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安部公房対談集・発想の周辺(1974年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

文学がヒトの人生にも影響を与えていた頃とでもいうのか。


今もなのか、最近の文学を読んでないから言う資格ないのだけど。


50年以上前の対談から抜粋。


二十世紀の文学(1966年)


対談者:三島由紀夫


■三島

僕は僕自身の作品を絶対にエンジョイできないもの。

■安部

それは自己を分裂させた代償だよ。

■三島

ただ、きみの論理の構造というのはね、

つまりきみ自身の中にある読者、それはきみの一部かもしれない。

そういうものが読者という観念の、不特定多数人に

象徴されるという考えだろう。

■安部

そうだそうだ。

■三島

そういう考えには、どうしてもついていけないのだ。

■安部

ついていけないと言ったって、きみだって、

そうでなければ、書けるわけはないと思うよ。

■三島

そうかね。僕はつまり、不特定多数人が僕に

象徴されるという考え方はとても好きだ、

そういう自慢はないけれど、そういう考えはとても好きだ、

そういう考えをもし持っていたら、幸せだと思う。

■安部

でも、今度のきみの芝居を読んで、つくづく思ったなあ、

ああ、これは書かされた芝居だ、書いている芝居ではない。

だからいいんだよ。つまりね、作品として自立できる作品って、

全部そうだよ。

■三島

それは無意識…。

■安部

ベトナムあたりに行って、ガチャガチャ書いたものは、

書いた作品だよ、あれは。

■三島

きみは、それは集合的無意識ということを言うの?

■安部

むずかしいことを言うなよ。

そう言う学術的用語を抜きにしてだな。(笑)

■三島

僕は混沌がとてもいやなんだ。つまり、読者とかね。

■安部

読者は自己の主体で、作者は客体化された自己なんだよ。

■三島

とっても混沌というのは気味が悪いよ。

■安部

気味は悪いさ。

■三島

もちろんそれがいなければ、本が売れないのだけれども。

■安部

いや、そうじゃない。買ってくれないよ、その読者は。(笑)

その読者は絶対に買ってくれる読者ではないのだよ。

作者三島と対話するだけの、孤独な読者だよ。

あんがいそれが本物のきみで、いま喋っているきみというのは…。

■三島

芸術か、一つの。

■安部

君はさっき、理屈っぽく、アクションがあって、

これを取り除いて、選んでと、いかにも意識的に

書いているように言うけれども。

■三島

そう言うふうに書いたんだよ。

■安部

信じないね。

■三島

書いているところを見せたかったな、それは。(笑)

■安部

おれがにらんでいたら、きみ、一行も書けないよ。

(笑)密室でなければ書けないよ、作家は。

■三島

もちろん密室だけれどもね、密室の中の作業だね…。

■安部

密室というのはどういうことかと言うと、

対話だからだよ。そうだろう。

■三島

それはそうだ。芝居はそうに決まってる。

■安部

小説だって同じさ。やはり三島由紀夫というのは、

二人いるのだな。

■三島

おれは、だけれどもう、無意識というのはなるたけ

信じないようにしているのだ。

■安部

信じなくても、いるのだ。

■三島

そうか。無意識の中に精神分析学者になり、

精神病医なりが僕の中に発見するものは、みんな僕が

前から知っていると言いたいわけだな。

だから無意識というものは、絶対におれにはないのだと…。

■安部

そんなバカな。

■三島

絶対にないのだから。

■安部

そんなむちゃくちゃな。この前の宇宙飛行士の

ようなことを言う。(笑)

おれは宇宙飛行士がしゃくに触ったのだよ。

おれが、おまえさん夢見ないのかと聞いたのだ。

宇宙のなかで寝るわけだよ。どんな夢を見たのかと言うと、

おそらくおれは、地球の中にいる夢を見たと言う

答えをするだろうと思って言ったのだよ。

そうしたら、俄然として、夢なんか見ませんでしたと言うのだな。

そんなバカなことがあるわけはないのだよ。

ただ夢を忘れただけの話で。

だからしゃくに触ったから、言おうかと思ったが、

最新のソ連医学ではね、夢は不可欠な休息の要因があって、

休睡眠と脳睡眠とあるのだってね。それでね、

つまり両方とも睡眠したら死んじゃうと言うのだ。

死なないために、つまり体を完全に弛緩させるために、

脳だけ起きているのが夢の状態で、

それでバランスをとっている。

脳を休める時には、今度は体の方をいくらか

弛緩させるというように、バランスをとっているわけだ。

だから夢がなかったら休めない。

両方とも眠っちゃったら死んでしまう。

■三島

そうか。

■安部

それをソ連の医学で発表しているのい、ソ連の

宇宙飛行士がおれは夢を見なかったというのは、

科学に反するではないか。おそらく党の方針に

反するのではないかと思ってね。

■三島

除名だ。(笑)

■安部

話がこんなふうに飛んじゃっちゃあまずいが、

しかし三島くんといえどもだよ…。

■三島

駄目だよ、おれは無意識はないよ。

■安部

そういう変な冗談を言うなよ。(笑)

どうも、結末がつかないな。おれが主導権を取っておれば、

結末をつけたけれども取られちゃったらから、わからなくなってきたよ。

■三島

まあ、これでいいよ。それで、両方でケンカ別れでおしまい。

■安部

そう言うことにしよう、絶対に無意識の

ないものはない、と言うところで。

■三島

どちらを結論にするか、そこが問題だな。(笑)


前にも書いたけど、三島さん、無意識がないって、


そんなわけはないだろう。


意識以外に管理されることが許せなかったのだうね。


楯の会結成後の三島さんの行動とか作品は、


今思うと自分には全くリンクしない。


なんか人間であることを拒絶しているようで


辛いものがあるから。


安部さんも、ソ連の学術論文がそうだからって


宇宙飛行士が宇宙で寝たら


夢見ないってことはあるんじゃないすかねえ。


なんでそんな意固地に論文を現実として信仰するのだろうか。


しゃくに触るっていわれても飛行士は困るだろう。


天才ゆえ、または、若さのなせる技なのかなあ。


余談だけど、全く関係ないけど


対談が若い頃から好きなのは、安部さんのあとがきのような


文章にあるけど、これに近いのかと全く僭越ながら感じた。


昭和49年2月 安部公房


対談嫌いの弁明


対談というものは、速記が始まったところで、

すでに終わっているべきだという説がある。

対談を、対立する意見の勝負だと考えれば、そのとおりだろう。

たしかに速記原稿が上がってからの加筆訂正は、

対立点を曖昧にするし、勝敗をうやむやにしかねない。

極端な場合、証拠隠滅にもなりかねない。

だが、そんな対決だけが、対談のすべてでは無いはずだ。

対談という形式はむしろ、対話に向いているような気がする。

対話には争点や勝敗よりも、発想の展開が問題だろう。

だから、速記の開始どころか、さらにさかのぼって、

相手を選んだ時にすでに終わっているというべきなのかもしれない。

じっさい対談の後、記憶に残っているのは、話し合った内容よりも、

むしろ相手の人格や性格である場合が多いようである。

ぼく自身も、自分の発想の構造を

さらけ出してしまったような不安に

おそわれることがしばしばだ。

しぜん対談の機会も少なくなってしまう。

いくら対決したい相手に事欠かなくても、

対話の相手はそうめったにはいないのである。


自分は安部さんの論法からいくと、


読みたい人が沢山おられすぎて困る。


天才と普通人の違いかね。


興味ある人の「対話」が、


本当に考えさせられるし、面白いから


つい手にとってしまうのだ


と言うことをこれを読んで気がついた。


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