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国家の品格:藤原正彦著(2005年) [’23年以前の”新旧の価値観”]


国家の品格(新潮新書)

国家の品格(新潮新書)

  • 作者: 藤原正彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/07/01
  • メディア: Kindle版

戦時中、満州生まれだから

うちの祖父は満鉄で満州に家族でいたから


母と近い場所で幼少期過ごされたかもと思ったり。


東大出の理数学者、作家新田次郎、藤原ていさんの


ご次男とのこと。


おもいっきりラディカルなこの書籍は、


お父様の意思を継いで孤高の人っぷりを印象づけますが


きっかけは、いつものことですみませんが


養老先生の対談で知ったのでした。


「はじめに」から抜粋


30歳前後の頃、アメリカの大学で三年間ほど教えていました。

以心伝心、あうんの呼吸、腹芸、長幼、義理、貸し借り、などがものを言う日本に比べ、論理の応酬だけで物事が決まっていくアメリカ社会が、とても爽快に思えました。

向こうでは誰もが、物事の決め方はそれ以外にないと信じているので、議論に負けても勝っても、根に持つようなことはありません。

人種のるつぼと言われるアメリカでは、国家を統一するには、すべての人種に共通のもの、論理に従うしかないのです。

爽快さを知った私は、帰国後もアメリカ流を通しました。

議論に勝っても負けても恨みっこなし、ということで、教授会などでは自分の意見を強く主張し、反対意見に容赦ない批判を加えました。

改革につぐ改革を声高に唱えました。アメリカでは改革は常に善だったからです。

結局、私の言い分は通らず、会議で浮いてしまうことが重なりました。

数年間はアメリカかぶれだったのですが、次第に論理だけでは物事は片付かない、論理的に正しいということはさほどのことでもない、と考えるようになりました。

数学者のはしくれである私が、論理の力を疑うようになったです。

そして「情緒」とか「形」というものの意義を考えるようになりました。

そんな頃、40代前半でしたが、イギリスのケンブリッジ大学で一年ほど暮らすことになりました。

そこの人々は、ディナーをニュートンの頃と同じ部屋で、同じように黒いマントをまとって薄暗いロウソクのもとで食べることに喜びを見出すほど伝統を重んじていました。論理を強く主張する人は煙たがられていました。

以心伝心や腹芸さえありました。同じアングロサクソンとは言っても、アメリカとはまったく違う国柄だったのです。

そこでは論理などより、慣習や伝統、個人的には誠実さやユーモアの方が重んじられていました。

改革に情熱を燃やす人もいましたが「胡散臭い人」とみられている様に感じました。紳士たちはその様な人を「ユーモアに欠けた人」などど遠回しに評したりします。

イギリスから帰国後、私の中で論理の地位が大きく低下し、情緒とか形がますます大きくなりました。

ここで言う情緒とは、喜怒哀楽のような誰でも生まれつき持っているものではなく、懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるものです。

形とは主に、武士道精神からくる行動基準です。

ともに日本人を特徴づけるもので、国柄とも言うべきものでした。

これらは昭和の初め頃から少しづつ失われてきましたが、終戦で手酷く傷つけられ、バブル崩壊後は突き落とされるように捨てられてしまいました。

なかなか克服できない不況に狼狽した日本人は、正気を失い、改革イコール改善と勘違いしたまま、それまでの美風をかなぐり捨て、闇雲に改革へ走ったためです。

経済改革の柱となった史上原理をはじめ、留まることを知らないアメリカ化は、経済を遥かに超えて、社会、文化、国民性にまで深い影響を与えてしまったのです。

金銭至上主義に取り憑かれた日本人は、マネーゲームとしての、財力にまかせた法律違反すれすれのメディア買収を、卑怯とも下品とも思わなくなってしまったのです。


ライブドアがフジテレビを買収しようとした頃(2005年)懐かしい。


その後ライブドアが粉飾決算(2006年)で問題になったのは


覚えてるけどテレビ局買収はすっかり忘れていた。


野球の球団も買収しそうになったのもその頃かだったか。


テレビも野球も興味がないから忘れてしまったけど。


いずれにせよ、「古い価値観」の人たちには、


ホリエモンさんたちというか、


現代社会に生きる人たちの全てではないけど


近代合理性の論理は嫌われそうだよね。


と「古い価値観」と一括りにするんじゃねえ、若造!


武士道精神を復活せよ、なんだよ!と言われてしまいそうだし


読むと一理も二理もあるのだけど。


余談だけど蔑称とかアイロニーで(今風でいうディスってる)


言ってるるわけじゃないすからね、


この場合の「古い価値観」って。


どちらかというと、今風にいうとリスペクトで


使わせていただいてます。


戦後、祖国への誇りや自信を失うように教育され、すっかり足腰の弱っていた日本人は、世界に誇るべき我が国古来の「情緒と形」をあっさり忘れ、市場経済に代表される、欧米の「論理と合理」に身を売ってしまったのです。

日本はこうして国柄を失いました。「国家の品格」を失ってしまったのです。

現在進行中のグローバル化とは、世界を均質にするものです。

日本人はこの世界の趨勢に敢然と闘いを挑むべきと思います。

普通の国となってはいけないのです。

欧米支配下の野卑な世界にあって、「孤高の日本」でなければいけません。

「孤高の日本」を取り戻し、世界に範を垂れることこそが、日本の果たしうる、人類への世界史的貢献と思うのです。


「第7章 国家の品格


「国際貢献」を考えなおす」から抜粋


いま、国際貢献などと言って、イラクに戦えない軍隊を送っています。

とても賛成する気になれません。

なぜならそんなことをしても誰も日本を尊敬してくれないからです。

「アメリカの属国だからアメリカの言いなりになっているだけ」と思われるのがせいぜいでしょう。


そもそも今のアメリカに、手前勝手なナショナリズムはあっても「品格」はありません。

9.11のテロでもかき消されてしまいましたが、京都議定書の批准を拒否、国際人道裁判所の設置にも反対、そして自分の言いなりにならない国連に対しては分担金を滞納さえするのです。

日本はアメリカの鼻息をうかがい、「国際貢献」などと言うみみっちいいことを考える必要はまったくないのです。

本気で世界に貢献したいのなら、「イラクの復興は、イスラム教にどんなわだかまりもない日本がすべて引き受けよう。

そのために自衛隊を十万人と民間人を一万人送るから、他国の軍隊はすべて出て行け」くらいのことを言えなければなりません。


これは言えないだろう。国内世論が…みたいな感じだろう。


学者の言いそうなことで、政治がわかってらっしゃらない、


と言われてしまうんだろうね。政界では。


翻って、自分、ここまで極論は賛同できないです。


どうにかうまく手を組めないものか、


古い価値観と新しい価値観で協議して仮説、実行、改善するには。


すべてを満たすことはできないにしても。


 


「「神の見えざる手」は問題を解決しない」から抜粋


市場原理が猛威をふるっています。

各自が利己的に利潤を追求していれば、「神の見えざる手」に導かれ、社会は全体として調和し豊になる、と言うものです。

自由競争こそが素晴らしい、国家が規制したりせず自由に放任する、すなわち市場に任せるのが一番良い、と言うものです。

これは、アダム・スミスが『国富論』で示唆し、続く古典派経済学者たちが完成させた理論です。

これがあっては、現代に生きる人々が金銭至上主義になるのは仕方ありません。

金銭亡者になることが社会への貢献になるのですから。

呆れるほどの暴論です。

各自の利己的な利潤追求を自由に放任していたら、ゴミ問題ひとつ解決しないのです。

福祉はどうなるのでしょう。

必然的に弱者や敗者が大量に発生しますが、誰が救済するのでしょう。


アダム・スミス以来の、戦争、植民地獲得、恐慌に明け暮れた二世紀が充分以上に証明しています。

イギリスの経済学者ケインズが、これを1930年代になって初めて批判しました。

当然です。

それまで正面から批判するもののいなかったことの方が驚きです。

ケインズは、国家が公共投資などで需要を作り出すことの重要性を指摘したのです。

これは「ケインズ革命」と呼ばれるほどの驚きで迎えられましたが、これに従ったアメリカのその後の成功があって定着しました。


「新自由主義経済学の「異端性」」から抜粋


ところがアメリカの経済がうまくいかなくなってきた1970年代から、ハイエクフリードマンといった人々がケインズを批判して、再び古典派経済学を持ち出してきました。

もし経済がうまく行かなければ、どこかに規制が入っていて自由競争が損なわれているからだ、とまで言う理論です。時代錯誤とも言えるこの理論は、新自由主義経済学などと言われ、今もアメリカかぶれのエコノミストなどにもてはやされているのです。


これはアダム・スミスの二番煎じに過ぎません。

アダム・スミスはジョン・ロックの経済版にすぎず、ジョン・ロックの説はカルヴァン主義を自分流に取り込んだだけのいかがわしいものです。

予定説を一大特徴とするカルヴァン主義は、キリスト教でもプロテスタントの一部が信奉するにすぎず、カトリック、ギリシャ正教、ロシア正教などは無論認めていません。


「キリスト教原理主義」から抜粋


恐らく教会の過剰な権威を否定するために生み出されたカルヴァンの予定説と、王権神授説に対抗し個人の権利を確保するためにカルヴァン主義を利用したロックの自由、平等、国民主権などが、現代のすべてです。

アメリカを旗手として世界を席巻しつつあるこれらは、一言で言うと「キリスト教原理主義」です。

キリスト教もイスラム教も尊敬すべき立派な宗教ですが、「原理主義」がつくと一転して危険思想になるのです。


「品格ある国家の指標」から抜粋


その① 独立不羈(美しい情緒)

その② 高い道徳

その③ 美しい田園

その④ 天才の輩出


楯の会を結成した後の三島由紀夫みたいな言説だなあ、


と読みながら思ったけど、それは自分が


民主化された戦後教育を受け、そういう価値観で


育ったからなのかな。凡庸な頭では難しい、


だけど、なんか引っかかる。分析には時間かかる


そんな時間と地頭あるのか。


アダム・スミスというのも最近よく見聞きするな。


これからの日本とか世界とか


考えざるを得ない日々を過ごしているからだろう。


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