての舌というのだけは内臓感覚だけではなくて、いわゆる感覚器官的なと言いますか、内臓ではなくて、外臓、外臓というのはおかしいですけれど、外とつながった、つまり感覚器官と同じような感覚が舌と唇には入っていて、そこが一番顔の中で敏感な箇所であるという説明をしています。
ですから、人間の舌というのは要するに喉の奥から出ている手だと考えるとものすごく考えやすいのだ、そういうふうに考えると非常にわかりやすいのだということを説いています。
僕が知っている範囲では、人間の顔についての二つの説き方というのは、人間の顔の機能と役割と解剖学的な性質について説かれている説き方というので、大別してその二つがあると思います。その二つで大体において、顔についての考え方は全部尽きていると言ってもいいのではないかなと思います。
内蔵が身体であり、顔に、
そして心にもなるのだって
自分だけの拡大解釈か。
しかし、なんか深い、深すぎる。
追求の余地がありすぎて夜勤明けには
大変良い意味でも辛さがあるのだけど
いったん夏休みをいただきましてまた研究しよう。