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2冊の養老・池田先生の対談から日本を考察 [’23年以前の”新旧の価値観”]

養老・池田両先生の忖度なし対談が面白くて、


このところ読み漁っている。


忖度なき態度が爽快。



脳が語る身体―養老孟司対談集

脳が語る身体―養老孟司対談集

  • 作者: 養老 孟司
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 1999/08/01
  • メディア: 単行本

脳の形式を見る(1991年)


対談者・池田清彦(生物学者)


 

▼養老

僕は、動物愛護の問題というのは、

現代、かなり深刻になってきちゃった裏には、

それだけじゃないとは思うけれども、

人間と動物をどこできるかという問題、

しかもそれには「意識」が絡んでいるということが

あると思うんです。

今までキリスト教徒は、人間と動物の間を

すぱっと切っていたんだけれども、

そこがうまくきれなくなってきている。

僕の知っている限りでは、ドナルド・グリフィンが最初に

「動物に意識はあるか?」と問いかけて、

その場合の意識はawarenessというふう本に書いています。

でもこれは日本でよく行われる議論から考えれば、

案外プリミティヴな気もしますね。

というのは、僕らはどちらかといえば、

”一寸の虫にも五分の魂”なんて言って(笑)、

動物と人間は繋がっていて当たり前だというふうに

思っているところがありますから。

問題は、その魂が自分自身をモニターしているかどうか、ですね。

そして、モニターする機能そのものを「意識」と考えると、それでほぼ話は尽きちゃっているんじゃないかなと思います。

そういう意味では、デカルトが最初に「意識」というか「思考の現実性」ということをいった。

これは要するに、人間には現実感というのがあるけれど、これがどういう対象に付着するかという問題だと僕は考えています。

そうすると、それがお金にくっつく人もいるし、抽象思考にくっつく人もいる。

例えば最近、フランスの神経生理学者にシャンジョー(Changeaux)と数学者の対談を読んだのですが、そのなかで数学者が「数学的世界は実在する」という。

するとシャンジョーが「それはどこにあるんだ?」という質問をするんですね。

もちろんシャンジョーの期待した答えは「脳の中にある」というものなんだけれど、数学者はガンとして「やっぱり数学的世界にある」と言い張る。

そうして「それは大勢の数学者に共有されている」と答えるんです。

 

▼池田

数が実在するというのは、数学ができる人ほどそう思ってますね。

 

▼養老

ええ、そうなんです。それは僕は当たり前だというんです。

というのは、脳の中にもし実在感というのを与えるような

部位があるとしたなら、長い間「数学」を

やっているとそれは数学と結びついてしまう。

さっきデカルトについて行ったのもこれとまったく同じです。

長い間「抽象思考」をやっていると、抽象思考と実在感が

くっついて、「抽象思考こそ実在するものである」となって、

つまりコギトになる。そう考えると、たとえば「お金」が

そうなってもちっとも不思議はないんであってね(笑)。

兜町あたりへ行ってそこにいる人に聞いたら、

やっぱり株の上がり下がりとか株そのものは実在しているんだ

という感覚で生きているんじゃないかと思うんですよ。

 

▼池田

なるほどねえ。(笑)

 

▼養老

じゃあ、動物にそういうものはあるかというと、

やっぱり動物だってある種の実在感は持っていると思うのね。

 

▼池田

「知性」というのは普通、いろいろなことを考える論理的な能力だとか相手を見分ける能力とかさまざまですが、「知性」がどの動物にもあるというだけなら、割と納得しやすい話ですよね。

ただ、そういうことをやっているさまざまな知性がモニターする知性

ーーー「自我」とか「意識」と呼ばれるものーーーが

あるかどうかというのは、脳の大きさだけから分かるものなんでしょうか。

 

▼養老

大きさからだけでというと確かに問題はあるでしょう。

ただ、感覚器だって、”五感”というくらい違っていて、そういった違う感覚器から入るのに、いったん脳の中に入ってしまうとそれは信号に変わるから、いわば「同質」になってしまう。

ちょうどそこで社会的な比喩をとれば、「お金に変わる」ような感じといったらいいかな。

つまり数字がついている。そういうものにすべて変わってしまう。

だから頭の中で我々は、「経済をやっている」わけで、いろいろな無関係のものを交換しているわけです。極端にいえば、感覚を運動に交換ししまうというような非常におかしなこともやっているわけで、それはちょうど人間の社会で

「お金」が自由自在に通行するのと同じですね。


動物愛護について、外来種規制法など


しばらく前から取り沙汰されてるけれど、


養老さん、池田さんにたちにするとこれも環境問題の一部であり、


「グローバリズム」の弊害であるとの指摘をされている。


以下の対談時(2008年)ではまだ「グローバリズム」


という表現はされてないけれど。



正義で地球は救えない

正義で地球は救えない

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/10/01
  • メディア: 単行本

池田先生の前説「ニセモノの環境問題」から抜粋

ほんとうの環境問題』の中でも少し紹介したように、

「地球温暖化」論自体がウソであると言っている科学者は

少なからずいる。あるいは、地球温暖化は事実で

あったとしてもその主因はCO2ではない、と言っている科学者はもっと多い。

残念ながら、そのような意見が全国紙やテレビなどの

大きなメディアで取り上げられることはほとんどない。

私自身も、ある全国放送のテレビの報道番組から、

北海道洞爺湖サミットを前に特集を組むから番組に

出てくれと依頼を受けていたが、

直前になってよくわからない一方的な理由を言われて

出演が突然キャンセルになったことがあった。

ラジオや週刊誌といった、比較的マイナーなメディアでは

「今の地球温暖化対策は意味がない」というような意見を

好意的に取り上げてくれるのだが、

一方で、メジャーな大新聞にはまずそのような意見は載らないし。

テレビの報道番組もまた同様である。

この国では、大きなメディアになればなるほど、

日本政府・環境省が立ち上げた「地球温暖化防止大規模国民運動」に

ただ乗っかっている。

大きなメディアほど体制に迎合的で、まるで大本営発表のような

報道姿勢になっているのではないか、と言いたくなる。


日本でも、北海道の穀物の生産量は温暖化すれば

増えると考えられる。

一方九州では、例えば現在作っている品種の米作には

不適な地方になるのかもしれない。

そうしたら南国に適応的な農作物をつくるというふうに

シフトしていけばいいし、そうするしかないのだ。

今ある状態をベストだと保守的に考える人は、

あらゆる変化を「異常」ととらえてしまう。しかし変化に

適用する知恵や技術を開発したほうが合理的である。

温暖化にしても、温暖化に適応することを考えるほうが

現実的であって、止められない温暖化を「止めましょう」との

お題目をただ唱えていたってしょうがないのである。

一応ひとこと付け加えておくと、私は、CO2排出量削減に

まったく意味がないと考えているわけではない。

それは、地球温暖化に歯止めがかけられるからではなくて、

CO2の排出量は省エネ化を進める上でのひとつの指標になりうるからだ。

言うなれば、ただそれだけのことなのである。

温暖化しようがするまいが、限りあるエネルギー資源を

効率よく使うことは大切だろう。


相も変わらず何のためになるのか

わからない「CO2排出量削減」を国家的な運動にしてるこの国に、

未来のためのエネルギー戦略があるようには見えない。

二十一世紀の世界覇権を握るのは石油に代わるエネルギーの

安定供給をいち早く確立した国である

そのことに自覚的でないことが、地球温暖化よりも

ずっと恐ろしいことのように思える。


繰り返すが、アライグマにせよブラックバスにせよ、

それによって滅ぼされた在来種はいない。

それに、環境省によって「外来生物」と呼ばれている当の

動物からしてみれば、自分は日本で生まれた日本の動物なのだ。

祖先が「外来」の出自であることを理由に差別するのは

悪き国粋主義ではないのか。

少し前に、和歌山市と海南市に200頭ほどの

タイワンザルがいることが問題になった。

動物園から逃げたタイワンザルが野生化し、

近所のニホンザルと交配しているという。

和歌山県はタイワンザルおよびタイワンザルと

ニホンザルの交雑個体を捕獲して殺す方針を決め、

日本生態学会もこれを支持した。タイワンザルを

逃してしまった動物園に落ち度はあっても、

逃げて野生化したタイワンザルに罪は無い

ましてそのタイワンザルとニホンザルが交配して

生まれた子供のことを「遺伝子汚染」を

理由に殺す行為は常軌を逸している

野生で頑張って生きているサルを捕まえて、

遺伝子汚染を理由に殺すのはサル以下の差別人間のすることであろう。

固有の生態系を保全するという「正義」は、

ナチスがやった殺戮行為に根拠を与えてしまっているのだ。

そんな「正義」などないほうがましではないか。


世界レベルで見ると、効率の良い代替エネルギーを

開発できない限り、畢竟(ひっきょう)、人口を合理的に

減らせなければ、最終的には不合理な事態が起こる。

それが戦争なのか、大量餓死なのか、他の何かなのかは

わからないけれども、大きなクラッシュが起こってしまうだろう。

果たして世界はそれを回避することができるのかだろうか。


そして二人の対談。


▼養老

いいかげんに、無意味な欧米スタンダードを踏襲するのはやめてほしい。

僕は、生まれた時代が古いせいか、そういうのは植民地主義だというふうに、どうしても思ってしまうんですよ。

自分たちのライフスタイルや価値のスタンダードをよその国の文化に押し付けるという傾向が、

反捕鯨にせよ禁煙にせよ環境問題にせよ、とくにアングロサクソンがやることの根底には強くあるよね。

 

▼池田

それが絶対に正しいと思っているのだからどうしょうもない。

盲目的に受け入れる方もどうかしていると思うけれどもね。

 

▼養老

特にアメリカは福音主義だから、福音を伝えることが正義だと信じている。

禁酒法時代に酒の流通がアングラ化した。

今後、日本でも煙草を千円にするとかいっているけれど、煙草もアングラ化が進んだり、あるいはそのうち麻薬のほうが安くなったりするんじゃないか。


▼養老

ブータンに国連の視察の人間がやってきて、子供を働かせているのは児童福祉の観点から見て

問題があると注意されたという話がある。

大きなお世話ですよ。

家族みんなで働いていて、それで何が悪いのか。

欧米の価値基準をブータンに押し付けようとするなって。

世界中でそういうくだらない欧米スタンダードの侵食が起こっていることが僕は非常に気になります。

 

▼池田

人間の感性に従って生きていて、それでうまくいっていれば、

別に西洋的な法律なんて関係ないはずですからね。


▼養老

日本はもともと、一元的な価値に対する解毒剤のような役割を果たせる文化を持っていたと思うんです。

ところが今やそれが危うい。

日本という国はもともと多様性の大事さを認めていたはずで、一神教ではなくて八百万の神を奉ってきたのもその表れでしょう。

つまり、この世界は複雑なシステムで成り立っているということを西洋人よりも感覚的にわかっていたはずなんだ。


もちろん、良いところを踏襲すれば良いのだろうけど、


どうもそう見えない日本のやり方。


思考を停止しているとしか、みたいな感じですな。


色々面倒くさいんだろうな、官庁とか。


言われたことだけやって下手に目立った動きすると、


梯子外され隅に追いやられるだけだったりしそうで。


そこから変えるには、池田さん提唱される、


国を小さく分け、ベーシックインカム導入とかにしないと。


この二人のような忖度なしの発想や


行動は生まれ得ないと思った。


 


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