2つの池田晶子さんの対談から「考える」を考える [’23年以前の”新旧の価値観”]
対談っていうか、話し言葉って
例え編集者の手が加わっていようとも
わかりやすくて、自分は好きで若い頃からよく読む。
その人の考えていること、似た思考の人との対話の中に
いろいろな気づきがあり、そこから広がっていくとでもいうか。
岸田秀対談集:日本人はどこへゆく(2005年)
生きること、考えること 対談者:池田晶子
「ソクラテスの「無知の知」が原点」 から抜粋
■岸田
人類が科学的な自然観を発達させたのは、
何か理屈を考えて解ると落ち着けるという幻想を
持っているのですかね。
■池田
解るって何が解ることなのか?
■岸田
自分が解ると思えばいいじゃないですか。
なにか理屈をつけて説明して、その説明がなんとなく
納得できれば、それが解るということでしょう。
そのようにいろいろ解らないことが解るようになれば……
■池田
うん、だからその時にナニナニを解った、という対象を
解ることでしょう。そうではなくて、解るということ自体が
そもそもどういうことなのか、何を何で解ると、解るということなるのか。
■岸田
解る、ということは主観的なものでしょうね。
だから自分勝手に世界はかくかくしかじかのものである、
というような幻想的体系を持っていて、その体系に矛
盾なくはめられると、解ったと思うのですね。
■池田
私は、そこで「何が解ったの?」と聞きたくなるのですね。
なぜかというと、存在するということ自体は
絶対不可能だということが解っているからです。
■岸田
不可能なことは不可能だということが
解っていればいいんじゃないですか。
■池田
だからソクラテスの言った「無知の知」というのは
基本の基本、原点はあそこだと思うんです。
解らないことが解った、というのは前に通じるでしょう?
そこが解ると、無性にいろんなことがクリアになるんですよ。
■岸田
それは当然そうなんですけどね。
本来解らないものを、そのうちに解るんじゃないかと
思いながらいろいろ研究するから、こんがらがるわけです。
しかし、こんがらがるほうが好きな人がいるんじゃないですか?
人間の最大の問題は退屈だと思うんですね。
だから生きていることがどういうことかはわからないけれども、
生きていることがどういうことか解らないワカラナイと、
やっていけば、そのうちにわかってくるんじゃないか、
と探求するのも、退屈を紛らすには非常に
いい手段じゃないかと思うんですね。
すべては不可解で解るはずはないとしてしまうと、
それは真理かもしれないけど、
することがなくなって困るんじゃないですか?
■池田
それは逆です、考えはじめます。
解らないからこそ考えるんですよ。
■岸田
では、なぜ考えるんですか?
どうせ解らないんでしょう。
■池田
考えるということは、答えを求めて
考えるわけではないですよね。
だって、解っていることは考えるはずがないでしょう。
ほとんど妄想的なことを言いますが、
宇宙が存在するということ自体が、
多分そういうことなんですよ。
宇宙そのものが在っちゃった自分に
困惑しているわけですよ。
なんで自分はあるんだろう、と
考え続けることによって宇宙は存在している。
だから、考えたい、というよりは考えざるを
得なくなるんですね。考えることによって
自分であるわけだから。
■岸田
そのように考えざるを得ない、というのは
池田さんの趣味じゃないのかな。
万人に妥当する普遍的な必然性とは思えないですね。
■池田
たぶん、ある種の解らなさを見つけて、
ひたすら考え続けている人たちは、
結構かくれていると思うんですね。
ひたすらじーっと考え続けている。
あの人ヘンだねとか言われながら。
なぜ在るのかって問いを所有してしまったなら、
そこでまず絶句しますね。
次にこれなんだ?ということになりますね。
むろん、存在は謎なんだから、
考えても考えなくてもどっちでも同じですけど。
■岸田
どっちでもいいけれど、身体が一つしかないので
どちらかを選ばなければいけない。
というのが人生の最大の難関なんですね。
■池田
それは苦しいでしょうね。
「悩む前に考える」 から抜粋
■岸田
そこで解らないことをなんとかして解った気になりたい。
この女と結婚しようかあの女と結婚しようか、
どっちでもいいんだけど、二人とは結婚できないから、
どちらかを選んで選んだことを納得したい、となる。
本当はどちらかに決めるなんて不可能なんだけど、
決めなければいけない。だから、とりあえず、
コッチを選ぶ。すると、なんだか不安ですから、
なんか理屈をつけて正しい選択をしたんだと思いたい。
解らない事を解ったと主観的に思い込むことが必要なのですね。
■池田
その時、間違ったことに気づいて、
やり直すことはできないんですか?
■岸田
そうなると離婚しなければならなくなるので、
面倒臭いから、大差なければこの女でもいいや、
ってことになって結婚し続ける。
その時俺は正しい選択をしたんだ、と
思うことができれば非常に好都合なわけです。
■池田
別なことを考えるとか、いろいろな選択があると思いますが。
■岸田
間違えて結婚したんじゃないか、と考えるとか、
別の女と結婚した方が良かったんじゃないかと
考えることもあると思いますがね。そのように考え始めると、
どっちがいいというはっきりした証明が
できるわけはないから、いつまでも考えていなければならない。
そこで、女なんて誰でも同じだ、俺の結婚は間違いも
正しいもないんだということにして、考える事をやめようとする。
でも、そのためには、女なんて誰でもみな同じだ、という
結論を正しいとしなければならない。
けど、それもはっきりした証明があるわけは
ないから、キリがない。
■池田
苦しいですね。それは考えるというより、
たんに悩んでいるというべきですね。
■岸田
悩むってのは、堂々巡りしているんですかね?
■池田
そうですよ。考えていないから悩むんですよ。
だから学生には「悩む前に考えなさい」と言うんですけどね。
■岸田
考えても解ることも解らないこともあるんですから、
悩むことと考えることとは本質的な違いがあるのかなあ。
■池田
向きが逆ですから。全然違いますよ。
日常生活であれこれの選択で悩むんだったなら、
そもそも日常生活とは何か、生存するとはどう言うことか、
解っているはずじゃないですか。
■岸田
しかし、そんな解らないことを考えなくても、
人生は金儲けだと言う目的を考えて送る人生も
あり得ると思いますよ。
■池田
あり得ますよね。
そう言う人って悩まないのですから、
それはそれでいいですよね。
死んだらそれまでよ、ですから。
でも、あれこれ悩み始める限りは考えるべきで、
悩まない人は別に考えなくてもいいんですよ。
■岸田
考え始めるとキリがないですから、
考えることって、趣味の一種じゃないですか?
釣りとか競馬とか野球とか……
いろいろありますけれど、考えるのが好きという
趣味もあると思いますがね。ちがいますか?
「自分がなくなるのは怖い」 から抜粋
■池田
考えることが他の趣味とは違うことは、
自分の生死そのものを考えるってことであってね。
それは釣り好きな人でも、大病して死ぬかもしれない
と言う時は、死ぬってどう言うことだ、と考えざるを
得ないはずですから。やっぱりそれとは違うんですね。
可能性としては、あらゆる人の趣味になりうるわけです。
なぜそれに人々が気づかないかが不思議ですね。
みんな死ぬ死ぬと怖がりながら、人生をやっているわけでしょう。
じゃあ、その死ってなんだろうと考えればいいじゃない。
■岸田
死ぬとはどう言うことかを考えると、どうなりますか。
■池田
それが宗教になると、死後は救われる、となっちゃうんです。
そうではなくて、死後があるかないかの前に、
死とは何かが解らなければ死後の問題はあり得ないでしょう?
そうしてひとつひとつ詰めていくと、解りやすいこと
だと思うのですが、みんなはそういかないんですね。
■岸田
なぜみんなは池田さんみたいに考えないんでしょうね?
■池田
不思議ですね。自分が生きているのだから。
考えるのは当たり前だと思うんですけどね。
怖がられる対象かどうかを考えましょうよ、と
言うのですがその前で尻込みしてしまうのかもしれませんね。
■岸田
死と言うものを考えるのが怖いんでしょうね。
■池田
自分がなくなるから怖い。「無」に対する怖さかもしれませんね。
でも、「無」とはないことなんでしょう、というと
禅問答みたいになりますけど。
池田さんって僭越ながら、知らなくて
岸田秀さんの対談で初めて知った。
まったく岸田さんにひるまない。
というか自分の考えを述べてるだけっていう
意識なのだろうな。
相手が先生だろうが、誰だろうが。
なんか引っかかるところ多くて、
まだ書籍は読んでないのだけど。
その流れで養老先生との対談を読む。
生の科学、死の哲学:養老孟司対談集(2004年)
「”考える”とは、”言葉”とは何か」から抜粋
■池田
”きちんと考える行為”というのは、ある意味で
筋肉の行為みたいなところがありますね。
普通はそこまでいかないから、”考える”を何か
思い悩むことと勘違いしている。
ちゃんと考えると、すごく健康に「あ、筋肉を使っている」
という感じがするんですけれど。
■養老
僕はよく「身体を使え」と言いますね。
つまり「身体を使わないと頭を使えないよ」と。
もともと”考える”というのは身体の動きを
含めて成り立つことだと思うのです。
生まれたばかりの赤ん坊に近い子供は、
当然ものを考えていないと大人は思っていますけれど、
それはたぶん全身で考えているからですね。
一歩歩けば、見えてくるものの姿が違って、
もう一歩歩けばまた違ってくる。
つまり自分で出力して入力して、ぐるぐる回す。
外の世界で考えているわけです。
それがある程度できてくると、一歩動けば、
ものの形や大きさがどう変わるか、
抽象的なルールとしてのみこめてくる。
それが脳みその中に十分入ってくると、
今度は脳の中だけで擬似的に入出力を回すことが
できるようになるから、それが”考える”ということだろうと。
数学者は、今まで外を含めて回っていたものが頭の中で
出して入れて、出して入れてと。
■池田
そういう言い方をすれば、そうでしょうけれど。
でも、私はその手の行為のことは敢えて
”考える”という言葉で言わないのですけれど。
■養老
僕は基本的なものを叙述する枠組みが
理科系になっていますから、そういうふうに説明するのです。
それが根本的には、人文系との自然観の違いなのです。
■池田
私は”考える”という言葉を「本質的な事柄を考える」と
定義して使っていますから「脳の中で回る」と
いう言い方は決してしませんよ。
■養老
人間というのは、同じことをやっても
二通りの説明ができる。
それはもしかしたら”主観”と”客観”。
■池田
そうですね。主観と客観。
見えるもので説明するか、
見えないもので説明するかですね。
■養老
そう。「頭を使え」と「身体を使え」という話は、
ちょうどそれになっている。
「身体を使え」というのは、いわば客観的な説明です。
■池田
見るもので言えばそういうことです。
だけど”脳”という言葉を使えば、
だいたいの人はブツとしての脳を
イメージしてしまうでしょう。
そこは危ないところがあると思うのですよ。
■養老
それはわかります。僕がそう説明するときは、
僕はブツとしてのイメージがあるから。
極端に言えば僕は脳を何千個も扱っていますから。
ところが僕の本を読んでいる人に、脳みそを
触ったことがある人なんて、ほとんどいないわけです。
当然落差がある。
こっちがあまりにも当たり前と思っている感覚が
普通はゼロですから。
誤解しないはずがない。”当たり前”というのが、
いかに人によって違うかということをしみじみ思いますよ。
僕が考えるときというのは、わりあい歩きます。
”歩く”と”考えている”はほとんど同時です。
授業では、立ってしゃべる。立つと必ず動くのです。
それできっと会議が嫌いなのです。座った瞬間に頭が
働かなくなってしまう。だから会議中に本を読むのかな。
でも理科系では「言語は身体運動から始まる」という。
■池田
言語が身体運動ですか。どういうお話でしょう。
■養老
結局は、手真似、身振りですね。子供が言語を
身につけるのは身体の動きから。真似すること自体に、
あるいは人の行動自体に反応する
神経細胞があることがわかってきた。
■池田
また神経細胞ですか(笑)。
■養老
そう。これはミラーニューロンと言って非常に
おもしろいのです。なんでわかったかというと、
サルに電極を入れる。
■池田
またもう(笑)。
先生、そんなこと本気で信じているのですか。
■養老
いや、だって事実だもの。
■池田
私は絶対認めません。騙されませんからね(笑)。
だって、「オハヨウゴザイマス」という言葉の意味など、
どこにもないですからね。物質じゃないのだから。
だから、真似して覚えていくしかないというなら、同意します。
■養老
自分が相手のやっていることと同じことをすると、
さらに強く反応する。そういうことですけれどね。
■池田
それはある状況下で、言葉が与えられたあとの
反応の仕方の話でしょう。
■養老
だから、サルは研究者がアイスクリームを
食っていると反応してくる。
■池田
だから、それはサルの場合で。
■養老
いや、人間にもありますよ。
■池田
じゃあ、いちばん初めの場面に
言葉の意味というのはどうやって現れたのか。
■養老
その話はないです。
■池田
それが知りたいのですよ。
サルの話は措いておいて。
■養老
それはまた別の話でね。
……言葉の意味が現れるのは、ご本人の頭の中。
■池田
頭と言いますか、意識ですよね。
意識は頭の中にあるものではないから。
■養老
だから、言葉は、むしろ中間におかれるわけです。
■池田
はい、そうです。
■養老
いまの人はそう思っていない。
■池田
思っていませんね。言葉の意味なんて本当に、
先生が「石みたいに動かない」とおっしゃった、
その通りですよ。言葉はうごかない。
■養老
言葉は、自分で勝手に動かせると
思っている人がほとんどだから。
■池田
そうですね、自分が言葉をしゃべると思っていますが、
逆なんです。「言葉がわれわれによってしゃべっている」。
人文系の表現でそういうのですけれどもね。
■養老
別の言い方をすれば、だからこそ、
人文系は成り立つ。自然科学の人はそう思っていませんもの。
■池田
思っていませんね。でも人文系の人だって、
言葉は人間の発明ではない、と知っている人は少ないですよ。
■養老
”コミュニケーション”という言葉は、
僕は大嫌いだから言わないのです。
■池田
私もそうです。”コミュニケーション”とか、
”言葉を道具として使う”という言い方は嘘ですよ。
われわれが使われているのですから。
■養老
ある意味でそうですね。
言葉が人と人の間におかれて動かないものだという感覚は、
いまの人はほとんど教えられていない。
だから、僕は借金の証文で説明する、
「10億円のデフレが続いても、
証文は目減りしないだろう」ってね。
■池田
『14歳からの哲学』を書くのでも、
全部で30項目を立てて、順番として最初に持ってきたのが
「考える」。その次に「言葉」です。
■養老
それはどうしてもそうなりますね。
■池田
言葉の不思議ということにまず気がついてもらわないと、
世界の不思議には気が付きませんから
いやあ、すごい。
池田さん、
「私は騙されませんよ」「サルの話は措いておいて」
だからね。
養老先生がたじろいでるのが痛快。
自分は養老信者みたいなものなんだけど、
だじろがされている知の思考っていうか
こういう視点ってすごく良い。
「考える」「存在する」ってのは
やはり哲学的な命題なのだろうね。
余談だけど、横尾忠則さんと草間彌生さんの
対談でも途中決裂しかかったのがあったけど
それを思い出した。
現場にいた編集者はさぞ汗を
かいていたことだろうね。