グローバリズムという病:平川克美著(2014年) [’23年以前の”新旧の価値観”]
グローバリズムの思想的な根拠は、自国主義であり、個人や企業の活動の自由を守るためには国家の役割は最低限のものにすべきであり、産業の消長に関しては市場の原理が最優先されるべきだというものである。代わって個人も企業も、自己決定、自己責任でリスクを引き受けなければならない。会社は株主のものであり、その利益を最大化することが株式会社の目的になる。こういった世界観がいったいどこから出てきたのか、そしてそれが世界中に流布されることによって何が起きるのかを考えたいというのが、本書の目論見である。
平川さんは、英語がグローバル人材を
育てることの必須条件ではないと説く。
英語が世界共通語だからと、
子供に「英語勉強しなさい」とか、
自分が就職に有利だからと「英会話」を
勉強してきたことの自らの所業を
短絡的と思わざるを得ないです。
英語以前に、日本人として何を伝えるか、
なんですよね、きっと。
英米人とのビジネスを、習い覚えた英語でやらなければならないという非対称的な関係にもっと注意を払うべきではないのかと思う。それは、フェアでもなければ、合理的でも透明でもない。ほんとうは、単に、やむを得ず、押し付けられたルールに従っているだけなのだ。郷にいれば郷に従えだろうと言われるかもしれないが、郷に入らない選択肢も排除すべきではないのである。少なくとも国民国家の教育理念の中で、グローバル人材の育成という形で、英語を優先させるようなことをすべきではない。それらは、専門学校でやれば良い。英語使いが必要なのは、その程度に限定的な場所だけである。
■発展途上国のマインドから抜け出せない日本人戦後の日本は、世界の歴史上でもまれな速度で経済復興を果たし、民主化を進展させ、都市化をすすめてきた。気がつけば世界有数の経済大国になっており、アジアで最も近代化した国家になっている。しかし、自分たちが成熟国家の住人であるということに関しては、どうやら自覚する構えがないようである。やれ、国際競争力だとか、中国にGDPで抜かれたとか、経済成長戦略だとか、発展途上国のマインドでものごとを考えている。(中略)中国がどれほど急速に経済大国になったとしても、今のところ日本から中国に出稼ぎに出ている若者はほとんどいないが、中国から日本には驚くほどの数の若者が出稼ぎに来ているという事実は覆い隠しようもない。郊外の工場の深夜夜勤、都市部の居酒屋、風俗業界にいたるまで、中国人の姿を見ないことはないだろう。わたしはつい最近まで、秋葉原に仕事場を持っていたが、街を歩いていると、ここは日本かと思うほどたくさんの中国人とすれ違い、耳にする中国語にもはや違和感がなかった。しかし、メディアも識者といわれる人たちも、こういった厳然とした事実を見るよりは、GDPで日本が中国に追い抜かれたというような漠然とした数値を見て「日本の凋落」を嘆くのである。日本は凋落しているのではない。成熟してしまったのだ。
コロナを通した現在、ちと異なる部分もあろうかと
思いますけど、概ねまだその傾向はあると思う。
「成熟」してるのであれば我々がとるべき
選択、行動ってなんだろうか。
何を考えるのが最良なのか。
それよりも、今世界は何をしようとしているのか。
■グローバリズムとは何への対抗イデオロギーなのかわたしが批判の対象として考察しているのは、グローバリゼーションではなく、グローバリズムというイデオロギーのことである。グローバリゼーションという現象は、それ自体としては批判しようが、すまいが、不可逆的に進展する人類史的な現象であり、緩やかだったり、奔流のように急激だったりする緩急の差はあっても、それ自体完全に止まることは無いだろう。では、グローバリズムとは何なのかということになるだろう。(中略)ソシアリズム、コミュニズム、キャピタリズム、といった生産方式にまつわるイズムから、キュビズム、フォービズム、ミニマリズムといった芸術表現に現れたイズム(主義)に至るまで、およそイズムというものは歴史上単独で存在したためしはない。なぜなら、イズムとは必ず先行する理念や方法といったものに対抗するかたちで現れてくるからである。イズムは常に敵を必要としており、それらを打倒する新しい原理として現れるといっても良いだろう。だから、それらは必ず闘争的になるか、あるいはニヒリズムのようにすべてを否定するような言辞によって表現されることになる。(中略)では、グローバリズムとは、誰が生み出し、何に対抗して現れたイデオロギーなのか。グローバリズムというイデオロギーについて、最初に考えなくてはならないのはこのことである。何に対抗して現れたのかを知るときに、このイデオロギーの輪郭がはじめて明確になるからである。結論を先に述べるなら、グローバリズムを作り上げたのは、「株式会社」というシステムであり、「株式会社」というものが対抗する障壁とは「国民国家」そのものである。
この書籍は三部作で
「株式会社という病」
「経済成長という病」に
次いでいるというのを「あとがき」で知る。
やっちまった感、この順番で読めばと
後悔先に立たず。
でもまあいいすかね。
「病」はわたしたちが生きている証のようなものであり、死んだ人間はそもそも「病」にはなりようがありません。生きているとは、まさに「病」を抱え込みながら、それと付き合いながら、やりくりしている状態がデフォルトだということです。
グローバリズムについて申し上げるなら、グローバル化というものが歴史の必然であり、グローバル化の波に乗り遅れたら、国家は滅びてしまうというような検証もされていなければ、論理性もないような言説が先行していますが、グローバル化とはなぜ起き、グローバリズムとは何であるのかということに関しての、現実的な思考はあらかじめ排除されたところから、議論がスタートしているように思えるのです。こういった問題を前にしたとき、わたしはできる限り現実的でありたいと思っています。現実的とは、いつも思考の原点に立ち返りながら、それが「常識」に反していないかどうかを検証するということであり、希望や思い込みやイデオロギーといったことから距離を置いて現在を観察してみるということだと思っています。
ひらがなをあえて多く使われていて、
とてもとっつきやすく、
平素に見えて、深い。
政治に強く関係する人は、
読みたくない書籍だろうな。
余談だけれど、大滝詠一さんと
東京ファイティングキッズの御三方
(内田樹さん(思想家) と
石川茂樹さん(Cafe店主) )との対談、
東日本大震災の時、政府に物申す
記事を書いたら、
政府筋から「いかがなものか」と
チクリと
刺されたのって平川さんの
発言だったのかな。
あの対談って誰が
喋っているのか、顔と声が
大滝さん以外、一致しないので
謎だったんだけど、
多分平川さんだったのかな、
と思ってしまいました。
2022-04-12 11:00
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