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[その2] 快楽としての読書 日本篇:丸谷才一著(2012年) [’23年以前の”新旧の価値観”]

快楽としての読書 日本篇 (ちくま文庫)

快楽としての読書 日本篇 (ちくま文庫)

  • 作者: 丸谷才一
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2023/01/27
  • メディア: Kindle版

■黒板のない教室

井上ひさし「私家版日本語文法」

「少年たちは(おそらく少女も)、ことばに興味を持ち、
そのまか不思議な仕掛け(からくり)を
知りたくてうずうずしている。
だからその仕掛けを解明してやれば、
よろこんでついてくるはずである。
それなのに、ただただ暗記せよ、暗記せよと
押すだけだから逃げてしまうのだ」

と井上ひさしは、高校の文法の時間を思い出して云ふ。
ここまでなら誰でも考えることである。
ひょっとすると文部大臣だって、
1年のうち3分の1くらいは似たようなことを考えるかもしれない。
しかしこの小説家=劇作家のすごいところは、それでは一つ自分で
やってみようと決心して、見事にやってのけることだ。
これは井上ひさしの国文法教室なのである。

当然、彼の講義ぶりは、普通の先生の正反対のものになる。
たとへば、例文の選び方。
助詞「ガ」は未知の新しい情報を示す場合に用いられ、
助詞「ハ」は既知の古い情報を示す場合に使はれるという、
大野普の説を紹介するときには『デビィ・スカルノ自伝』の
冒頭を引かれる。
日本人は敬語をたくさん使って恩の売り買いを
するといふ話の時は、なんと、現代日本の代表的湯女、佐藤綾と
小沢昭一の対談の一節が出てくる。
つまり例文だけでも
退屈させないやうに工夫してある。(「週刊朝日」1981年4月)

余談だけれど、NHKラジオ

「カルチャーラジオ 文学の世界 作家・町田康が語る

「私の文学史」」で裏社会の言語「やばい」が

今は普通に使われていると云う言葉の

変遷をこだわり抜かれた

大阪弁で語ってらした。

(阿部寛・広末涼子さんの

タイムスリップ系の映画でも確か 「やばい」が

噛み合わないシーンがあった)

自分はこれに、外来語の普通化ともいうべき

「フォーマット」 「アジェンダ」「マネージメント」「コミュニケーション」「プロセス」

などもそうなのかもしれないと密かに思っている。


■老賢者の講義

中村元「人生を考える」

人生論といふのが私は苦手だ。
書いたことなどないし、読んだこともあまりない。
なぜ嫌ひかというと、偉そうに教訓を垂れるのが
鼻につくのだらう。人生を知り尽くしているやうに、
ああしろ、こうしろと教える態度が、
ひどく敏感な気がする。しかも、学識乏しい連中ほど
好んでこの手の本を書きたがるのだ。

だが、中村元の「人生を考える」は別かもしれない。
第一に比較思想の学者で、その学殖は世界的に
尊敬されている。第二にインド、中国、日本の思想に
詳しく、つまり普通我々が親しんでいる西洋思想とは
違ふ観点からものを見る。もちろん西洋思想にも
精通している。そして第三に、79歳で東方学院院長の
職にあり、しかも研究にいそしんでいる「老賢者」で、
人生について語る資格がありそうに感じられる。
そんなふうに見当をつけて読んでみると、果たして、
じつに面白い本だった。

たとへば中村は、生きるといふのは何が生きるのか、
心が生きるのか、からだが生きるのか、と問ふ。西洋の
哲学で身体の問題が大きく取り上げられるようになった
のは第二次世界大戦後だつた。そして東洋には昔から、
身体は霊魂に付属的なもので、霊魂を迷はせ、汚すもの、
あるいは制約するものといふ考え方があつた。ところが
日本に仏教が入ってくると、人間の現実性を重んじて、
身体の位置を高めた。そして道元は、「心が悟るのでは
なくて、からだが悟るんだ」と言つた。これは仏教思想
史上で革命的なことである。
インドでは、身体とは種々の要素から構成されているもの、
と考えていた。さう言えば英語のBodyも集りを意味する。
そして心は身体に対立するものではない。心は比喩的に
言へば一種の光のようなもので、広がりも、
かたちも持たないが、働きを示す何かがある。
それが身体を即して現れる。この身体は社会的連関の
なかに生きているもので、さらに、大自然といふ宇宙の
一部である。
こんなふうに著者は説明する。現象学からギリシャ哲学、
インド思想から日本仏教までを自在に、らくらくと
ゆき来して、「心とからだ」についての考へ方を
指摘するあたり、最上の哲学入門になっている。

しかも身体と社会及び宇宙との関係を語りことで、生きることを励ます態度は、まさしく人生論そのものだろう。

こんな調子で「在る」について、自己について、
生き甲斐について、と哲学的談話が続く。それは
碩学(せきがく)がくつろいでおこなふ講義で、
楽しい閑談がときどきまじる。しかし急所の
ところでは信念が吐露される。
例えばカントが普遍的な真の宗教信仰は第一に
全能な天地創造者である神を信ずることだと言った。

「けれども、全能な天地創造者と云うものを考える
必要があるのかどうか。われわれは、なぜかは
知らないけれども、こうして生まれてきたわけですね。
生まれてきて生きていると云うことは、同時に無数に
多くの条件、制約に動かされて、目に見えない多くの力に
動かされていることですね。それを、全知全能な意志を
持った人格としての一人の神に帰ることが必要かどうか。
これはようするに西洋人のローカルな信仰であって、
人類一般にとっては何ら必要のないことなのでは
ないでしょうか」(「週刊朝日」1991年7月)

書評の一つを、全文引用してしまいました。

ども、すみません。

販売数やブランドに影響力のないブログゆえ

見逃してください。

全文引用は若干後ろめたい。

でもどこも割愛できなかったのです。

中村さんの本、昔持ってましたよ、

有名な「ブッダのことば」。

全く読んだ記憶がない。

もしかしたら夢だったかもしれない。

中村さんってこんなラジカルなことを

おっしゃるかただったのですね。

口調は柔らかくとも。

この本は興味が出てしまった。

余談だけれど、丸谷才一さんの書籍は初でした。

引用のため、テキスト打ちしてたら

旧仮名遣いが多く、自動予測や変換で

出てこない字も多かった。

こんな形でも日本語の新旧チェンジが

行われるという、 そんな時代なのかもしれない。

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