SSブログ

緒方貞子回顧録:納家政嗣・野林健編(2020年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

2019年に92歳で亡くなってしまわれた


緒方貞子さん。


国際政治学者。日本人初の国連難民高等弁務官、


アフガニスタン支援政府特別代表を歴任。


お年を召してからの方が、チャーミングな


お顔をされていると思うのは自分だけだろうか。


顔はまあ、いいとして、なぜかこの方が


昔から気になっていて読ませていただき、


深かったし知らなかったこともたくさんあった。


「まえがき」から抜粋


国連難民高等弁務官(UNHCR)を退任したときには、

幸い米フォード財団から時間と場所を提供すると

申し出があり、UNHCRの体験を回想録として執筆できた。

それで宿題を果たした気がしていたのだが、

間もなくアフガニスタン復興支援で小泉純一郎総理の

特別代表団を務め、独立行政法人国際協力機構(JICA)の

理事長の職に就いた。

その後も国連「人間の安全保障」委員会で議長を務めるなど、

また10年ほど海外を走りながら考えることが続いた。

こうした活動を資料にあたって整理し直し、

全体を俯瞰することはほとんど不可能のように思われ、

宿題が積み上がっているような気持ちを抱えていた。

インタビューに答える形で回顧録をまとめてみてはどうか、

というお話を岩波書店からいただいたのはそういう折であった。

私の生い立ちから現在に至るまでの活動を通して、

時代の流れ、世界が抱えている深刻な問題、日本の国際社会との

かかわりの一端を、後の検討のために残すことに意味が

あるのではないか、と考えたのである。

今回まとまった回顧録を読み返して、普段はあまり気にしないが、

そういうことだったのか、と気づかされた点がいくつかあった。

ひとつは自分から手を挙げて始めた仕事はあまりなかったと

いうことである。

最初に国連日本代表部で仕事をしたときは、市川房枝先生から

声をかけていただいた。

外務省の要請で国連公使として国連外交に携わった。

この間に国連児童基金(ユニセフ)の執行理事会理事を務め、

国連人権委員会の弁務官の候補になるようにとのお話をいただいた。

UNHCRを退任してからしばらくして、JICA理事長就任を要請された。

いずれもどんな仕事か想像もつかなかったが、自分の能力を

あれこれ考えていたらこういう類の仕事はできなかったかもしれない。

最初の米国留学時、日本から持参したテニス・ラケットを手に

持って大陸横断鉄道駅から出てきたと出迎えの人に

笑われたことがあるが、国際社会を相手にする仕事も、

そのくらいフットワークの軽さで乗り込んで行かないと

なかなか始められなかったのかもしれない。

もちろん行ってみると、これはえらいところに来てしまった、

とその都度思ったものであるが、しかし妙なことに仕事を始めると

俄然ファイトが湧いて、問題の解決に挑むことができた。

周りの人にうるさがられるほど質問をたたみ掛け、

教えてもらいながら始めるが、次第にその仕事が天職の

ように感じられて全力投球することになった。若い方から

「どうすれば先生のように国際社会で仕事ができるようになりますか」

と問われることが少なくない。

私は「自分は普通の人間です」としか答えようがない。

語学・学問的な知識、人間関係など若いときに準備しておいた方が

よいことはいろいろあるが、私の場合、とりあえず現場に

飛び込んでみるフットワークの軽さ、楽天性も大いに助けに

なっていたように思う。

また聞かれたらこのことを付け加えたい。


普通の人間は、国連日本代表を務め上げることは、


なかなか難しいと思うのが普通だろうな。


でもこれを読む限り、成り行き、楽天家であったからこそ


っていうのは、本当だろうね。


世界が大きく変動する中で仕事をしてきたのだ、

というのも今回の回顧録を読んで得た感想である。

私が外務省の仕事を始めたのは、

1970年代の二つのニクソン・ショックで

戦後の秩序が大きく転換する時期であった。

私はその変化を国連の場で肌で感じた。

UNHCRの仕事を始めたのは、ちょうど冷戦が終わったときである。

「ポスト冷戦後」と呼ばれる時代になっていた。

時代が大きく動くと、そこに従来なかったような問題が生じ、

その問題の底辺にはいつも、人間として見過ごせないような

過酷な状況に陥る人々がいる。

冷戦後の難民問題はその典型であった。

内戦下で発生する大量の国内避難民は、

難民条約の対象から外れ、

国家間で救済措置を講じるのも著しく難しかった。

私が取り組んだことの多くは、世界が変化する中で

一番苦しんでいる人々に寄り添うような

仕事であった、と改めて思った。


それまでなかったような問題に対しては、たとえば人道活動に

軍の支援を求めるといった従来の常識から

いささか外れるような行動や措置が必要になった。

そういう私の決断は、多くの友人や同志というべき部下に

支えられて可能になったと思う。

人々が逃げ惑う悲惨な状況は、イラクやボスニアにも、

ロシア、ルワンダにもあった。

しかし自己利益に執着する国家、

のろのろとしか機動しない国際機関に、いつも悩まされ、

絶望的になることもしばしばあった。

そういうとき、私は世界の多くの友人から的確な

助言や心温まる支援をいただくことができた。

ブトロス=ガリ、コフィ・アナンの歴代国連事務総長、

ラクダール・ブラヒミ国連事務次長、

ダボス会議のクラウス・シュワブ夫妻、

そのほか名前を挙げることができないほど多くの方と、

苦境を乗り越えるためにともに取り組んだことは、

私の誇りである。

そして具体的な政策や新しい行動の多くは、

実は現場の知恵から生まれたという思いも強い。

難民支援の現場の声を挙げたUNHCRの職員、

赤十字国際委員会(ICRC)、世界NGOの要員たちは、同志であった。

私の仕事の多くは現場の状況を直接見ることから始まったが、

新しい政策枠組みとしての「人間の安全保障」という考え方も、

そういう現場からの説明や報告、助言を

基礎に組み上げられたものであった。

そしてそういう活動の中で部下や同志が

命を落としたことも、忘られない。

私の最も辛かった出来事である。

人道支援の仕事は、そういう犠牲の上に

成り立っているとの思いを新たにした。


部下や同志を自分が陣頭指揮をとる中で


亡くしている経験というのは、


及びもつかないけれど緒方さんの中で生涯消えない痣には


なってしまったんだろう。


しかし、想像通り、現場に足を踏み入れて身体で感じたものを


信じるタイプだった。


よく映像で出てくる、防弾チョッキを着て現場を


歩いている姿ってのはそういうことだったのだろう。


机上の人じゃあ、ないよね、あの当時、


あれだけの場所で防弾チョッキだからね。


緒方さんのいう「寄り添う」は


そんじょそこらのビジネスマンが使う


同じ言葉とは重みが違いすぎる。


こういう実務にあたりながら、私は他方で

研究者の目でも日々の出来事や政策の作られ方を見ていたようである。

これも回顧録を読み返して得た感想であった。

私のものの考え方にとって大きかったのは、米国留学であったと思う。

まだ戦争の傷跡が深く残る日本から、世界で最も豊かで、

最も心身ともに余裕のある時代のアメリカに留学できたことは、

勉学だけでなく世界を見る私の感性にまで大きな影響を与えた。

最初のジョージタウン大学、ついで二度目の

カルフォルニア大学バークレー校に留学したときは、

多くの優れた教授陣に出会ったが、ここではとりわけ当時の

国際政治学の最先端であった外交政策決定過程論に関心を持ち、

後に満州事変の政策決定過程を博士論文にまとめた。

私の活動を振り返ると、問題への対応に迫られたときに

この分析枠組みを用いて概念思考している自分を感じたことも多い。

それはこの時代の知的訓練の所産であろう。

最後に日本外交についても考えさせられるところがあった。

私の国際的な活動が、外務省の仕事から

始まったことに何か縁のようなものを感じた。

祖父の芳澤謙吉、父の中村豊一も外務省で仕事をしたからである。

曽祖父・犬養毅の追悼会に集まるときにも、

政治や国際関係のことが話題になる環境に育った。

本書は父祖の代が日中戦争の下で中国問題に

苦しんでいるあたりから始まっている。

それから70~80年後のいま、日本外交はどうなったのだろう、

という感慨を禁じ得なかった。

日本は、父祖の時代の日本よりも外に開かれ、多様性に富み、

想像力豊かになり、国際社会で責任ある行動を

とれる国になったのであろうか。

私は国際社会に関わる仕事をしながら、

日本国内の政治における関心のあり方、問題意識、行動のスピード感が、

国際社会の動向と開きがあると感じることが一再ならずあった。

豊かで安定してはいるが、日本は政治のみならず、

経済、社会、教育まで大きな問題を抱え、その課題への向き合い方が

よく見えなくなっているように感じることがある。

杞憂であることを念じている。


果たして杞憂になっているのだろうか、今の日本は。


すべて「オン・ザ・棚」になってやしないだろうか。


若い頃に身につけた思考法が有効って羨ましい。


自分ももしかしたらそうなのかもしれないけど。


それにしても文章から、すごくお人柄が伝わってくる。


緒方さんの口述筆記っぽいので、編集された筆致も


あるだろうけど、こういう人だったのだなあと感じた。


グローバル化というのはジワジワ進行するので、

意識しにくいのですが、環境のように地球全体が

抱える問題は深刻化するし、国内の人々の動き方も激変しました。

途上国の内戦に伴う難民や避難民の問題は、

人間の倫理観や国家の道義性まで問う状況を生み出します。

堅い国家の枠にしがみ付くようなやり方では

うまく対応できなくなっているのです。

そういう中で東日本大震災が起きました。

「3.11」は文字通り、日本の全てを揺さぶりました。

想像を超える規模の巨大地震と原発事故が起きて、

それに対応する政治力や組織力、技術力を日本が

十分に備えていないことを世界に曝け出すことに

なったのではないでしょうか。

このままでは、日本は国際社会の中で今の位置に

留まることすらできないと思います。

日本はまず足元から固めることから始めなくてはなりません。

そのために何が必要かといえば、それは多様性、

英語でいえばダイバーシティ(Diversity)だと思うのです。

逆説的に聞こえるかもしれませんが、

世界は多様性に基づく場所だということを心底から受けとめ、

自らも多様性を備えた社会に成長していくことだと思います。

私は、日本がもっと多様性に富んだ社会になってほしいのです。

創造性とか社会改革の力はいずれも

多様性の中からしか生まれようがないのですから。

日本は世界というところがまだ多様な文化や価値観、

社会から成り立っていることを、

頭ではわかっていたかもしれませんが、

経験的には十分に認識していなかったのでは

ないかと思うのです。

自分たちとは異なる存在への好奇心ですとか、

尊敬・畏敬の念を十分備えているとは

いえないのではないでしょうか。


世界の貧困を肌で感じ、指揮をしてきて、痛みを感じた、


本物のインテリジェンスである緒方さんの言葉は、


どんな日本の政治家よりも重たい。


きちんとした政治家も、まあ、中には、いるんだろうけれども。


異なるものを認め、そこで対話を開く

というのは頭で理解するほど容易ではありません

現実にはそのプロセスには

苦痛も多いでしょう。努力がいるのです。

異質な他者を認め敬うなどということは、

自然には起こりません

ですからできるだけ早くから多様性に

対する感性を養うのが重要です。

そのことが日本に活気を与え、

閉塞感を打開することにつながるのです。

これからの日本の進むべき道は

あると私は思っています。


これからの日本に必要なものは、と問われると。


最も大事なのが教育です。

日本の教育の最大の問題は、

やはり画一的であることだと思います。

子どもたちは同じ教科書で、

一斉に同じことを学ばされています。

異なる意見をぶつけ合って、

自分の意見を鍛え上げる、そして学び合う。

日本の教育は大学を含めて、いまだにそうした

訓練の場になりきっていないのではないでしょうか。

世界の中で生きていく力を身につけるための、

多様性をはぐくむ教育を積み重ねていくべきです。

語学力はもちろん大事ですが、

語学はあくまでツールで合って、

目的ではないのです。

「英語力=グローバル人材」だと思ったら

間違いです。

そもそも、グローバル人材という言葉が

氾濫している昨今の風潮自体がおかしいのです。

より広がりのある視野を持とうとする好奇心

異なる存在を受容する寛容

対話を重ね自らを省みる柔軟性

氾濫する情報をより分ける判断力

そうした力の総体こそが求められているのです。

これからの日本に本当に必要な力はそうしたものです。


英語=グローバル人材って、短絡するぎるってのは、


国際社会で活躍する人って同じこと、言われるよね。


確かに英語喋れればいいってわけじゃない。


音楽に例えると、いくら演奏技術が高くても


それが心を打つかというと、別の話。


かつ、曲を、詩もかけるか、となると


全く演奏能力とは異なるといったところか。


こういう多くの女性が、


政治に関わってくれるといいのにな。


余談だけど、小泉内閣時、某女性議員が辞めたとき、


オファーしたら断ってたよね、緒方さん。


ぜひやって欲しかったけど、他の仕事で


忙しかったんだろうなと


いうのは純粋すぎる見方だろうかね。


日本の政治の世界のセンスではなさそうだけれどね。


そこに小泉さん目をつけたのかもしれないけど。


逆に今の日本の政治家の方達、


政治をキャリアとか


ビジネスとしか思っておられない方たち


なるべく早くにお辞めいただき、


個人のスキルで世間を渡っていただくことを


お勧めいたします。


古い価値観ですかね、これ。


さらに余談、緒方さん犬養元首相と親戚だったのだね。


犬養さんの娘さんも国際活動してて


NHKアーカイブ最近観たのだけど、養老先生が大昔に


ホストしてた番組に出てたのを思い出した。


国際活動・支援するのは生半可じゃできないのよ、


という持論を展開されてて


養老さん、タジタジだったくらい、バイタリティ溢れる方で、


緒方さんをもっと先鋭的にした感じだった。


娘さんも、緒方さんと遠縁だったってことなんだろね。


タグ:緒方貞子
nice!(43) 
共通テーマ:

nice! 43