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伊丹監督の書から”昭和”を感じる [’23年以前の”新旧の価値観”]


問いつめられたパパとママの本 (中公文庫)

問いつめられたパパとママの本 (中公文庫)

  • 作者: 十三, 伊丹
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2011/08/25
  • メディア: 文庫


過日読んだ吉川さんの書


「遺伝子か運か」の章で


”問いかけが子供じみている”ということの


引き合いとしてエクスキューズにあったため


インプットされてて思わず購入して拝読。


序章と思われる何も表記のないところから


抜粋


この本を私は、生まれつき非科学的な人、つまりあなたのために書いた。

理数科にうとく、どちらかといえば文学的なあなたに、まるで講義のようにどんどん読めてしまって、そうして読み終わった後、自分が地方の高校の物理の先生にでもなったような、そういう気分にさせるような本を私は贈りたいと思ったのであります。

さよう、講談のように読めてしまう、そうして講談のようにわかりやすい、これが、この本を書くにあたっての私の眼目でありました。

つまりおもしろくなくては困るのであります。


実用的にみるなら、また、この本は、ホラ、子供がよく親にいろんなことを訊くじゃありませんか。

「空ハナゼ青イノ?」「オ月サマハ、ボクガ歩クトドウシテツイテクルノ?」

そうして、そういう時の親の態度というのが大切なのですよ。

実に大切だ。

子供の心は染まりやすい。

確信のない、ごまかしの返事をしたり、

「うるさいわね。ママ、いま忙しいのよ、サ、いい子だからあっち行って遊んでらっしゃい」

などと逃げをうつ。

こういうことが罪かなさると、折角の子供の好奇心の芽がどんどん摘み取られてしまって、遂には知識欲のまるで乏しい子供ができてしまう。

そうなってしまってから、子供を塾なんぞへいれて、やいのやいの勉強しろったって、そりゃ子供が可哀そうだよ。

向学心をひからびさせちゃったのはあなたなんだからね。


痛いとことをついてくる子育て論のようで


やはり感性の強い人は世の流れより早くから


着眼点が優れているようで。


しかし、この頃はまだ子供がいなかったようで


”あとがき”からは子供が生まれて少し


考え方がお変わりになったご様子。


あとがき 


昭和51年8月 から抜粋


子供もいないのに「婦人公論」に請われるままこんな本を書いてしまってから、すでに10年の歳月が経ちました。

今では私も二人の子持ちであります。


実際に自分で子供を育ててみると、やはりこの本を書いた当時とは若干考え方を変えざるをえなかった部分が出てきている。

今日はその辺をお話しして「あとがき」に代えたいと思うわけです。

考え方の変わった部分とは、性教育に関してであります。


実を言うと、私は最初の子供が生まれた時、女房と話し合って「子供には絶対に嘘をつかない」という大方針をうちたててしまったんですね。

なぜそんなことをしたのかといえば、理由はいろいろあるわけですが、たとえば、私のところへ子供連れで遊びにくる親たちと言うのが、みている相当子供に嘘をつくんです。

実に、つかなくてもいいような下らない嘘を連発する。


たとえば子供が電話機で遊ぶ。

初めは親は面白がって眺めております。

けれども、やがて子供が受話器を外したりダイヤルを弄ったりし始めると、やはり、子供から電話を取り上げざるをえなくなるでしょう。

こういう時に嘘が出るわけなんです。

できるだけ摩擦を避けたいという、日本人特有の心情なのか、自分が憎まれ役をやりたくないという気の弱さなのか、

「ホーラ、電話はもうおしまいね、ツトムくん、ホーラ、電話もう壊れちゃった。ハイ電話もう聞こえなくなっちゃったから、あっちへポイしちゃいましょう」

こういう嘘を、何の疑いもなくつるつるといっちゃう。

なんで本当のことをいわないのか。

親じゃないですか、それが親子というもんじゃないですか。

コミュニケイションを信じよう。


この子は将来は西欧に雄飛するかも知れぬし、西欧といえば言葉と論理の国国ではないか、今から何事につけても説明の労を厭わず言語感覚を陶治するなら、必ずや、それは将来何らかの益をこの子に齋(もたら)すことであろうし、そもそも、絶対に嘘をつかぬ、と親が自ら思い定めることによって、子供に対する態度が真摯ならざるをえぬところに追い込まれるという、この副次的効果がまた馬鹿にできない、第一、子供が思春期になって親子大激突という局面を迎えた際、

「トオチャンが今まで一回でもお前に嘘をついたことがあるか」

と開き直れるところが実にまたいい、なアんて、まあ、いろいろ考えてですね、子供にはどんな些細な嘘もつかぬ、と思い決した。


性教育については、そのまんまのことを


デンマークでみた教育も踏まえて母親と共に


実践してみているとのこと。


結果はまだわからないけれど、ってことで。


いろいろな考え方や態度というものが


あろうとは思いますが、電話機を取り上げた


母親の応対は特に自分は問題ないと思う。


伊丹さんにすれば、可能性の芽を摘むんじゃない


ということなのだけど、本当にそうだろうか。


しかもそれは母親は不誠実ってことではなく


昭和50年代は、こういう使い方はしなかったが


”面倒くさかった”のだと思う。


時間、労力をかけて子供に説明して


真剣具合を伝えるよりも他に優先することが


あるという、毎日の育児というのは。


たとえ関わりが薄くても父親でもそうだろう。


今はイクメンが主流になっているから


関わりはさらにディープかもしれんが。


余談だけど自分の頃は


育児勤務(時短)申請しても


「はっ?お前何言っているの?」と人事部長に


いわれるような時代だった。


(うらみ節じゃないよ、単なるファクトです)


話は戻りまして、伊丹監督。


監督のようには時間配分や人格形成を


考えることができないのが普通だろう。


だから伊丹さんは天才なのだ、という事も言える。


伊丹さん享年64歳。


お葬式」はリアルタイムで映画館で


タンポポ」は後からテレビでだったが


何回も繰り返しみては、すぐにラーメンを


食べに行ったり。


もう少し映画を撮ってほしかったですが


やんごとなき常人には理解できないことが


あったのだろうと思い、今は継承されている


誰かがいるだろうと思うことにする。


それにしても、この伊丹さんの文章は


自分は小学生高学年の頃で


色々読んだり書いたりしはじめた時期と


まるかぶり、なんか懐かしかった。


雰囲気とか構成とかカタカナの使い方とか。


”ちょっと似てる”って感じただけで


”才能が”ってことではまるでありませんからね。


過日、大江健三郎さんの追悼番組を見てたら


大江さんを小説家として焚き付けたのは


なんと伊丹さんだと知ってビビりました。


では今日も仕事そろそろ行ってまいります。


 


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