吉川さんの書の題にはなぜ”理不尽”とあるのか? [’23年以前の”新旧の価値観”]
理不尽な進化 増補新版 ――遺伝子と運のあいだ (ちくま文庫)
- 作者: 吉川 浩満
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2021/04/12
- メディア: 文庫
進化論的世界像ーー進化論という万能酸
から抜粋
私たちは進化論が大好きである。
進化論は、まずなによりも生物の世界を説明する科学理論である。
だが、私たちはそうした枠をはるかに飛び越えて、あらゆる物事を進化論の言葉で語る。
言葉があふれているだけではない。
とくに熱心に勉強したわけではなくとも、私たちは進化論の考え方をなんとなく理解しているように感じている。
本の業界では「ネット時代における出版社の適応戦略はなにか」といった話題が出たりする。
実際には、メディアや日常会話で交わされる進化論風の語りが正しいものなのかどうか、進化論を社会や個人のありかたに適用する際のやり方が妥当なものなのかどうかは、はなはだ怪しい。
それでも確かにいえることは、世間に流布している進化論のイメージにいかなる不備があろうとも、進化論的な物の見方やその言葉が喚起するイメージが、物事を「死滅か存続か」という究極的な尺度で測るリアルなものとして私たちに受容されているということだ。
日本人は進化論風の話が好きなようで、明治期に輸入されて以来ずっと、この世界の「実相」や「真相」つまり「きれいごと」ではない本当のありかたを言い当てるものとして重宝されてきた。
究極的なだけではない。それは包括的でもある。
つまり進化論はなんにでも適用でき、すべてを含みこむことができる。
この究極性と包括性という点において、進化論は史上最強の科学思想だ。
アメリカの哲学者ダニエル・C・デネットは、進化論を「万能酸(ばんのうさん)」と呼んだ。
どんなものにでも侵食してしまうという空想上の液体のことだ。
この思想をいったん受け取ったら、もう後戻りはできない。
進化論という万能酸は、私たちの物の見方をそのすみずみまにわたって侵食し尽くすまで、その作用を止めることがない。
それは従来の理論や概念を浸食し尽くした後に、ひとつの革新的な世界像ーー進化論的世界像ーーを残していくのである。
第1章 絶滅のシナリオ
絶滅率99.9パーセント
ほぼすべての種が絶滅するーー驚異的な生存率(の低さ)
から抜粋
アメリカの代表的な古生物学者のひとりであったデイヴィッド・ラウプは、現在地球上に生息している生物種はおそらく400万種は下らないだろうと推定する。
そして、これまで地球上に出現した生物種の総数は、おそらく50億から500億ではないかと推定している。
ここからわかるのは、現在いかにたくさんの生物種が存在していようとも、これまでに出現した生物種の数と比べたら、ほんのわずかなものにすぎないということだ。
ラウプの推定にもとづいて、いまなお存続している生物種を500万から5000万とし、これまでに出現した生物種を50億から500億として割り算してみよう。
つまり、これまでに出現した生物種の99.9パーセントはすでに絶滅してしまっているのだ。
なんとも驚異的な生存率(の低さ)ではないか。
気持ちのいいほどの皆殺しである。
母なる大地などと言うけれど、それは一大殺戮ショーの舞台であると言うことだ。
地球にやさしくとか言うけれども、地球のほうは生き物にそんなにやさしくないのではないかと思えてくる。
ともかく、いま生きている生物種は、倍率1000倍の狭き門をくぐり抜けた稀有な存在なのである。
すると、私たちヒトを含む現存種は過酷な生存レースを勝ち抜いたエリート中のエリートなのだろうか。
倍率からいえばそういうことになるだろう。
また、私たちが漠然と抱いている進化のイメージに照らしてもそういえそうだ。
常識的な進化のイメージでは、優れた者たちは生き残るべくして生き残り、劣った者たちは滅び去るべくして滅び去っていくのだから。
そうでなければ、序章で触れたように、向上心旺盛な野心家たちがビジネスやマーケティングにかんする持論に「たえず競争し、適応し、進化をつづけよ」とばかりに進化論風の味付けをほどこそうと思うこともないだろう。
しかし、そうは問屋が卸さない。事はそんなに単純ではないのである。
遺伝子か運か
遺伝子がわるかったのか、運がわるかったのかーーー究極の問い
から抜粋
先のデイビッド・ラウプは、絶滅のほうから生物の進化を考えるという、きわめてユニークな試みを行った。(※)
通常は生き残りと適応は生き残りと適応の観点から考える生物進化を、絶滅の条件という観点からとらえかえしたのである。
そして、絶滅生物たちの厖大な化石記録を前にして、次のような究極な問い(あるいは身も蓋もない問いといってもいいが)を発する。
※=本書の考察の出発点となったデイビッド・ラウプ『大絶滅ーー遺伝子が悪いのか運が悪いのか?』は、古生物学の知見をもとに絶滅の諸相を解明した意欲作。
堅実な調査と統計、そして大胆な推理とシミュレーションが共存する、じつに楽しい書物である。
長い地球の歴史のなかで、これまで何十億もの種が絶滅してきた。
それらは、適応面で劣っていた(遺伝子が悪かった)せいで絶滅したのだろうか、それとも単に間違った時期に間違った場所にいた(運が悪かった)せいで絶滅したのだろうか。(Raup 1991-1996.5)
絶滅した生物は、結局のところ、遺伝子がわるかったのか?
それとも運がわるかったのか?という問いである。
幸か不幸か、絶滅生物は自己申告をしない。
だから議論が白熱することもなく、また、誰からも見送られることもなく、ただひっそりとこの世から消えゆくのみだ。
しかしラウプは大胆にも、絶滅生物を含む生命の歴史そのものにたいして、この問いかけを行ったのである。
そして、古生物学の公明正大な観点から、答えを見出そう試みたのだ。
進化論に詳しい人なら、ほぼすべての種が絶滅するなどという当たり前の話をなんでいまさらと感じるかもしれない。
だが、詳しい人のあいだでは常識であるものが、素人のあいだでも常識であるとはかぎらない。
それに序章にも書いたとおり、本書が理解したいと願うのは、超一流の専門家による学説だけでなく、私たち素人自身の進化論でもある。
この社会で流通している進化論のイメージのなかに、絶滅にかんする概念や考察が占める場所がほとんどないように感じる私は、絶滅についていまさらながらに言い募るくらいいいじゃないかと思うのである。
実際、つい先ほど述べたように、ほぼすべての種が絶滅するという基本的な事実からして、私たち素人にはそれほど自明なことではないかもしれないのだ。
だからといって、よりによって「遺伝子か運か」とは、これまたなんとも子供じみた問いかけだと思うかもしれない。
これには、問いが子供じみたものだからといって、答えもまた子供じみたものになるとはかぎらないよと、いまの段階では答えておくしかない。(※)
※=映画をつくる前の伊丹十三が書いた『問いつめられたパパとママの本』には、子供の問いにたいする大人の応答の好例が詰まっている。素朴ではあるけれど根源的な子供の問いに答えるには、たしかな科学の知識に加え、たとえ話やユーモアの素養、そしてときには華麗なスルー技術なんかも必要であることを教えてくれる。
でも彼のように上手にやるのはむずかしい。
ダーウィンもじつは進化論を考えついたのは
ガラパゴス諸島での生物を見てというよりも
絶滅していった大量の化石群の見てという、
「生」よりも「死」からだったのではなかろうか、
というのは荒俣宏さんの書にあった。
話戻して、ラウプさんは、絶滅の原因として
「遺伝子ではなく運が悪いのだ!」と
仰るようでそれに対して吉川先生は…
じつに興味深い持論である。
生物は落ち度もないのに絶滅する。
しかも、それこそが普通なのである。
だが他方、これは著しく常識に反した主張だと感じないだろうか。
ラウプはどのようにして、絶滅の沙汰も運次第という、こんな結論にいたったのだろうか。
そう、本当に興味深いのは、ラウプがこの結論にいたった過程である。
彼が行った考察とその結果を理解することで、いっけん非常識とも思えるこの結論が、じつはそれほど非常識なわけでもないと思えるようになるはずだ。
ちなみに、進化の話題に運の問題を持ち出すことについて、次のような疑問を抱く向きもあるかと思う。
お前は自然淘汰説を否定するのかとか、それは過酷な生存競争を否認する生ぬるい世界観ではないかとか、はたまた進化論の主流派に反対するプロバガンダではないかとか。
ある意味もっともな疑問だが、ぜんぶちがう。
ラウプは(後に述べるように、私もまた)ダーウィンの自然淘汰説と現代の主流派進化論の有効性を微塵も疑っていない。
生ぬるさについては、自由競争第一の考えこそ、じつのところ甘美な幻想にもとづいた生ぬるい世界観ではないかと答えてこう。
生存競争はたしかに過酷なものだろうが、これから紹介する絶滅の有様には、競争のアリーナそのものをぶち壊すような、別の種類の過酷さがある(本書ではそれを理不尽さと呼ぶ)。
つまり過酷さにもいろいろあるのであり、競争だけで事が済むわけではないのである。
養老先生の解説というか書評を読んで
この書にたどり着いたのだけど
予想以上にエキサイティングな内容。
博学な知識で、ストーンズのキースやら
引き合いに出されるユニークっぷり。
進化論の専門家からしたら、なめんなよお前、
と言われそうで、ご本人もうっすら牽制されているが
素人だから気づく何かがあり、考察・研究したいのだ
と読み取れるので、それでいいのでしょう。
かくいう自分もそうでございまして
歩きながらこの書を読んでみたりしていて
遅々として進まない読書に苛立ちながらも
またまた古書店で追加で数冊買ってしまうという
愚挙に利己的で理不尽な自己読書欲を
抑えられない過酷な暑さの休日でございました。